緑の夢 2
広大な砂地が広がるヴブ砂漠―― 風によって集められた無数の砂丘―― ――1800年9月 その一角にある小高い丘の上に一人の人間が立ち、遥か砂漠の向こうを眺めていた。ベージュのボタンダウンのCシャツにカーキ色のパンツをはいたすらりと背の高い女性。砂混じりの強い風になびく茶色の巻毛を時折、鬱陶しそうに掻き上げていた。 「ベアトリクス殿、そろそろ行くとしますか。」 ベアトリクスは声のした方向を見やった。そこには一台のホバークラフトが止まっている。リンドブルムで開発されたばかりの、まだ珍しい乗り物だった。中には初老の男が乗っていた。 「はい、ヴァルド先生。」 ベアトリクスはその男にそう声をかけた。 ――ヴァルドと呼ばれた人物 トット先生の古くからの友人であり、地質学の造詣がとても深い学者だった。トット先生の紹介でベアトリクスの願いを聞入れ、今回、ヴブ砂漠へとやって来たのだ。 ベアトリクスはホバークラフトへ乗り込むと、自らが運転をした。目指すは砂漠の中心。そこはかつて、クレイラと呼ばれた樹街があった場所だった。 無数の巨大な根っこの残骸を避けながら、ホバークラフトは前へ前へと進んでいく。上下に揺れるそれは座っているだけで疲労を感じさせいた。 ようやくすり鉢状の巨大なクレーターが見えてきた。ベアトリクスはホバークラフトを止めた。二人は砂漠に降り立ち、穴の淵から下を覗き込んだ。 「かなり深そうじゃな。」 「そうですね。」 「とにかく下へ行ってみないとな。」 「先生、足元にお気を付け下さい。」 「ああ。」 ヴァルドはベアトリクスよりふた周り程小さい。仕事着だろうか、かなりよれよれのハーフブルゾンを着込でいる。分厚い眼鏡と大きな靴、そしてサッチェルバッグを抱えた姿は見ている方が危なっかしく思えた。 比較的緩やかな斜面を選び、足場を確かめながら降りていく。斜面はどす黒い砂が剥き出しになっており、下方には風に流された砂が大量に蓄積していた。砂に足を取られながらも何とか一番下に辿りつくと、休む間もなくヴァルドは地面を掘り始めた。 「先生… どうでしょうか?」 クレーターの土を調べているヴァルドに向って、ベアトリクスは遠慮がちに聞いてみた。ヴァルドは手を払いながら立ち上がり、ふぅーと大きく息を吐き出した。 「ウワサには聞いていたが、これほど酷いとは…」 「何が… でしょうか?」 ヴァルドの嘆息に、不安げに問うてみる。 「負の魔力がですよ。」 「負の、魔力?」 「そうです。これを見てみなされ。」 ヴァルドはバックから小さな苗木が入っている鉢を2つ取り出した。若葉の芽が硬く眠っている苗木の一つを鉢から出し、砂漠の土を入れてまた植え直す。 「こ、これは…」 ベアトリクスは絶句し目を見張った。たった今植えたばかりの苗木はみるみるうちに萎み、枯れだしたのだ。 「ご覧の通りです。この植物は僅かな魔力にも反応しましてな。で、負のエネルギーに触れるとたちどころに枯れてしまうのです。こんな土壌では、ここが砂漠でなくとも植物を育てるのは到底不可能ですぞ…」 完全に枯れてしまった苗木をそっと埋めながら、ヴァルドは呟くように喘いだ。 「クレイラの大樹を一瞬で消し去った古の闇魔法。恐ろしい力ですな、召還獣とは…」 オーディンを呼び起こしたプラネ女王の横顔が、渦巻く黒雲が、激しい閃光が、紫の瞳によみがえる。 異世界の神の化身ともいわれる魔獣オーディン。6本足の魔馬スレイプニールに跨り、大空を縦横無尽に駆け抜け、その手に持つ魔槍グングニールは、たったの一撃で――クレイラを塵へと還してしまった…… あの光景は――忘れたくても、一生忘れる事ができない…… 「では、では、ここは二度と元のようには戻らないのですか?」 それは少し痛みを伴った叫びに、ヴァルドは聞こえた。 「……このままではな。」 「方法が!?何かあるのですか!!」 すがるような隻眼だった。隠していてもしかたがない――その視線にヴァルドは無言のまま頷くと、空の鉢に土を入れ始めた。 「ベアトリクス殿、あなたはたしか白魔法をお使いになりますな?」 「はい。」 「これに癒しの魔法をかけて下され。」 渡された鉢を受け取り、指示通りに癒しの魔法を施す。呪文の詠唱が完成すると同時に鉢の中の土は一瞬青白く光輝き、そして元に戻った。ヴァルドはうむっと頷きながらそれを受け取ると、そこに新たな苗木を植えた。 驚く事に、今度は薄緑の若葉が、伸びだしてきている!! 「土にから負の魔力を取り除く…。それが唯一の方法です。」 「癒しの魔法で、ここの土は元のように戻るのですね!」 この地はまだ完全には死んではいないのだ。だが… 「ですが、鉢植えの中だけならともかく、この広大なクレーター内の土を浄化するとなると…。