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【露に桜散れど】 神架 憐 さま 熱が在る訳でも風邪を引いている訳でもないのに、体の様子が変なのである。 否。体というよりは、内臓――言ってしまえば、胸の辺りが。
桜を見ると熱くなるのだ。 締め付けられるように疼いて、酷く切ないのに何だか凄く心地よくて。其処から送られる血液まで熱を持って、僕は理由も判らず真っ赤になってしまう。 こんな感覚は初めてだった。 如何したら良いのか解らなくなってしまうので最近は極力桜を見ないようにしている。学校に行く道すがらの八重桜は、だから最大の難所だ。僕が其処を通るとき何時も真っ赤になって俯いているから、中禅寺はさぞ変な顔をしている事だろう。 でも、その呆れ顔を確認する事は出来ない。何故なら、 胸が疼く時必ず脳裏に浮かぶのが、他でもないこの友人の顔なのだから。 記憶の中の中禅寺は僕が一度も見たことのないような戸惑った瞳で僕を見ていて、何故だが僕にはそれがとても嬉しいのだ。その映像は直ぐに吹雪のような桜の幻想に掻き消されて見えなくなって仕舞うのだけれど、すると僕は急に我に帰って矢鱈と気恥ずかしくなってしまう。相手の顔などとても見れない。 僕の知らない中禅寺と桜。夢で見た光景なのだろうか。そう云えば、その時僕は彼から何か貰ったような気がする。 ああ、僕はきっとまた何かを忘れているんだ。 帰ったら図書館に本を返しに行こうと思っていたのに部屋に着いた途端に雨が降り出してしまったので、僕は出掛けるのを諦めて机に向かい週末に出された課題を開いた。時計の針が夕刻を指した頃、解らない問題にぶつかって鉛筆を玩びながらぼんやりとしていると部屋の戸が開く音がした。 振り返るとずぶ濡れの中禅寺が立っていた。 「降られたよ」 目が合うと、彼は忌々しげに云って腕を伸ばした。 「手拭いを取ってくれるかい」 「あ、ああ」 僕は慌てて立ち上がるとばたばたと手拭いを取り出して中禅寺の所へ走った。差し出すと、彼は済まないと云って手拭いを受け取り、がしがしと髪を拭いた。 「雨季に入るなあ……」 彼はぼやくように云うと開けっ放しにしてあった窓の外に視線を飛ばしてざあざあと降る雨を見、酷く厭そうな顔をした。 「雨は嫌いだ。本が傷む。質の悪い本などは濡れるとインクが滲んで読めなくなって仕舞うんだぞ」 怒った口調に、自分が云われた訳でもないのに叱られたような気分になって僕は身を竦めた。それから、中禅寺がまだずぶ濡れのまま立っているのに気付いて、着替えを取りに再びわたわたと部屋の中へ走った。 「そんなんじゃ風邪を引いてしまうかもしれないから、このまま風呂に入って来たらどうだい」 箪笥から服を取り出しながら云うと、中禅寺が仕方なさげにそうだなあ、と答えたので僕はそれらを風呂敷に包んで差し出した。 「ああ、悪かったね。有難う。それじゃあ行って来るよ」 手渡した包みを抱えて中禅寺が笑ったので、僕は何故かどぎまぎして視線を泳がせ、胡乱な返事をした。 「明日は何処かへ出掛けるのかい」 先刻中禅寺から荷物を図書館に預けて来たと聞いたので、明日の休みに取りに行くなら同伴しようと思い立って僕はそんなことを聞いた。中禅寺は布団を敷く手を止めてちょっと考えてから、 「雨が止んでいたらね」 と答えた。僕は呆れて言い返した。 「何だい。何時も僕の事を不精だ不精だと云っておきながら少し雨が降ったからといって荷物を取りに行くのも止めてしまうのかい。図書館の人だって預けられっぱなしじゃ困るだろう」 中禅寺は笑って布団を広げ、揶揄うように僕を見た。 「君に説教されるとは思わなかった」 憮然として枕を放ると、中禅寺は猶も笑った。どうやら機嫌が良いらしい。 「梅雨というのは後から付けられた何の意味もない当て字でね。本来ならこの季節は黴の雨と書いてつゆ、と読むのだそうだ。確かに君みたいな奴がこんな時期に日がな一日部屋でじっとしていれば黴も生えてくるだろうよ」 手酷い反撃である。僕が更に憮然として黙っていると、中禅寺は急に何かを思い出したように云った。 「君こそ明日は何か用事があるのかい。ないのなら榎木津が来いと云っていたぞ。