戦争と平和の経済

   大東亜戦争と東京裁判史観

 戦時中の経済とはどのようなものなのでしょうか。日本は第二次世界大戦に向かう段階で国家予算の五割が軍事費だったと言われています。当時は天皇主権の時代だったので皇室歳費の割合も現在よりも遙かに大きいものでした。これでは国民生活のために割かれる国家予算はほんのわずかなものにならざるを得ません。この軍事費の国家予算に占める割合を削減しようとした当時の大蔵大臣の高橋是清は2・2・6事件で軍部に暗殺されました。その後日本は軍国主義の色彩が一層強まり世界大戦へと突入したというわけです。

 第二次世界大戦後の冷戦時代にはアメリカの国防費は連邦予算の三割だったそうです。アメリカの人口は日本の約二倍でありGNPもほぼ日本の二倍です。国土面積は日本の五十倍ですが人口と経済規模はほぼ比例していて、一人あたりGNPはそれほど大きな違いはないと考えても良いでしょう。二千四年にブッシュ政権が発表したアメリカの国防予算の額は四十六兆円で、これは日本の年間の国債発行額を優に上回っています。日本のGDPは二千四年時点で五百兆円ですから、その一割にも近づこうというほどの額です。イラク戦争による多大な出費もアメリカのこの時点での過去最高と言われる財政赤字に関係していることでしょう。戦後の日本の防衛費(軍事費と呼んでも良いものだと思いますが)は1%条項 (GNPの1%)によって非常に割合的には低く押さえられていますが、日本の経済規模が元々大きくなっているために額面の上では世界第二位の軍事費総額といえます。第二次世界大戦の時点における日本は現在のような経済大国ではなかったので、国家予算の多くの部分を軍事に回して初めて戦艦大和や零戦などの開発が可能だったと言えると思います。経済規模が小さな国が世界的な水準の軍事力を手に入れようとする場合には財政面で大きな負担となるような構造にしなければとうていその目標が達成できないわけですし、財政面での負担は一般国民への負担となってのしかかってくるわけです。

 戦前の日本は石油の八割をアメリカからの輸入に頼っていたと言われます。そして日本のアジア侵攻が激しくなった時点でアメリカは石油の輸出禁止すなわち禁輸措置を決定しました。このような決定を日本はアメリカが対日本への参戦することへの前触れと受け取り、日本はアジア植民地諸国の石油に自国エネルギー補給の活路を求めました。しかしそのような方法では十分なエネルギー源を確保できず、戦時中の日本国内は極度のエネルギーの不足に陥り、国内の松の根などからも油成分を取り出さなければ零戦などの兵器のエネルギーを確保できない状態となっていました。特攻隊員などは帰還のためのエネルギーなしで突撃してゆきました。「出撃=死んで帰る」と言うことを意味していたわけです。当然の事ながら国内の食料の状態も生産の低下に見回れていたといえます。九十年代も末になった時点で北朝鮮国内は二年連続の気象異変と農業政策の失敗そしてソ連邦崩壊による安い石油の供給の当てが無くなったことによって食料生産に機械力を使えなくなり極度の食料不足に陥っています。しかも北朝鮮当局はそのような国内的危機を軍事力増強で乗り切ろうとしていますが、そのような政策では一般国民の生活は窮乏せざるを得ないはずです。外貨のほとんどを軍備増強のために使ってしまえば国内に食糧危機が存在していても国民のための食料を輸入によって購入することはできなくなるからです。北朝鮮の人口は二千三百万人ほどと言われますが、この時点において飢えで死んでいった人たちは二百万人〜三百万人と言われています。

  そのように国民の大きな犠牲の上ではじめて可能になった兵器が他の国の人々にとって脅威でないかと言えば、たとえその兵器の開発をした国の人々がどれほど経済的に惨めな思いをしていたとしても兵器そのものは脅威であることには変わりがありません。それは戦時中の日本の戦闘機である零戦の性能はアメリカの戦闘機よりも飛行速度において優っていたと言うことをアメリカ人自身が認めているように、いかに当時の日本国内の経済状態が日本の一般国民にとって厳しいものであったとしても、そのような状態の下で生み出された兵器そのものは非常に他の国にとって脅威であり得たのです。当然の事ながら北朝鮮の国民が経済的にいかに窮乏していると言ってもそのような体制の下で作り出された北朝鮮のミサイルが日本にとっては脅威であることと同じです。

