ジャンク闘病日記2001・その4

11月26日(手術当日)
いつも通りの時間に起床。洗面所で出会う人それぞれが「今日手術やろ」「がんばりや」と声をかけてくれた。手術は朝9時からの予定である。7時半頃には家族と何人かの友人がわざわざその日の仕事を遅らせて来てくれた。
病室内で話をしていると看護婦の大矢さんが注射を持って来た。安定剤だ。また筋肉注射だ、イタイイタイ。麻酔を効き易くするために打つのだとか言っていたような気がする。

この注射を打ってから手術後にICU(集中治療室)で目を覚ますまで、記憶が途切れている。
手術室へ運ばれて行ったことも麻酔を打ったことも何一つ覚えていないのだ。

つまり私は手術直前の、緊張してガチガチになっているのが普通の時間に、安定剤ごときで眠ってしまったのだ。家族によると注射を打つや否や物凄い勢いで眠り込んでしまったらしい。大矢さんも「こんなに安定剤が効いた人は初めて」と手術後に言っていた。
先の血管造影で血圧が低いままだったこともあり、私は非常に緊張感の欠ける患者とみなされた。

手術は午後2時頃に終わり、その後すぐにICUに入った。家族は手術に思ったより時間がかかったので少し心配したという。ICUで目覚めたのは午後3時頃だったと思う。ICUの看護婦の菊池さんがすぐ側に居て、計器のチェックやら何やら仕事をしていた。
何しろ安定剤を打ってからの記憶がないので、目が覚めても自分の置かれている状況が把握できなかった。ここはいつもの病室じゃないけど設備から察すると手術室でもなさそうだ・・・手術はこれからなのか?もう終わったのか?よっぽど自分から尋ねようかと思った。
そんなことを考えていると間もなく菊池さんが声をかけてくれた。「手術は終わりましたよ。よく頑張りましたね」
ああ、質問しなくて良かった・・・。
自分でもしばらく後になって気付いたのだが、実はこの時、質問したくても出来ない状況にあった。声が殆ど出ないのだ。

私が受けたHardy法という手術は上唇の裏面に切開を加えて、鼻骨と粘膜の間へ器具を入れる。
手術後は一度剥がした鼻骨と粘膜を再びくっつけなくてはならないので、鼻にチューブを入れて粘膜を圧迫しているのだ。麻酔の効き目が消えてくるとその痛さが襲ってきた。
これはマジで痛えぇぇぇぇぇ。
更に、鼻から喉からこの辺りの粘膜全体が熱をおびて腫れ上がっている。咳も痰もゴロゴロ出る。息は口からするしかないのだが、喉はガビガビに乾いて息苦しいことこの上ない。
退院してから、同じ病気の方が書いた手記をいくつか読ませてもらったが、病院によっては手術前に口呼吸の練習をするらしい。もし練習していれば少しは楽に呼吸が出来ただろうか?
沢崎先生がやって来た。「鼻に居れたチューブ、痛いでしょー。明後日には取れますよ」明後日までこの激痛が続くのかと重い気持ちになった。
山崎先生と母も来てくれた。ちょっと難しい場所もあったが、腫瘍はきれいに取れたとのことだった。

目が覚めた後は、意識障害などがないか簡単なテストをした。自分の名前とその日の日付が言えるか、目にライトを当てて瞳孔が縮むかどうか。これをICUに居る間、4〜5回繰り返した。
正直、2回目3回目になるとウザーと思えてきた。息をするのもやっとの状態なので、きちんと声を出そうとするのは大変苦しい。しかも日付は11月26日と1年のうちで最も字数の多い時なのだ。2月3日とかなら良かったのに。
瞳孔テストの際はライトが眩しくて、面白いぐらいの勢いで涙が出てきた。粘膜が刺激されっぱなしなので、涙や鼻水が常に溢れてきた。

ICU内で私が居たところは個室のようになっていた。手術直後はベッドの上に裸で寝かされていたので(その上に毛布はかけられていたが)ありがたいことだった。時々、他の患者の声が聞こえてくる。会話の内容から察すると1週間以上前からここに居て、食事も普通に摂っている人が一人居た。この人はどういう理由で一般病棟に戻れないで居るのだろう、などぼんやり考えてみた。

