緑の夢 3
―― ここは砂漠の始まりか? それとも終りなのか? ――
雨の都の南東、高き山々に囲まれたデインズホース盆地の一角にその小屋はあった。そこから僅か数十メートルと離れていない所がヴブ砂漠だ。 だが、山裾に阻まれてかそこは一面の草原の海だった。砂漠の北にはイージスタンコーストと呼ばれる海岸がある。山の恵み、海の恵みも間近にあるのに何故、クレイラは不毛な土地と化してしまったのだろうか?山から吹き降ろす乾いた風は砂漠の砂を舞い上げ、僅かに残った大地の潤いをさらに奪い取っていく。 ベアトリクスは思った。なんと美しく、そして無慈悲な自然の営みなのかと…… ――1800年10月 ベアトリクスは独り、ヴブ砂漠へとやって来た。 照りつける陽射を避けるためにつばの広い帽子を被り、作業しやすいダンガリーシャツにペインターパンツをはいている。が、腰にはその格好に不釣合いな物があった。細長く美しい騎士剣、セイブザクイーン。たしかにモンスターはいるのだが、霧が晴れてからは数も減り、滅多なことでは遭遇することもなかった。たとえ出てきたとしてもベアトリクスの腕なら短刀の類で十分だろう。 退役を申し出た朝、ガーネットはあまりの突然のことに驚愕した。だが、どんなに慰留されようともベアトリクスの考えが変わらないと悟った若き女王は、王家の宝剣であるセイブザクイーンをそのまま授け旅立たせた。アレクサンドリアを治める立場である以上、ベアトリクス個人が行うこの件に関わることにはできなかった。この剣は自分の代わりなのだ。これから始まるクレイラの全てを見続けるように… そして守るように…… 軍を正式に退いた後、ベアトリクスはアレクサンドリアから全てを引き払い、一旦実家のあるトレノ地方へと移った。中流貴族だった両親は既に亡く、残された財産を殆どを処分して活動資金を作った。子供の頃から仕えてくた老夫婦に家の留守を頼み、自分はヴァルドの協力の元、クレイラの再建の準備を始めた。 拠点となる小屋、資材及び食料、運搬車の準備などを着々と進めていく。その様子はたちまちブルメシアに知れ渡った。 しかし、ブルメシア人達の反応は恐ろしいほど冷徹だった。曰く―― 「あのアレクサンドリアの女将軍っ!!とうとう頭がおかしくなったようだっっ!!」 もともと、ブルメシアとクレイラは親密な関係だったとは言い難い。アレクサンドリア軍に進攻された時、ブルメシアの民はリンドブルムかクレイラのどちらかに逃げいった。そしてそのことが運命のたもとを分ってしまったのである。クレイラへと逃げた者はその殆どが命を落とした。今、ブルメシアに舞い戻り国を再建している者は、リンドブルムに避難した者達だ。残念ながらそんな彼らにとって、クレイラに思い入れなどはなかった。たしかにクイレラの人々は同族である。追われた仲間達を迎えてくれたりもした。しかし、何もかもが消滅してしまったクレイラを元に戻すという行為は、どう考えても愚行としか思えなかった。しかも、復興するために現れたのはクレイラの民ではなく、なんと、ブルメシアを、クレイラを破壊し、同胞を殺戮したアレクサンドリア軍の隻眼の女将軍だという。 ブルメシア王族の唯一の生き残りであるパック王子は、ブラネ女王もまた、大戦を引き起こした奴に操られていたのだ―― そう、民に語った。が、だからといってその身に受けた苦痛を、悲しみを、全て忘れることなどできるはずもなかった。ベアトリクスにしても事情など関係ない。あの白き眼帯は地獄への標榜。そんな彼らにとって、ベアトリクスは関わりたく存在なのだ。勝手に砂漠でのたれ死ねばいい―― 自分達はブルメシアでの、以前と変わらぬ生活を取り戻したいだけだ。 そんな冷笑の嵐の真っ只中に、差し伸べようとする手が僅かながらに存在した。 「久しぶりじゃの、ベアトリクス。」 草原の中にポツンと佇む、粗末な小屋を尋ね来た者がいた。 「フライヤではありませんか!お久しぶりですね!」 ベアトリクスは喜びの表情を浮かた。