緑の夢 7







路が あった





砂の路  風の路  水の路  花の路

月の路  星の路  陽の路  空の路




一体、いくつもの路があるのだろうか。それは大樹の枝のように別れていて、どこまでも細く長く続いている。そして一本の大きな路へと繋がっていく。




理の路





その路は何故か通ることのできない路だった。今はただ、細くて狭い、名もなきこの路をひたすら走っている。まるで駿馬のように尾花を揺らし、群れの先頭をどこまでもどこまでも走り続けてゆく。




理の路へと行くために…






振り返ってはいけない
路を見失ってしまうのだから


振り返ってはいけない
金のたてがみが靡かなくなってしまうのだから



振り返っては いけない…




涙が零れ落ちて しまうのだから…







1806年7月



白く輝くクレイラの大地に




緑の大樹が蘇った


















――10月

ベアトリクスは未だクレイラに残っていた。確かにクレイラの樹は蘇った。だが、だからといってそれで終わりという訳にはいかなかった。
 月の光で育った魔法樹が、月の周期の違いによってどのような影響を受けるのか。少なくとも64日間、昼と夜とをそれぞれに観察する必要があった。樹はもう劇的に変化することはなかったが、それでも少しづつ成長していた。昼間は樹の神官であるウィランを中心に、夜は自らが担当した。

昼に最も近づく太陽は、夜は最果てへと去ってしまう。
足跡が見えなくなるほどの神秘的な夜の砂漠は感覚を麻痺させ、空気が凍りつき、見えぬ右目の奥深くに突き刺さってきた。
夜の仕事はそれほどに大変だったが、もはや辛いとは思わなかった。これがクレイラに於ける最後の仕事。

終わればアレクサンドリアに、自分を待っている人の元へと帰れるのだ。





後にヴァルドは授戒する。

クレイラの魔法樹は促す魔力と陽の光によって発芽する。芽は実に蓄えられた養分でのみ成長し、術者の魔力の強弱は成長には関与しない。幼樹からそれ以上育たなくなるのはそのためだ。
幼樹は自身では養分を吸収できないため、夜になると枯死してしまう。成長も早いが、枯れるのも早いのである。
養分の吸収と成長は、特定の月の光の中でしか行われない。一旦成長を始めると一気に成樹へと変化する。成樹となった樹は自ら養分を作りだし、以後は緩やかに成長を続ける。


















「この小屋ともお別れね…」
きしむ床板を踏みしめて、がらんとした部屋の中を見回した。右から視線を移すと、本棚と机があり、中央にはミーティング用に使われたテーブルとソファーが黙然と並べられ、最後は西日が差し込む出窓にあたった。奥は炊事場と狭い寝室とに別れている。
6年間住んだ小屋。自分の家や城での寄宿とはあまりに違い過ぎた粗末なプレハブ小屋だった。ここに来た時はアレクサンドリアへと帰ることなど何も考えてなくて、只ひたすらに一日を過ごしたと思う。
大きな荷物はまとめて整理し、先にトレノの実家へと送った。この小屋はクレイラの観察を続けるブルメシア人達へと引き継がれることとなった。



ここには何もなかった。
本当に、何もなかった。
あるのは、爛れた砂だけだった。



陽は焼き焦がし、流砂が襲い、風は叩きつけ、雨は濁流となって全てを呑み込む。
汚染された砂は体を蝕んだ。負の魔力の影響は、それ程までに凄まじかった。
ただ一撃のその一瞬に奪い去っていった者のその痕は、あまりに多くの力と時を欲して止まなかった。それでも――

それでも、自分は、この砂漠で、
代わることのできない物を得ることができたのだ。

様々な想いが入り混じった長き再建の日々は、その全てが終わった…


小さなボストンバッグにそんな想いを詰め込んで、ベアトリクスはもう一度部屋を見つめた。
「今まで、ありがとう。」
バッグのファスナーを閉めながらそっと呟くと、立ちあがって外への扉を押し開けた。
ギィィーという音だけが部屋の中でこだまし、カタンッ扉が閉まる小さな音が背中の向こうで鳴り響いた。

