不本意ながら、ありがち







【うがい、手洗いを忘れずに】


冬になると良く耳にするフレーズだ。

今更になって、そんな言葉を思い出してみる。

本当に、今更だけど。





俺、──沼井充──は、熱を出して寝込んでいる。

世間で大流行中のアレ、インフルエンザにかかってしまったからだ。


始めは、ちょっと喉が痛いだけだった。

一晩寝れば治るだろうと高を括っていた俺の楽観的な予想は、外れることになる。

朝になって目が覚めた俺に待ち受けていた現実は、真冬だというのに寝汗で

湿っぽくなったパジャマと、少しぐらつく重たい頭。おまけに、昨夜よりも酷い喉の痛みだった。

良くなるどころか、見事に悪化していた。


俺の具合が悪いことがお袋に知れると、インフルエンザや風邪が流行っていることもあって、

病院に行くようにしつこく促された。

俺としても早く治すに越したことはないと思っていたので、保険証と診察カードと金を手に、

近所の町医者にひとりで行ったのだった。

そして、俺がガキの頃から世話になってる掛かりつけの医者に、

「インフルエンザ」だと診断を下された訳である。





情けねぇ。

貰った薬を飲んでおとなしくベッドに横になっていた俺は、溜め息を吐きながら寝返りを打つ。

その拍子に、お袋が用意してくれた氷枕が、頭の下でカラカラと音を立てた。

冷たくて気持ちいいけど、でも。

いつも親に反抗して迷惑を掛けてばかりいる自分が、幾ら病気だからといって、

こんな風に労われることに、居た堪れない気持ちになる。

本当なら、俺には親に看病して貰う価値も権利もないはずなのだ。


ああ、思考が碌でもない方に向かってる。

だから病気になるのは嫌なんだ。

体が辛いだけじゃなく、気持ちまで弱くなるような気がするから。


苛々から気を紛らわすためにケータイを手に取る。

“体調悪いから今日は学校休む”と仲間にメールを送っておいたせいか、

からかい半分の、心配してるのかそうじゃないのか判然としない内容の返事が、何通か来ていた。

思わず苦笑する。あいつららしいや。

溜まっていたメールに目を通してから、ケータイを元の位置に戻す。

一応桐山にもメールを送っておいたのだが、彼からの返事はなかった。

そうだろうと予想はついていたので、いちいち落胆したりはしないけれど。


布団を首元まで掛け直して、ゆっくりと瞼を閉じる。

横向きに寝ているせいで冷えた右耳とは対照的に、眼球が熱かった。

熱が出てきたのかもしれない。

熱を測ろうと、枕元に置いてある電子体温計を手に取った処で、玄関のチャイムが鳴った。

パタパタと廊下を歩く足音に次いで、玄関を開ける音がする。

会話の内容までは聞き取れないけれど、訪問者に応対するお袋の声が、

二階の俺の部屋にも微かに届いていた。


階下の遣り取りに気を取られて動きを止めていた俺は、

手にしたままだった体温計を腋の下に差し込む。

起こしていた上体をベッドの上に戻すと、玄関の閉まる音が耳に届いて、

家の中は前を同じ静けさを取り戻した。

しかし、直後に聞こえてきた階段を上ってくる足音に、俺は首を傾げる。

徐々に近くなる足音が、耳慣れた母親のそれとは違っていたからだ。


俺の部屋の前まで来ると、足音は止まる。

そして、ゆっくりと開いたドアの向こうにいたのは、驚いたことに桐山だった。





「・・・ボス、なんで・・・」


出た声は、少し掠れていた。

インフルエンザで喉をやられているせいだけじゃない。吃驚していたのだ。


「見舞いに来たんだ」


思ってもみなかった言葉に、俺は目を丸くした。

桐山が病気見舞いをするなんてことは、俺の想像の範疇外だったから。

しかし、驚いて呆けている場合じゃなかった。インフルエンザは人に伝染(うつ)るのだ。

俺と一緒にいたりしたら、桐山までインフルエンザになってしまうかもしれない。


「・・・わざわざ来てくれて何だけどさ、俺、インフルエンザなんだ。

伝染るとマズいから、早く帰ったほうがいいよ」

「気にするな」


気にするなって言われても。

桐山の返答に困惑していると、服の内側でピピッと電子音が鳴った。

検温終了のアラームだ。唐突な来訪者に驚いて、熱を測っていたのをすっかり忘れていた。

取り出した体温計には、デジタルの数字で「38・2℃」と表示されている。

やっぱり熱、上がってるよ。さっき測った時は38℃なかったのに。

はっきりと数字で自分の体温を確認した途端、悪寒が強くなったような気がした。

俺が手にしている体温計を桐山が覗き込もうとしたので、見易いように表示画面をそちらに向けてやる。

それを見た桐山が、「熱が高いな」と当たり前のことを口にした。


そして桐山は、持参した鞄を開いて中から何かを取り出している。

鞄から現れたのは、掌に収まるほどの大きさの、白い紙箱だった。

桐山はその箱を手にしたまま、俺が横になっているベッドの端に腰掛けた。


「薬だ」

「薬なら、病院で貰ったけど・・・」

この薬は、今流行している型のインフルエンザの特効薬なんだ」


その後に続いた桐山の説明によると、桐山が持参した“特効薬”とやらは、

一般には殆ど出回っておらず、入手困難な薬なのだそうだ。

何でも、爆発的に増え続ける患者の数に、生産量が追いつかないのが原因らしい。

確かに、話の途中で確認した箱の中の薬は、俺が病院で出された薬とは違うものだった。


「お前が体調を崩したと聞いて、大方インフルエンザにでもかかったのだろうと

