緑の夢 6





「うかつだったわ… こんな簡単なことなのに、数字にこだわりすぎていて… 
二の六の夜… ちゃんと書いてあったじゃない……」

















心の中でそう反芻したつもりだったが、それは言葉として紡がれていた。その低い呻き声のような呟きは、シャロンの長い耳にも届く。 
 
「ベアトリクスさん?!」
ベアトリクスの只ならぬ様子にシャロンは思わず、一際高い声で誰何した。その声を知覚して、ハっと我に返った。
「あ… ごめんなさい、シャロン…」
「どうしたのですか?本当に?」
 夢想の世界に漂っていたような浮遊感から、だんだんと地面に立っている感覚が戻ってきた。
「分かったのよ、分かったのよ… シャロン。
クレイラの樹が… 樹が、何の魔力で育つのかが…」
「ほ、本当ですかっ!!一体、それはっ!?」
 シャロンはあまりの唐突さに驚いて言葉が詰まってしまった。喉の奥に引っかかった唾を飲み込む音が、妙に響いく。

「月よ…」

「… つ… き…?」
 期待していた答えとは程遠いその答えに、シャロンはもう一度聞き直してしまった。
「あの、『つき』って、空にある、あの『月』のことですか…?」
「そう、月…。こんな簡単なことなのに、私は一番重要なことを真っ先に外してしまったわ…」
ベアトリクスは自嘲気味な含み笑いを浮かべた。今まで試してみた行いの数々を思い起こし、こんなことに気付かなかった自分のもどかしさを嘆くかのように。
「あの…。どうして『月』なのですか?」
 シャロンの疑問は最もだろう。何年もかけて捜し求めた答えが、今更ながらに出てきたその答えが、単なる「月」なのだ。少しあきれ気味の表情をシャロンはしてしまった。そんな表情を見とったベアトリクスは、自身にも納得させるかのように一つ一つを噛み締めながら言葉を紡いだ。

「『二の六』というのは『2の6乗』ってことじゃないかしら?
つまりは、『64』…

これ、月の周期日数と一致するのよ…」










――月




この空には、2つの月がある。
青の月と赤の月。
ガイアとテラとを見守る、クリスタルの光。
それぞれの星の――命の光。


青き月は、ガイアの月
クリスタルの輝きは眩く、躍動感に満ち溢れている。

赤き月は、テラの月
クリスタルは衰え、静かにその終焉の時を待っている。


この2つの月は、ガイアの赤道に平行した軌道で周っている。赤の月はガイアの極に対して縦長の、青の月は横長の楕円形の軌道を描き、星を挟んで十字に交わる。2つの月は64日間でガイアを一周する。
ガイアの空からは、常に2つの月が見える。が、ガイアと2つの月が横一線に直列する16日毎、計4回、青の月と赤の月は重なって見える日が来る。そして、その日を境にお互いの左右の位置が入れ替わって見えるのだ。


