珍しく早起きして学校へ向かう。

これまた珍しく、通学路の途中で桐山と出くわした。


『おはようボス!』

『充・・・』


声を掛けた俺に振り返ると、桐山はぽつりと呟いた。

きっちりと学生服を身に付け、背筋を伸ばして歩く姿は、いつ見てもかっこいい。

朝一番で桐山に会えた喜びに、俺は少々浮かれ気味だった。


しかしふと、違和感を憶える。

どうも、いつもの桐山と何かが違う気がした。

立ち止まっている桐山の姿を、点検するように見回してみる。



髪型・・・オールバック。いつもと同じ。

顔・・・かっこいい・・・じゃなくて、無表情。いつもと同じ。

服・・・学ラン。いつもと同じ。

鞄・・・・・・ん?



俺の視線は、そこで止まった。

鞄にではなく、正確には鞄を持つ桐山の手に。

ちらりと覗いた親指の爪が──真っ赤だったのだ。


『ボ、ボス。なんか、爪が赤いような気がするんだけど・・・』

『ああ、これか』


桐山は鞄を脇に抱えると、すいと腕を上げた。

俺は驚いて声を上げそうになった。

親指だけじゃなく、全ての指の爪が、赤く染まっていたからだ。


『昨日、月岡に塗られたんだ。落とすのを忘れていた』


何でも無い顔をして、桐山は綺麗に塗られた自分の爪を眺めながらそう言った。


あの野郎、何考えてんだ?

よりよってボスの爪にマニキュア塗るなんて!


