【 硝子越しの接吻 】





私は一冊の本を持っている。





高等学校時代に購入したその本を、私は手放さずにずっと手元に置いている。
幾度となく読み返した頁には癖が付いてしまい、紙は日に焼けて薄茶けていた。
しかし、どんなに汚れようとも、ぼろぼろになろうとも、私はその本を手放す事が出来ない。
私にとってその本は、特別な想いが込めれれているからだ。

そう、特別な。

本を手に取り、金文字で箔押しされた題字にゆっくりと指を這わす。



そして、思い出すのだ。



あの時の彼を。
あの時の彼の仕草を。
表情を。
その場の空気を。
彼に連なる全ての情景を。
そして、
あの時私の内に沸き上がった、熱い想いを。

思い出すのだ。

忘れてしまわないように。
私の中で、彼が幻になってしまわないように。



私は、一冊の本を持っている。















「その本、貸してくれないか?」

自分の席で本を読んでいたところ、突然頭上から声を掛けられる。
顔を上げると、其処には中禅寺が居た。

「え?これ……?」

私は今自分が手にしている本に目線を落とす。
それは、フロイトの論文を和訳した心理学書だった。

「貸すのは構わないけど、君はもう読んだことがあるんじゃないか?
この間心理学について話した時、フロイトやらユングやら矢鱈詳しかった気がするし……」
「勿論読んだことはあるが、僕が読んだものと君の持っている本とは出版社が違うからね」

中禅寺はそう言いながら、前の席に腰を下ろした。

「出版社が違ったって、書いてある中身は同じだろう?」

私のその言葉に、中禅寺は嘲るような視線を寄越す。

「馬鹿だね君は。出版社が違うのはつまり、翻訳をしている人間も異なると言う事だ。
一つのオリジナルを異なる人間が翻訳すると、
各人の技量や表現方法、個人的な好みが反映され、全く違ったものになる。
つまり多くの作品を読む事で、よりオリジナルの本質を理解する事が出来るのだ」

そう一気に撒くし立てられ、私は言葉に詰まる。

「わ、解ったよ。別に本を貸したくない訳で言ったんじゃないんだ。貸すよ」

返すのは何時でも良いから、と私が本を彼に手渡すと、
中禅寺は「有難う」とぶっきらぼうに礼を述べた。
こうして、彼(か)の心理学書は、私の手から無愛想な友人の手に渡ったのである。





「猿捕獲ーーッ!!」

物凄い力で後ろから抱え込まれると同時に、大音響が私の耳を劈く。

「う、な…!!」

どうにかして後方に首を回すと、私の視界に入って来たのは、
案の定、榎木津礼二郎だった。

「わははは!顔が真っ赤だそ、猿だ猿!関猿!!」
「ちょっ、くるし……」

もがく私には全く構わず、榎木津はぎゅうぎゅうと首に回した腕に力を入れて来る。

い、息が出来ないっ!!

意識が遠退き掛けた瞬間、榎木津は私の体を締め付ける腕を、ぱっと放した。

「え、榎さん、何するんですかいきなり!」
「黙れ下僕。僕はちゃあんと始めに声を掛けたぞ。
それなのに返事もせずぼーっと歩いているから、目を覚まさせてやったのだ。
召使いの分際でこの僕を無視するなぞ言語道断、天誅だっ!!」

踏ん反り返って仁王立ちする帝王に、私が逆らえる訳も無く、溜め息を吐いて肩を落とす。

「……それで、何か用でもあるんですか……?」
「珍しいな。本馬鹿は一緒じゃないのか?」

私の質問には全く答えず、榎木津は辺りをきょろきょろと見回した。

「僕は別に、四六時中彼と一緒にいる訳じゃありませんよ」

榎木津の言う、「本馬鹿」とは、友人の中禅寺秋彦の事である。
彼はその呼び名の通り、書痴と言って良い程の読書好きで、
暇さえあれば本を読んでばかりいるのだ。
中禅寺と私は行動を共にする事が多かったが、年がら年中一緒にいる訳ではないので、
私はそう榎木津に答えた。

「じゃあ、今直ぐ呼んできなさい」

私の返事を聞いた後、間髪入れずに絶望的な答えが返って来た。

「な、何で僕が……。中禅寺に用があるなら、先輩が自分で捜せばいいでしょう…」
「どうして僕が人捜しなんかしなければならないのだ。それは下僕の仕事だ」

全く説明になっていない。
私は泣きたくなった。

「彼に何の用事なんです?そんなに急ぎの用件なんですか」

半ば呆れて質問した私の言葉に、榎木津はにっと笑う。

「そう!事は急を要するのだ。
僕は今物凄く餡蜜が食べたい。とにかく食べたい。餡蜜気分なのだ。
よってこれから甘味処へ行く。君と二人で行っても面白くないから、中禅寺も連れて来い」

それの何処が急ぎの用事なのか。大体餡蜜気分ってなんだ!?