ベアトリクス殿、とてもじゃないがあなたが一人でやるのは到底無理な話ですぞ。一体何年かかるのやら…。それにたとえ浄化し終えたとしても、ここにあのクレイラのような――人が暮らせるほどの大樹が育つ保証は何もないのですぞ…。」 ヴァルドの言っていることは最もだった。それくらいの事は自分にだって分かる。でも、でも、でも… 「ヴァルド先生…」 ベアトリクスは瞳を閉じ、静かに言った。 「それでも… それでも私はやらねばならないのです…。たとえ、一生かかったとしても…」 それは、8月の初めのできごとだった。 アレクサンドリアではガーネット女王の戴冠式が行われた。バハムートによるアレクサンドリア襲撃以降、正式に式を執り行なうことができなかったが、街の復興も一通りのメドがつき、ここへときてようやく漕ぎ着けることができたのだ。それは単なる形式的な儀式であったにせよ、新たなアレクサンドリアの始まりを告げるのに相応しい――と、民の誰もが思った。 戴冠式は無事に済み、城下町でのパレードに入った。ガーネットは煌びやかな馬車から手を振り、その後にスタイナーとベアトリクスが付き従って警護をしていた。街中の人々が、アレクサンドリアを、世界を救った新女王を祝福するために集まってきている。馬車はゆっくりと進み、大通りに差し掛かった。 その時だった。 警備の目を盗み、人込みを掻き分けて道に踊り出た者が現れたのは―― 真夏の、猛烈な陽射が照りつける最中、長めの外套の裾を引きずった一人のブルメシア人。スタイナーとベアトリクスは驚いたが、そのネズミ族はまだ子供だった。スタイナーは馬車を止め、その子に向かって注意した。 「危ないではないか!下がるのである!」 だが、少年はスタイナーを完全に無視していた。燃えるような深緑の瞳で鋭く睨みつけているのは、暑苦しい顔の騎士ではなく隣にいる美貌の聖騎士の方だった。 「アレクサンドリアの女将軍!」 意を決した少年の高い叫び声が上がった。 「何故、お前はのうのうと生きているんだ!まさか忘れたわけじゃないだろな!お前がブルメシアやクレイラで行ったことを!!」 雷鳴の如く響き渡る。あまりに突然の出来事に辺りは宵闇の如く静まり返った。 「こ、小僧!この、めでたい場で何てことをっ!」 かなりの間を空けて我に返ったスタイナーは、神聖な儀式を汚したこの無礼極まりないブルメシアの少年を摘み出そうと襟足を掴んだ。 「放せ!放せ!放せっっ!」 かわす間もなく、少年はひょいっと簡単に持ち上げられてしまった。手足をバタバタと動かし、顔を真っ赤にして無力な自分を罵るかのように叫び続けた。 「卑怯者ーー!!正々堂々と一対一で勝負しろっ!」 ゲィィーーーンッッ―― 鈍い金属音がこだました。 「大人しくするのである!」 少年の足ゲリを横腹にまともくらい、おもわず本気で掴みかかる。そのことに一瞬だけ躊躇した少年だったが、開き直り、ありったけの敵意を込めて叫んだ。 「ボクをどうする気だ!殺すのか!殺すのかっっ!!特権に寄生しているだけの鉄クズめ!!父さんと母さんと、弟達を殺したように!!!」 その言葉に、さすがのスタイナーも引いてしまった。ようやく駆けつけたワイマールとハーゲンに子供を渡すと、 「まだ子供であるからな…。無用な詮索はせずに、保護者の元へと帰してやるのである。」 それだけ言うのが精一杯だった。疲れた息を吐き出しながら、ちらりと横目でベアトリクスの様子を伺う。 ベアトリクスは一言も言葉を発しなかった。ただ、ただ、その場に立ち尽くし、遠ざかっていくブルメシア人の子供をずっと見つめていた。ざわめきが徐々に小さくなり、皆、何事もなかったかのように装いだす。 「ベアトリクス…」 心配そうにガーネットが声をかけてきた。 「申し訳ありません、ガーネット様…。」 サッと敬礼をする。機敏な動きは、普段と変わらない冷静な女将軍を物語っていた。 内心はともかく、表面上はたしかにそう見えたのだ。 数週間が過ぎた その夜、スタイナーはベアトリクスに呼ばれて彼女の私室へと向かった。 ベアトリクスの部屋には自分の想いを告げたあの夜以来、幾度となく訪ねるようになった。他愛のないことでも、仕事のことでも、昔のことでも、一度、心を通じ合わせた者達には話が尽きることはなかった。そして、時だけがあっという間に流れていく。なごり惜しむ暇すらなく…… コホンッと一つ咳払いをして、部屋へと入った。仕事を終えたばかりのベアトリクスが、自分を待ちわびた様子で立っている。勧められてソファーへと腰掛けると、戸棚の方からグラスが重なり合う音がした。 「ワインでいいかしら?」 「すまないな。で、話とは何だ?」 話したいことがある…。