| 【 遠く迄 】 その日、私の目覚めは珍しく早かった。 普段から昼過ぎまで惰眠を貪っている私が、 朝の冷え込みが堪えるこの季節にわざわざ早起きをしたのは、 それなりに理由があっての事である。 私は人と会う約束をしていたのだ。 掲載する原稿の件で打ち合わせがしたいと、稀譚社の小泉女史から連絡が入った為である。 私はのろのろと布団から這い出ると身支度を整え、 稀譚社のある神田へと向かうため家を出た。 社の応接室で簡単な話し合いをすると、あっと言う間にに用件は片付いてしまった。 時刻を確認すると、まだ正午前である。 そのまま家に帰ってしまうのは少し味気無い気もしたが、特別行きたい所も無かったし、 寄り道もせずそのまま家路につく事にした。 中央線中野駅に降り立ち、改札口に向かって歩いていると、 前を歩く人混みの間に見覚えのある後姿を見つけた。 きっちりと和服を着こなした、背の高い痩せた身体。 その姿を確認した瞬間、妙に動悸が激しくなり意味も無く私はうろたえた。 人違いかと我が目を疑ったが、私が彼の姿を見間違う筈も無い。 「京極堂!京極堂だろう?」 人波を掻き分けながら、その人物に向かい声を掛ける。 私の呼び掛けに振り返った男は、まるで悪い物でも見てしまったかのような顔をした。 「これはこれは、作家先生じゃないか。君がこんな時刻から活動しているとは珍しい。 今日は大雪になるかな」 会って早々に嫌な顔をされた挙句、出て来た台詞がこれである。 つくづくこの男は嫌味を言わずには居れない性格らしい。 「僕だって早く起きる事もあるさ。 それより君が外出するなんて、それこそ珍しいじゃないか」 私の言葉に、彼は元より不機嫌な顔を更に不機嫌にした。 「書肆仲間の会合だったんだよ。……それより人聞きの悪い事を言わないでくれ。 僕が外出しないのはその必要性が無いからであって、決して怠けている訳では無い。 必要とあらば何時でも、例えそれが何処であろうとも出向くよ。 ただ面倒臭がって家でごろごろしている君と同じにしないでくれたまえ」 彼に嫌味のひとつでも言おうものなら、例えそれが軽い気持ちでの発言だろうとも、 何倍、何十倍にもなり返って来る。京極堂とは、そう言う男なのだ。 「べ、別にそんなつもりで言った訳じゃないよ……」 私がそう言い訳すると、彼は「どうだかね」と馬鹿にしたような目で私を見た。 改札口付近で話し込んでいた為、人の流れの邪魔になっていた私達は、 どちらからとも無く人波を避けて壁際に移動した。 「それにしたって偶然だな。どの道お互い出不精なのに変わりは無いんだから、 こうして外で鉢合わせるのは珍しいだろう?」 「僕も君も中野に居を構えているのだから、 中野駅で出くわした所で別段珍しくも何とも無いだろう」 面白くなさそうに京極堂はそう言ったが、 滅多に外出せず、部屋に閉じ篭って本を読んでばかりいる彼と、 外でばったり出食わすことは矢張り珍しいのだ。 この偶然を、このまま終わらせてしまうのは何だか勿体無いと私は思った。 「なあ、京極堂」 名を呼んだ私に視線を向けた京極堂は、あからさまに嫌そうな顔をする。 「まさかこれから何処かへ行こうなどと言うつもりじゃあるまいね」 自分が今まさに提案しようとした事を言い当てられ、私は驚いた。 「……どうして解かったんだ?」 「君の考えている事は馬鹿みたいに解かり易いのだよ」 この態度から察するに、彼は私の気紛れに付き合う気はないらしい。 私は少々気落ちして俯く。 「で、何処に行くと言うんだい?」 しかし頭上から聞こえて来た返事は、私の予想を裏切るものだった。 「……………」 呆けて彼を見上げている私に、苛々しながら京極堂は言葉を続ける。 「そうあからさまにしょげられては後味が悪いからね。 残念な事に今日はこれから予定も無いし、君の気紛れに付き合うとしよう」 横を向いたままぶっきらぼうに述べられた言葉は、 気落ちした私の心を上向かせるのに充分だった。 「本気か?」 確認の為にそう問うと、京極堂は呆れた顔をして私に一瞥をくれる。 「馬鹿か君は。ここで冗談を言ってどうなると言うんだ。それより早く目的地を決めてくれないか。 どうせ君の事だから何も考えちゃいないんだろう?僕の気が変わってしまわない内に頼むよ」 私は慌てた。彼の言う通り行き先など考えてはいなかったのだ。 早く言わねばと焦る私から咄嗟に出た言葉は、 「海が見たい」 これであった。 「何処」と考えて一番先に思いついたのが「海」ったのだ。 