| 花散らしの雨 |
黒い傘がくるりと回った。 灰色の雨が はたはたと降っている。 傘の持ち主は少年。 彼は 一本の木を見上げている。 昨夜見た姿を 思い出しながら。 同じ木を 見上げている。 けれど。 散った。 すべて 全て散ってしまった。 ぬかるんだ地面。 そこに斑模様を作る 花びらの残骸。 踏んでみる。 花の欠片が泥にまみれた。 少年の予感は当たったのだ。 朧がかった、半分だけの月が夜空に吊るしてある。 夜の黒に、黄金色(きんいろ)が滲んで暈やけていた。 星は見えない。 空には月以外、多分何もない。 そんな夜に、ふたりは見つけた。 『あ・・・』 沼井充は、そう呟いて足を止めた。 それに気付いて、少し先を行っていた桐山和雄は振り返る。 前を向いていた充の首が、左に傾(かし)いでいた。 同じ方向に首を曲げると、そこは空き地だった。 さして広くもない敷地には、青いビニールシートを被せた建築資材が置かれている。 その奥に、桜が一本だけ植わっていた。 満開のように見えた。 充の視線は真っ直ぐに、その場所に縫い止められている。 『ちょっと見てっていい?』 そう尋ねてきた充に、桐山は頷く。 拒む理由など、端から持ち合わせていない。 小走りに桜へと近寄る充は、土から食み出した木の根に躓いた。 バランスを崩した体を支えようと、充は咄嗟に、目の前の幹へと手をつく。 その振動に、はらはらと花びらが彼の上に振ってくる。 小さな螺旋を描いて落下する花びらに、充の目は奪われていたが、 少し間を置いた場所に立つ桐山の視線は、花びらを追う充の位置で止まっていた。 桐山はゆっくりと瞬きをして、それからやっと、頭上の桜に目を遣った。 張り出した枝という枝に、薄紅色の花が咲き乱れている。 花房の形状からして、これは彼岸桜だろうかと、そんなことを桐山は思う。 朧月夜で星もない暗い夜なのに、何故だか桜の姿はくっきりと浮かんで見えた。 網膜に滲むようで、眩しい。 目線を黒い空に移してから、再び充へと戻す。 依然として充は、ぼうっと桜を眺めていた。 その瞳の中に、桜色が溶けている。 口許が笑みの形を取り、小さく動く唇に、洩れる呟き。 『夜の桜って、何だかボスみたいだ』 充はそう言った。 その言葉に応えるように、ざわざわと桜は揺れて、彼の頭上に沢山の花びらを降らす。 それは、まるで雨のようだった。 満開だと思った桜。 けれど、違ったのかもしれない。 多分、花の盛りは過ぎているのだ。 その証拠に、ほら。 たったあれだけの風で、こんなにも花びらが。 充はどこか恍惚と、そして呆然と花の雨の直中に立ち尽くしていた。 両腕が、花びらを受け止めようと、体の前に伸びる。 そんな充へと、薄桃色のそれが、容赦なく降り続けた。 はらはら。 はらはらと。 髪に 肩に 掌に 掠めるようにして触れる、花片たち。 それを桐山のようだと、充は確かに言った。 充の視線がふっつりと桜から切れて、桐山へと向けられる。 そして、にっこりと笑う。 その表情は、見慣れたいつもの顔だった。 『ボス』 そう言って、自分に向かい歩いてくる充の足許に、桐山は目線を落とした。 彼が一歩踏み出すごとに、花びらがその足に踏み躙られてゆく。 やはりあれも、俺のようなのだろうかと、桐山はぼんやりと思った。 再び夜の住宅街を、ふたりは歩き出す。 もう、あの空き地も、桜の姿も見えない。 『桜、スゲー綺麗だった』 『・・・そうか』 『夜桜見物なんて、ちょっと風流って感じだったろ?』 喋りながら、顔を覗き込んできた充の姿が、桐山の視界の中に入る。 その肩に、桜の花びらが一枚乗っているのを、桐山は見つけた。 手を伸ばし、それを取ろうとした桐山より先に、春の夜風が花びらを攫っていった。 通り過ぎた風は、雨の匂いがした。 ──ひと雨来るか・・・。 そうしたら、その雨はきっと。 花散らしの雨になるだろう。 |
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