何やら面白いゲームを思いついたから試してみる為に人が欲しいそうだ」 とんでもない。あの先輩が思いつくことなどろくでもない事ばかりだから、行っても酷い目にあうのが関の山である。僕は慌てて返事をした。 「駄目だよ。僕は調べ物があるし返したい本もあるから明日は図書館へ行くんだ」 「何だ、それなら君が僕の荷物も取ってきてくれればいいだろう。わざわざ二人で出掛ける事もない」 瞬間、胸の奥が鈍く疼いた。 「あ、うん――」 あれ?何だ。 急に覚えた痛みに僕は軽く混乱する。そっけない言葉が、酷く胸に重い。 一瞬にして沈んだ胸が即座に自虐的な結論を頭から引き出して来た。 きっと―― きっと中禅寺は僕なんかと一緒に出掛けたくなかったのだ。 考えてみれば当たり前である。平素から手が掛かる、難儀な奴だと思っている相手に休日まで付き纏われるのは誰だって御免被りたいだろう。 最近中禅寺の事ばかり考えていたから、自分が彼の側に居てもいいのだと錯覚してしまったのだ。向こうの方は僕の事など何とも思っていないのに。 何とも―― 胸が欠けた。 少なくともそうとしか形容できない感覚に僕は急速に嵌り込んで行く。 厭だ、寂しい―― 「関口君?」 急に黙り込んだ僕を怪訝に思ったのか、中禅寺は少し強く僕を呼んだ。僕は今更ながら、彼を煩わせて余計に嫌われて仕舞うのが厭だと思って、首を振って答えた。 「うん、何でもない。そうするよ」 何か言いたそうな顔をした中禅寺の動きを遮るように、僕が荷物を取って来るからそれでいいね、と一方的に言い放って布団に潜り込み、目を閉じた。 その、瞼の裏に。 桜が。 桜が舞っている。 視界を覆う数知れぬ花弁、戸惑って揺れる黒い瞳、そんなのは、 これは錯覚だ! 都合の良い錯覚。中禅寺が僕を見ている、などと、 それなのに。 「先週の初め頃、僕は君から何か貰うか預かるかしなかっただろうか」 気が付くと僕は起き上がり、夢の情感を繋ぎ止めるかのように欠けた記憶を中禅寺に求めていた。 止せば良かったのだ。 上げた視線の先を辿り――僕は酷く後悔した。 瞼に遮られる事なく網膜にそのまま映った彼の像は、この上ない不機嫌さを呈していた。癖が付きそうな位に眉間に皺を寄せ、鋭く僕を睨みつけて視線を逸らすと、もうこちらを向いてもくれない。その上、 「君の中で溶けたのは君の脳味噌だったと云う訳か」 と意味の解らない事を云って、それきり黙ってしまった。 僕は弁解の言葉も見つけられず、謝る事も出来なくて、欠けた胸と記憶を抱えたまま暗い夢の中に落ちていく事しか出来なかった。 開けた翌日。僕は結局降り止まなかった雨の中、一人で図書館へ行き、本を返して中禅寺の荷物を受け取った。探していた資料も見つかったけれど、気が逸れてろくなものが書けなかった。部屋に戻っても、中禅寺とは殆ど会話も交わさずに眠った。 週初めは大抵起きられなくて何時も中禅寺を苛立たせるのだけど、少し鬱に入りかけていた僕は今朝、起き上がるのに相当苦労した。 結局根負けして起こされ、今こうして引き摺られるように学校に向かっている。ぎりぎりまで駄々をこねていたから遅刻寸前だ。何時もの道を通らなければ到底間に合わない、けれど。 僕は如何しても桜を見たくなかった。 八重桜の木に近づくほどに動悸が高まる。僕は俯いて、僕の手首を掴んで引いている中禅寺の手だけをじっと見詰めていた。 坂を越え、早足であの八重桜の立っている煉瓦道に続く階段を駆け上がる。 鈍色の小道を少し進んだところで、中禅寺は急に足を止めた。その動きに合わせて、僕は息を止める。 目を上げなくても周りの風景で解る。此処は、あの八重桜の木の下だ。 僕は何も云っていないのに、如何して君は僕の桜の幻想を知っているのだ―― 上手く動かない口を開こうとした矢先。 「散ってしまったな……」 ――え? 驚くほど静かな中禅寺の声がして、僕は思わず顔を上げた。その目に映った光景に、それまで何とか安定を保っていた僕の精神は完全に均衡を失った。 そこで数知れず壮麗な面を連ねていた筈の花は、萎びて疎らにしがみ付いている幾つかを残して見る影もなく散ってしまっていた。色を失い、荒涼とした面を晒す木から思わず目を逸らしたその先の地面には、泥に塗れて潰れた花房が、無数に、 ――枯れて、腐って、無くなってしまう―― 「あ――」 厭な汗が首の後ろから噴き出してくる。