月齢0日―昼間の月
青い月は赤い月の前面にあり、重なって見える。
次の日から赤い月は、青い月の右側に現れる。

月齢16日―昼間の月
赤い月は青い月の前面にあり、重なって見える。
次の日から青い月は、赤い月の右側に現れる。

月齢32日―夜の月
青い月は赤い月の前面にあり、重なって見える。
次の日から赤い月は、青い月の右側に現れる。

月齢48日―夜の月
赤い月は青い月の前面にあり、重なって見える。
次の日から青い月は、赤い月の右側に現れる。


月齢64日=月齢0日


巡る月の、その動きは…
赤の月が現れた、遥か遠い太古の空から、
決して変わることはない…







「クレイラの樹が光に関係するというのは、何となくだけど分かっていたわ。昼間のうちにしか発芽しなくて、夜になると必ず枯れてしまうのはそのためだからだと思った。
でも、実際は月があった夜でも枯れてしまった…。少しでも反応したら分かったと思うけど、そんな素振りは全く無かった。だから月という概念は外したわ…。でも、そうじゃなくて…。64日毎に来る、その日1日だけの夜にしか、育たないのではないかしら…?」
「言われてみれば… そんな気もしますが…」
 それでもシャロンはいぶかしむ表情を見せた。発想があまりに単純に思えたからだ。
「そうね…。この考えもたまたま数字が偶然なだけで、私がこじつけただけかもしれない…。でも、取り合えず試してみても、それはそれで決して無駄にはならないと思うわ。」
 ハッとなってベアトリクスを見返した。この人は自分何かよりも、よっぽど数多くのことを試してきたのではなかったか…?
「そうですね!可能性のあることは片っ端からやってみないと分かりませんよね!!私、今からちょっと皆に話してきます!!」
 そう言うなり踵を返し、小走りに戻って行った。随分と切り替えが早いシャロンの動きに、ベアトリクスの方が驚いてしまった。思わず呆れた苦笑が出てしまう。
「お願いね、シャロン。」
 束ねた長い髪が揺れ動く後姿に、そう声をかけた。


早速ヴァルドに、夜月の光で成長をする草花をいくつか送ってくれるよう頼んだ。月の周期は64日だが、夜に現れるのは半分の32日間。種別は違えど、性質が同じであれば植物達が特に反応する日があるはずだ。


月の巫女クレアと星の巫女ニーナに頼んで毎晩、植物と月を観察する日々が始まった。クレアとニーナはベアトリクスの小屋に泊まり込み、3人が交代で観察する。
幸いにも、穏やかな天候が続く季節だった。草原の草は夜風に靡き、微かな音を奏で、匂いを運ぶ。月の光に照らされた闇の草原に立つと、海の上を漂流しているかに思えてきた。
どこまでも深い、暗緑の海。





「今日は青い月の日ね。」
 夜、昇って来る月を見上げてアトリクスは呟いた。赤い月と青い月、2つの月が重なっているため、今日は月が1つしか見えない。青の月が前面にでているからだ。眩く輝く青の月は、後ろにある赤い月が放つ鈍い光を完全に覆い被さった。
「明日から赤い月が少しづつ前に出くるけど、私はこの青い月だけの日が好きです。この光は何か悪いものを清めるような気がしません?」
 青白く光る月の光にクレアは手をかざした。月光はネズミ族の石灰色の肌を際立たせている。凍てつくような光の帯びは、全てを焼焦がすかのように草花に降り注いだ。この光を好んで、一輪の青い月見草が花開いた。



8日目、赤の月と青の月が同時に昇ってきた。今日の月はお互いが重なることなく、さん然と輝いている。
「2つの月の夜は、本当に明るいですね。これでは星達が隠れてしまうわ。」
 ニーナは渋い顔をして空を仰いだ。月の姿のないまっさらな夜には、数え切れない程の星々がひしめき合って大河を作るのに、無粋な月は小さな星達の息吹を消し去ってしまう…
その2つの月の光は夜の闇を最も明るく照らし出し、全ての眠りを妨げるかのようだった。寝つきの悪いつる草は、不機嫌そうにつるをもたげると、葉の影に隠れて再び眠りについた。



16日目、月はまた1つに重なって昇ってきた。赤い月が前面にある日。だが赤の月は輝き弱いため、隠れた青の月の光が漏れていた。まるで青く縁取られたその月は、赤紫色の儚げで柔らかい光を湛えている。