「あいつが何処に居るか、君なら検討が付くだろう。
ほろ、さっさと探しに行く!餡蜜は待ってはくれないぞっ!」

これ以上榎木津相手に何を言っても無駄だと諦め、私は渋々中禅寺を捜しに行く事にした。
もう、終業時間だ。
彼は多分教室か図書室で、何時もの如く不機嫌な顔をして、本を読んでいるのだろう。



まず、教室に行ってみた。
何人か教室に残ってはいたが、彼の姿はその中に無かった。
念の為、彼を見なかったか尋ねてみたものの、誰一人として中禅寺を見掛けた者は無かった。
次に図書室にも足を向けたが、矢張り此処にも彼の姿は見当たらない。
中禅寺は図書室の常連なので、史書にも面が割れている。
史書をしている女性にも一応聞いてみたが、今日は来ていないと言う。

思い当たる処に彼がいなかったので、私は暫し呆然とした。
一体中禅寺は何処にいるのか。
教室に鞄が無かったので、もしかしたらもう帰ったのかもしれない。
溜め息を吐き、何と無しに図書室の窓から外を眺めた私は、驚いて声を上げそうになった。
何故なら、気紛れに視線を彷徨わせ映った景色の中に、
捜していた人物、中禅寺が居たからだ。

中禅寺は、木の根元に腰を下ろし、本を読んでいた。
生い茂る木々の隙間から、辛うじて彼の姿が見える。
多分、今私が座っているこの場所から少しでも離れると、彼の姿は見えなくなってしまうだろう。
つまり、あの場所はほぼ死角なのだ。

当初の目的である、「中禅寺を見つけ、榎木津の元へ連れて行く」事など、すっかり忘れ、
規則正しい所作で頁を捲るその姿に、私は見入った。
良く見ると、彼が手にしている本は、今日私が貸した本のようだ。
遠目だが、表装の色や、本の厚みから間違い無いと思う。

人目を避けるようにして、私の本を読む中禅寺。

そう考えると、不思議な感情の波が、私の心を揺らす。
細波のように押し寄せるその感情は、酷く心地好かった。
許されるなら、このまま何時までも、この光景を見ていたい。

しかし、私のそんな願いは、中禅寺によって絶ち切られた。
頁を捲る手を止め、彼が本を閉じたからである。
私は、もう少しその姿を見ていたかったので、少々落胆した。

ここで漸く私は、本来の目的を思い出し、
──ああ、早く中禅寺を榎木津先輩の所に連れて行かないと──
と、波が引き掛けた頭でぼんやり思考した。

視線を中禅寺に戻すと、彼は手の中にある本をじっと見据えたまま、固まっている。

何を……?

目が離せなかった。
一度引き掛けた波が、体の中で再度揺らめき出す。

中禅寺はゆっくりと瞳を閉じ、
それから、










それから彼は────手の中にある本に、接吻をした。










「………な、」

瞬間、私は、私の中で、高波が飛沫を上げる音を聞いた。
全てを、私自身をも押し流してしまうような、荒々しい波が押し寄せて来る。















          私の本。

  木立。

                                       フロイト。

                       心理学書。

                                                    図書室。

          波。

                                  見詰める瞳。

                閉じられた瞳。

 高波。

                               飛沫。

                                              くちづけ。



中禅寺。













逃げなくては。
波に、呑み込まれてしまう。



私は、逃げるように図書室を飛び出した。











「おい、関!」

訳も解らず走り続けていた私は、その呼び掛けに足を止めた。

「榎さん……」

振り返ると、其処には榎木津が立っていた。
辺りを見回す。
どうやら私は、先程榎木津に呼び止められた場所に戻ってしまったらしい。

「中禅寺は?」

「中禅寺」の言葉に、私はさっきまで見ていた光景を思い出し、鼓動が高鳴った。

「……すいません。彼はもう、帰ってしまったみたいです」

私は、嘘を、吐いた。
榎木津は、「そうか、なら仕方無いな」とあっさり言い放ち、踵を返す。

「榎さん、餡蜜は……?」

去って行こうとする榎木津の背中に問い掛ける。

「もう食べたくなくなったから、いい」

振り向きもせず、気分屋の先輩は、ひらひらと手を振る。
遠ざかり、その姿が見えなくなるまで、私は呆然とその場に立ち尽くしていた。










次の日にはもう、例の心理学書は、私の手元に戻っていた。
教室で、「有難う、参考になったよ」の言葉と共に差し伸べられたその本を受け取る手が、
震えてしまわないか気が気では無かった。
曖昧な返事をして、中禅寺からそれを受け取る。
私は最後まで、彼──中禅寺の顔を見る事が出来なかった。

結局その日、その後、中禅寺とどのように接したのか、私は良く憶えていない。

そして、私は今、寮の自室で、窓際に凭れながら、
自分の元に返って来た本をぼんやり眺めている。

中禅寺は、何故あんな事を?

脇に置いてあったそれを手に取り、目の前に掲げた。
小豆色の表装に刻まれた、金文字の題字に、そっと指を這わす。

其処は、中禅寺が口付けた個所だ。

その時の情景が脳裏に蘇り、自然、心臓が跳ね上がった。
本を持つ指に力が入る。

そして、
そして私は───









ひとりの青年が、自ら住まう寮への道のりを歩いていた。
夏物の学生服に身を包んだその体躯は酷く痩せており、まるで枯れ枝のように見える。
しかしその容貌に反し、歩みを進める彼の足取りは、至極確りとしたものだった。

入り口を潜り、青年は建物を見上げる。
規則的に配置された硝子窓が夕日を反射するその光に、彼は黒い瞳を眇めた。
そして彼は、並んだ窓の一室に人影を確認して立ち止まる。

其処は青年の友人の部屋であった。

窓辺に佇む友人は、虚ろな瞳で俯いていた。
その姿を見咎めると、青年は忌々し気に眉を寄せる。

生温い風が立ち止まった青年の黒髪を弄った。

窓際の青年は不意に上を向くと、腕を持ち上げる。
掲げられたその手の中には、一冊の本があった。
それを見ていた青年は、一瞬にしてその表情を強張らせた。
虚ろな目をした青年は、手にした本を暫し見詰めたのち──



うっとりと、その本に接吻をした。



黒髪の青年は、その姿から目を逸らす。

彼は──全てを了解した。

青年、中禅寺は、強く下唇を噛み締めると、その瞳を伏せた。












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