| 齧る男 |
コンポから流れる音楽を聴きながら、充は自分の斜め右後方に座っている桐山に視線をちらりと遣った。 ここは充の部屋で、そこに桐山が居る。 そして、こうなってしまった原因の日──つまりは、始まりの日について、充はぼうっと考えていた。 それは何時の日だったのか、そんなこともう、忘れた。 俺はその日、普通に学校へ行った。 途中でフケもしないで、珍しく全ての授業を受けてから、何の予定もないまま家に帰ろうとしていた。 帰り道でボス──桐山と二人、言葉も交わさず、ただ黙って歩く。 桐山が無口なのは、いつものこと。 自分もその日、何故か無口だったと思う。 特に理由があったわけじゃない。 ただ、なんとなくそんな気分だった。 誰にでもそう言うことってあるだろ? 道が二手に分かれるT字路で、俺は一旦足を止め、桐山に向き直る。 『じゃな。俺ん家こっちだから』 家が逆方向に位置するため、学校から近いこの道で、いつも俺達は別れる。 俺は左の道を。桐山は、右。 いつもだったら黙って頷くか、『ああ』とだけ言う桐山はその日、何も言わず俺を見ていた。 俺はそんな桐山を少し不思議に思いながらも、そのまま踵を返した。 『充』 耳に馴染んだ声が俺を呼んで、振り返る。 別れ際に、桐山から声を掛けてくるなど、初めてだった。 視線をそちらに向けると、静かな瞳が、俺を見据えていた。 普段から無表情の桐山から、一体何を考えているかなんて、到底読み取れない。 『何?ボス?』 『これから、お前の家に行ってもいいか?』 返ってきた答えは、思いもしないものだった。 俺は唖然として、混乱した思考回路のまま、『別にいいけど・・・』と返していた。 それが、『あの日』起こった事の始まり。 そして、『あの日』から全てが変わってしまった。 本当は何ひとつ変わっていないのかもしれないけど。 俺の中では、確かに何かが変わってしまった。 家に桐山を招き入れる。 何だか無意味に恥ずかしかった。 一戸建てとはいえ、『屋敷』と言えるような家に住んでいる桐山にはさぞ小さく思えただろう。 両親は二人とも家にいなかった。 父親は仕事が忙しく殆ど家に寄り付かなかったし、母も仕事を持っている上、趣味の多い人で しょっちゅう家を空けていた。 別に家族仲が悪いわけじゃない。 ただ、疎遠なだけだ。 自分の部屋に桐山を入れるのは、更に恥ずかしかった。 少し(いやかなり)散らかっていたから。 桐山は雑然とした室内に入ると、さして気にした様子もなく空いているスペースに腰を下ろした。 コーヒーを煎れると、ひとつだけある机の上に置く、(その机の上も物が散乱している)桐山は マグカップを黙って受け取った。 コンポにお気に入りのMDをセットし、電源を入れる。 音が大き過ぎたので、音量を少し下げた。 桐山は黙って、その辺に置いてある雑誌(バイクか車の雑誌だと思う)を手にして 静かにページを捲っている。 俺は何だか落ちつかなかった。 何故桐山は、唐突に自分の家に行きたいなんて言い出したのだろう? 桐山はお坊ちゃんだから、庶民(自分で言ってて情けない)の生活に興味があったのだろうか? それとも、ただの気紛れ? 良く、わからない。 やはり、桐山和雄と言う男は不思議だと、思った。 暫くして、俺は手にしているマンガ本に視線を落としたまま、すっかり冷めたコーヒーに口を付けた。 その時。 不意に、背後に気配を感じた。 『あれ?』と思った次の瞬間、左耳に何か硬い物体が、触れた。 身体がびくっと硬直して、俺の手から、まだ中身の残っているマグカップが派手な音を立て落ちる。 床にコーヒーが散らばり、みるみる内にカーペットへ黒いシミを作った。 何が何だかわからず、目だけをそちら──左耳の方へ向けると、いつの間に移動したのか 桐山がそこに、居た。 