緑の夢 1





コンコンッ―― 扉を軽くノックする。中から「どうぞ。」と声が聞こえてきた。重い扉を押し開いて部屋の中へと足を踏み入れる。部屋は思ったほど広くはなかった。
左手には丸いテーブルと椅子が4つ並べてある。正面には大きなガラス窓。細かく編まれたレースのカーテン越しに入ってくる陽の光は室内を明るく照らしている。部屋の右には鏡の付いた化粧台とサイドテーブルがあり、一人の女性が静かに座っていた。真っ白なウエディングドレスに身を包みベールを被っている。


ベアトリクスだった。






「ガーネット様。」
 鏡越しに姿を見とめたベアトリクスは立ち上がり、黒曜石のような髪を持つ若き女王の方を顧みた。
「あっ!ベアトリクス、そのままでいいわ!コルセットは重いし歩きづらいからね。」
 こんな時でも律儀に臣下としての礼をほどこそうとする彼女に対し、ガーネットは慌ててそれを制する。
「申し訳ございません、ガーネット様。」
「別にあやまることなんてないわよ。座ってちょうだい。」
「はい。」
 ベアトリクスはその言葉に甘え椅子に座り直した。そんな彼女の傍へとガーネットはゆっくりと歩み寄っていく。
「とても綺麗だわ、ベアトリクス。スタイナーが見たら何て言うかしら?」
 感嘆めいた声。少し恥ずかしそうにうつむいてそれを聞いていたベアトリクスだったが、小さく、小さく言葉を返した。
「ありがとうございます、ガーネット様…。 ですが、私はもう若くはないですし…」
「そんなことないわ!!」
 刹那にガーネットは言葉を荒げて否定した。そのあまりの口調ぶりにベアトリクスはおもわず顔を上げ、見つめ返してしまった。
「そんなことないわよ、ベアトリクス…。今日のあなたは私が今まで見てきた中で一番綺麗だわ…」

実際、ガーネットは本当にそう思っていた。5月の柔らかな陽の光は純白のドレスをより一層輝かせ、明るい茶色の巻き毛は白地によく映えた。でも一番美しく見えたのはベアトリクス自身だった。内面から滲み出る輝きは眩しいくらいに思えたのだ。
「本当に… 羨ましいくらいよ。」
「ガーネット様…」
「あ、そうそう、ここに来る前にスタイナーにも会ってきたの。」
 少し気まずくなった空気を静めるかのように、先刻見やった光景を口についた。そのことを察しベアトリクスもそれ以上は何も言わなかった。それに自分以上に落ち着かないであろう、もうすぐ夫となる角張った男のことがやはり気になっていたのだ。
「どんなでしたか?」
「ふふ。面白いのよ。スタイナーったらもの凄く緊張して、まるで氷の洞窟の壁のようにカチコチに固まっていたの。あの様子だとちゃんと歩けるかしら?右手と右足が一緒に前に出るんじゃないかって心配だわ。」
 そんな様子を思い出し、くすくすと笑いだす。
「でも、本当に嬉しそうだったわ。」
「あの人には、本当に…。 こんな私でも、ずっと待っていてくれて……」
 ベアトリクスの言い表せないもどかしさ。そんな彼女の気持ちを汲み込んでか、ガーネットはきっぱりと言い放った。
「私がスタイナーだとしてもやっぱりあなたを待っていたと思うわ。それはベアトリクス、もちろんあなただからよ。」



トントンッ―― 勢いよく扉を叩くを音がこだました。二人は同時に振り向いた。「どうぞ。」ベアトリクスが先ほどと同じように声をかける。扉が開いて中へと入ってきたのは背の高い青年だった。グレイのダークスーツに身を包み、輝く金色の髪と茶色い長いシッポが一際目を引きつける。
「やっぱここだったか!ダガー!」
「ジタン。ひょっとして私を探していたのかしら?」
「まあな。」
 目当ての人物を見つけて、ジタンは安堵の息を吐き出した。
「ごめんなさい。ひとこと言っておけばよかったわね。」
「いや、別にいいさ。」
 ニヤッと余裕の表情で笑うと、ベアトリクスの方に体ごと向き直す。
「おめでとうな、ベアトリクス。」
「あなたもありがとう、ジタン。」
 ベアトリクスは静かに微笑んだ。紫水晶のような左目と、怪我の為にその色彩を失ってしまった薄銀色の右目が柔らかい笑みを湛えている。ジタンは改めてベアトリクスを見やった。そんなドレス姿の彼女に思わず見惚れてしまう。そういえばベアトリクスのドレス姿を見たのはこれが初めてだったような気がする…。
「う〜ん。やっぱあのおっさんには勿体無い気がするなぁ…。考え直すなら今の内だぞ、ベアトリクス?」
 あごに手を当てながら冗談というよりかなり本気っぽいジタンの言葉に一瞬、時は止まり、そして3人のそれぞれの笑い声が同時に広がった。何とも言えぬ穏やかな時の波紋が広がる…

「さて、そろそろ時間だし皆も集まっているからな。行くとするか?ダガー?」
「そうね。じゃあベアトリクス、また後でね。」
「はい。お二人共、ありがとうございました。」
 ベアトリクスはそっと頭を足れた。ジタンは軽く手を上げて返すと、ガーネットを促し部屋の外へ出ていった。





右へと折れて列席者の席へと歩き出す。 廊下の窓から樹々の合間を縫って光りが漏れていた。瑞々しい若葉が目に飛び込み、静寂な空気が長い石の通路に漂っている。
「でも、よかったよなぁ。今日がこんなにいい天気でさ。」
「そうよね。昨日までは雨が続いていたしね」
 ここ暫くは遅い春の嵐がアレクサンドリアに吹き荒れていた。しかし今日は、嵐が夢だったかのように晴れ上がっている。
「天も二人を祝福してる… って訳か…」
 呟きながらジタンはふと立ち止まった。窓越しに空を見上げると雲一つない貫けるような高い青がそこにはあった。ガーネットも一緒になって見上げ出す。
「絶対にそうだと思うわ。」
「そうだな。長かったもんな、あの二人…」
 数え切れないほどのできごとがあった。自分達は最後までそれを見届けてきたのだ。
「幸せになるわよね?」
「俺達みたいにか?」
 自信ありげなコバルトの瞳が真っ直ぐに向けられた。包み込むような笑顔での問いにガーネットはジタンの長い腕に手を回し、甘えるように頭を預けた。
「そうね…。私達と同じように…」


スタイナーとベアトリクス。今日という日が来るのにどれだけの時が必要だったのだろうか…。ジタンとガーネットは彼方を見つめながら願った。あの二人にとって今日という日が本当に素晴らしい、特別な日になるように… と……







――1807年5月

澄みきった空気は果てなく突き抜け、薄緑の風を作っていく。

その日、アレクサンドリアにある森の外れの小さな教会で、一組の男女がごく親しい人達の祝福を受けながら結婚式を挙げようとしていた。


スタイナー41歳 ベアトリクス35歳



この二人が初めて出会ってから、実に20年の歳月が流れようとしていた……