その感覚に首を締め付けられるようで、私は怯えて頭を振った。ぐらぐらと視界が揺れた。 遠くで中禅寺の声がする。 「関口君?おい――」 駄目だ、吐き気がする―― 僕はそのまま、ゆっくりと倒れた。繋いだままの中禅寺の手だけが僕をこの世界に繋ぎ止めてくれているような気がした。 途切れた視界の裏で、また桜が舞っている。舞い狂って居る。遠くなる中禅寺の声が不意に耳元で聞こえた。 ――何だか ――何だかやけに物欲しそうな顔で見ていたから 小馬鹿にした声で、なのに如何して君はそんなに優しい目をするのだ―― ――君にこれを遣ろう。 伸ばされた腕の先では、柔らかな桜色を幾枚も重ねた八重桜の一輪が儚く揺れて居た。 ああ。思い出したよ。 君は本当に僕に八重桜を一輪くれたんだ。 君は大した意図もなくしたことだったのだろうけれど、僕にはそれが堪らなく嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、決して手放したくないと思ったんだ。 でも、御免よ。 きっと僕はその花を無くして仕舞った。たった今見た泥塗れの残骸のように、枯れ落ちて腐ってしまった。だって何処にもないんだから。 とても――哀しい。 僕は君と僕とを繋ぎとめる何かが欲しかった。そんなものが手に入る筈はないと知っていたけど、そのことを思い知らされる様で、辛かった。 ――側に居て欲しいんだ。ずっと。 こんな気持ちを何と云うんだろう。僕は知らない。解らないという事は、僕みたいな人間なんかには相応しくない言葉なのだろう。 枯れる事ない色鮮やかな桜の幻想ばかりが僕の中で膨張していく。今やその質量は圧倒的で、僕は嵐のような桜色に飲まれてしまいそうだ。この桜は一体何処から来るのだろう。僕の中でだけ、まるで血液のように全身を駆け巡り鼓動を感じさせるこの桜は。 なくなってしまった花の代わりに、なら僕はこの幻想に縋ろう。この桜の向こうには必ず君が居るから。幻想だとしても、それだけで僕はどうしようもなく幸福だから。 君が側に居て、くれたら。
「君は本当にどうしようもなく手が掛かる奴だ」 寮の自室で目が覚めて見上げた中禅寺の最初の言葉は、例の如く聞き慣れたその台詞だった。僕は答える気力もなく曖昧に返事をして毛布に身を鎮めた。中禅寺は大げさに溜め息を吐いてさらに云った。 「あのな、君。僕はこの前肉体労働は14の時に放棄したと云ったばかりだろう。黙り込まれるのにも閉口するが抱えて歩かせるような真似だけはやめてくれ。もし階段を下りたところに事務員が居なかったら僕は君を医務室に連れて行くことを断念していたかもしれないぞ」 「置いて行けば良かったじゃないか」 呟いた声色は、拗ねるようでも悲しむようでもなく、自分でも驚くほどに感情がなかった。そのまま何も云わずに居ると、中禅寺は黙って出て行った。 ――もう、戻ってこないかもしれない。 自分の所為なのに。僕は振り返って閉じた戸を見、途端に激しい後悔に襲われた。起き上がって戸を開け、中禅寺を追いかけたい衝動に駆られる。けれど、僕は何時もそう思うだけで決して行動に移したりはしないのだ。今も矢張り、僕は起き上がることすら出来ず、倦んだ思考に埋没している。消えてしまいたかった。 だから、暫くして食器を持った中禅寺が部屋の戸を開けたのを見た時、僕は何だか泣きそうになった。 「君は優しいね」 お盆を枕元に置き、濡れた手拭いで私の顔を軽く拭いてくれる中禅寺を見ながらぽつりと云うと、彼は表情も変えずに答えた。 「気味の悪い事を云うなよ。同室だし、君は具合が悪いんだから当然だろう」 彼は手拭いを水桶に放り、盆から器を取って軽く掻き混ぜた。淡い湯気が立つ。 「食べられそうだったら食べて、今日はもう寝るといい。――体調が悪いのならちゃんとそう云ってくれ給え。今朝は無理に起こして悪かった」 眉を顰めてそう云う中禅寺に、僕は小さく目を見張った。彼は僕が倒れた事に責任を感じていたのだろうか。 だとしたらそれは違う、僕はただ桜が、枯れた八重桜が苦しくて、 そう云おうとして上げた視線がぶつかって、中禅寺が小さく笑んだ。 「今夜は僕が見ているから」 ああ。僕は目を閉じた。 また君はそんな顔をして僕を見る。