私から目的地を告げられた京極堂は、苦虫を噛み潰したような顔で深く溜息を吐いた。 近場の海ではなく、神奈川の湘南海岸が私達二人の目的地となった。 住み慣れた中野の土地から、東京から離れた場所へと行きたいと、そんな気分だったのだ。 私が「湘南へ行きたい」と言うと、京極堂は嫌な顔はしたものの、 反論もせず結局は私の我儘に従ってくれた。 道中、汽車の中で色々な事を話した。 最近読んだ本の事、友人達の事、新聞やらラジオやらで話題になっている事。 話す事は幾らでもある。彼との会話は心から楽しめる時間だった。 時には討論の末、手酷く遣り込められる事もしばしばだったが、 それでも私は京極堂との対話が好きだった。 だからこそ出不精な私が、わざわざ彼の家へと足繁く通うのだ。 しかし私が彼の家に通い続ける理由は、それだけでは無い。 けれど、それは誰にも、京極堂本人にさえも言ってはならない、否、 言う事が出来ない理由なのだが。 そう言えば、原稿の締め切りが差し迫っていたせいで、 一月程京極堂へと足を運んでいなかった事に気付く。 久し振りだったのだな、君に会うのは。 だから駅構内で君を見掛けた時、あんなに嬉しかったのかも知れない。 そんな事を考えている内にも、汽車は確実に目的地へと向かって行った。 眼前に広がる海原。 目的の湘南に着いた私達は、誰もいない砂浜でぽつねんと立っている。 解かってはいたものの、流石に冬の海は寒かった。 海上で冷やされた風が遠慮無しに吹き付けて来るのだ。 首元が豪く冷える。私は外套の襟を立てた。 身を切るような寒さの為、私は縮こまるように背中を丸めていたが、 京極堂は背筋をぴんと伸ばし、何時もと変わらぬ姿勢で海に対峙している。 「……君は寒くないのか?」 余りにも平素と変わらない友人の様子に、私はそう尋ねた。 「寒いに決まっているだろう。わざわざこの季節に「海が見たい」などと言う 君の気が知れないね。第一君は海が嫌いなんじゃなかったのか?」 眉間に皺を寄せながら京極堂はぶつくさと不平を漏らした。 確かに海が見たいと言ったのは自分だが、 それは答えを急かす彼の言動に焦った末の選択であって、 私とて特別海が見たかった訳ではないのだ。 京極堂の言う通り、私は海が好きなどころか、 海に対して得体の知れない恐怖すら感じているのだから。 「……海は怖いよ。でも今日はそんな風に思わない。不思議だな……」 それは本当だった。こうして打ち寄せる波を、果て無く続く大海を目の当りにしても、 悪感情は沸いて来ない。 普段なら気分を悪くするところだが、穏やかな気持ちでいられた。 海が私達を見守ってくれているようだとさえ感じているのだ。 「座らないか?」 私は近くに転がっている潅木を指差し、彼に言った。 波に浚われ打ち上げられたのだろうか。 白く変色したその木はかなり大きな物で、大人が座っても充分な幹の太さがあったのだ。 「冗談だろう。これ以上此処にいたら風邪を引いてしまうよ」 「少しだけで良いんだ。もう少しだけ、海を眺めていたい……」 本当は、海など私にはどうでも良かった。 こうして君と二人で、何時もと違う場所に居ると言うこの瞬間が私にとって大切だったのだ。 他の誰かでは駄目だ、君で無ければ。 だから、もう少しだけ、私の我儘に付き合って欲しい。 京極堂は心底嫌そうな顔をしたが、私が彼の返答を待たず勝手に腰を降ろしてしまうと、 何も言わずに隣へ腰掛けた。 隣とは言っても、私達はそれぞれ逆の方向を向いていた。 私は海に向かって座り、京極堂は海に背を向け腰を下ろしている。 背中合わせに座った私の右半身と、彼の右半身が触れ合って、 布越しに感じる体温がやけに温かかった。 「まさかこんな目に遭わされるとは思わなかったよ。 君に付き合うと言ってしまった僕にも問題があるが、全くとんだ災難だ。 今日の君はやけに強引だしなあ」 背後から聞こえて来た口調は、怒っていると言うより呆れているようだった。 「そうかな……」 「そうだよ。普段からそれ位の積極性があったならば、 君の人生も少しは拓けたものになると思うがね」 何時もと変わらぬ物言いに、私は思わず苦笑を漏らす。 「それを言うなら、君の方こそ今日はどうした気紛れだい? てっきり断られると思っていたから吃驚したよ」 「なんだいそれは。君が豪く必死な様子だから仕方無しに承諾したのだよ。 大体今まで僕が君の申し出を無下にした事なぞあったかい?」 彼の言葉に私は顔を顰めた。 