| 【 ひとでなしの恋 1 】 それは、一度だけ聞いた言葉だった。 そして、それは私が一度だけ口にした言葉でもある。 「君が 好きだ」 私は何時もの如く、暇を持て余して「京極堂」に足を運んでいた。 京極堂は古本屋である。 ここの主人と知り合ったのは、旧制高等学校に私が通っていた頃であるから、 彼との付き合いはかれこれ十数年にはなるだろうか。 主は相変わらず、まるで町内会の人間すべてが死に絶えたが如き仏頂面で、 和綴じの本を読んでいる。 私はさして何かする訳でなく、ただぼうっと縁側の向こうに広がる景色を眺めていた。 縁側では日増しに強くなる初夏の日差しを浴びながら、 この家の飼い猫(名を柘榴と言う)が、気持ち良さそうに丸くなって昼寝をしている。 何とも長閑な風景である。 静寂が、普段よりも時の流れをゆっくりと感じさせているようだ。 静かなのは当然で、私たちには会話がなかった。 意識してそうしている訳ではない。 常ならば、まだ陽の高いうちに座敷に上がり込んでから、 すっかり陽が落ちて、私が辞去するまでの間ずっと話し込んでいることのほうが多い。 だが時折、こうして何も語らず、ただ時間の流れるがままに過ごすこともある。 偶に訪れるこんな穏やかな時間が私は好きだった。 鬱病持ちで、常に精神が不安定な私は、ほんの些細なことで心に波風が立つ。 私は、ただ天気が悪いと言うそれだけの理由で塞ぎ込むような人間なのだ。 自分のことながら情けなくなるが、こればかりはどうしようもない。 そうして鬱々とした気分が払拭されなかったり、 原稿に行き詰まった時には、決まって私はここ、京極堂に足を運ぶ。 家人にとってはほとほと迷惑な話であろう。 しかし、この家を訪れると不思議と精神は安定を取り戻し、穏やかな気持ちになった。 否。本当は「家を訪れると」ではなく、「彼に会うと」なのだろう。 「……………」 例の如く不機嫌な顔で読書に耽っている友人の姿を私は盗み見た。 ──本当に君は本を読んでばかりいる。 ──知り合った学生時代から、君は書痴と言って良い程の読書好きだった。 だから、会話のないこんな穏やかな日は、君と初めて会ったあの頃に想いを馳せる。 私は友人に向けていた視線を戻すと、 遠いあの日々の記憶を手繰るべく、そっと目を閉じた。
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