| 【 ひとでなしの恋 7 】 「…………くん」 「……ぐち君」 遠くで聞き慣れた声がする。 ぼんやりした意識の端で、私の聴覚がその声を捕らえた。 「おい、関口」 はっきりと聞こえたその呼び掛けに、私ははっとして目を開ける。 そして視界に飛び込んで来たのは、裸足の足と着物の裾だった。 恐る恐る目線を上げて行くと、 この世のものとは思えない程不機嫌な顔をした男と目が合う。 「………きょう、ごく…堂?」 「君には常識と言うものが無いのかい? 大した用も無く他人の家に上がり込んだ挙句、 昼日中からぐうぐう眠りこけるとは、随分良い度胸だね、関口センセイ」 「………………」 畳に顔を突っ伏したまま、今だ覚醒しきっていない頭で、 京極堂が言った言葉を反芻してみる。 どうやら私は、昔の思い出に耽っている内眠ってしまったらしい。 そして、眠りに落ちる前に考えていた学生時代の事を、そのまま夢に見てしまったようだ。 「……済まない……」 漸く身体を起こし、私はそれだけ言う。 どう考えても私のとった行動は失礼だろう。 いい年をした大人が、幾ら友人の家だからと言って、 昼間から家人の目の前で居眠りをするのは常識に欠ける行為だと思う。 「まったく榎木津といい君といい、 うちを簡易宿泊所かなんかと勘違いしているのじゃないか。 そんなに眠りたいのなら自分の家で思う存分寝たらいい」 「わ、悪かったよ。考え事をしていたらつい……」 私の発した言葉に主は益々眉間の皺を深くすると、 畳み掛けるかの如く、更に弁舌を続けた。 「つい?君は考え事をするとつい場所も弁えず居眠りをするのか」 「……僕だって、何処ででも居眠りする訳じゃないよ」 「関口君……」 ギロリと剣呑な眼差しを向けられ、私は思わず竦み上がってしまう。 「何処ででも居眠りする訳では無いと言った君が、 僕の家で高いびきをかいていたのはどう言うことかね? 僕の家ならば無礼を働いても良いと言うことなのか」 明らかに機嫌が悪い。余程腹に据えかねたのか語調の端々に棘がある。 言い訳にもならないかもしれないが、私は彼のその言葉に一応の反論を試みた。 「そ、そうじゃなくて……君の家に居ると安心するんだ。居心地が良くて、だから……」 「………………」 お説教が返ってくるものと覚悟していたが、 京極堂は何も言わず諦めたように溜息をひとつ吐くと、 彼の定位置に腰を下ろし本を読み始めた。 京極堂の猛攻から逃れられた私はほっとして、 座ったままずりずりと何時もの場所に移動する。 僕の定位置は、彼の真正面の席だ。 顰め面で読書に没頭する友人は私の相手をする気はないらしく、黙ったまま頁を捲っている。 私は特にする事もする気もなかったので、さっきまで見ていた夢のことを考えていた。 あの大雨の日。 確かに京極堂(当事はまだ中禅寺と呼んでいた)は、私に「君が好きだ」と告げた。 そして私も、聞こえたかどうかは解からないが、「僕も君が好きだ」と返した。 それから会話らしい言葉を交わすことなく、翌日に私は実家へと帰省したのだ。 長い夏休みが明けて彼と対面した時、中禅寺は何も言わなかったし、 彼の態度には何の変化も見られなかった。 だから私も敢えて何も問わなかった。聞いたところで如何なると言うのだろう。 あの時の言葉は私をからかっただけの事かも知れないし、 純粋に友達として「好きだ」と言ってくれたのかも知れない。 それはそれで私には嬉しい事だった。 もっと別の意味──中禅寺が私に恋愛感情を抱いているのでは、 と言う考えにはどうしても至らなかった。 あの中禅寺が私を好きになるなど考え難い。 私には人に好意を持たれる要素など皆無なのだから。 外を眺めながら、つらつらそんな事を考えていた私の思考は一時中断された。 雨が降って来たからである。 雨。 あの時も、雨が降っていた。 「京極堂……雨だ」 私がそう告げると、主は不機嫌な表情のまま外に目を遣る。 「ああ、全く。梅雨が明けたと思ったら直ぐに台風の季節がやって来る。 つくづくこの時期は厭になるよ」 言葉の通り、目の前の男は心底厭そうな顔をして、 読んでいる本を閉じると、そのまま言葉を続けた。 「君はジメジメしている所を好むようだから、雨は好きなんだろう?」 確かに私は晴れ晴れとした青空より、雨が降っている時の曇天の方が過ごし易い。 その方が私の性に合っているからだ。しかしこの言いようはあんまりだと思う。 これではまるで私がナメクジか何かのようではないか。 「確かに僕は雨が好きだけど、別にジメジメしてるから好きな訳じゃないよ。 他に理由があるんだ」 ──だって、あの日も雨が降っていたから。 ──雨は君に告げられた言葉を思い出させるから。 「ほう。その理由とやらを是非拝聴したいものだね」 「…う、それは……」 「それは?」 そう切り返され、私は言葉に詰まった。言える訳がない。 どう答えれば良いのか解からず、動転する私の口からついて出た言葉は── 「…………秘密だ」 何と言う情けない返答だろう。 