【 雑踏 】



ざわめく雑踏の中で、私達は言葉も無く、只向き合っていた










昭和18年。私の元に一枚の通知が届いた。
それは、通称赤紙と言われるもので、徴兵令状である。
学徒出兵が始まってからも、理系の学生は優遇措置を受けており、
早い段階で出兵することは無い筈だったのだが、
何の手違いか、当事大学で理工学系の学部に所属している私の元に、それは届いたのだ。

私は大いに恐れ、狼狽した。

徴兵を拒否し、逃げ出したいとも思ったが、その先に待っているものは「死」である。
徴兵逃れと言う罪状に対しての判決は、全て「死刑」なのだ。
今思えば、敵兵と戦う自国の民を殺すなどと、全くもって本末転倒な話である。

狂っていたのだ、何も彼も。
常識など、個人の尊厳など、「戦争」の前では屑同然で無いものと同じだった。
逃げてもその先に待っているものは「死」で、
戦地に赴いたとしても、そこに待っているのは矢張り「死」。

どの道死ぬのだ。

国家権力に抗う気概などない私には、出兵という道を選ぶしかなかった。










「赤紙が届いたんだ」

私から連絡を入れ待ち合わせをしていた喫茶店で、
向かいの席に座っている友人に、そう切り出した。
その言葉に、目の前の友人は顔を上げる。

「馬鹿な、早過ぎる。理系の学生には優遇措置が取られている筈だ」
「ああ…。その筈なんだけれど、何でだろうな……」

自分の事なのに、まるで他人の出来事を語るように私は言った。
暫し、沈黙が私達の間を流れる。

「中禅寺……」

私は友人の名を呼ぶ。
しかしそれに対しての応えは無く、彼は黙り込んだままだった。

「矢張り……死ぬんだろうな…」
「……関口君」

彼の声音はどこか私を諌めるような響きを伴っていて、
その事に対し私は、何故だか酷く腹立たしい気持ちになった。

「僕は、死ぬんだ」

カラン、と音を立て、グラスに入った氷が水の中に沈む。

「死ぬなんて軽々しく言うものじゃないよ。必ずそうなる訳では無いだろう?
無事に帰還出来る可能性だってあるのだから」

私はその言葉に、一気に頭に血が上るのを感じた。

こんな時にまで君はそんな御託を並べるのか!
違う。私が、私が欲しかったのはそんな言葉では無い。
君が気休めに、陳腐な慰めの言葉など決して口にしないのは承知している。
君が無責任に、後先考えず発言するような人間では無い事も解かっている。
それでも、たとえ気休めにしかならなくても、私は言って欲しかったのだ。

「生きて帰って来てくれ」と。





「君は、酷い男だ」





そう言うと私は席を立った。
中禅寺は訝しげな顔をして私を見上げる。
そうして中善寺は何かを言おうと口が開いたが、私はこれ以上何も聞きたくなくて、
彼が言葉を発するのを待たず、逃げるように店を後にした。

中禅寺は、追って来なかった。










10月21日。
出陣学徒壮行会が国立競技場で行われた。

雨が降っていた。

それぞれの大学や専門学校別に隊列を組み行進する。
身に纏うのは学帽に学生服。
何時もと違うのは、上着の上から嵌めたベルトと膝下に巻かれたゲートル。
そして、肩に担いだ歩兵銃。

列を成して歩く学徒達。
それを見送る人、人、人の渦。
女学生が懸命に日の丸を振っている。
お国の為に頑張れ、と声援が飛ぶ。
隊列を組み、楽曲に会わせ行進する姿は、本来ならば華々しいものなのだろう。

しかし会場には悲壮感が漂っていた。
雨がそれに拍車を掛けるようだ。
皆口には出さずとも、知っているのだ。彼らが、否、私達が無事に還っては来れない事を。

雨足は益々強くなる一方だった。
ずぶ濡れになり延々と行進を続けながら私は思う。

この行列は死に行く者達の群れだ。
死者達の行進だ。

振り続けられる国旗が目の端にちらついて、何時までもそれが頭から離れなかった。










数週間の短い訓練を受けたのち、学徒兵達は各々の戦地へ旅立つ。
私にも、とうとうその日がやって来た。
出陣の日が。死への旅立ちの日が。

駅構内は騒然としていた。
見送る者と見送られる者。
これから私達兵隊は、汽車に乗り船に揺られて南方の戦地に向かう。
行った事も、見た事も無い遠い土地へ。

家族と、友人と、恋人と別れを告げる兵隊達。
永久の別れとなるやも知れぬこの状況で、
しかし誰一人として「無事に帰って来てくれ」と言う者はいない。
そう願っても、それは口に出してはいけないのだ。
戦って死ぬ事こそが、国に対して最高の忠義だと言われているのだから。

あちこちで交わされる別れの遣り取りを、私はぼんやり眺めていた。
それはとても痛々しく、哀しい情景だ。

そして、私はふと気付く。
人々の間を縫うようにして、真っ黒な人影が徐々にこちらへと近づいて来るのを。
くすんだ情景の中で、その色は却って鮮やかに見え、
回りの風景から浮かび上がっているように感じた。

ゆっくりと、しかし確実に近づいて来る闇色をした人物。
影のように黒いそれは、私の前まで来ると動きを止めた。

それは、
黒い着流し姿の中禅寺だった。

「……………」

言葉が出なかった。
中禅寺は何時もと変わらぬ不機嫌な顔で、黙って私を見詰めている。
ざわめく雑踏の中で、私達は只、黙って向き合っていた。

「……来てくれるとは、思わなかったよ……」

どの位そうして向き合っていただろう。私は呟くようにそう言った。

「関口君……」

そう言うと、中禅寺は私に向かって一歩踏み出す。
距離が詰まり、私の視界に映るのは中禅寺だけとなった。

「さよならなどと、別れの言葉は、僕は言わない」
「………」

今までに見た事の無い程真摯な瞳に射抜かれ、
またしても私は何も言えず、黙ったまま間近にある中禅寺の顔を見詰めた。



「…関口君、どうか。

 どうか、生きて還って来てくれ」



思い掛けないその言葉に息が詰まる。
まるで時が止まってしまったかのような錯覚を私は憶えた。
固唾を飲む私に向けて中禅寺は腕を伸ばすと、短く刈った私の髪に指を差し入れる。



そして彼は、顕になった私の額に、軽く押し付けるような接吻をした。



「中…禅寺……」



それは、死地へと赴く私への、残酷な手向け。



今まで私の「死」に対する恐れや怯えは、漠然としたものだった。
戦地で命を落とす事になったとしても、これまでの私だったなら、
楽にその生を放棄する事が出来た筈だったのに。

今この瞬間から、私は「死」の恐怖を知ってしまった。
死ぬ事を恐ろしいと感じるようになってしまった。
生きて、また君に会いたいと──そう思ってしまった。

中禅寺、君は。





「君は、酷い男だ」





私がそう言うと、まるでその言葉を肯定するかのように彼は微笑って見せる。

構内に発車を知らせる汽笛の音が響いた。













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