【八重桜】 神架 憐 さま 桜が散ってしまった。 つい最近まであんなに綺麗に咲き乱れて公園を、川端を、そこかしこを覆って人々の目を愉しませていた桜の花は、あれから数週間を待たずにすっかり見えなくなってしまった。今や桜の木は其の赤茶けた肌をさらして茫洋と佇むばかりだ。ちらちらと芽吹き始めている若い青葉が遠からず来る初夏のにおいを僅かに醸し出すものの、それも満開の花の賑やかしさの後では見劣りを否めない。実際、今ごろ川端に立ち並ぶ色を失った木々を眺める人など一人としていなかった。あれほど空を舞い、道端に降り積もるようにして散っていた花びらも、何時の間にか見当たらなくなっている。 枯れて土と同じ色になったから、気が付かなくなってしまっただけだ。 中禅寺はそんな事を思った。 たぶん道端を注意深く見れば乾いて積み重なった花弁の残骸を見れるだろう。だがそんなものには何の意味もないのだ。花は木に咲き、宙に在ってこそ価値在るもの。地に落ちた塊など、誰が見よう。 そうした考えを胸に歩いていたから、目の前を横切っていった一片の薄桃色の花弁に、彼は思わず足を止めた。 顔を上げると、道端の八重桜が満開だった。 八重桜は遅く咲く。 連休明けの月曜、学校へ向う坂道である。休み前にもちらほらと咲いてはいたのだろうが、その時は全く気にも留めなかった。桜といえば普通はあの有名な五枚の花びらを思い浮かべるから、今目の前に咲き誇っているそれとは並べて考えなかったのだ。関口などあれが桜である事すら知らなかった。 綺麗だった。普段は本に顔を埋めてばかりで風景を愛でる事など滅多にない中禅寺をして見蕩れさせたのだ。蒼穹を背に、瑞瑞しい桜色をベールのように連ねた重たげな花房が幾つも幾つも広がっている、一種壮絶な美しさである。割と大きなその木は学校へ続く煉瓦床の道の脇に立っていて、道の上まで張り出した枝が鈍色の煉瓦の上に影を落としている。鮮やか過ぎる花の色彩に、影すら桜色をしているような錯覚を覚える。少しすれば、この道を通る人々に向かって雪の如く其の花びらを降らせるのだろう。 其処まで考えてから、ふと隣を歩いていた関口の事を思った。彼は鈍感だから自分が立ち止まった事に気付かず先に歩いて行ってしまったかも知れない。或いはつられて桜を見上げているのだろうか。だとしたら二人してぼんやりと上を眺めている事になる。相当に間抜けな図だ。榎木津などに目撃されれば死の床に至るまで揄いの種にされる事は明白であった。 半ば恐る恐る隣を見ると、其処では関口が俯いたままじっと地面を見詰めていた。 その陰鬱さに、中禅寺は思わずたった今抱いた危惧も忘れて憤慨した。口を突いて出た声は自然と呆れたような怒ったような色を帯びた。関口に言わせれば、中禅寺は何時だってそんな声で喋るのだそうだが。 「そんなに下ばかり見て歩くものではないよ。只でさえ暗い顔に更に影が掛かって救い様なく見える。元々意識が外に向かない所為もあるが君はそれでよく人にぶつかるし、かといって障害物を避けられるわけでもなく直ぐ転ぶ。色々な物を見逃す。ほら、顔を上げてみるといい。遅咲きの八重桜が満開だ。尤も君は花を愛でる情緒など持ち合わせては居ないだろうが」 「見ていたよ」 「何だって?」 「だから、その八重桜を見ていた」 関口の言葉の意図を理解しかねて、中禅寺は怪訝な表情を浮かべた。関口は顔を上げると、いつもの、あのどこか切なげな笑みを浮かべた。 もしかすると関口は、八重桜を地面に咲く花と勘違いしているのではないだろうか。彼ならば在り得ることである。だがここらに咲いている花といえば後は蒲公英ばかりで、桜と見違えるような植物は一つとしてない。もし蒲公英を八重桜と勘違いしたというのなら、それは愚かを通り越して冗談である。 考えあぐねて黙っていると、関口は微笑ったまま地面を指して、ほら、其処に落ちてるだろう、と云った。 「今朝は風が強かったから、重たい花弁が祟って落ちてしまったんだろう。でもまだ新しいままで、上で咲いているものと何ら変わりないよ。綺麗だ」 確かに数個の花房が地面に落ちている。此処のところ雨が降っていなかったから泥で汚れる事もなく、花びらもまだ柔らかい桜色をしている。