そして、そのまま振り返りもせずに
飛空艇の発着所へと歩いていった。










暫くしてアレクサンドリアの街にベアトリクスの姿があった。

スタイナーは湖の辺に屋敷を構えた。それほど大きな屋敷ではなかったが、静かで広いその庭をベアトリクスは好んだ。

春になればきっと、幾種類ものの見事なバラの咲き誇る庭となるであろう…

























――1807年4月


砂漠には柔らかな緑の風が吹いている。クレイラの大樹は自身を大きく揺らし、風向きを変えた。
半年ぶりに訪れたクレイラの大地は、控えめな慈悲深さで迎え入れてくれた。


「おねーーーちゃん!」
樹の上から声がだんだんと近づいてくる。高い梢の向こうから姿を表したのはルアーズとルイーゼだった。
スタッ! 軽々と地面に着地したかと思うと、息を弾ませてすぐさまベアトリクスに抱きついてきた。
「久しぶりね。ルアーズ、ルイーゼ。元気だった?」
「うん、元気だよ!おねえちゃんは?」
「私も元気よ。」
 すっかり陽に焼けて腕白な男の子になったルアーズは、息を弾ませながら父親譲りの明るい髪をすり寄せた。
「およめさんの準備はもうできているの?」
「うん…。出来ているわ。」
 ルイーゼのおしゃまなその問いに、ベアトリクスははにかんだ笑みで応えた。
「ところで二人とも、もう樹の天まで登ったの?」
『うん!登ったよ!もっちろん!』
 そんなのは朝メシ前っと言いたげに、二匹はシッポをピンッと張りながら樹の上の世界について話しだした。
「すごいんだよ!お空がね、目の前にあってね、海も見えるんだよ!」
「お家も見えるよね!あーちゃん!」
「うん。王さまのお家も見えるよ!お父さんとお母さんも見えるよ!」
「本当?それは凄いわね?」
 その大げさな話につられてベアトリクスもつい、大げさに聞き返してみる。
「ホントだってば!
あっ!そうだ、おねえちゃん!ぼくね、木の上ですごいものを見つけちゃったんだ!ね、いーちゃん。」
「うんっ!あーちゃん。」
「何を見つけたの?」
『う〜〜〜んっと…』
 二人は顔を見合わせて勿体ぶっていた。本当はこんな凄い発見は二人の秘密にして誰にも教えたくないけど… だけど、誰かに無性に話したい!!そんな葛藤のあとに、ベアトリクスの様子をすごすごと上目がちに伺う。
「あのね、これはね、ぼくといーちゃんだけの秘密だけどね。」
「おねえちゃんだけなら教えてあげてもいいよ。」
『でも、絶対にないしょだからね。』
「分かったわ。」
『お母さんにもないしょだからね。』
「約束するわ。」
ベアトリクスは二匹のヒソヒソ話に耳を近づけた。ネズミ族の長い灰青色の耳が前に傾いて「絶対の約束のだよ!」と言っている。「分かりました」と、二回頷いて返事を返すと、ルイーゼがこしょこしょと口ごもりながら、ベアトリクスの顔に近付いた。

「あのね、木の一番上の枝にね、お花のつぼみがあったんだよ!ぼくが見つけたんだ!」
「つぼみ?クレイラの、樹の?」
ベアトリクスはおもわず驚きの声を出してしまった。以前のクレイラの樹は老齢のためか砂の侵食のためか、花が咲くことは殆どなかったという――ウィランからそんな話を聞いたことがあったからだ。
驚きの反応に大満足して、子ネズミ達は話を続けた。
「うん。それにね!すご〜く大っきいんだよ!」
「こ〜〜んなだったよね?あーちゃん!」
ルイーゼは両手を目一杯に広げて大きな輪っかを描いてみせた。
「あら、そんなに大きいの!?だったら花が咲いたらもっと大きくなるわね?」
『だーかーら〜、すっごく大きい花になるんだよ!』
「そうね…。つぼみはたくさんあったの?」
「ううん。1こしかなかった。」
少し残念そうにうつむいたルアーズとルイーゼだったが、「でも、これからたくさん出てくるんだ!」「とってもキレイな花だよ!」と瞳を輝かせて言いきった。