そして視界に映った光景は、俺の頭を更に混乱させるものだった。 視線の先の桐山が──俺の耳を、噛んでいた。 なに、コレ? 何でボス、俺の耳なんか噛んでんの!? 幾つもの疑問符が俺の頭を駆け巡ったが、身体は固まって動かない。 その上、桐山が耳を噛む力を強めたので、俺の思考はそこで強制的に停止した。 『ん・・・・、痛ッ・・・!』 『充』 じんじんと、鈍い痛みが耳朶から広がる。 殆ど唇を押し付けられるように囁かれた自分の名前に、身震いした。 耐え切れず、俺は無意識の内に、その場から逃げようと身を捩った。 しかし桐山は、身じろぎした俺の肩に手を置くと、易々とその動きを制してしまう。 『ちょっ、と、ボス。な、なにして・・・』 やっとのことで俺は言葉を発したが、それは桐山に対して、何の効果も果たしてはくれなかった。 桐山は無言のまま、俺の肩に置いた手を今度は腰に回すと、強引に身体を引き上げ、 近くにあるベットの上へ押さえつけた。 『うっ・・・わ!!』 一見華奢に見える身体のどこに、そんな力があるのか。 組み敷かれたまま、俺は怯えながら桐山の顔を見上げる。 いつもの無表情な顔が、俺を見下ろしていた。 すっと屈み込んだ桐山が、自分のYシャツのボタンを外しに掛かったことで、俺は漸く 桐山がこれから自分に何をしようとしているのか、その意図を、理解した。 考えるより先に、身体が動いた。 自分の服に手を掛けている桐山の腕を振り払うと、逃げるようにそのままベットの上方へずり上がった。 『なんで・・・っ!ボス・・・』 『・・・・・・』 『なんで俺にこんなことすんだよッ!!』 今にも、泣き出してしまいそうだった。 尊敬してるのに。 ボスは俺の誇りなのに。 裏切り者。 ひとでなし。 酷い──こんなの、あんまりだ。 睨み付ける俺の視線を正面から受け止めて尚、桐山は静かな目をしていた。 『してみたいと、思ったから』 俺の問いに対して桐山が出した答えは、至極シンプルなものだった。 絶句して、それでもその場から立ち上がろうとした俺の腕を、桐山は静かな動きで掴む。 そのまま強く引かれ、再度シーツの上に身体を縫い留められた。 『充は嫌なのか?』 至近距離で囁かれた言葉に、全身の力が抜けて行く。 怒りや悲しみより、諦めが勝った。 きっと、抵抗しても無駄だ。 『嫌だ』と言えば、桐山は何もしないだろう。 けれど。 それも、結局無駄なこと。 変わってしまった自分の心を元に戻すことなんて、出来ない。 無駄。何もかも、無駄。 黙っているのを肯定と受け取ったのか、桐山は俺に顔を寄せると口付けた。 俺はその時にはもう、考えることを放棄していた。 だから、その後のことは、良く憶えていない。 ただ──いつもオールバックにしている桐山の髪が殆ど顔全体を覆うように垂れ下がって、 その隙間から覗いた冷たい瞳が、ずっと自分を見ていたことだけは、憶えている。 まるで作り物みたいに、綺麗だった。 『その日』から、何かが変わった。 それから時々、桐山は俺の家を訪れるようになった。 何もしない時もあれば、されることもある。 桐山への尊敬の念が消えたわけじゃない。 あんなことをされたからと、軽蔑しているわけでもない。 以前と変わらず、俺は桐山和雄が好きだった。 ただ、『何か』が確かに変わったのだ。 それを、哀しいと、思う。 時折、無性に泣きたくなる。 そして今──桐山は充の部屋に居る。 コンポから流れるBGM。 冷めたコーヒー。 背後に気配を感じて── それから。 お馴染みになった、あの、感覚。 それは合図だ。 桐山からの、合図。 軽く耳を噛まれ、鼓膜に甘く響く声で、『充』と名前を呼ばれる。 ──ああ。 充は目を伏せると、小さく息を吐いた。 |
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