昼食時にそう言われ、スタイナーは足を運んだ。甘い時間ではないことは何となく察しがつき、この男にしては珍しく先に切り出した。 ベアトリクスはワインを注ぎ、スタイナーに手渡した。テーブルを挟んで向かいに座る。だが何故か何も話そうとはしない…。暫くはグラスの中で揺れる液体を見つめていただけだった。ワインはロウソクの淡い光を吸い込んで、琥珀色に輝いている。それは色褪せた遠い記憶のようだった。 やがて、重い口が開かれた。 「スタイナー…。私は軍を辞めます…」 予期せぬ言葉。驚いてスタイナーはベアトリクスの顔を見た。だが、彼女の瞳は合わせることなくワインに注がれたままだった。 「今、何と言ったのだ?」 はっきりと聞こえたはずなのに、もう一度、聞き返さねば気が済まなかった。 「軍を… アレクサンドリアの公務の全てから… 身を引きます。それでスタイナー、私の後をあなたにお願いしたいのです。」 「こんな急に!?何かあったのかっ!!」 怒号のようなスタイナーの問いに、ベアトリクスはワインからも視線を外した。 「言えんのか?」 「……私にはやるべきことがあります。恐らく、アレクサンドリアの土を踏む事はないでしょう。」 「!! アレクサンドリアを出て行く気かっっ!?」 「……。」 苦く淀んだ空気が二人の間を流れた。かなり経ってからようやくスタイナーが搾り出すような掠れ声で言葉を紡いだ。 「覚えているか?ベアトリクスよ… 自分はあの時に言ったはずだ。二度とお前を失いたくないのだと。一緒にガーネット女王をお守りして欲しいのだと…。お前はそれを…」 「忘れるなんて…」 忘れるなんて… そんなこと、できるはず、ないじゃないですか…… 「ならば何故!!」 興奮気味にテーブルの端をバンッと叩いた。ワイングラスが大きく揺れて、中身が辺りに飛び散った。その有り様がかえってベアトリクスを落ち着かせたようだった。 「興奮してすまぬ…。だが、理由も聞かなければ自分も納得がいかぬではないか…」 「ブルメシアに… クレイラに… 進攻したアレクサンドリア兵の殆どは死に絶えました。プラネ様も…。責任ある立場で生き残ったのは、私ただ一人…」 「私はやはり、罪を償わなけれならないのです…」 スタイナーの火照った顔がみるみると青ざめた。先の戴冠式でのできごとを思い出したのだ。 「ベアトリクス!死ねば済むということは決してないぞっ!!」 その言葉に、思わずベアトリクスは自嘲気味に笑ってしまった。スタイナーの早合点も自分を心配してのことだと分かる。しかしそれももう… 「私の命で全てが収まるのであれば、喜んで捧げましょう。ですが、それでは何一つ変わることはないと…。生きている者しかできない罪の償いがあると悟ったのです。それにはアレクサンドリアという国が関わることはマイナスにしかならない。軍を辞めるのはそのためです。」 「なるほど。おまえの言いたいことは分かる、つもりだ。おまえの心情もな…。しかし、先の大戦はお前一人の責任ではない。何もしなかった自分も同罪である。何もかも忘れて楽になることは決してないのだからな…。だがな、こんな時にこそ…」 「こんな時にこそ、自分がいるのではないのか?ベアトリクスよ…。お前一人で背負い込むには、あまりにも重すぎるではないか…」 ベアトリクスはハッとなった。不器用なこの男が、こんなにも自分のことを想ってくれているのかと…。苦しくて切なくて、胸が痛んだ。 だからこそ、はっきりと言わねばなるまい。 「スタイナー、私のことは忘れて下さい…。あなたなら、あなたならきっと…」 「なっ…!?」 スタイナーは息を飲み、話を遮って何かを言おうと口開いた。だが、目の前の起きた光景を見、それ以上は何も言うことができなかった。 ベアトリクスが、泣いて… いる…… 初めて目にした姿だった。自分に厳しく、どんな時でも決して取り乱すことのない誇り高き聖騎士が。涙を流したのである。スタイナーには分からなかった。何故、ベアトリクスは泣くのか… 「どうか、私の分までガーネット様とこのアレクサンドリアを…。もう、あなたにしかお願いできないのです。」 スタイナーも34歳。自分の代わりに将軍という地位に着けば、いつまでも独身という訳にはいかないだろう。家庭を築き公私共に支えてくれる人物が必要だ。夢見たそれは、残念ながら自分ではなかった。もはや己が意した進むべき路は違うのだ。自分の我侭のために彼の未来を奪ってはいけない… それが、ベアトリクスが出した答えだった。 無常にも、時は過ぎ去っていく。 だが、スタイナーの必死の説得もベアトリクスの決意を変えることはついにできなかった。 翌朝 ベアトリクスは 正式に 退役を 願い出た…… |