 切ない… 光だ…

何度も月を見ていたのに。こんなにも寂しく想うのは何故?
何故、この月の光は切なく見える?
ベアトリクスは無言のまま、青い輪を持つ月を見続けた。



「土が乾いちゃってるわ!ニーナ!水、持ってきて!」
「わかったわっ!」
 巫女達の声が、夜も深まった草原に響いた。
「どうしたの?クレア!ニーナ!」
「ベアトリクスさん!見てください!土の表面がこんなにも乾いてます!」
 思いにふけっていたベアトリクスは一つ頭を振ると、二人の元へ駆け寄った。
「まぁ!」
 植物は毎夜、月の光を吸収しながら成長をする。だが、今夜の様子はいつもとかなり違っていたのがはっきりと見て取れた。普段は個々に成長していた植物達が一斉に先を争って水を吸収していく。そのスピードがあまりに速すぎて、土の表面が見てるそばから乾ききっていった。
「こんなことが起きるなんて…。ヴァルド先生は一言も仰っていなかったわ。一体、どうしたのかしら…?」
「もしかして、いろんな種類の植物を、一つのプランターにまとめて植えてしまったのがいけなかったのでしょうか?」
「え?」
「つまり、植物が生き残るために、互いをけん制しているとか…?」
「ああ、なるほどね、クレア。狭いこの環境で一斉に育つからこそ、自身が生き残るために動きが速まったかもね…」
「この植物達がこんな反応をするということは、ヴァルド先生や他の植物学者は知らなかったのでしょうか?」
「恐らく植物の研究を真面目にやるような専門家は、こんな無造作な植え方をしないでしょうね…。だから、こんな風に連鎖反応が起きるなんて分からなかったかも知れないわ。」
「ようするに、私達は不真面目だから発見できたのですね。」
 ニーナがバケツに一杯の水を汲んで戻ってきた。皮肉たっぷりの笑みを浮かべる彼女にベアトリクスは苦笑をしながら、それを受け取る。
「どうやらそのようね、ニーナ。私達は、大いなる不真面目集団だったようだわ。」
 ひとしきり笑い声が辺りにこだますると、ベアトリクスはバケツに張られた水を覗き込んだ。水は赤紫の月の姿を映し出してゆっくりと揺れている。それを両手ですくって撒くと、草花は若葉を鳴らし始めた。それはまるで、歌を歌っているようだった。
 月が西の空へと傾くころに、ようやく植物達は静かになった。



24日目、青い月が先に昇り、赤い月が後から昇ってくる。やはり明るい月夜だ。目覚めの花が次々と開いてくる。しかし、16日目に起こったような全ての植物が反応することは何もなかった。ベアトリクスはここで観測を打ち切った。夜の月の日はあと8日間あるが、もう詳しく調べる必要はないだろう。

「クレア、ニーナ、お疲れ様。夜の観測は大変だったでしょうけど、月についてのことはこれで大体は分かったわ。本当にありがとう。」
 二人の巫女の手を取り、労をねぎらった。この狭いプレハブ小屋は大人が3人も泊まり込むのに決して向いてはいない。
「でも、楽しかったですよ。クレイラにいた頃はよくニーナと一緒に月や星を見てたしね。」
「そう、あの展望台からいつも眺めてたよね。」
 三人は頭上を掠める星を仰いだ。ブルメシアと違い、殆ど雨の降らないどこまでも透明な夜の空。

クレイラの樹から望んだ星のかけらは、どんな風に見えたのだろうか。やはり手が届きそうなくらい近くに見えたのだろうか。



月齢48日の時が一番反応する日だと分かった。念のためベアトリクスはその後も1人で観測を続けたが、やはり結果は同じだった。結果をまとめ、皆に報告した。
残り3つになってしまったクレイラ実。今度失敗したら後の世のために残す分しかなくなってしまう。それでもクレイラの実を植えてみることに、全員一致で賛成した。



次の周期まで、あと50日あまり。逸る気持ちを抑えるのに必死だった…















――7月

デインズホース盆地に熱砂の季節が訪れた。山裾から大地へと吹きつけた風は、砂漠を通り、イージスタンコーストへと駆け抜ける。昔のブルメシアの民はその風を『エルゲヌビ』と呼んだ。古き言葉で「南の爪」という意味である。ブルメシアの神話に登場する、その爪を持った神の名は「ルアーズ」。長き爪に触れた者は忽ち燃え尽きてしまう。冬になると、逆にイージスタンコーストから砂漠に向かって風が吹き荒む。この風は『エスカマリ』 「北の爪」という意味だ。神の名は「ルイーゼ」。その美しき爪に口付けした者を悠久なる氷の柩に閉じ込めるという。





