石川啄木文学散歩・東京


啄木が金田一京助と一緒に下宿した
「蓋平館」下の坂道
2005年4月13日撮


―啄木終焉の地から―

 私が東京の啄木ゆかりの地を訪ねたのは小春日和の穏かな日であった。

 啄木は明治45年4月13日、肺結核のため小石川区久堅町(現在・文京区小石川5―11―7)で、26歳と2ヶ月の短い生涯を閉じた。

 啄木終焉の地は、地下鉄丸の内線の「茗荷谷駅」で下車。駅前の春日通りを右へ進み、小日向台4丁目の信号を左折。播磨坂を少し下った左側の「チャイルド本社」の手前を左折。更に「エ―ザイ竹早ビル」の手前を左折すると、「宇津木マンション」の前に「石川啄木終焉の地」と刻まれた、都旧跡の碑が建っている。「茗荷谷駅」から約5分ほどである。

 栃木県在住の星雅義氏の調べでは、昭和28年頃この地に、石川啄木記念館が建立される予定であったが、「都の財政事情などで実現しなかった」ということだ。

 胸を病む啄木一家が、床屋の二階を追われてここに移り住んだのは、死の前年8月7日であった。函館の友人、宮崎郁雨の援助であった。が、その郁雨と義絶したのも、母カツが亡くなったのも、啄木の死後に刊行された『悲しき玩具』が編まれたのも、この地であった。

 播磨坂の桜は、4月上旬頃が見ごろだろうか。坂を下りきれば、冬木立の繁る小石川植物園がある。かつてはその中に、啄木や節子が入院したことのある帝大病院もあったが、今はない。

 今回は坂を下らずに当時の啄木が、床屋の二階から引越しのときに通ったか、と思われる春日通りを逆に、25分ほど歩いて「喜之床」(現在・文京区本郷2―38―9)に着いた。

 「喜之床」の屋号は「バ―バ―アライ」と変わり、啄木が住んでいた頃の家屋は、犬山市の明治村に移築されている。

 啄木一家が床屋の二階二間に住んだのは、明治42年6月から44年8月までの2年余りであった。

 啄木はここで、妻節子と母との確執の狭間にあり、節子の家出や長男真一の誕生と死、幸徳秋水らの大逆事件など、多くのことに煩悶したが、不朽の名歌集『一握の砂』を刊行し、評論「時代閉塞の現状」、長詩「はてしなき議論の後」や「飛行機」、などを書いた。

 春日通りを上野方面に向かって進むと、10分ほどで湯島天神に着く。天神の裏側が啄木の歌にもある「切通の坂」で、そこには啄木の歌碑もある。が、今回は春日通りを横断して、「喜之床」の真向かいになる細い道を進んだ。

 すぐに本妙寺坂となり、この坂を下った十字路の左側には、樋口一葉の旧居跡もあるが、そのまま直進すれば登り坂となり、まもなく三叉路がある。そこを左折して200メ―トルほど進むと右側に、啄木の下宿跡「蓋平館別荘」(現在・太平館/文京区本郷6―10―12)がある。

 「喜之床」から歩いて10分ほどの所である。ここも屋号は「太平館」と変わっているが、修学旅行の学生を主客とする旅館であったことが、何故かうれしく感じた。

 啄木の「蓋平館別荘」時代は、生活と文学に対峙した苦闘の日々でもあったが、親友の金田一京助と共に住み、与謝野鉄幹、晶子夫妻や森鴎外などの知遇を得て、面目躍躍とした所でもあった。

 ここでの生活は、9ヶ月余りであるが、かの有名な「ロ―マ字日記」が書かれたのも、ここ「蓋平館別荘」の中二階にあった、三畳半の部屋である。

 今、「太平館」の玄関前には、「東海の小島の磯」の歌を刻んだ碑が建っている。

 「太平館」の前を通り過ぎると、すぐに「新坂」と呼ぶ急な下りの坂道となる。私は二十数年前にも、ここを訪ねたことがあった。その時の私は、浅草の夜の巷を彷徨する時の啄木も、この坂道を下りて行ったのだろうか、などと思い、22歳の俄か独身であった啄木を、急に身近に感じた日のことを、懐かしく思い出した。

 「太平館」の斜め向かいの細い道を入り、次の道路の向かい側にある、雑貨屋の左横の小道を進み、長泉寺の前を左折した所が「赤心館跡」(現在・(株)オルガノ本社・文京区本郷5―5―16)で、蓋平館別荘跡からは徒歩約5分である。

 明治41年5月4日、文学で身を立てる決心をした啄木は、函館の友人宮崎郁雨に母と妻子を託して単身上京し、盛岡中学の先輩である金田一京助を訪ね、その好意によって「赤心館」に、同宿することになった。

 啄木はここで小説「菊地君」「病院の窓」「二筋の血」などを書き、短歌「東海の小島の磯の…・」や「己が名をほのかに・・…」などの多くの名歌、秀歌を詠んだ。しかし小説は売れず、厳しい下宿代の催促などもあって、死を思うこともあった。が、金田一京助の友情に助けられて同年、9月6日「蓋平館別荘」へ移って行った。

 都が設置した「赤心館跡」の案内板を読みながら私は、啄木が「赤心館」に入った時と、出た時に日記に記した、金田一京助に対する、深い信頼と感謝の言葉を思い出していた。

 そして、その心が、今日に残る「啄木短歌」の原点なのではないか、と思った。
 今回の東京啄木文学散歩は、本郷界隈が中心であったが、そのほかの主なゆかりの地などを記しておく。

*啄木最初の下宿跡・大館みつ方(文京区音羽1―6―1 *都の案内板がある。)

  *東京朝日新聞社跡の歌碑(中央区銀座6―6―7 朝日ビル前)

*JR上野駅構内の歌碑(東北新幹線改札口前広場)


*JR上野駅(不忍池改札前)の駅前商店街入り口の歌碑(アメ横の隣)

    (角川書店発行「短歌」平成7年4月号より転載)

 (後書きメモ)
 先日、横浜市に住む旧渋民村出身の知人、K.I 氏より、今年も4月13日の啄木忌に、中学(渋民)や高校(盛岡)の同級生数人で、啄木終焉の地へ行って来ました。生憎の雨でした。(平成17年5月10日)という手紙を頂いた。K.I氏たちはその日、近くの区立小石川図書館に立ち寄って、特別コーナーとして揃えてある「啄木図書」を各自が開いて啄木を偲んだという。
K.I氏が開いた吉田孤羊著『啄木短歌の背景』の中には、次ぎの一首があって感慨深いものがあった、とも記されていた。

  あはれかの我の教へし
  子等もまた
  やがてふるさとを棄てて出づらむ
            (『一握の砂』)

 私はK.I 氏の手紙を読んで、湘南啄木文庫のホームページの「東京文学散歩」を工事中のままにしている事を恥じた。
 実は一昨年の秋から数回、本郷界隈を散策して草した文もあり、それは上田博編『明治の結婚小説』(H16・9おうふう)に「明治の文学散歩」として収録されているが、その都度に訪ねた啄木ゆかりの地にも、上記掲載の文を草した10年前の頃と大きな変化は無く、私の気持もほぼ当時のままなので、ここに掲載してみたが、これは後日書き改めるつもりでもある。(2005年5月15日・佐藤)



啄木が金田一京助と一緒に下宿した「蓋平館」の玄関右に
金田一京助の揮毫による「東海の・・・」の歌碑がある。
2005年4月13日撮

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