【 切っ先 】




その日はとても穏やかで、静かな日だった。
半分ほど開けた窓からは、心地よい風と柔らかな陽が差し込んで来る。
私は窓際の壁に背を預けながら、只じっと座っていた。
何をするでもなく、何を考えるでもなく、朝起きてからずっとこの調子である。

今日は休日で、今私が居るのは寮の自室だ。
折角の休みに閉じ篭っているのもどうかと思ったが、
今日は目覚めから気分が良く、私にしては珍しく爽快な気分だった。
何時ものように、昏く、淀んだ方向へ思考が向く事も無い。
だから敢えて、この状況を満喫する為に、こうして只部屋に居る。

静かな時間はゆっくりと流れて行く。
そっと目を閉じると、何処からか鈴虫の鳴き声が聞こえて来て、
綺麗な旋律だと、素直にそう思った。

ああ、心が安定していると言うのは、こんなにも幸せなことなのか。

この状態が常ならば、中禅寺にそれ程迷惑を掛けずに済むのに。
私は何かと世話を焼いてくれる友人の顔を思い浮かべる。

中禅寺。

少しだけ、怖くなった。
彼が怖い訳では無い。何故だか中禅寺のことを考えると心が竦むのだ。
理由なんて知らない。敢えて知りたいとも思わない。
知れば何かが変わってしまうような気がして、私は恐ろしかった。

けれどそんな考えも、緩やかな初秋の風に流され消えていく。
私は思考の渦に沈み込むことなく、また直ぐも安定を取り戻した。

凪いでいるように平静な精神状態の自分。
でもこれは一過性のものなのだろう。
明日になれば、私は普段通りの鬱々とした状態に戻っているに違いない。
そしてまた、君に迷惑を掛けるのだろうか。
中禅寺。

しかし、またしても私の思考はそこで中断された。
室内に吹き込んで来る風が、急に強くなったのだ。

突風に煽られ、カーテンが大きく揺れる。
部屋の中を、カーテンの影が波打つように流れる光景は、どこか幻想的だった。

頭上で物がぶつかる音がして、私ははっとした。
窓際には机が配置してある。
風に煽られたカーテンが机上の物に当たったのだろう。
幾つかが大きな音を立て、目の前の床にばらばらと落下した。
少し慌てたが、落ちて割れるような物はなかったようで、私はほっと息を吐く。

これ以上物が落ちてきては堪らないので、
私は立ち上がると窓を閉め、落ちてしまった物を拾い始めた。
プリント、鉛筆。学帽や櫛の類まで落ちている。
教科書や書籍の、ある程度の重さがあるもの以外は、見事に散乱していた。

その中のひとつに目が止まる。
それだけが、光を反射して輝いていた為だ。

それは、小刀だった。

普段鉛筆を削る為に使っているものなのだが、
落ちた衝撃で鞘が外れ、金属の刃が剥き出しになっている。
陽の光を受け、刃がきらきらと輝いていた。

私はその光に見入る。
とても、綺麗だ。
小振りの刀が光を放つ様は、まるで尖った三日月のようで美しい

静かに自己主張するそれを、私はそっと手に取る。
しげしげと眺めていると、光線の加減で切っ先が禍禍しいまでに、ぎらりと鈍い光を放った。

頭の中は空っぽで、心は静かなまま。

私は、左の手首に刃をそっと重ねた。





「何をしている」





聞き覚えのある声が私の耳に届く。
顔を上げると、部屋の入り口に中禅寺が立っていた。

「やあ……」

私は彼に向け軽く微笑いながら挨拶をしたが、
中禅寺は今までに見たことも無い程恐ろしい形相をしていた。

「どうしたんだ?怖い顔して…」

ぴくりと、中禅寺の眉が動いた。

「そんな事をして、何になる」

そんな事?そんな事ってなんだ?

中禅寺は足音も立てず近づくと、私の右手首を掴んだ。
その拍子に、カランと乾いた音を立て小刀が床に落ちる。
床に転がった小刀を目にして、私はやっと中禅寺が怒っている訳を理解した。



そうか、私は。



私は、手首を切ろうとしていたのか。



「………ご免」
「………………」

中禅寺は表情を変えず、無言だった。

「無意識…だったんだよ。…今日は何だか気分が良くて、精神も安定していたし…」

本当に、そうだったのだ。

「そんなものはまやかしだ」

中禅寺はきっぱりそう言うと、続ける。

「そんな世界は存在しない。それは……、

それは、君の彼岸なのだよ、関口君」

彼岸。
その言葉に、私は打たれたような衝撃を受けた。

さっきまでのあの状態が私にとっての彼岸。あちら側。
だとしたら、それは何と穏やかで満ち足りた世界なのだろう。
中禅寺が止めに入っていなければ、私はあのまま自分の手首を切っただろうか。

否、
多分、出来なかった。
私にはもう、こちら側に留まる理由がある。

その理由は、

きっと君なのだ、中禅寺。



「二度とあんな馬鹿げた真似はしないと、約束してくれ」

手首を掴む手に、ほんの少し力を入れてそう言った中禅寺は、酷く哀しそうな顔をしていて。
私はゆっくりと彼の言葉に頷いた。
中禅寺も確認するかのように、小さく頷き返す。

そんな彼を見て、また心が竦んだ。













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