「そうね、クレイラの樹はとっても綺麗で素敵な花で一杯になると思うわ。」
クスクスと微笑んで、ベアトリクスは樹の梢を見上げた。





「ベアトリクスではないか!?来ていたのか!」
 不意に声を掛けられて三人は同時に振り向いた。ルアーズとルイーゼは瞬間に反応してもう、走り出していた。
『お母さん!』
飛びついてきた子供達をフライヤはガシっと抱え込み目線の高さまで抱き上げた。すると、二匹の小ネズミは我先に母ネズミに話をしだしたのだ。
「お母さん!あのねあのねあのねあのね!!」
「何じゃ?」
「あーちゃんがね、さっきすごいもの見つけたんだよ!」
「ほほう。どんな物じゃ?」
「あのねあのねあのね!お父さんには絶対にないしょだからね!」

これでは一体何人が「絶対にないしょの話」を聞くのだろうか。傍らで一部始終を聞いたベアトリクスは思わず苦い笑いを浮かべてしまった。いや、親子というものはこういうものだろう。自分が忘れてしまっていただけかもしれない… 
懸命に同じ話をする子供達と穏やかな瞳でそれを見守るフライヤ。

そんな親子のやり取りが本当に微笑ましくて、そしてほんの少し、羨ましかった。

「よく見つけたな、ルアーズよ。その様子だとあと一月もしたら花が咲くのじゃろう。それよりもおやつじゃ。おまえ達が飛びついた時に形が崩れてないとよいがな…。」
 そう言いながら藤編みバスケットとタオルを子供達に手渡した。
「ちゃんと手を拭いてから食べるのじゃぞ。」
『は〜い!』
 二人は樹の根元まで走っていった。ぽっかりと丸く窪んだ所があり、二人でそこへと座り込んだ。ちょうど子供が入れるくらいの広さで、二人にとっては秘密基地らしい。かなりお腹が減っていたのかバスケットから大きなパイを取り出すと、そのままかぶりついて食べ始めた。

「手を拭けとあれほど言ったのに、まったく…。返事だけはやたらいいのじゃが…」
腰に手を当てながら少し呆れた仕種でぶつぶつと独り言を言ったフライヤだが、くるりとベアトリクスの方を向き
「ここへと来くるんじゃったら、一声くらい声を掛けても良かろう。」
久々に再会した友人の肩を叩きながら、グリーンの瞳に喜びとほんの少し咎めた色を滲ませた。

「ごめんなさい、フライヤ。ただ何となく… 
何となく、独りでこの樹を――クレイラの樹を見たくなったのです。」
誰もいなくなった静寂な砂漠にそびえるクレイラ樹は、どこか今の自分の姿に似ていると…そんな風に感じたのだった。

「なんじゃ?結婚前にナーバスになったのか?」
 ベアトリクスの呟きにフライヤは髪を掻き揚げて問い返した。女だけが持っているある種の鋭い感が働いたようだ。
「フフ、相変わらずの慧眼ね。」
 隠そうともせずに、苦笑だけが口から零れる。
「そう卑屈になるでない。何、女とは皆そんな風になるもの。結婚直前は男が得に優しくなるからのぅ。ベアトリクス。私から見たらお主は本当に羨ましいかぎりじゃ。」
「あなたもそうだったの?フライヤ?」
 話を切り返えしてみたが、相手の方が一枚上手だったようだ。フライヤは一瞬でその意図を見抜き、ニヤリと皮肉な微笑みを浮かべた。