見知らぬ地で独り黙々と仕事をする者にとって、知人の訪問は本当に嬉しいものだ。 「まだ来たばかりなので、何もありませんが。」 フライヤを小屋の中へと招き入れた。タンタラス団のアレクサンドリア公演以来、4ヶ月ぶりの再開だ。 「すまんな。気を使わんでもよい。」 フライヤは帽子を脱ぎ、勧められた椅子に腰掛けた。ベアトリクスは見計らいながらポットから熱々の紅茶を入れる。白い湯気が勢いよく上っては、フヮっと消えていく。 「クレイラを復興しようとするそうじゃな。こっちではかなりのウワサになっておるぞ。」 「ええ。」 自分のカップにも紅茶を注ぎ、フライヤの向かい合わせの椅子を引いた。 「あそこは生き物も住まわぬ不毛の土地と化してしまっておる。そればかりではない。何かとてつもなく禍々しい気を感じる。 で、どうなのじゃ?正直できそうなのか?」 それは当たり前過ぎた質問だった。ブルメシアにはクレイラの民が移り住み、共に国の再建をしていた。しかし、その中の誰一人、クレイラの再興を声に上げた者はいなかった。したくてもできなかった。当然だろう。クレイラは全てを失い、残ったのは爛れた砂だけなのだから。 「あの地は闇の力に侵触されていますが完全には死んでいません。負の魔力さえ取り除ければ、再び樹木が育つ地になることも可能だとヴァルド先生――地質学の先生が仰って下さいました。とにかくやってみないと分からないのです。それがどんなに無駄で、愚かなことでも…」 何もかも無くなった地。だからこそ、そこに再生できる望みがあるとベアトリクスは考えた。 「確かに、そうじゃな…。何かしなくては何も変わることはない…。クレイラは言わば無の状態。これ以上、悪くなることもなかろう。ベアトリクス、私もできる限り手伝せてもらうぞ。」 力強くフヤイヤは言い放った。これを伝えるために、この小屋まで足を運んで来たのだ。だが、ベアトリクスはそんなフライヤの気持ちに感謝しつつも、頭を振った。 「お気持ちは嬉しいのですが、フライヤ。あなたはまずブルメシアの再建が先でしょう。戻ってきた皆をまとめて導く、あなたの力は必要なのです。」 「なに、パック王子とフラットレイ様がしっかりと統率なさっておる。心配は無用じゃ。」 「手伝ったりしたらあなたまで言われますよ。『頭がおかしくなった』と。」 自身への皮肉を込めたベアトリクスの言葉に、おもわず弓なりの眉をしかめる。 「おぬしらしくない言い草じゃな。言いたい奴には言わせておけばよいではないか。」 「ですが…。彼等の気持ちも分かります。今更ムシが良すぎると…」 ガタッッーーン!勢いよく立ち上がった瞬間、フライヤの座っていた椅子が後ろに跳ねた。 「罪を償おうとしている者を罵る方がよっぽど恥かしいわっ!ベアトリクスよ。おぬし独り、どんなにがんばってもたかは知れておる。一体、どれほどのことができると思うのじゃ!思い上がりはよさぬか!」 責めいるような自分の声にフライヤは我に返った。熱くなった気持ちを吐き出すかのように「すまぬ、つい。」と一言呟き、椅子に座り直した。 「おぬしとは共に戦った仲ではないか…。遠慮なんかしてどうする?仲間が困窮しているこんな時に見て見ぬ振りをしろというのか…?それとも何か?私では役不足か…?」 仲間――ベアトリクスはフライヤの瞳をじっと見つめた。エメラルドのような美しい碧の双眸は心から自分を想ってくれる光があった。 人に迷惑はかけまい―― それが、決意した時の誓だった。 「… ありがとう…。フライヤ…」 ぬるくなった紅茶の上に差し込んだ陽の光が揺らめいている。ベアトリクスは一言、自分に言い聞かせるように呟いた。その呟きに満足気に微笑んで、フライヤはベアトリクスの肩を叩いた。 「初めから素直にそう言えばいいのに難儀な性格じゃのぅ、おぬしも。まぁよい。そうと決まれば善は急げじゃ。計画を聞かせてもらえるか?」 「分かったわ…」 ベアトリクスはクレイラの図面を持ってきて広げ、説明を始めた。 