 「戦争があると科学が進歩する」とよく言われます。それは国民の富を国家規模で国家に移転しそれをある特定分野すなわち軍事関連の分野に集中的に投下することの結果として生まれ出てくるものだと思います。ある分野に人・モノ・カネをある程度の期間集中的に投入すればその分野はそれに応じた技術進歩をするはずです。医学分野も人体実験など人間の生命を尊重しないで自由に実験できる時代の中では多くの人間を犠牲にしているとはいえそれなりの進歩を遂げます。人間の脳のどの部分が言語野であるのかと言うことがわかったのも、戦争で頭部を負傷した兵士の言語能力の異常などから得られた知識がきっかけになってもいたからです。軍事関連分野で起きるような技術進歩は何も戦争の時だけにおいて起こることではなく平時においても同じ事だと思います。平和時においても、民間企業は研究開発投資の費用を削ることは自分の命取りにもなることを知っていると思います。研究開発投資を怠れば次の時点での自社の競争力が低下してしてしまうからです。九十年代も終わろうとしている時点では日本の自動車メーカーの国際的な提携話が盛んにマスコミで報じられていますが、安全対策と環境対策の開発費が膨大であるために国際的に自動車産業が再編成されている訳です。生産台数が年間四百万台体制の自動車メーカーでないと環境対策費などの費用が工面できないと言われています。また環境対策や安全対策を怠ればそのメーカーは消費者から見放されて行きます。結局生き延びていけなくなるわけです。戦争の時には政府の意志決定で技術進歩が生まれ出ますが平和の時代には消費者の意向によっても技術進歩が生まれ出ると言えるわけです。

 戦後の日本においては戦時中の軍需産業であった航空機メーカーの多くは自動車産業に転換して行きました。唯一例外と言えるのは日本の最大手の自動車メーカーであるトヨタ自動車が織物産業から自動車生産へと進出したことでしょうか・・・。冷戦時代の終焉に伴ってアメリカの企業も軍民転換を余儀なくされましたが、日本においては敗戦の時点でそのような大きな転換が社会の中で起きたわけです。軍民転換の中では社会全体の目標が変更されるのでその結果として生み出されてくる生産物も変化するわけです。すなわち軍事用品から民間人にとっての民需製品の生産に重点が移り変わります。戦時中の日本は確かに戦艦大和やゼロ戦という非常に優れた兵器を生産する技術力があったわけですが、満足に写すことのできるカメラ一つなかったと言われるように民需製品の生産という面では非常に貧弱な経済体制でした。戦後はこの民需を重視した体制に方針が転換されたわけです。そして戦争の時代すなわちここで言う第二次大戦における最大の発明は原爆だろうと思います。アインシュタインの相対性理論を基にしてロスアラモス研究所で研究開発され日本の広島・長崎に投下された原爆は第二次世界大戦中に行われた発明の中で最大のものだと私は思います。原子力は後に平和利用として原子力発電などの民間エネルギー部門にも波及してきましたが、元を正せば戦争の副産物でもあったわけです。冷戦の時代の副産物は核兵器搭載の大陸間弾道弾ミサイル(ICBM)などもありますが、第二次大戦の時にナチス・ドイツが1941年に開発した近代ロケット、すなわち液体酸素と液体水素を燃料とするV2ロケットとの組み合わせでもありました。 その中には北朝鮮のテポドンなども含まれます。また冷戦時代のもっとも画期的な発明はこれから日本が本格的に突入するであろう情報通信分野のメインであるインターネットだと思います。'69年にアメリカの国防省で数台のコンピューターをつなぎ合わせて行った通信の試験的実験に端を発したコンピューター通信やインターネットは二十一世紀にかけて世界中を変えて行く力を持つものでもあるでしょう。確かに日本人の発明による、そしてアメリカにおいてカラー化されたブラウン管式テレビも世界中の人に影響を与えましたが、これからはインターネットやテレビとの競争や融合も起こるのかも知れません。テレビの世界でまず行われていた人工衛星を利用した衛星放送も、インターネットの時代には衛星を利用した情報通信にも変化してゆける部分があります。人工衛星は冷戦時代に旧ソ連が世界で最初にスプートニクを打ち上げることで始まった発明でした。