普段から私を散々悪し様に罵しり馬鹿にしている癖に、よくもこんな軽口を叩けるものである。 「無下にしているじゃないか……」 「おや、それは心外だ。これでも僕は君を大切にしているつもりなのだよ。 君に対して甘過ぎると思うくらいさ。違うかい?」 言われたこちらが恥ずかしくなるような事をさらりと言う。 笑い混じりのその言葉が自分をからかう為なのだと解かっていたが、 それでも私は赤くなってしまう。 確かに、私は彼に甘えてばかりいる。 本当に困った時には必ず手を差し伸べてくれるし、 そして何より── こうして、私のような人間が傍らに居ることを許してくれる。 君が私の存在を受け入れてくれるから、勘違いをしてしまう。 愚かな想いを断ち切れず、側に居たいと願ってしまう。 意識を集中させる。 海ではなく、今は沈黙する彼の存在へ。 私は身体を捩ると、京極堂の後ろ姿を見詰める。 身じろぎひとつしない彼の身体で、黒い髪だけが潮風に靡いていた。 ただこうしているだけで、どうしようも無い程に胸が苦しくなる。 目を閉じ、痩せたその背中に私はそっと口付け、心の中だけで呟く。 君が好きだ。 学生時代に知り合ったあの頃から、そして今この時も。 一度だって口にした事は無いけれど、ずっと君を想い続けてきた。 「そんな悪戯をしていると、何時か痛い目に遭うよ」 背中に口付けを落とした私に、背を向けたままで京極堂はそう言った。 彼の言った言葉の意味を私は考えた。 行き場のない想いがさせた、ささやかなこの行為が、 例え罰を受けるものだったとしても構わない。 私はその咎を認め、罰を受けよう。 それ位の覚悟は私にだってある。 だから、こう言った。 「いいよ、それでも……」 私の言葉に京極堂は首だけ動かしこちらを向く。酷くゆっくとした動作だった。 「考え無しにそんな事を言うものじゃ無い」 静かな口調だったが、彼の表情は厳しいものだった。 私はその時、彼の全てが許せなかった。 諌める言葉も、表情も、在りとあらゆるものが。 彼は私の決心を、想いを足蹴にしたのだ。 何も無かったような顔をして、易とも簡単に。 聡い君の事だから、私の気持ちなど疾うに気付いているのだろう。 知っていて尚、離れて行く訳で無く、突き放そうともしない。 その代わりに、近づくことも許さない。 それが君の優しさだと言うのなら。 生温いだけの残酷な優しさなぞ、私は要らない。 感情にまかせ、私は伸び上がると彼の唇に自分の唇を重ねる。 潮風に晒されたその唇は、氷のような冷たさだった。 きっと、最初で最後の口付け。 触れていたのはほんの一瞬で、直ぐに私は身体を離した。 混乱してはいたが、私は正気だった。 正気だからこそ、恐ろしくて彼の反応を伺うことなどとても出来ずに、 腿の上で硬く握った自分の拳に視線を落とした。 打ち付ける冬の潮風と沈黙が、身体ばかりか心まで冷やして行くような感覚。 「……関口君」 拷問のような静寂を打破され、はっとして私は顔を上げる。 視線の先で捉えた男は、憐れむような目で私を見ていた。 その瞳の色に、衝撃を受ける。 そんな顔をされるくらいだったら、嫌悪の表情を向けられた方がどれだけ良かったか。 これ以上彼の姿を見ている事に耐え切れず、私は下を向く。 「明日からは、何時ものような日常がまたやって来る」 「………」 もう何も聞きたくない。 海鳴りが聞こえる。強烈な潮の臭いにどうにかなってしまいそうだ。 「今日の事は忘れたまえ。忘れた方がいい……」 どうして、と言い掛けた私の言葉は、京極堂によって阻まれた。 彼の顔が間近にある事で、私は自分が口付けられているのだと知る。 目前に見えるのは、閉じられた瞳と、苦し気に寄せられた眉。 何故君はそんな顔をして、こんな事を私にするのだろう。 私のなけなしの勇気を簡単に拒絶し、「忘れろ」などと酷い言葉を言っておきながら。 哀しい顔をして、どうして── 「…っ……」 京極堂の細い腕が、痛いくらいに私を抱き締めた。 先ほど触れた氷の冷たさは何処かに消え失せ、狂おしいほどに熱い、死神の唇。 痺れるような切なさに、視界が滲む。 歪んだ視界の向こうで君は、未だ哀しげな顔をしていて。 私は目を閉じると、彼の背に腕を回した。 このまま 何も彼も、波に浚われてしまえばいい。 私の想いも、彼の優しさも。 僅かな瞬間に崩れた日常も。 全て。 冬の海だけが、私達を見ていた。
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