体には色々なチューブが繋がっていて、一人で寝返りを打たないように注意されていた。
首の右側、鎖骨の辺りに抗生物質の点滴。抗生物質は痛いと他の患者が言っていたが、なるほど確かにじんわりと痛む。左腕静脈に点滴。ブドウ糖か何かが入っていたと思う。左手首動脈にも点滴。
左手人差し指には心拍数を測るセンサー。これは何度も外れてそのたびに警告音がうるさい。胸と腹部には心電図のセンサー。そして尿道カテーテル。

ICUには翌日の朝まで居たのだが、時間の経つのがこれほど遅く感じられたこともなかった。眠る以外にすることはないのだが、寝入ってもすぐに息苦しくなって目が覚めた。どれ位眠っただろうと時計を見ても30分も経っていなかった・・・これの繰り返し。
次から次へと痰が出る。血が混じっていてイヤな味がする。一晩で箱入ティッシュを半分以上使ってしまった。時々イソジンで口をすすぐと、喉の腫れと乾きが微かに癒され、またすぐに息苦しさが戻ってきた。熱が出ていたせいもあってか、腰が痛かった。自由に寝返りも打てないのが辛かった。

この手術直後の苦しさは予想以上だった。ただ、手術が終わったことによる安堵感で気持ちは落ち着いていた。不思議なほど、手術の成功を信じきっていた。
深夜、モノを食べる練習として菊地さんが氷を持って来た。熱と渇きで疲れた喉に氷の冷たさが染み渡った。こんなに美味しいものは他にないと思った。

11月27日(手術後2日目)
殆ど眠れなかったので、朝になって皆が動き出す時間が待ち遠しくて仕方なかった。8時になると病棟へ戻る準備が始まった。蒸タオルで体を拭き、心電図センサーなど体に繋がっていたものが次々取り外された。残っているのは左腕静脈の点滴、尿道カテーテルのみ。
昼前には脳外科病棟の大矢さんが迎えに来てくれた。ベッドに乗せられたままゴロゴロ運ばれ、ICUを出た。病棟に戻る前に画像診断部でCTスキャンを撮った。CT初体験。MRIと較べてなんと音の静かなことか。

病棟に戻った私は個室に入れてもらうことになった。この病院は病状の重い人を強制的に個室に入れるという方針はしていないらしい。個室は飽くまでも希望する人のためのものである。そして大学病院などと較べると料金も安い。
私は別に4人部屋でもイイかなと思っていたのだが、母が手術直後だけは個室の方がイイと主張したのでそうすることにした。後になってこの選択は正しかったと思い知らされることになった。

この日の昼から食事を摂れることになった。手術前の普通食とは違う五分粥膳で、毎回おかずの横にちょっとしたデザートが付いて来た。
食欲はまだ出てこないし、口や喉が不自由で食べ物を口に入れるのは大変だったが、重湯を少しとデザートの桃缶だけ戴いた。
普段は意識することがないが、食べ物を飲み込む時には同時に鼻から空気が出ている。鼻にはまだチューブが入っていて、空気が通る隙間は1ミリたりともないので飲み込むのが大変難しくなっていた。

食事が終わった頃、沢崎先生がやってきた。手術での出血は多くなかったのだが、貧血がヒドイとのことだった。輸血も考えた方がいいとまで言われた。他人の血を入れることへの抵抗は特に持ってないが、手術を終えて丸1日近く経っている私が貴重な血液を貰うのは申し訳ないような気がして断った。
以前にも貧血と診断されたことはあったが、それ以来食事には気を付けているつもりだったし、もう3ヶ月も月経が停止しているのに治っていないのは意外だった。早速母が売店で緑の野菜(伊藤園)を買ってきてくれた。味は野菜というよりリンゴジュースで、飲みやすいと思った。