赤の月が青の月を覆う日となった。

更地と化したクレイラの大地は波紋に畦っている。埋め立てた土の表面は既に乾ききり、遠目には砂漠と殆ど変わらなくなっていた。目印に置いてある土嚢の囲いが、かつてのクレーターの淵だということが分かる。吸いこまれそうな大地の瞳。

「いよいよじゃな。」
亜麻色の髪を風に靡かせながらフライヤが声をかけてきた。すっかり母親が板についた彼女は今年で28歳になった。
「ええ、何とかうまくいくといいのですが…」
「何じゃ、随分と気弱じゃのう。」
「そうですね。私が自信を待たないとね…
ところで、ルアーズとルイーゼは一緒じゃないのですか?」
「ここへ来る途中、どっかに行ってしまいおった…。相変わらず落ち着きのない子供でな。まぁ、そのうちに来るじゃろう。」
 育ち盛りの子供達に手を拱いているように、ふぅ、と、ため息を漏らした。早いものでルアーズとルイーゼはもう5歳になる。ブルメシア人の子供は、これくらいの年になると人間の子供と殆ど変わりなくなってしまう。生まれてすぐの成長は異様に早いが、そこからはゆっくりと時が流れる。そうして、人間と同じような成長を遂げていくのだ。

ふいに後ろから、元気な声と足音がハモッて聞こえてきた。
『おかーさーんっっ!!』
二匹の子ネズミが母親の背中目掛けて突進してきた。二人共、同時に飛びついてくるありったけの大声で叫んだ。
「お母さん!あーちゃんの方が早かったよね?」
「お母さん!いーちゃんの方が早かったよね?」
「いーちゃんより早いよ!」
「あーちゃんより早いよ!」
「もうお前達っ!少しは静かにせぬかっ!!」
 全力でのタックルに加え耳元でのうるさ過ぎる大声に、フライヤは堪らずよろけてしまった。最強と歌われた元竜騎士は、自分の息子と娘にからかなりのダメージを食らってしまったのだ。母親が戦闘不能と見るや否や、今度はベアトリクスの方に矛先を向ける子ネズミ達。
「おねーちゃん!あーちゃんの方が早かったよね?」
「おねーちゃん!いーちゃんの方が早かったよね?」
「二人共、同じだったわよ。」
 ベアトリクスは微笑みながら二人の頭を撫でた。フライヤの子供達は未だにベアトリクスのことを「おねえちゃん」と呼んでいた。どうやら一番最初の母親の教育が行き届いているらしい。
「おねえちゃん。今度こそ木が伸びるんだよね?」
「うん。伸びると思うわ。」
「すっごく大っきくなるの?」
「大きくなるわ。」
『そっかー。早く夜になーれ!』
 二人はニコっと満足の笑みを浮かべ、
「いーちゃん、次は水飲み場まで行こう!」
「うん!お母さん、『よーいどん』ってやってよ!」
「はいはい。いくぞ!ヨーイドン!!」
 どうにか自力で、しかも速攻に復活したフライヤだった。さすが、母親とは強い生き物である。パンッ!という手の合図と共に二人は勢いよく走り去っていった。
「やれやれ、これで少しはここも静かになるじゃろう。今の内に実を植えてしまった方が良いと思うぞ。あんな調子で飛びついてきたら、実を植えるどころか、実の方が潰れてしまうわ。」
随分と存外な愛のこもった子供達の扱いに、ベアトリクスの方が苦笑を禁じえない。
「そうね…。もう植えておきましょうか。」
 辺りを見回すと、誰とはなく皆、集まり始めてきたのだった。