見当をつけていたから、薬を持ってきておいたんだよ」


最後にそう付け足して、桐山は話を締めくくった。


俺は不思議な気持ちでいた。

わざわざ俺のために、入手困難だという薬を手に入れてくれたのだろうか。

俺の体を気遣ってくれてるのか、それともいつもの気まぐれか。

どういう理由にしろ有り難いことに変わりはないのだから、ここは素直に喜んでおくとしよう。

俺は気怠るさを振り払い、自分を見下ろしている桐山に笑顔を向けた。


「・・・ボス、ありがとな」


桐山は何も言わず、俺に向かって腕を伸ばした。

指先が繊細な動きで前髪を掻きあげる。擽ったさに、俺は首を竦めて目を閉じた。

熱を持った額に押し当てられた桐山の冷たい掌は、とても心地好い。

暫くその感触を味わっていたが、俺の熱で桐山の掌が温(ぬる)くなってきた頃に、

それは額から離れていった。

少し残念な気持ちで瞼を開けた俺は、思ったより桐山の顔がずっと近くにあったことに

驚いて固まってしまう。


「・・・ボ」

「充」


俺が全部言い終える前に、桐山が俺の名前を呼んだ。

更に無表情が近付く。俺は咄嗟に腕を張って桐山の進行を食い止めた。


「なにするつもりだよ?」


訊くだけ野暮って気がしないでもないが、一応言ってみる。

桐山は二三度瞬きしてから、予想通りの台詞を吐いた。


「キスしたい」


呆れた。

なに考えてんだ、この人。


「駄目だ。絶対」

「どうして?」

「そんなことしたら、風邪感染るだろーが」

「風邪じゃなくて、インフルエンザだ」

「どっちにしろ感染るんだから同じだろ、とにかく駄目だってば!」


桐山の態度に苛ついて思わず声を張り上げたら、頭がくらくらした。

その隙を突いて、桐山が邪魔になっている俺の腕を呆気なく外してしまう。

拙いと思った時にはもう、掴まれた俺の両手首は、シーツの上に縫い止められていた。

動きを封じられた俺は、最後の抵抗とばかりに桐山を睨み付ける。


「・・・俺は、ボスに伝染すなんて嫌なんだよ。ボスに病気になんてなって欲しくない」

「いいんだ」


なんだって?

俺は吃驚して目を見開いた。





「伝染っても、いいよ」





だから──、と桐山が耳元で囁いた。

そんな風に言われたら、どうしていいのか解らない。

金縛りにあったみたいに、俺は動けなくなった。


普段と違う色をした瞳が、俺をじっと見詰めている。

“そういうこと”をしたがっている時の目の色だった。

何があっても無表情は崩さない癖に、桐山はこんな時にだけあからさまだ。


虹彩の模様が解るくらい、黒い瞳が近付いて。

次の瞬間には、長い睫毛に縁取られた瞼がそれを隠してしまう。

発熱している自分の唇より数段低い熱が押し付けられたので、俺は反射的に目を閉じた。


手首を掴んでいた桐山の手は、いつの間にか俺の掌に重ねられていた。

深くなる口付けに合わせるようにして、俺の指の間に桐山の指が絡まる。

頭で考えていたのとは逆に、俺の体は待っていたみたいに、桐山の手を強く握った。

桐山は適度な冷静さを感じさせる動きで、俺の指と掌を握り返す。


息が上がる。

もう駄目だ。

もう、感染るとかそういうこと、考えてられない。


俺が纏まった思考を保てたのはここまでだった。










それから二日後。

結局俺は、桐山がくれた薬のお蔭で、あっと言う間に元の健康体に戻った。

そして桐山はというと。

全く変わりない。健康そのものである。

インフルエンザが伝染らずに済んだのは幸いだったものの、何となく釈然としない。

いっそのこと本当に感染ったほうが、今後のためには良かったんじゃないかなんて、

そんなことまで俺は考えてしまった。





「・・・ボスってもしかして、病気したことないとか?」

「そんなことはない」

「でもさ、こんだけ大流行してるインフルエンザも関係ないって感じじゃん」

「前もってワクチン接種をしていたからな」


さらりと放たれた桐山の言葉に、俺の思考は一瞬止まった。

言葉の意味を理解するにつれ、怒りで顔に熱が集まってくる。

つまり何か、あの時のキスは、感染らないと解った上での行為だったという訳か。

感染ってもいいなんて、覚悟決めたような言い方しやがって。


「・・・なんか俺、騙された」

「?」

「俺はさ、ボスにインフルエンザを感染しちまうって、本気で心配したんだぞ。

伝染る心配がないんなら、始めっからそう言えよな」

「ワクチン接種はあくまで予防だ。有効ではあるけれど、完全に病気を防げる訳じゃない。

感染する時は感染するよ」


そんなことは当然だと言わんばかりに、桐山は俺に向けて言う。

俺は俯いた。こういう場合、俺は桐山の言葉をどう解釈したらいいのだろう。


「・・・マジで、感染ってもいいって思ってたのか?」


正直言って不本意だったが、俺は訊いた。気になるのだから仕方ない。

俺の質問を受けた桐山は、合わせていた視線を逸らすと、



「どうかな」



と言った。


はぐらかされた。

とういより、またこの男にしてやられたような気がしてならない。

その証拠に、俺の怒りはいつの間にか収まってしまっている。

しょうがないから俺は笑った。

だって完敗だ。笑うしかないじゃないか。


桐山は、そんな俺をちらりと横目で確認した後、眠るように目を閉じた。





















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