これは、会員の大田のHP「もう一つの仏教学・禅学」に掲載している記事です。

「苦」の解決が仏教

(1)苦の超克

 仏教は、苦の超克である。「苦」について、三枝充悳氏の詳細な研究がある。  苦悩が縁起などの見解、思想だけで解決するはずがない、とは初期仏典にも書かれている。  苦は主観的である。同じような状況にあっても、ひどく苦痛に感じる人と感じない人がいる。たとえば、ガンだと宣告されて、自殺する人は、苦悩を強く感じる。五支縁起や十二支縁起は苦の説明はしたが、初期仏教では、苦悩から現実に解決する方法としては、縁起説は使われなかった。四聖諦が成立してからは、道諦には、八正道以外のものは全く出てこない(3)。
 現代人でも、死の問題を縁起説を考えるだけでは解決できないであろう。どうせ死ぬべきものという断見で諦念する。あるいは、肉体は死んでも、霊魂は天国・極楽に行くという常見で解決する者もいる。仏教は、断見でも常見でもない。どうして克服するか。この死の問題の克服は、成道(無生法忍)によって得られるとするのが仏教である。

(注)

(2)苦は哲学や論理ではなく生きることをおびやかす感情・苦痛

 苦については、しばしば、四苦八苦で説明される。現実の苦は、思いどおりにならない問題を考えることによって、そこから種々の不快な「感情」を生じて、さらに、そういう感情を嫌って苦悩となる。あるいは、思考によらずに起こる感覚、感情におびえて、苦悩する。現代人では、たとえば、得たいのしれない不安や、パニック障害などのように、必ずしも、明確な見解、思考に先だたなくても起こる、不安、恐怖、よくうつ感などの不快な感情がある。こういうものに、人は苦悩するのである。
 初期仏教でも、そういう感情面から苦を説明している経典がある。  「憂い・苦・嘆き・悩み・悶え」は、感情を表現していると思われる。  こういうのが「苦は現実の経験」だという。同じ内容を論理的に思考しても、不快な感情が生まれず、苦悩しない人がいる。こういう人は、仏教などを修学しようという動機を起こさない。また、知性の高い者は、現実の苦悩が起こっても、知性や他の俗的な生活信条によって(断見か常見により)、その問題を処理してまぎらし、苦の感情を長くおこさないために、仏教の苦悩も解脱も誤解するおそれがある。だが、現代人も、特に、これといった明確な論理関係がつきとめられない不快な感情(不安、よくうつ、など)に苦悩していて、縁起説の思惟などでは解決しないような深刻な苦痛で悩んでいる。
 パーリ「中部」の象跡喩大経では、苦を生、老、死、憂悲苦悩悶、求不得、五取蘊の六苦とする(3)。

(注)

(3)苦について

 苦の考察は、三枝充悳氏の詳細な研究がある。(1)
 仏教では、苦は「四苦八苦」として説明される(2)。現代人も同様の問題で苦悩しており、苦は釈尊の時代の苦と現代人の苦と同様であるとみてよい。そのうち「怨憎会苦」は、嫁姑の対立、憎みあう夫婦・離婚してしまう夫婦、職場の人間関係などとして大きな苦悩である。「求不得苦」は、思いどおりにならなくて心の病気になる「うつ病」「神経症」、自殺が大きな苦悩である。もちろん、種々の病気で苦悩する人が多く、がんなどの病気になれば「死」の苦悩がある。このような現代人の苦悩も仏教の実践(坐禅)によって、現実に救われている。当然、初期仏教の時代でも、そういう苦を現実に解決するものだったと思われる。
 仏教は、現実に「苦」を解決するためのものである。

(注)

(4)苦はどうしておこるか

 苦がどうしておこるか、についても三枝氏などの考察があるが、説明した経典(1)を一つだけ確認しよう。それによれば、こうである。
 見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、という六識による作用で「苦受」「楽受」「非苦非楽」を感じる。

仏弟子でないものは第二、第三の矢を受ける

 「苦受」によって、心に「瞋恚」をおこす。すると「欲楽」を喜ぶ。仏道を知らない凡夫は、欲楽以外には苦受を克服するすべを知らないからである。「楽受」を喜ぶ凡夫は、それより生じる染欲の煩悩に執着する。凡夫は、これらの苦楽受の生起、甘味、患難、それからの出要とを如実に知らない。知らない者は、「非苦非楽」より生ずる無明の煩悩のままに留まる。
 「楽受」を感ずれば繋縛されて感じ、「苦受」を感ずれば繋縛されて感じ、「非苦非楽」を感ずれば繋縛されて感ずる。
 仏道を知らない凡夫は、苦受によって、憂へ疲れ悲しみ泣き迷う。身に属する苦と、心に属する苦の両方を感じる。第一の矢を受けるや、第二、第三の矢を受けるようなもの。

釈尊の弟子たちは、第一の矢のみ

 一方、釈尊のおしえの通り、修行するものは、第一の矢しか受けない。苦受に触れられても、憂へず疲れず悲しまず泣かず迷わない。身に属する苦はあっても、心に属する苦ではない。第一の矢しか受けない。(2)
 見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、という六識による作用で「苦受」「楽受」「非苦非楽」を感じる。仏弟子は「苦受」があっても、心に「瞋恚」をおこさない。苦受があっても「欲楽」を喜ばない。「楽受」を喜ばない弟子は、それより生じる染欲の煩悩に執着しない。彼は、これらの苦楽受の生起、甘味、患難、それからの出要とを如実に知る。知らない者は、「非苦非楽」より生ずる無明の煩悩に依らない。
 仏弟子は「楽受」を感じれば繋縛を離れてこれを感じ、「苦受」を感ずれば繋縛を離れてこれを感じ、「非苦非楽」を感ずれば繋縛を離れてこれを感ずる。


 以上の説明で、仏道を行じない者は、同じような出来事、症状に直面して、憂へ疲れ悲しみ泣き迷うが、仏弟子は、ただ、その第一の出来事、症状を直に受けるのみであり、憂へ疲れ悲しみ泣き迷うことがない。
 頭のよい人が、理屈で了解しても、だめである。苦は貪瞋痴から起こるが、了解しても貪瞋痴が起こる(3)というからである。大学教育を受けた知性ある人々でありながら、毎年3万人も自殺することや、詳細な仏教研ができる研究者でさえも、修行や解脱ということを「嫌い」、偏見を持つという簡単な例から、それが明らかである。知識の了解だけでは、貪瞋痴・苦悩は解消しない。

 このように、本来の仏教は、現実の苦悩からの克服を問題にしたのである。
(注)