クレイラの中心に土を掘り、実を植えた。植える実は毛色の違ったあの実を選んだ。これは、という確信が持てたその時に植えようと密かに思っていたのだ。どんなことがあっても無事で育ってくれるだろうという願いを込めて…。何しろ彷彿させる人物は、とある城の尖塔に顔面から突っ込んで刺さっても平気だったいう伝説の持ち主なのだ。
 魔法をかけて発芽させる。するすると芽が伸びてあっという間に苗木に育った。ここまではいつもと同じだ。肝心なのはここからだが…

「これはまた… 随分とバランスの悪い苗木ですな。まぁ、幹が太くてがっちりとした樹になりそうですが…」
 ヴァルドは苗木に顔を近づけて正直過ぎる感想を述べた。今まで見てきた苗木は、スラっとした、美しい姿をしていたのに、この苗木は何となくずんぐりとした何とも不恰好な若木だった。それを聞き、ベアトリクスはおかしくなってクスクスと笑い声を立てた。
「先生、そんなこと言ったらこの子がかわいそうですよ。こう見えてもきっと真面目で繊細な樹なんでしょうから。
ああ、あの子達ではないけれど、早く夜にならないかしら…」
 傾きかけた、中々沈もうとはしない陽を恨めしそうに眺めた。
「焦らなくとも夜はすぐそこまで来ておりましすぞ。」
 ヴァルドはそんなベアトリクスを見、おもわず頬を歪めた。

――この人はだんだん少女になっていくようだ

少なくとも、ベアトリクスは初めて会った頃に比べて、随分と自分の感情を表すようになった。幼い頃からの剣士としての教育で最も重要とされたのが、相手の表情から心を読み取る心理的駆け引きだった。故に自然と感情を抑えて剣士として生きてきた。そして、軍の全責任を担う女将軍となってからは、決して冷徹な仮面を外すことはなかった。いや、外せなかったのだ。何故ならベアトリクス本人がその仮面を被っていること自体に気が付いていないのだから…
 しかし、クレイラへと来てから除々に変わっていった。仲間との直の触れ合いは一枚一枚、ゆっくり、ゆっくりとそれを剥がしていった。それは少女になるというよりはベアトリクスにとって遅い青春だったのかもしれない。

「これは年寄りのお節介ですかな…」
 赤く染まる砂丘の地平線に沈み行く夕日を見ながらヴァルドはそう呟いた。夕日は消える瞬間、緑に光った。










薄明が終わる頃、穏やかな風と共に月が砂漠の彼方から顔を出してきた。
赤紫色に輝くその月は、赤の月の表面が見えている。しかし、後ろにある青の月の光も強いので月の表面が透けてしまい、青い月のクレーターもハッきりと見えた。

「月の地図… そういえば昔、トット先生に見せてもらった…
確かあれが、『雨の海』で… その隣が『虹の入り江』っだったわ…」

月の下方には大きな影の部分があり、そこにはかつて海があった跡だという…



クレイラの苗木は、いつもなら枯れ始めてくる時間であった。しかし一同が見守る中、一向にその気配は見られない。月は段々と高度を上げ、その光を地上へと降り注いだ。




















異変が起こった。











初めにそれに気付いたのは誰であったか…?それくらい、それは小さなものだった。


「あの…。何か… 聞こえませんか?」
 闇の向こうから、ウィランの声が聞こえてきた。
「いえ、私には聞こえませんが…?」
 ドネガンは暗がりの中、月明かりを頼りにウィランを見た。
「そうですか…?何かこう、低い音が聞こえるような…」
 ピクピクと長い耳を伸ばし、懸命に音を探ろうとしていたウィランをベアトリクスは遮った。
「地面… の… し た!?」
 靴底からくる僅かな振動を感じ、ベアトリクスはとっさに叫んだ。
「みんな!今すぐここから離れて!早くっ!!」
 一同を促し、傍らにいたルイーゼを抱き上げ走り出した。皆、訳も分からぬまま、それでもベアトリクスの言葉通りに全速力で苗木から離れだした。
「一体どうしたのじゃ!ベアトリクスっ!!」
 ルアーズを抱え息を切らしながらも、フライヤはベアトリクスに問いただす。
「地面の下から何かが迫ってくる気配があったわ!以前、霧の魔獣が砂の中から現れたことがあった!それかも知れないっ!」
「魔獣がか?!」
 そんなフライヤの疑問は、子供達の叫び声によって否定された。