「私は別じゃ。フラットレイ様は特にお優しかったからな。もちろん今もじゃ♪」


「……。ご馳走様。」


さっきのお返しとばかりに、フライヤの肩をポンっと叩いた。そのまま樹に向かって歩き出す。
目の前に樹がどんどんと近付いて…


そっと太い幹に寄りかかった。



ドッ  ドッ  ドッ  



樹の鼓動。規則正しいそれは、小さいが力強く感じた。


もう… 大丈夫……


幾つもの季節が巡ってこようとも大樹はいつまでもこの地に根付き、安らぎを与えることとなるだろう。そして幾つもの命を育むことになるのだろう。だがそれを見届けるのは自分ではない。
「ルアーズ、ルイーゼ。ずっとこの樹を見ていてね。」
 樹のくぼみの中で寝そべっている小ネズミ達に向かって、囁いた。
「うん。ず〜っとず〜っと見ているよ。」
「だってこの木はおねえちゃんの思い出の木だもん。」
「そうね、想いの樹ね。」
「楽しい思い出がい〜っぱいだもんね!」
「楽しい思い出をい〜っぱい作るんだよね!」
 ベアトリクスは思わずしゃがみこんだ。切ない愛おしさに子ネズミを抱き寄せ、その柔らかい髪の毛を優しく頭を撫でる。

「あなた達は楽しい思い出だけを作りなさい。私の分まで…」

その言葉に、二匹は隻眼の女性の顔を不思議そうに見た。ベアトリクスは微笑みを返しながらもう一度樹を見上げた。
クレイラの樹にできた花のつぼみ。一体どんな花が咲くのだろうか?きっと、この樹のように生気に満ち溢れた美しい花に違いない…

たとえ、たった一つしか思い出が残らなかったとしても… いつの日かそれが本当に掛替えのない記憶となる時が来るのだ。自分にはもう十分過ぎた。

後はこの子達に、そしていつか生まれてくるかもしれない子供の為に残していきたい…










そうは思っているのに
そう、思っているのに

何故、こんなにも

こんなにも、心が重いのかしら…?
まだ、何が残っているのかしら…?

私が見にきたのは、
私が見たかったのは、

本当は何だったのかしら…?





そんなベアトリクスの問いにも、クレイラの樹はただ静か揺れていただけだった。



























小さな教会の中は古い絵の中にいるような錯覚がした。

アレクサンドリアがまだ王国として成り立っていない頃から、この森にある教会だった。街の発展とともに新しく立派な教会ができ、ここはすでに教会としての役目を終えていた。寂れた礼拝堂という方が正しいのかもしれない。だが、朽ち果てることもなく今でもひっそりと佇んでいる。
アレクサンドリアの将軍と元将軍の結婚式の場所としては、本当に慎ましすぎた…





ジタンは扉を開き、ガーネットを恭しくエスコートした。

狭い列席者の席は、嘗ての仲間達だけで満席となっていた。
 久々の集まりに笑い声が響き、それぞれの昔話に花が咲いている。その異様に熱い空気に、ジタンは思わずよろけた。
「な、なんだ?式が始まる前からもうできあがっているのか?こいつらは…?」
「そうみたいね…。」
肩をすくめた笑いを堪えながらガーネットは部屋の中を見回した。

「あっ!ダガー!こっちよこっち!!」
 フサァと長い髪を揺らしてエーコが手を振って呼んでいる。



かつての仲間が全員で集まるのは… 7年ぶり…



来月で結婚2年となるのに、いつまでも恋人同士のようにアツアツなジタンとガーネット。
ジェノムの魂から産まれ、すっかりと大きく成長したビビの6人の息子達。
相変わらずやんちゃなルアーズとルイーゼに手を焼くフライヤとフラットレイ。
青金石の髪が美しく靡くエーコは見た目には立派な公女となっていた。ビビの息子達をいつも(無理矢理)引きつれている。
サラマンダーは密かに妻子持ちとなっていた。そのことは黙っていたはずなのに皆にバレているのは一体何故だとブスっと考え込んでいるようだ。
アレクサンドリア城で食の道を教えているクイナは、弟子と一緒に食べまくる日々を送っていた。
トットにヴァルド、プルート隊のメンバー達…