11月28日(手術後3日目)
この日から朝食後に薬を飲むことになった。コートリルという副腎皮質ホルモン剤を2錠。

ついに、鼻に入っていたチューブを取る時が来た。最初の日から較べると痛みにも慣れてきていたので、取ってしまうのも惜しいような気が少しだけ、本当に少しだけした。
痛さと眩しさを我慢していると小指ぐらいの長さのチューブが出てきた。こんなデカい物が入っていたのかと思うとゾッとした。チューブを取り出した後は黄色い軟膏を塗ったガーゼを鼻に詰め込む。これも同じぐらい痛かった。どちらの時も涙がボロボロ出た。
どうやら沢崎先生には痛くて泣いているのだと思われたようだ。確かに痛いのだが、痛いから泣くというよりは生理現象として涙が出るという感じだった。こんなに鼻の中の粘膜を刺激して、しかもライトでギラッと照らされて他の患者は涙が出なかったのだろうか?私の涙腺が特に緩いのだろうか?
鼻ガーゼ交換のついでに下腹部の消毒。頭に開けた穴にここから取った皮下脂肪を詰めたので、5針ほど縫ってあるのだ。この脂肪の塊は時間が経つと小さく固くなって穴をきれいに塞ぐのだそうだ。

尿道カテーテルを外すための練習をすることになった。カテーテルを長時間入れているとその後の排尿を上手くコントロール出来なくなる場合があるのだそうだ。
まず、カテーテルの一箇所をぎゅっと縛り、2〜3時間ほどそのままにして膀胱の中に尿がたまるようにする。そして縛った箇所を開放。カテーテルの先にある尿パックに流れ出ればオッケー。
2回ほど練習したが、あまり上手くいかなかった。万一、夜中に尿が出難くなると困るので、外すのは翌日ということになった。
この日も終日ベッドの上だったのだが棚の中の本を取り出すために一歩だけ踏み出してみた。ヨロヨロ。

11月29日(手術後4日目)
朝食の後、すぐに尿道カテーテルを外した。今日から数日間、室内にトイレを置いて用を足すことになった。室内用トイレとはいうものの、実質大人用オマル。鼻が詰まっているので臭いは気にならないけど、先週買っておいた消臭剤を装備した。4人部屋に居たらこの室内用トイレは恥ずかしかっただろうなと思う。
最初は膀胱にたまった空気が出てきて気持ち悪かったが、無事に排尿できて一安心。
やっと、部屋の中なら自由に歩けるようになった。点滴の瓶をぶら下げる竿(これの正式名称は何なのだろう。看護婦の皆は「コロコロ」と呼んでいた)を借りて、ナイショで少しだけ病室の外へ行ってみた。

9時頃、沢崎先生が鼻ガーゼ交換にやって来た。やっぱり涙がボロボロ出る。その時、尿崩症の可能性があると言われた。そうだとしても水分をたっぷり摂っていればオッケーなのでは、とナメてかかっていたのだが、そんなことはない、体内のミネラルバランスが崩れたりするから気を付けないと、と注意された。

11月30日(手術後 5日目)
点滴が元栓だけになった。これからは朝夕に抗生物質を入れるだけになり、病院内を自由に歩き回れることになった。早速屋上へ携帯電話を持って行ってメール送受信。
屋上は携帯を使いに来た人の他に煙草を吸いに来た人、病室内でヒマをもてあました人が集まる場所になっていた。私と年の近いのは大半が整形外科の骨折系患者だった。私が脳の手術をすると言うと驚いたが、私の方は彼らが4ヶ月も5ヶ月も入院してると聞いて驚かされた。

病室の外に出られるようになったので、部屋に置いてあったオマルを撤去。これからは普通のトイレで用を足せばいい。ただ、尿崩症の疑いがあるので引き続き尿の量を計測することになった。
トイレに行く時は600ccのビーカーを持参、出た尿を全部採って汚物処理室にある尿採取マシーンに入れなければならない。
そう言えばやっぱり量が多いような気がする。1回の排尿で、ビーカーに入り切らないぐらいの量が出るのだ。悪いと思いながらも入り切らなかった分はそのままトイレに流してしまった。

個室には見放題のTVがあって、家では見れないNHK−BSを点けっぱなしにしていた。NBAを見れるのはイイなあと思った。スカパー!でも見れないことはないのだが、やたら値段が高いので、私は購入を諦めたのだ。
ジョージ・ハリソンが死去。皇太子妃が出産のため入院。