『おかーさん!!おねーちゃんっ!!木が光ってるっっ!!』
『えっ?』
子供を抱えたまま、ベアトリクスとフライヤは振り返った。

「苗木がっ!!」

悲鳴に近い声。
皆、振り返った。苗木は月の光を吸収してどんどんと輝きを増しいく。










ドォォォォ――――――――――――










突然、大きくなった地響きと振動が彼方にまで鳴り響いた。地面が揺れ、土が迫り上がり、ひび割れ始めた。地面に立っているのがやっとなくらいの振動だった。押し寄せる轟音とうねりと共に苗木は恐ろしい程の成長を始めたのだ。

地中に根を張り巡らせ、空に枝を伸ばす。
根はどこまでも深く、幹はどこまでも太く、枝はどこまでも高く…
葉はあっという間に生い茂り、月の姿を隠してしまった。
固唾を呑んでその光景を見守った。皆、言葉無くその場に立ち尽くしたままだった。が、それは意に反して口と足が動かなかったためだった。

僅か10cm足らず苗木が!
瞬きする間もなく、数十メートルの巨大な大樹に昇華したのだ!!










サァァァァ―――――――――――










枝が大きく揺れ、一斉に葉音がした。葉が身悶えするかのようにざわめいている。
一枚一枚の葉から何かが出てきた。それは小さな淡い光のようだった。
夥しい光の玉はまるで儚海蛍のように、次々に生まれてきては空へと昇っていく。



「あの光は…何?」

誰かが言った。

「あれは… 死に逝った者達の… 魂だ…」

誰かが応えた。






あの光は、きっとクレイラで命を落とした者達の魂の光。

オーディンの魔力によって長きに渡り地中深くに閉じ込められた魂の数々――それらが今、クレイラの樹の根から吸い上げられ、幹を通り、枝を伝わり、葉の表面へと…




クレイラの成樹が、さ迷い続けた魂を空に還していく…




あの日、レッドローズのデッキから見えたあの空の彼方に。




そう、ベアトリクスは思った。




















































樹は静かに光を湛えている。

どれくらい時が経ったのだろうか?周りにいた人々は一人帰り、二人帰り、いつのまにかベアトリクス只一人となっていった。
最後までこの光景を見届けよう…
砂丘の上に腰を下ろし、輝く大樹と月の光をいつまでも眺めていた。






ザッザッザッ――

砂を踏みしめる足音が砂漠の闇から聞こえてきた。こんな近くまで人が来ていたのに、気配を感じさせないとは…?疑問に思い、そっと後ろを振り返ってみた。
光を見続けていたためか、暗がりに立っていた人物が分からない。

誰だろう…?

その人物は振り返ったベアトリクスを見て、顔をほころばせながら声をかけた。


「夏とはいえ、砂漠の夜は冷えるぞ…」
 低いその声は、覚えがあった。

驚いて立ち上がり、両目を凝らす。ようやく暗闇に慣れた左の瞳は一人の男の姿を捉えた。手には長めの外套を持っている、がっちりした体躯の男…



「スタイ… ナー?」



「久しぶりだな… ベアトリクス……」










あの夜から…

  6年が経った…










「どうして ここへ…?」

スタイナーはベアトリクスの肩にそっと外套を掛けると、その場にドカっと腰を下ろした。
「アレクサンドリアからも見えたのだ。輝く、この樹の光がな…」
「そう、だったんですか…」
 外套に袖を通し、隣に座る。