次の日、ヴァルドが数人の若者と連れだってやって来た。 「ベアトリクス殿、ちょっといいですかな?」 ベアトリクスは書類を書いていたその手を止めて立ち上がった。 「ヴァルド先生。お忙しいのにお越し下さるなんて。」 「いやいや、そんなことはないのだがな。」 苦笑しながらヴァルドは手を上げた。ベアトリクスの方がよっぽど忙しいのを分かっていたからである。 「ところで今日は大勢で…。どうなさったのですか?」 「実はあなたに少し、お願いがあって来たのだが。」 「お願い?私にできることなら何でも致します。」 恩師からの頼みとあらばどんな事でも引き受けたいと思った。身構えるように姿勢を正す。そんな様子にヴァルドは再び苦笑した。 「そんな大それたことではないですが…。後ろにいるこの者達は私の教え子でね。クレイラの土が浄化していく過程を研究させたいと思い連れて来たのです。不謹慎でしょうがこういうケースは過去に例がなく、学術的には非常に参考になるのでしてな。」 「ええ、そういうことでしたら一向に構いませんですわ。先生。」 「ただ、どうしても作業の邪魔をすることになりそうです。その代わりと言っては何じゃが、手が空いた時にあなたの手伝いをさせるつもりですのです。どうかコキ使って下され。」 「よろしくお願いします。」 若者達が一斉に返事をする。その姿にベアトリクスはハっとなってヴァルドを顧みた。ヴァルドは目尻に皺をよせて黙って笑っているだけだった。この人達は研究というのは建前で、最初から再建の手伝いに来た。ヴァルドは自分の性格を見抜いて、遠巻きに支援してくれたのだ。その気遣いが嬉しかった。圧倒的な人手不足の壁にベアトリクスは何も言えず、好意に甘えさせてもらうことにした。 扉のノックする音が聞こえてきた。やって来たのはフライヤと見知らぬブルメシア人。 「何じゃ、先客がおるのか?」 「フライヤ、大丈夫です。どうぞお入りになって下さい。」 「そうか、すまぬな。ちょっとおぬしに会わせたい人物がおってのう。」 フライヤは隣にいる薄いローブを着た男を紹介した。その男はフライヤとは何かが違う、独特の雰囲気があった。 「初めまして。キルデアと申します。私はクレイラで社を司る神官をしておりました。クレイラが消滅した時に運良く生き延びることができ、それからダゲレオの地へと赴いていつの日かクレイラの再建のためにと色々と勉強を致しておりました。ブルメシアにはクレイラの復興を願う仲間が大勢います。私達にもあなたの手伝いをさせて欲しく、フライヤ殿に頼んでお願いにあがったのです。」 丁重な礼をするキルデアに、ベアトリクスは慌てて言った。 「そんな。どうか顔を上げて下さい。私は… 私がクレイラを…。自分が部隊を指揮し… そして、クレイラの罪無き民達を…」 しかしキルデアは何も言わない。終わったことよりもこれからが大事と言うように、もう一度、無言で礼をした。 ベアトリクスは、皆の顔を見回した。この狭い小屋には、偶然にも同じ目的のために来た者達が集まっていたのだ。 「皆様、どうか、クライラの復興に力を貸して下さい。宜しくお願い致します…」 これ以上ないほどに深々と頭を下げた。そこには、冷酷と謳われた女将軍の姿はもはや無かった。 砂漠は激しい風の流れを描くように渦を巻き、砂が形を変えながら移動し続ける。岩が剥がれ落ち、削れ、やがては塵となる。 クレイラの復興作業が始まった。 クレーターの周りに土嚢を積み砂の侵食をできる限り防ぐ。癒しの魔法が使えるベアトリクスやクレイラの巫女達は土の浄化を担当し、他の者達は溜まった砂の除去や、資材の運搬などを担当した。皆、こういう仕事は初めてだった。リンドブルムから土木作業に精通している者を雇い入れ、彼等の指示に従いながら不慣れな作業を懸命にこなしていく。 「ベアトリクスさん。」 「何かしら?ウィラン。」 作業に没頭していたベアトリクスに、一人のクレイラ人が声をかけてきた。 「これをあなたに渡しておきたいと思いまして。」 