| 傷ついたふたり |
その日の午後、桐山和雄は、五時限目の授業には出ずに、裏庭へと向かっていた。 このように授業を抜け出した彼が、時間を潰すのに用いた場所は、屋上が常だったのだが、今日は違った。 中天に昇った太陽を遮る物が屋上には無く、夏に差し掛かったこの季節には、 何時ものその場所は暑過ぎたのだ。 静まり返った校舎一階の廊下を、ゆっくりと歩いて行く。 そうして桐山は、誰も居ない筈の第二理科室の室内に人影を認めて、そちらへ視線をやった。 こちらの気配に気付いたのか、それとも偶然か、その人物の長い黒髪が揺れて、桐山の方を見た。 クラスメイトの、相馬光子だった。 普通の男子だったなら、そこでどぎまぎするか、赤くなるかのどちらかだったのかもしれない。 何しろ相馬光子は、とびきりの美少女だったので。 けれど桐山は、所謂、『普通』の男子ではなかったので、光子と視線がかち合っても、 それを認識しただけに留まった。 そのまま、彼はその場を立ち去ろうとしたのだが、視線の先の光子が手招きをしたので、 桐山は進めようとしていた足を止めた。 彼は、どうしても裏庭に行きたいのでは無かったし、単に時間を潰す事が出来るなら、 それが何処であっても、どうでも良かったのだ。 何より、視界に映るクラスメイトに興味を引かれたので、理科室の中に足先を向けた。 公立の中学校に、冷暖房の設備が整っている訳も無く、理科室内の空気は湿気を孕んで、 体に纏わりつくような重さがあった。 窓から差し込む強い日差しが、理科室独特の黒い木製の机を、鉛色に照らし出している。 光子はその机の上に腰を下ろし、足を組んで桐山に顔を向けていた。 『桐山くんも、サボリ?』 『・・・ああ』 『こう暑いと、授業受ける気なんてしないよね』 『・・・そうだな』 桐山の返事を聞いているのかいないのか、光子は気怠るそうな瞳をして、『学校なんて、くだらない』 と、吐き捨てるように呟いた。 実の処、彼女にとっては学校だけで無く、世の中全てがくだらない事柄で埋め尽くされていたのだが。 どこか上の空の光子を桐山は見ていたが、不意に光子の横顔が彼の方を向くと、思い出したように 笑顔になって口を開いた。 『そう言えば、この間はありがとう。男に絡まれてるの助けてくれて、ダンスまで踊ってくれて。 あたし、何もお礼してなかったね』 『別に、礼など必要ない』 『いいの、あたしがそうしたいんだから。何かお礼させて』 光子は柔らかく笑って、それから、何かを考えるように天井を見上げる。 暫くして、天井に向けられていた光子の視線が移動して、少し高い位置にある桐山の瞳を 悪戯っぽく上目遣いで見上げた。 『・・・そうね、キスなんてどう?』 『・・・・・・』 彼女の申し出は、桐山が予想していないものだったらしく、彼は光子の顔をじっと見詰めた。 桐山の視線を捉えた光子は、その年齢の少女とは思えないような、大人びた笑みを、 その口元に浮かべた。 生温い空気が、冴え冴えと氷結して行くような、二人の姿。 およそ、くちづけを交わすには、余りに似つかわしくない、そんな雰囲気。 表情ひとつ変えず、無言のままで、静かに桐山の体が、光子の姿に近寄る。 【相馬とキスをする】 ──それも悪くない。 それが、桐山が出した結論だった。 睫毛が長いと思った。 質の良い、けれども濃厚な甘い香水の香りがした。 触れた唇に、馴染みのない感触──リップクリームか、口紅が塗られているのだろう──に、 微かな違和感を憶える。 それよりももっと、桐山は別のものに違和感を強く、感じた。 まるで、体温と言うものが感じられない、その唇に。 いや、違和感などとは正反対なのだ、これは。 桐山は知っている。 これは最も良く知る、最も馴染んだ、自分の── 『・・・あたし達って、似てるのかもしれないね』 数秒触れただけの、戯れのようなくちづけを終えてから、光子はそう言った。 笑顔の浮かんでいない、どこか真剣なその表情に、桐山は頷いた。 彼も同じように、思ったから。
その日の夜は、やはり満月で。 満天の星空と、そこに浮かぶ、青白い、月満ちる天体を見上げて。 彼女は今夜も、どこかで踊っているのだろうかと、桐山和雄はそう、考えた。 |
| Back |