側に居てくれるなどと云う。如何して、 ――ずっと一緒に居てくれる筈もないのに。 なのに僕はそんな一言で途方もなく安心してしまう。未来を思うことを忘れる。そんな自分を浅ましいと思うけれど、仕方ないのだ。だって今此処にこの人が居る。 寂しさと安らぎを同時に抱えて、僕は僕にそれらを与えるただ一人の人間を思った。瞼を閉じれば居る人。瞼を開けても、居てくれる人。 「今朝は体調が悪かった訳じゃないよ。だから君は悪くない。ただ――道端の桜が」 そっと目を開いた。多分僕は今、酷く安らいだ顔をしている。 「枯れてしまったのを見て、苦しくなったんだ。君のくれた花が、同じようにしてなくなってしまったと思うと辛くて」 こんな気持ちをなんと云うんだろう。 僕は目を落としたままゆっくりと身を起こす。中禅寺は少し驚いた声を出した。 「思い出したのか」 「うん。忘れたりして、済まなかった。――嬉しかったのにね。お陰で」 もし僕が知っている言葉でも表せるのなら、それは酷く陳腐な、 君が、 「八重桜が好きになったよ」 ――君が好きだ。 胸中だけで呟いてみた言葉はそれでも驚くほど響いて、僕のちっぽけな胸は振動に耐えかねて割れそうになった。急に早鐘のように打ち始めてしまった心臓や温度を上げた肌に僕は困り果てる。たった今知った気持ちなのに、中禅寺に気取られてしまうようで。やっぱり熱が出てきたようだと言い訳しようとして開いた唇に、 急に触れた中禅寺の指に僕は一瞬頭が真っ白になった。 「血色が良くなったんじゃないかい?」 「――!?」 吃驚して口を開けたまま固まってしまった僕に、中禅寺は尋ねた。 「何故かな」 それは―― そんな事云える訳がない。僕は黙り込んで、必死に言い訳を考えた。熱が出たのだという発想は何時の間にか何処かに飛んでしまっている。中禅寺は僕の目を覗き込んで、 ああ、駄目だ、僕は―― 「ところで、君は僕の遣った花を何処になくしてしまったんだい?」 「――え?」 何の脈絡もなく投げ掛けられた質問に、僕は酷く間抜けな声を上げた。おどおどと視線を彷徨わせる。混乱しきった脳は胡乱な反応しか与えてくれない。質問の意味を解するのにたっぷり十数秒は掛かってしまった。回答を用意するのには更にその倍の時間が要った。更には、その回答というのが結局、 「わ、解らない――」 というあってもなくても同じようなものだったので、中禅寺は盛大に溜め息を吐いた。彼のその態度に対して既に刺激に対して直接な反応しか出来なくなっていた僕の脳は瞬間、 嫌われてしまう、と思った。 と同時に想いが、不安が、記憶が、僕の中で飽和し怒涛の如く意識を押し流した。そして――僕はついに思考を放棄した。 空っぽになった頭の中で声がする。僕の声だ。 ――このままこうしておけば、この花は如何したって枯れて、腐って、なくなってしまう。けれど、こうして、 「唇が赤みを帯びたのはね。関口君」 空っぽになった耳の奥でも声がする。こっちは、良く響く中禅寺の声。 ――僕の中に溶けてしまえば、 「桜の色が、滲んだんだろう?」 溶けて滲んだ?僕の唇に?それは、 中禅寺がもう一度僕の唇に触れて、今度はそっと撫ぜた。あの時と同じ、少し戸惑った、優しい目で―― ――この花は僕のからだの一部になって残る。 「此処にあるじゃあないか」 「――あ」 身体の中で、桜の幻想が、爆ぜた。
――僕が生きている限り、ずっと、君がくれた花は僕のものになる。 僕はそのとき、目を閉じてそう云った。次に目を開いたとき、僕の視界は風に散った八重桜の花びらで覆われていて、それでも僕は君が僕を見ているのだと確信していた。 夢ではなかったのだ。梅雨で総ての花が散った今でも、君だけは、 君だけは此処に居てくれたのか。 僕は目を閉じて、離れていこうとする彼の指に唇を寄せた。 「君が、好きだよ」 僕の中の桜が騒騒と鳴る。その音の向こうで聞こえたから、僕はその声が自分のものなのか中禅寺のものなのか聞き取れなかった。只、今度は忘れてしまわないようにと柔らかく重ねた唇がどうにも優し過ぎたので、僕は却って夢心地になってしまったのだ。 露に桜散れど、君去る事莫れ。
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