「そしたら、皆が行けと言ったのだ…」



二人で暫く樹を眺めた。静か過ぎるは砂漠の夜の闇…。それに耐え切れず、ベアトリクスは声を発した。
「ガーネット様や… 城の皆はお元気ですか?」
「ああ、皆相変わらずだ。」
「……。」
「あの… バラを… ありがとうございました…」
「いや… 礼などいいのである。その… こっちが無理矢理贈ったものだしな…」
「無理矢理だなんて… そんなことないですわ。すごく… 凄く嬉しかったです…」
「そ、そうか…。そいつはよかった…。練習したかいがあったというものだ…」


「れ、練習!?」


ベアトリクスは思わず声を高め、聞き返してしまった。そんな様子にスタイナーは表情を崩し、慌てて手を振りながら、しどろもどろにどもりながら言い直した。

「ちちち、違うのである…。ええぇーっと、な、何と言ったか…。
そ、そう!あ、アドバイス!アドバイスのことである!!
そ、その… おせっかいな連中がやたらと多いもんでな…」
 鼻の上にあぶら汗をかきながら、必死で弁明する姿に。ベアトリクスは目をぱちくりと瞬いてから、ぷーっと笑いを吹き出してしまった。何てことはない。この男は6年前と何一つ変わってなどいなかったのだ。重苦しい空気が溶けて、ベアトリクスはようやくスタイナーの顔をまともに見ることができた。顔は元々老け顔なのであまり変わってはいないように思える。短く刈り込んだ黒く太い髪が月の光を浴びて黒赤色に映えていた。だがその中に白い物が混じっていたのを見つけたとき――改めて時の流れを感じたのだ。スタイナーは40歳になっていた。

スタイナーも見返した。ベアトリクスの白く美しい顔も、紫水晶のような瞳も、茶色の巻き毛も昔のままだ。逆に美しくなったように思う。騎士として生きていた頃は決して出さなかった、本来の女性らしい柔らかさが出てきたのかもしれない。
 だが視線を落とし、ベアトリクスの右手を見て驚愕した。その手はまるで老人のように皺枯れていたのだ。スタイナーの知っている右手は、彫刻のような白く細長い指と、整えられた爪に塗られた赤いマニキュアだった。しかし今やそれらは見る影もなく、指は骨と皮だけのようになり、爪は短くしわがれて変形していた。
 スタイナーは知らない。それが4年にも及ぶ土の浄化作業の弊害だということを…
ベアトリクスは浄化作業を一番効率の良い方法で行っていた。固い地面に指先を立て、直接地面に魔力を送るのである。それはたしかに最も早く土を浄化することができた。
 だがその代償は、手に著しい負担を強いたのだ。


「お前の… その右手は…?」
「右手?ああこれですね…。どうやら負の魔力の影響のようです。作業を続けていくうちに、こんな風になってしまいました。」
「苦労、したのだな…」
「そんなことないですわ。」
 ベアトリクスは静かに頭を振った。
「たしかに色々と大変でした、この6年間…。ですが、私は大勢の仲間達と一緒になってここまでやってこれたんです…。皆、ここを昔のように戻したい… クレイラの樹を蘇させたい… そんな強い想いだけで纏まったあの一体感…。私は本当に掛替えのない物を見つけることができました。あなたなら分かるでしょう?スタイナー?全てを分ち合った仲間達がどんなに大切かが…?もしも… もしも、私がアレクサンドリアにいたままなら、多分そのことには一生気付かないままだったかもしれません。」


「そうか…。お前は… 変わった… のだな…」


「ええ。昔とは随分と変わったつもりです。性格も穏やかになったと思いますわ。園芸とかが得意になりましたよ。特にバラの植え替えとかね。」

ベアトリクスは冗談交じりに笑い声を発した。















「いや… そういうことではないのだ。」















「……?」















「ベアトリクス。自分はいつも考えていたのだ。あの時、アレクサンドリアを去るお前を何故止めなかったかと。」















「……。」















「自分は、その…
今まで誰かに対して惚れるという経験がなかった。いや、ずっと以前からお前のことをそんな風に思っていたかも知れない。だが、そのことに気付いてはいなかった。恥かしい話だが、惚れ方という物を知らなかった。だからお前があの夜、別れの話をしだしたときに、自分はどうしたらよいかが本当は分からなかったのだ…
止めるべきか、行かせるべきか、それとももっと別の方法があったのか…」