それぞれが、自分達の路をそれぞれに選び、歩んでいった7年だった。





拍手と共に主役の二人が入ってきた。
幸せな笑み浮かべた美しい花嫁と、緊張しっぱなしの冴えない中年花婿の取り合わせがかなりおかしく、皆、笑いを堪えるのに必死だった。一同から熱いキスシーンを要求され、スタイナーはカチコチになりながらもベアトリクスのベールを外そうとした。が、緊張のあまり手が震え、何度もベールが元に戻ってしまった。それを見たジタンがガーネットに囁いた。
「ったく、じれったいな。おっさん。ひょっとしてアル中にでもなったんじゃないのか?」
 ガーネットは微かに笑って囁き返した。
「あたなも同じように緊張してたわ。ジタン…」
「おっさんと一緒にされるのは心外だな。それに、俺は物凄くカッコよかったって言われたぞ?」
ふふん。と、得意げに髪を掻き揚げてみた。
「一体誰に言われたのかしら?そんなこと?どこかの酒場の女かしら?」
「おいおいおいおい…。そんなことある訳ねーだろ…」
「あっ、そろそろ時間よね?外の準備に行った方がいいんじゃないの?カッコイイあ・な・た?」
 にっこりと微笑む美しい妻のその微笑みに、冷たい何かが流れるのを感じたジタンは
「そ、そうだな…。ちょっと行ってくるよ…」
 冷汗を拭きながら、すごすごと外へと向かっていった。

ほどなく式が終わり、新郎新婦を見送るために皆、外へと向った。
暫くして教会から出てきたスタイナーとベアトリクスは、外を見て驚いてしまった。
静かな教会の周りはいつのまにか豪勢に飾り付けられており、大勢の人々で埋め尽くされていたのだ。アレクサンドリアの兵士やクレイラの再建に携わった者達が凄然と並んで道を作っている。

「皆… 来てくれて…」
 ベアトリクスはジタンと並んで歩いてきたキルデアの顔を見て、喜びの声を上げた。
「水臭いですよ、ベアトリクスさん。皆、あなたのお祝いの為なら喜んで駆け付けますのに呼んでも頂けないなんて…。しかたないから皆で押しかけてしまいましたよ。」
はははははっと笑いながらキルデアは二人に祝福の言葉を述べた。
「遠い処からわざわざ、気をつかってくれて… ありがとう、キルデア。」

「そうそう、それにあなたに是非、差し上げたいものがありましてね。」
 キルデアはそう言うと振り返って手招きをした。一人のブルメシア人の青年が進み出てきて深く礼を施す。顔を見ると、まだあどけなさが残っているが強い眼差しが印象的だった。手には枝に付いた一輪の白い花を持ち、ベアトリクスの傍に歩み寄ってきた。

ベアトリクスはそのブルメシア人に見覚えがあった。
しかし、クレイラで会ったことは… ない…

どこでだろう…?
遠い記憶の彼方を探るうちに、青年の深緑の瞳が紫の瞳に焼き付いてきた。


あの光景が蘇ってくる…



7年前、ガーネットの戴冠式でベアトリクスを非難した



あの時の 少 年…



「あなたは… あの時の!」
 ベアトリクスは思わず一歩だけ後退ってしまった。その様子にスタイナーが青年を牽制し、睨み付ける。ベアトリクスはスタイナーに「大丈夫だから」と声をかけると、青年はスタイナーに頭を下げ、ベアトリクスに向って話しかけた。

「僕のことを… 覚えててくれてたんですね…」
「ええ…」
もう少年のものとは違う、少し低い、落ち着いた声。

その声が、やはり意を決したかのように流れ出してきた。

「あの時は 本当に 申し訳 ありません でした…。 僕は自分のことしか考えていていなくて あなたのことは全く考えていなくて あなただって悩んだことを 苦しんだことを 責め続けたことを あの時の僕は分からなくて…。人の心の痛みを あの時の僕は 知ることもできなくて…。
あなたの心を… 傷ついていた心を、さらに深く傷つけてしまった…」
青年の想いを聞き終えたベアトリクスは瞳を閉じて、そして小さく頭を振った。
「そんなことは…。あなたが謝ることなんて全然ないわ。あなたの言う通り、私はそれだけのことをしてしまったのだから…。そして何もしなかったのだから…。 
もし、あの時に、何も言われなかったなら… いつまで経っても昔のままでした。クレイラの樹も… そして私自身も…  本当にありがとう。来てくれて…」
 青年は大きなため息を吐いた。それは心にあった憎しみの塊が、別の何かに変化して出ていったようだった。そんな軽くなった自分の心に満足気な笑みを漏らし
「あなたにこれを…」
 と、照れくさそうに手にした花を差し出した。