俺は桐山の腕を取って、学校とは逆の方向へ歩き出した。


『・・・充。どこへ行くんだ?方向が違うようだが・・・』

『そんな爪他の奴らに見られたら、笑い者にされちまう。学校はサボり!』


桐山の体を半ば引き摺るようにして、俺はずんずんと自分の家の方角へ足を進めた。



家に到着すると、案の定誰も居ない。

二階の自室に桐山を押し込んで、俺は一階にある母親の化粧台へと向かう。

上から順に引き出しを開けて、中を漁る。除光液は直ぐに見つかった。

俺はそれを持って、桐山の居る二階へと階段を駆け昇る。

乱暴にドアを開けると、桐山は静かに座ったままの姿勢で俺を見た。

真向かいに腰を下ろし、除光液を脇に置く。


『何を怒っているんだ?』

『・・・ボスに腹立ててるワケじゃねぇよ。ヅキの奴に俺は怒ってんだ』

『・・・何故?』

『だって・・・ボスの爪にこんな・・・』


ふつふつと怒りが込み上げて来る。

もし桐山があのまま学校へ行って、皆に変な目で見られたりしたら、アイツは一体どうやって

責任を取るつもりだったのか。

それを未然に防げたのは、運が良かったけれど。

今日は早起きをして、本当に良かったと思った。


除光液の蓋を開けて、ティッシュにそれを染み込ませる。

つんと、シンナーのような匂いが鼻をついた。


『ボス、手ぇ出して』


俺がそう言うと、桐山は素直に右手を差し出す。

その手を取って、派手な色に塗られた爪を改めて眺める。

悪趣味だ、と思い。俺は眉を顰めた。

けれど同時に、全く逆の事も俺は思った。


桐山は、とても綺麗な手をしている。

勿論、女のような柔らかさや、しなやかさは無いけれど。

色の白い、ほっそりと長い指を持ったその手が、俺は好きだった。

その指先が、今は赤色に塗られている。

真っ白な手に、その赤が映えるようで、俺は不覚にも見惚れてしまったのだ。

何だか急に、動悸が激しくなった。


『充』


呆けていた処に声を掛けられ、俺ははっとして顔を上げる。


『落とすんじゃなかったのか?』

『・・・うん。そうなんだけど・・・』

『何だ?』

『・・・あの、こんなこと言ってボスは気分悪いかもしれないけど、ボスってマニキュアなんて

女が塗るもんでもサマになるんだなぁって思ってさ・・・』

『・・・月岡も同じようなことを言っていた』

『いや・・・でもやっぱり、落とさなくちゃマズいとは思うよ・・・』


自分でも何が言いたいのか、訳がわからなくなって来る。

ただ、桐山の赤い爪から目が逸らせない。

手に持ったままのティッシュから、とっくの昔に除光液は蒸発してしまった。

不意に、目にしていた桐山の手が上へと動いて、俺の顔の前に移動した。

間近に、赤い爪。


『気に入ったのなら、暫くこのままにしておけばいい』


そう言って、桐山は俺の下唇を、赤い爪先で軽く引っ掻いた。

途端に心臓が跳ね上がり、痺れるような感覚が触れられた場所に疾る。


くらりと目眩がした。


桐山に目線を移すと、俺を見詰める静かな瞳が、微かに細められる。

まるで促すように、唇を指で押されて、俺は薄く口を開いた。

指先が口内に侵入して、爪の先が、かつんと歯に当たる。

ほんの僅かなその刺激が、脳髄にまで響くように伝わって、体の力が抜けて行く気がした。

指の半分程を咥え込まされ、堪らず俺は目を閉じる。

どくどくと、血の流れる音が耳の裏でした。


舌先に、エナメルのようなつるりとした感触が触れる。

桐山は更に、人差し指を咥えた歯を抉じ開けるようにして、指をもう一本侵入させて来た。

抜き差しするように口内を掻き回されると、思わず喉が引きつった。

その指を軽く吸うと、応えるように舌の表面を指で緩く押し返される。

それだけで、体がぶるっと震えた。

閉じた瞼の裏側、真っ黒な空間に、桐山の白い指と、赤い爪が浮かび上がった。

俺は何だか酷く──



酷く、イヤラシイ気分になった。



何の前触れも無く、桐山が指を引き抜く。

追い縋るように、体が前に揺れた。

ゆっくり頭をを上げると、桐山と視線がぶつかる。

桐山は普段と変わらない冷たい目をして、俺をじっと見ていた。


『・・・美味(うま)いのか?』


自分に向けられた言葉の意味も良くわからないまま、俺は頷いた。

桐山は首を傾げて、赤く塗られた爪先を眺めている。

殆ど無意識に、俺は体を前に乗り出して、桐山との距離を詰めていた。

それに気づいた桐山が視線だけをこちらに向けた。

腕を伸ばし、その首へ縋るようにして俺は抱き付くと、そのままキスをした。


空を抱くようにしていた桐山の腕が、俺の背中に回される。

腰を抱き上げられ、体ごと床の上に押し付けられた。

夢中で唇を重ねる。

舌を絡め取られ、きつく吸い上げられると、体の奥がじんじんと疼いた。

血液が沸騰したように、体中が熱い。

こんな風になるのは初めてで。

もう、どうにかなってしまいそうだった。

漸く唇を離すと、俺はすっかり息が上がってしまっていた。



『・・・な、ボス。エッチしよ・・・?』



笑ってそう言った。

多分俺は今、情けない顔をしている。

女みたいな、売春婦みたいな顔をしているのだろう。

それでも、羞恥心は無くて。

只々、無性に桐山が欲しいと、それだけが俺の頭の中を占めていた。


桐山は黙って、俺を見下ろしている。

変わらない、冷たくて静かな瞳。

何も彼も見透かされてしまうようで、それが怖くて。

俺はもう一度、自分から桐山に口付けた。

胸元に冷たい掌が触れ、その冷ややかさがまるで、俺を詰っているようだと感じた。










俺はその日、赤い爪をした桐山に抱かれた。





















『あらぁ、落としちゃたの?綺麗だったのに』


次の日、元通りになった桐山の爪を見て、月岡はさも残念そうに不平を述べた。

頭に来て文句を言ってやろうと思ったけれど、何だか後ろめたくて、結局俺は何も言えなかった。

その上。


『また塗って貰おうか?』


などと、桐山が耳打ちするので、俺は赤くなって俯くしか出来なかったのだ。



















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