「……。」















「お前がいなくなって、止めなかったこと初めて悔いた。失ってしまったと、嘆いた。やはりどんなことがあっても止めるべきだった…
その後悔はここへ来るまでずっと続いていた… だが…」















「だが、お前は…
クレイラに来たことで、あのときより幸せそうになっていた…
そのこと自体は、自分としても本当によかったと思うのだ…

し、しかし、その… 自分がアレクサンドリアに引き止めたかったという想いは…
最早お前にとっては遥か昔の… 既に忘れ去った、全く関係のないことになってしまったのではないのか…」















「……。」















「あなたにはいつまでもアレクサンドリアを守って欲しかった。私以上にガーネット様を守って下さる人はあなたしかいなかったから…
あなたには本当に幸せになって欲しかった。あなたがどんなに暖かい家庭を欲しているのかを知っていたのだから…
だけどあの時の私には、それをあなたにしてあげるのは無理だと――
分かってしまいました…」




















「初めてここへ来た時、ここは本当に何もない、寂しい所でした…」




















「誰一人としていない、住んでいる人もいない。夜は真っ暗になって、砂漠の風音しか聞こえない…
容赦なく襲ってくる何ともいえない不安。夢の中での私は、いつもいつも泣いていました。あまりの孤独に耐え切れずに…

そんな時、あのバラが来ました…。懐かしいアレクサンドリアの香りのするバラ…
それからでした…。私がバラを待つようになったのは…」















「おかしな話ですよね…?」















「私はあなたのためにと思って、離れたはずのに…」






















「実は、あの時からずっと…

あなたのことを待っていただけだったんです…」



























「自分は何年でも待つつもりだった。いつかお前が、自分の元へと帰ってくるという都合のいいことばかりを考えていてな…

いや、だから、そんなことではなくて…
自分がここへ、来て本当に言いたかったのは… つまり、その…」



















「お前にアレクサンドリアへと… 帰ってきて欲しいのである…」




















最後の方は独り言のような呟きだった。






















「こんなにも、罪深き私なのに… いいのですか…?」

ベアトリクスは小さく聞いた。

スタイナーの手がそっと伸びてきた。

「お前以外に、誰がいるのだ?」

温かくて、優しくて、懐かしい空気がそこにはあった。



この空気は…



そうか…
あの夢に出てきたのは、バラじゃなかったのね……



スタイナーの胸に顔を埋め、瞳を閉じた。




















「静かね…」





「ああ…」





「こうしていると…
      温かい…」





「そうだな…」








「誰かが…
   見ているかも…」








「大丈夫。
  神様しか…
    見ていないのだ…」





















「……。

 スタイナー…。

   そのセリフも…

      練習したのですか…?」

















「……
  い、いや…


    たった今、思いついたのだ…」
























ああ、なんで。なんで。
なんで、この月はこんなにも切ないのかしら…?


ああ、そうか。


そうね… きっと…


赤の月は見れないからだわ…



後ろから支える、青の月を…

重なり合った、2つの光を…


せめて、せめて

今だけは、時が止まって

見れたらいいのに…


今だけは



今だけは…


























クレイラの樹は未だその光を解き放っている。

青還を懐いた月は大きく傾き、赤紫の雫を溢していた。

砂漠の風は静かに止んだ。

砂地には規則正しい波紋だけが残り、大きな樹の影を映し出している。







大樹の月影のその近くに、二つの小さな月影があった。


小さく揺れる二つの影は、ゆっくりと重なっていき…


そして、一つの影へと解け合った。

























その夜… 


ベアトリクスは スタイナーの腕の中で 夜を明かした……