こんな事しか答えられない胡乱な自分が恨めしくなる。 私の答えが意外だったのか、京極堂は何とも言えない珍妙な顔をした。 何とかその場を取り繕うと私は彼に問う。 「そ、それより。さっきから聞いていると、君は雨が嫌いみたいだけど……」 「ああ、嫌いだね」 「湿気で本が傷むからかい?」 京極道は、何より本が大事な人間である。 彼は私の言葉にちらりと目線を寄越すと言った。 「それもあるが、僕が雨を嫌う理由はもっと別のところにあるのだよ」 別な理由とはなんだろう。 興味がある。私はそれが知りたいと思った。 「その……別の理由ってなんだい?」 「知りたいかね?」 その言葉に私は頷く。京極堂はそんな私を横目で見つつ、 「秘密だ」 と言い、にやりと笑った。 からかわれたのだ。私は憮然として彼を睨みつけた。 「酷いじゃないか。真面目に質問した僕が馬鹿みたいだ」 「何が酷いものか。君だって秘密だと言ったじゃないか。 自分の事は秘密だと言っておきながら、他人の理由を知りたがる君の方がよっぽど酷い」 そう言いながら能弁な友人は腰を上げると縁側の方へ歩いて行く。 尤もな意見を返され、反論出来ず黙り込んでいた私はその姿を目で追う。 そうして縁側まで辿り付いた京極堂は、立ったまま雨空を見上げてぽつりと呟いた。 「本当は雨が嫌いなんじゃない。雨を見るのが辛いんだ」 「…………」 そう言った背中が何故か寂しそうで、曇天を見上げる友人の傍らに私も並んで立つ。 京極堂は降って来る雨を眺めながらこう続けた。 「雨を見ると、当事の自分の未熟さや愚かさを思い知らされる」 誰に語る訳でもない独白のようなその呟きを、私は黙って聞いていた。 「一時の感情に流されるなど、僕も若かったのだな」 微かに頭を垂れ、視線を下に向けた京極堂は自嘲気味に口元を歪め、笑ったようだった。 暫しの沈黙が私達の間に流れる。 「感情に流されたって、良いじゃないか」 普段とは違う友人の態度が何故だか私を焦燥させ、思わずそう口走ってしまった。 京極堂は少し驚いた顔をして私の目を見詰める。 「その……君が何をして、そんなに後悔しているのか僕には解からないけれど……。 君だって人間なんだ。そう言うことがあっても良いじゃないか。 そりゃあ、何時も感情に流されてるようでは拙いと思うけど、 何も君がそこまで完璧である必要は無いと思うんだ……」 柄にも無く熱弁を振るう私は彼に詰め寄る形となり、距離が縮まる。 そのせいで私の指先が彼の冷たい指先に触れた。 一瞬私はどきりとするが、京極堂の方は気にならぬようで、 手を引く訳でなく再度降りしきる雨粒に目を遣り、言った。 「あの時も雨が降っていたんだ。 僕達はまだ学生で今と同じ夏だった。君は憶えているかい?」 その言葉に私の鼓動が高鳴る。京極堂の言う「あの時」とはまさか── 私の「あの時」と同じなのか。 君はあの言葉を軽い気持ちで言ったのではないのか。 私をからかって言ったのではないのか。 現に、あの後君は何も言って来なかったではないか。 私の混乱と感情の渦が、触れ合った指先から彼に伝わってしまいそうで、 咄嗟に手を引こうとした。 しかし、それは京極堂により阻まれる。 離れかけた私の掌を京極堂が掴んだのだ。 「きょ……」 「君は『感情に流されても良い』と言ったな?」 私の手を握り込んだまま、真摯な瞳で問い掛ける彼に私は言葉が出ず、ゆっくりと頷いた。 「二度と口にするまいと思っていたが、君がそれを許してくれると言うなら……」 京極堂は微かに瞼を伏せる。 ああ、彼と触れ合った指先が熱い。 「僕は、君が好きだ。そう、あの時から。いや、もっと前からずっとだ」 突然の告白に、あの夏に封印した筈の想いが熱を帯び燃え上がる。 忘れていた胸を締め付ける痛みが全身を駆け巡り、私は軽い眩暈を感じた。 もう二度と、こんな感情を味わう事など無いと思っていたのに。 君に私の想いが伝わらなくても、只側にいるだけで良いと思っていたのに。 そんな、そんな言葉を聞かされたら、私は。 「………僕も……ずっと好きだった……」 自分の感情を抑えきれず、私はそう返してしまった。 あの日と同じように。 言ってしまってから急に恥ずかしくなり、私は俯く。 顔が熱い。きっと今の私は情けないくらい真っ赤になっていることだろう。 「君からその言葉をもう一度聞けるとは思わなかったよ」 そう言って微笑った京極堂の言葉に、私は嬉しくなった。 あの夏、雨音に掻き消されたと思っていた私の「想い」は、ちゃんと君に届いていたのだと。 上から握り込まれている掌を裏返すと、私は京極堂の手を握り返し、彼に笑ってみせる。 京極堂は瞬間驚いて私を見返したが、 直ぐに怒っているのか照れているのか良く解からない顔をして、ふいと横を向いた。 手を繋いだまま、私たちはずっと雨空を見上げていた。 私は益々雨が好きになりそうである。 〈完〉
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