そう言うなり、かすり調の小さい布袋を差し出した。ベアトリクスは手を払い、それを受け取る。袋の口をそっと開けてみてみると、中には親指と人差し指とで形作られたくらいの丸い木の実のような物が十数個入っていた。褐色の色をした硬い殻が重なりあい、カラカラと乾いた音を立てる。 「これは… 何かの実?」 「はい。それはクレイラの樹の実なのです。」 「クレイラの!?あの樹は実が成ったのですか?」 「あの樹はかなりの老齢で、花も実も付けることは殆どありません。私は樹の神官でして、樹の様子をいつも見回っておりました。たまたま実った実をこうして採取しておいといたのです。何かの役に立とうかと思いまして。その時は、こんな風に使うことなど考えたことはなかったですが… ここの土が元に戻ったらこれをぜひ植えたいと。それまではあなたが持っていた方がいいと思ったのですが、どうでしょうか?」 「これを育てれば、あの樹のように育つのですね。」 ベアトリクスの声が弾んだ。まさかクレイラのあの樹と同じ物を植えられるなんて思ってもみなかったからだ。楽観はしないつもりであったが、それでも希望が大きく膨らんだ。 「あのような巨木になるのはやはり何百年も先でしょう。ですが、時間はかかろうとも元のように育つかと思います。」 「でも、そんな大切な物を… 私が預かってもよいのですか?」 「もちろんです。」 ウィランは断言した。 「私達クレイラの民は、やはりクレイラの復興が願いなのです。あなたがきっかけとなって始まったのですから、あなたに全てをお任せします。」 ここまで信用してくれる――彼等の信頼に応えなくてはならない。 「これを植えらるようになるのは、いつになるか分からなくても?」 そんなことは百も承知ですよ。そう、言いたげにウィランは笑った。 「たとえ私達の代で終わらなくても、夢が残っていれば受け継いでくれる人達がきっと現れると思います。全ての想いは未来へと帰っていくのです。このクレイラの実こそが、その証だと思いませんか?」 クレイラの樹はね、いつの日か帰る時のために、これを残していったんですよ。 その言葉が、頭の中で暫く響いていった。 「ブルメシアの再建の方は順調のようですね。」 昼の休憩時、ベアトリクスはフライヤと共に食事を取った。本当はブルメシアの様子を自身の目で確かめたかった。しかし、行けばどうなることか…。想像は容易についた。 「そうじゃの。市街地や王宮の復旧も粗方済んでおる。パック王子が直接指揮をなさっているのじゃ。予定よりも早く終わりそうじゃの。」 「それはよかったわ。」 「復興が一段落したら、王子もダガーのようにブルメシア国王として即位なされる。めでたいことは続くものじゃな。」 「あなた達の結婚もね。」 フライヤは言葉につまり、さっと顔を赤らめた。 「なんじゃ…。おぬし、知っておったのか?」 「さっきウィランから聞いたのですよ。おめでとう、フライヤ。」 照れ隠しのつもりか食事を早々に終わらせて、フライヤは緑茶をすすりだした。 「別に隠すつもりはなかったのじゃ。まだまだ先の話なのでな。それよりもおぬし達の方はどうなのじゃ?離れてさぞ寂しかろう。」 自分達のことを振られたお返しにと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。そんな顔を見てベアトリクスは一瞬困った表情になる。 「スタイナーとは… 彼とは別れたのです。」 あまりにあっさりとした返答に、フライヤの方がおもわず押し黙ってしまった。 「…どういうことじゃ?」 「そうです…ね…」 どう、説明したらいいのか…?ベアトリクスは少しの間言いあえいだ。 「ここが元に戻らない限り私はアレクサンドリアへは帰りません。私とスタイナーはそれぞれに違う路を選んだのです。クレイラの再建とアレクサンドリアの将軍という路に…」 「そうじゃったのか…。すまぬ。余計なことを聞いてしまったみたいだな。」 「いえ。気にしないで下さい。今の私はクレイラのことで精一杯なのですから。