「とても綺麗な花ね。こんな真っ白で大きな花、見たことないわ。何ていう花かしら…?」
 朝露が未だ残る花びらにそっと触れながら、ベアトリクスは尋ねた。
「これは、クレイラの花です。」
「クレイラの!?」
「はい、今朝ようやく一つ咲いたのです。」

子ネズミ達が見つけたあのつぼみが… とうとう開いたのだ。

「皆で話合ったのです。一番初めに咲いた花をあなたへと贈ろうと…。間に合って本当によかった…」
「… そんな大切な花を… 私に…?」
「はい…」
 クレイラの花を見つめて… 青年はこう言った。

「だってこの花は、あなたが… あなたが咲かせた花なんですから…」

 ベアトリクスは振える手でそれを受け取った。花は何故かずっしりと重かった。緑をとかしたような淡く輝く美しい花は、凛とした香を放っていた。

「… ありがとう…」
涙を堪えてようやく一言、言葉に出した…。



「みんな!いくぞっ!」
ジタンが合図をすると、全員が白い小鳥を手に持った。幸福の翼を持つといわれるウィルプス。二人のためにブルメシア人の仲間達が掴まえてきたのだ。


「ウィルプスよ!この二人に永久の幸せを!遥かな海へと喜びを!」
キルデアの祝唱と同時に、一斉に鳥を手放した。バサバサバサッ!羽音が目一杯に響き渡り、雨上がりの5月の空に白い鳥の群れが羽ばたいていく。その圧倒するような光景に、この場にいる者達が、アレクサンドリア中の人々が感嘆の声を上げ、透明な空を見上げた。






                あれは――




                           クレイラの花――






ベアトリクスの紫の瞳に鳥達の姿は写らなかった。涙で滲んだ瞳には白い鳥の姿がクレイラの花に見えたのだ。
遥か遠い、砂漠の空に咲き乱れるであろう、気高く美しい真っ白な花々に…





水は流れ、友を動かし、悲しみを洗い、闇を溶かし、そしてまた流れていく…
とめどなく溢れる水は、流すことすら赦されなかった私の涙





          私が 見たかったのは……


                      これだったんだ……





「こんなにも幸せで… いいのでしょうか…?」
 呟きを耳に留めたスタイナーは、だが何も言わなかった。ただ黙って妻となったばかりのベアトリクスの肩を抱き寄せた。広いその胸に身体を預ける。
 透けるような青空の下、寄り添う二人はいつまでも空の彼方を見つめていたのだった。いつまでも、いつまでも、いつまでも…



















金の駿馬はついに振り返り、一粒の涙を零した。

零した涙は朝露に濡れた花弁へと落ちていき、ピィィンッと跳ねた。

跳ねた雫は空気に舞って、七つの色に、弾けて消えた。









































その人に 初めて出会ったのが20年前


その人を 想うようになったのが18年前


その人と 想いを同じにできたのが7年前


その人の 元から離れて行って


そして今日 その人と……






私は、

随分と遠回りをしたのでしょうか?


ううん。

どんな路を選んだとしても、必ずここへ辿り着いたと思うの



ああ、幸せ過ぎて何だか怖い

これはクレイラの樹が見せている、儚い夢の続きじゃないのかと



目覚めたら、私は独り。

あの硬いベッドの上にいて



そして、幸せの涙で濡れたマクラカバーを洗うのだと


















だけど…



たとえこれが夢であったとしても……













どうか





どうか






さめないでください















砂漠に見ゆる…       緑の夢よ…