距離が近い所為でそれらが繊細に重なった様子も見て取れて、綺麗と云えぬ事もない。 だが。 天上で咲き誇る数知れぬ大輪より、地に堕ちて未だ嘗ての色を失わないそれをこそ関口は綺麗だというのか。愛しいと思うのだろうか。どんなに同じように見えても、もう生の輝きは失われているというのに。 知ってはいたけれども、そんな関口の感性に中禅寺は呆れとも憤りとも憐憫ともつかぬ、不可思議な感情を抱いた。 地に落ちた塊など――誰も見ない。 けれど関口はそれを見て、綺麗だと云ったのだ。 不可思議な感情を振り払うように、中禅寺はわざと関口の言葉を無視して空を指した。 「では其処に咲いている八重桜は如何だというんだい?」 関口は中禅寺の指先を追う様にして咲き乱れる薄紅色を見、溜め息を吐いた。 「ああ、確かに凄い。綺麗だ」 瞳は相変わらず微笑っていたけれど、其処に微かに怯えたような、寂しいような色彩が浮かび上がった。 中禅寺は少しだけ後悔する。見事なもの、生在るものこそ美しいと思うのは独善だ。自信のない関口には堂堂と咲く大輪の姿は辛いかもしれない。それとも、いずれは同じようにして散っていくだろうそれらの未来を悲しんでいるのか。 いずれにせよ、関口の気持ちを無視して正論らしきものを押し付けた事には違いない。其の事実が中禅寺には酷く厭だった。 彼は暫く思案した末、屈んで其処に落ちていた八重桜の一房の、一番綺麗なものを選んで拾った。そっと手の上に置くと、微かな風にも揺らいで儚く霞む。 関口を振り返ると、彼はまだ惚けたように突っ立って頭上の桜を見上げていた。「其の存在の前で僕は消えそうなくらいに矮小なのに、鮮やかさと力強さに魅せられて目を離す事が出来ないのだ。」彼は輝かしいものを見たとき、中禅寺に向かって少し寂しそうにそう云う。そのときの瞳で、見上げていた。 「関口君」 名前を呼ばれて視線を降ろした彼の鼻先に、中禅寺は手の中にあった八重桜の一輪を突きつけた。 ご機嫌取りにしては余りに稚拙で戯曲じみた、 「何だかやけに物欲しそうな顔で見ていたから、君にこれを遣ろう」 言葉と行為だ。 関口は吃驚したように瞬きをすると、小さく噴き出して、次に怒ったような表情を浮かべて見せた。 「何を云っているんだい。そこらに落ちている物を拾って『これを遣ろう』なんて云われても、有難くも何ともないぞ」 云いながらも、既に顔は綻んでいる。関口はそのまましばらく凝っと八重桜を見て、 中禅寺が何かを云う間もなく、関口は片手をすっと伸ばして花弁の一枚を千切り、 そっと口に含んだ。 瞬間、中禅寺のどこか、――胸か、頭か、或いは其のどちらでもないかも知れない―― 「な、」 心奪われた。 花びらを見詰める伏せた瞳や、口元にそれを運ぶ儚げな仕草に。 ゆっくりと視線を上げた虚ろな瞳とぶつかって、我に返る。動揺を知られるのは自分の自尊心が如何したって許さないような気がした。必要以上に面を厳しくして、最大級の、「いつもの呆れたような怒ったような」声色を使う。 「一体何を考えているんだ。君は花を見ても『美味しそう』と思うのかい。牛じゃああるまいし。全く君の感性には恐れ入る」 「違うよ」 関口は囁いて、中禅寺の手から柔らかく桜を奪った。表情を失って硝子のように硬くなった瞳に桜が映り込んで、薄桃色に染まる。中禅寺は早く彼を元に戻さなくてはと思う。同時に、ずっとこのままで居させたいとも、 「このままこうしておけば、如何したってこの花は枯れて、腐って、無くなってしまう。けれど、こうして、」 夢見るような声だ。 「僕の中に溶けてしまえば、この花は僕のからだの一部になって残る。僕が生きている限り、ずっと、」 関口は目を閉じて、幾重にも重なったベールのような花弁に唇を寄せる。瞳に燈った桜が見えなくなってしまうのが厭だと、中禅寺は思う。 「君がくれた花は僕のものになる」 突如として激しい風が吹いて、八重桜の木がざあっと鳴って一斉に花びらを散らした。 そして、中禅寺は彼の心の一部が関口のものになってしまったのだということを、 神架さん有難う御座いました! |
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