スタイナーも色々と大変だと思います。ですが幸いなことに私はこうやってたくさんの方達に支えられることになりました。彼にもそんな人がきっと現れると思いますわ。」 ベアトリクスは微笑んでいる。だが、その笑みが寂しそうに見えたのは今の話を聞いたからなのだろうか。 「じゃがベアトリクスよ。おぬし、本当にそれでよいのか?おぬしの想いとは、そんなに簡単に吹っ切れるものだったのか?」 ベアトリクスはふと空を見上げた。遠い、遠い昔のことが思い出されてきたのだ。まだ自分が片目を失う前、初めて剣を交えたあの御前試合。しかし、記憶のカケラは既に色褪せ擦れてきていた。 「私は… 長い間、あの人ことを想い続けていました。自分でも分からないくらいに静かに、とても静かに…。だから… 終りも、とても静かに迎えることができました…」 ベアトリクスがそんな話を口にするのは初めてだった。悲観も悲壮も感じさせない、淡々とした話方に、かえってフライヤにはその痛みが感じられたのだ。 こういう想いもあるのだろうか。ただ静かに消え去っていくのを、ひたすら待ち続けるだけという重く苦しい想いが…。否、自分もあの時に似たような想いをしたのであろうか…。 「苦い想いは… 私にも分かる、つもりじゃ。そんな時、いつも思う。この想いを知らなければ苦しんだりしなかったのだろうか…」 カップをくるくると回して、フライヤは緑茶を一口含んだ。時間の経った茶はほろ苦い味がした。 「たしかに、そうね…。でも、想いがあるとどこまで真っ直ぐに進めたわ。“あの人に見られても恥ずかしくないように”ってね。私は真っ直ぐに進みすぎて大変だったけど…」 ベアトリクスは苦笑しながら片付けだすと、短い休憩を切り上げて、作業を再開した。 そんな姿に、フライヤは思う。砂と共に心も浄化できたら、どんなに救われるのではないのかと…… 年が明けて 1801年2月―― ブルメシアの再建が、ようやく終わりを告げた。 アレクサンドリア軍によって破壊された街は、まだ随所にその生々しいキズ跡を残していたが既に生活に支障を来すものではなかった。 パックは亡き父の後を継ぎブルメシア王として即位し、時を同じくしてフライヤとフラットレイの結婚式も取り行われた。 国王の戴冠式と国を救った英雄達の結婚式である。各国の王族や一緒に戦った仲間達、ブルメシア人の全てが祝福し盛大に執り行われた。 遠くの方から花火の音が聞こえてくる…。ベアトリクスはブルメシアの方角に立ち上がった。作業を手伝っていた者達は殆どがブルメシアへと行っている。一人残っているのキルデアだけだ。 「今、始まったのかしら?」 ベアトリクスの独り言のような呟きを聞いて、キルデアが頷いた。 「そうですね。パック様、フライヤ様、フラットレイ様とさぞご立派でありましょう。」 「あなたは何で行かなかったの?キルデア?」 「私くらいはこちらに残っていた方が良いかと思いまして。」 「別に気を使わなくてもいいのですよ?私の分までお祝いしてくれたらそれで嬉しいわ。」 自分はブルメシアの地へと赴くことはできない。たとえ親しき友人の結婚式といえどもだ。そんなベアトリクスの気持ちを汲み取ってか、キルデアもブルメシアの方を見上げて言った。 「大丈夫ですよ。あなたの想いはきっと届いていますよ。」 「ありがとう、キルデア。」 その時、ブルメシアの方角から白い鳥の群れが飛び立ってくるのを視界に捉えた。鳥達は一斉に羽ばたきながらこちらへと向ってくる。その光景を見てベアトリクスは目を見張った。 「すごいわ!あの鳥達は一体何かしら?あまり見かけない鳥のようだけど。ブルメシアの方から飛んできたようだわ。」 キルデアも目を細めてそれを見やった。 「ああ、あれは磯鴫の仲間でウィルプスという鳥ですよ。古来よりブルメシアではウィルプスは喜びと幸福を運ぶ鳥をして伝えられています。幸せを運び、そして遥かな海へと喜びを広げるといわれています。珍しいですね。