12月1日(手術後6日目)
1階中庭前のロビーにクリスマスツリーが出現。もう12月なのだ。土曜日なのに、沢崎先生が来て鼻のガーゼを交換してくれた。傷は小さくなって来ているとのこと。
鼻の上に被せてあるガーゼは自分で交換することにしていた。鼻が少し低くなっているような気がする。しかも1週間近くまともな洗顔をしていないのでかなりブサイク。鼻ガーゼが取れるまでは洗顔用のウェットティッシュで顔を拭いていた。

夕方からはW杯の組み合わせ抽選会の中継。日本の相手はチュニジア、ロシア、ベルギー。凄く強そうなチームはないが、ヨーロッパの国が2つもあるというのは不安だなあ。

12月2日(手術後7日目)
この土日は友人達が何人かづつ来てくれた。まだ唇が上手く動かないのですぐに喋り疲れてしまう。

夕方の点滴が終わった後、元栓ごと外した。長い間針を刺しっぱなしにしてあったのでだんだん点滴が入る速度が落ちていた。抜いた跡はくっきりと痣が出来ていた。

12月3日(手術後8日目)
朝、沢崎先生から負荷試験をする日程について相談があった。この週の金曜日か次の週の月曜日。私としては早くやってしまいたかったけど、先生はどちらかというと慎重に構えていて、次の週にしたいようだった。結論を出すのは水曜日に先送りにされた。

何もすることが無いし、特に安静にしている必要もなくなってきたので病院の北側にある公園まで歩いてみた。いい天気で、12月なのにネルシャツ1枚でも寒くなかった。
本当は、入院患者は敷地の外に出てはいけないことになっていたのだが、公園ではそれらしい寝間着姿の人と何人もすれ違った。
病室内にずっと居るともうすっかり回復したような気がしたが、実際に外を歩いてみるとまだ足元がヨロヨロしていることが判った。

夕方、とうとう鼻ガーゼが取れた。ビバ空気。早速、入浴許可を得ようと詰め寄ったが、明日にしなさいと止められた。
ガーゼを取ると息をするのが嘘みたいに楽になった。空気の通り道が出来ると食事の時も無理なく飲み込むことが出来るようになった。
それまで水と変わらないように感じられたお茶がの味が判るようになった。貧血を宣告されて以来毎日飲んでいる緑の野菜に、初めて野菜臭さが感じられた。嗅覚と味覚の密接な結びつきを実感した。

山崎先生が様子を見に来てくれた。私が沢崎先生に尿崩症を心配されていることを言うと、
「大丈夫大丈夫。ホントに尿崩症だったら1時間に1リットルぐらい出るから」
と言われた。考えてみれば今までは点滴を入れたり、口呼吸で喉が渇くため水分を多めに取っていたので、排泄量が増えるのも当然だった。
それにしても経験を積んだ医者の方が大雑把で、若い医者が神経質なのはどこの病院でも同じなのだろうか。
以前私の猫が怪我をしたので病院につれて行った時、大先生が往診に出かけていたので若い先生が診てくれた。若先生は爪が剥れかけているのを見て、「大先生が戻るのを待って処置をお願いします」と言ったので、私はどんな大変な処置をするのかと思った。
しばらくして大先生が戻ってくると、剥れかけた爪を見るなり「あー、これは取らなアカンわ」と言って素手で爪を剥した。大先生の処置はそれだけだった。後の消毒は若先生がしてくれた。

11月4日(手術後9日目)
午前中から昼までが女子の入浴時間になっている曜日なので朝食が済むと飛んで行った。
髪がガンガン抜け、垢がボロボロ落ちる。風邪でもひくといけないのであまり長風呂はしないよう心掛けた。欲張らなくても、これからは毎日入れるのだから。

看護婦の大矢さんにもう4人部屋に移ろうかなというと、すぐに婦長の石塚さんを先頭に1個師団がやってきて、引越が始まった。移ったのは第1週に居た、東端の部屋の同じスペース。私の手術前日にこの部屋に入ってきた津田さんが「お帰り」と言ってくれた。