最近ではあまりしなくなったようですが結婚式の時、参列者達が捕まえてきたウィルプスを一羽づつ一斉に空へと放して、新郎新婦を祝福するのです。フライヤ様とフラットレイ様のご結婚式ですから、皆も出来る限りのお祝いをなさったのでしょう。」 「幸福の鳥の祝福…。とっても素敵ね。」 「そうですね。」 ウィルプスは今、ベアトリクス達の頭上を掠め、羽音を残しながら砂漠を飛び越えて行く。海へと皆の幸せを広げに行くのだ。その姿を見ながら、二人は作業を続けた。 日も傾きかけた頃、作業場に奇妙な一団がやって来た。砂漠には決して似合わないドレス姿や礼装姿の者達だ。 「ベアトリクス!元気だった?」 背後から聞こえたその声に驚いたベアトリクスだった。まさかと思いつつも後ろを振り向く。 「ガーネット様!」 そこにいたのはピンクのドレスを纏ったガーネットと、着なれないスーツを何とか着こなしていたジタンだった。 慌てて駆けより敬礼する。それを見てガーネットは微笑んだ。 「ベアトリクス。あなたはもうアレクサンドリアの軍人ではないのよ。私に敬礼しなくてもいいわ。」 「いえ。」 「相変わらずね。」 ガーネットは変わりないベアトリクスの姿に安堵を覚えた。ブルメシアでの式典の方が終わったら帰りにどうしても立ち寄りたいと思い訪れたのだ。 「ガーネット様、わざわざこんな所へとお越し下さるなんて。」 「ヴァルド先生からいろいろと話は伺っていましたが、やはりあなたに直接会いたかったの。」 「お気遣い、ありがとうございます。」 「よう、ベアトリクス。久しぶりだな。」 「お久しぶりですね。ジタン。」 「元気そうで何よりだな。スタイナーのおっさんも来ればよかったのに『自分は飛空挺の警備をするのでありますっ!』なんて偉そうに言ってよー。」 「ジタン!」 「いでぇ〜!!」 ガーネットはジタンの足をおもいっきり踏みつけた。ヒールの先がジタンのつま先にクリティカルヒットする。ベアトリクスは苦笑しながら聞いた。 「スタイナーは元気ですか?」 「ええ、彼も相変わらずよ。将軍としてちゃんと任務を果たしているわ。」 「それはよかった。」 「ちゃんとと言うより、よけいにうるさくなっただけだけどな。それよりも早く始めようぜ!」 「そうね。」 二人は上着を脱いで作業台の上に掛けた。 「始めるって、何をですか?」 腕まくりしだした二人のにベアトリクスはあっけに取られながら問う。 「何って…。決まってるだろ?ここの手伝いだよ。」 ジタンはさも当たり前の口調で言い放った。ベアトリクスはますます驚いて、とにかく止めさせようと必死になった。 「いけません!ガーネット様!お召し物が汚れてしまいます!」 「いいのよ。ドレスくらい汚れたってかまわないわ。それよりも魔法が使える人があまりいないんでしょ?」 「そうそう、遠慮はなしだぜ。って、俺の服は汚れてもいいのか?」 「いえ、そういうわけでは…」 「ならいいだろ?それに力仕事に最適な奴らもいるしな。」 ジタンが指差した先にはタンタラス団の面々もいた。それぞれキルデアから作業手順を聞いている。 「ベアトリクス、あなたががんばっているのだから私だってやりたいのよ。」 「あんまし時間も無いからな。とっととやろうぜ。」 思いかけない助っ人達は作業をしながらフライヤの結婚式の様子を、アレクサンドリアの現状を話していき、日が沈む頃にそれぞれの帰路に発っていった。 それから一週間が過ぎた。 「ベアトリクス様、お久しぶりでございます。」 ベアトリクスを尋ねて顔見知りの若い女性が作業服姿でやって来た。解散したベアトリクス隊の隊員達だった。 「あなた達、一体どうしてここへ?」 嬉しさと懐かしさに顔をほころばせてベアトリクスは聞いた。一人が差し入れを渡しながら事のいきさつを話す。 「実はガーネット様が、クレイラへと朝、夕の飛空挺を飛ばすことをお決めになったのです。」 「ガーネット様が!?」 「はい。たしかにアレクサンドリアという国が直接クレイラの再建に関われば表向きの外交問題になるでしょう。ですが単に飛空挺を飛ばしているだけならと…。ベアトリクス様は、私達にはこの件に一切関わるなと、お辞めになる時仰られました。ですが、どうかご一緒させて下さい。これならば、アレクサンドリアを守ることにも支障なくできます。」 ベアトリクスを慕い、自ら進んでやって来たのだ。 自分は何と良き主君と部下とに恵まれていたのであろう。ベアトリクスはこの時に改めて思い直した。 「みんな…。ありがとう。ですが決して無理はしないようにして下さい。」 「はいっ!」 定期便が来るようになって作業スピードは驚く程早くなった。人員や資材の運搬の時間が短縮されたからだ。仕事内容も皆の意見を積極的に取り入れ改善していく。人を指揮し要所に配置する能力は、人数が増えるにつれ発揮されるのだった。 4月―― クレイラに来て半年が過ぎた。ベアトリクスはあれから休むこともなく働き続けていた。 「一日くらいはゆっくりしたらどうですか?気分転換をなさるのもいいし体を休めるのもいいと思いますが…」 その日の作業が終わり、花の巫女シャロンと共に小屋へと向かった。 「心配してくれてありがとう、シャロン。でも、私は大丈夫よ。皆もがんばっているから、それが励みになってるの。」 「ですが、少しは休まないと。体を壊したら大変ですよ?」 「ふふ。私は見た目よりは頑丈にできているのよ。」 ベアトリクスにしてみては、珍しく冗談めいた言葉だった。 夕日に染まる小さな小屋が見えてきた。が、その小屋はいつもと何かが違って見えた。入口のドアの前に何かが置いてあったのだ。 「何かしら?」 ベアトリクスは目を凝らした。どうやら花の鉢植えのようだ。近づくと、白くて丸い大きめのプランターに淡いオレンジ色の見事なバラが植えられており、淵には赤いリボンが掛けてあった。メッセージカードが添えてあって、ベアトリクス宛へと書かれている。カサッとカードを開いた。 「誕生日おめでとう。体に気を付けて。」 たったの一言。ベアトリクスはカードを持ったまま突如、走り出した。目指すは飛空挺の発着場。だが、すでに飛空挺の姿は無くそこにはただただ、草原が広がっていただけだった。無気味な静けさに包まれてながらも最も美しい夕方の景色。サァーと草が風に靡く音の中、暫くの間その場に立ち尽くした。 ふと振り返り、沈みゆく夕日を背にした山々の彼方を見つめる。その方角に飛び立っていったであろう飛空挺を思い浮かべたのだ。行く先はたったの一つ。遥か、遥か遠い北東の地。湖に囲まれた美しきアレクサンドリアの地…… 小屋へ戻るとシャロンが扉の前で待っていた。 「ごめんなさい、シャロン。」 「気にしないで下さい。でも急にどうしたのですか?」 ベアトリクスはプランターに目を落とした。砂漠では決して見られないしっとりと水気を含んだ花びらは、生気に満ち溢れているようだ。 「どうやら私の知り合いがこの花を置いていったみたいで。まだいるかと思って、飛空挺の発着所に行ってみたの…」 「そうでしたか。このバラを選ぶなんて…。本当に素敵な贈り物ですわ。」 「ええ、バラは私の一番好きな花なの。」 「いえ、そうではなくて…。このバラの名前、知ってます?」 「何て言うの?」 シャロンは少しもったいぶって、そして、くすくすと長く編んだ髪を揺らしながら笑った。 「『ベアトリクス』っていうのですよ。」 「……。」 何て言っていいのか分からず、ベアトリクスは言葉を失ってしまった。 「ベアトリクスは数が少なくてとても珍しいんですよ。これほど立派な鉢植えは見たことありません。きっと手に入れるのに大変だったでしょうね。」 バラは夕日を受けとめ、オレンジの色をさらにを燃え上がらせている。 穏やかな風に吹かれて静かに揺た。凛とした透き通るような甘い香りがほのかに漂う。まるで今の自分の心を映し出すかのように… 自分と同じ名前を持つそのバラは、ベアトリクスが知る限り、世界一不器用でいてそして生真面目な男がくれた、初めての誕生日プレゼントだった…… |