  冷戦時代には米ソのつばぜり合いで核開発競争や宇宙開発競争が生まれていましたが、兵器開発はベトナム戦争の立て役者と言われるアメリカの国防長官マクナマラ氏の著書にあるように「鏡の理論」が存在していたことは確かでしょう。鏡の理論とは「相手はこれこれのものを持っているから我々はこれこれのものを持とう」というものです。そして相手も同じように考えるので、兵器開発は二つの鏡を向かい合わせたときのように無限の像を生み出し際限のないものになって行くということです。このような鏡の理論の世界でも技術はそれなりに進歩をするわけです。なぜなら人・モノ・カネを国家規模で軍需部門に投資し続けるからです。鏡の理論の下で米ソは宇宙開発競争にも突入しその結果が人類の月面着陸や現在のスペースシャトルなどにも結実しているわけです。そして冷戦終結後の世界の核の拡散の状況は大小様々な沢山の鏡を円形に並べた状態とも言えます。それら各々の鏡には複雑に他の鏡が映りお互いが無数の像を作り合っているとも言えます。

  戦争を経済的な生産という側面だけから見れば確かに戦争が始まっているときには鉱工業生産は増加します。それはピーター・タスカ氏が著書の中でグラフを示していることですが、第二次世界大戦の時には世界の鉱工業生産は大きくのびていました。ただ国民にとっての富が増えていたのかどうかは別の話です。国民の生活は窮乏を極めても鉱工業の生産を増加させることは可能であることは戦時中の日本が証明していたことでもありますし、また現在の北朝鮮もそのような国内的状況にあると思います。国民に必要な民需を犠牲にしながら軍需物資の生産だけに国家規模で産業が特化してしまえば、国民にとっての必需品の生産は二の次となり、国民の生活水準は低下せざるを得ません。ポール・サミュエルソンの『経済学』で述べられている「大砲かバターか」になるからです。 大砲の製造に国の富を集中させればバターは少なくならざるを得ません。経済学者のアダム・スミスは『諸国民の富』という本を書きました。需要と供給の水準によって商品の価格は決まるという「神の見えざる手」という彼の言葉はあまりにも有名ですが、彼は国民一人一人の経済的水準を引き上げるにはどうしたらよいかと考え分業を重視しました。分業は人間の一人一人の生産性を引き上げ結果的に人々の物的豊かさに貢献すると考えたのでした。フォードの流れ作業によるライン生産はまさにこの線に沿ったものとも言えますし、確かにそれは人々を物的に豊にしてくれる原動力でもありました。必ずしも熟練工でなくても工業製品の製造に参加できるようにしたのがフォードの流れ作業でした。その背景には熟練労働者がアメリカ社会には少なかったからだという指摘もありますが、大量生産方式という生産方式には大いに貢献したといってよいでしょう。戦後の日本は戦時経済体制の形で分業と品質管理を徹底させ経済的な富の生産という大目標に向かってひた走ってきたと言っても過言ではないと思います。戦時体制の中央集権的システムの方が統制がとれて物的な生産の場面でもその方式には利点があったことも事実でしょう。

 ですが皮肉なことに、人間は「パン無くして生きるあたわざる存在」ではありますが、「パンのみにて生きるにあらざる存在」でもあります。パンがない状態のところでパンが手に入れば少しくらいまずいパンでも人間は十分に満足しますが、いろいろのパンがあるところではなるたけうまいパンを手に入れようとし始めると思うのです。日本人の食生活をとっても戦後すぐの頃から比べれば隔世の感があるほど日本の食生活は贅沢なものになりました。学校給食のメニュー一つ見てもかつての学校給食に比べれば非常に恵まれたものを食べていると感じます。むしろ多くの人にとってはダイエットの方が関心事になるほどにもなりました。他の一般的な工業製品や家電製品などにも同じ事が言えます。「安かろう悪かろう」と言われたかつての日本の製品の話などは遠い昔話となって国際的に見ても日本の製品の技術力は非常に高いものになりました。世界の中でも日本の工業製品はブランドとしての地位を勝ち得たと言っていいでしょう。そして製品の生産性は向上してかつてから比べればそれらの製品の割高感は低下し、むしろ大量生産と大量消費からまれる産業廃棄物の問題の方が大きくクローズアップされるほどにもなってきています。そのような時代になると大量生産方式から多品種少量生産やオンデマンドあるいはジャストオンタイムなどのような生産方式へと生産の仕方も変わってゆきます。

 物的にもあるいは金銭的にもあまりにもぎりぎりの時には不平を言ったり自分の夢だけを優先したりする事はできず、ぎりぎりの状態を事実と認めてその状況を何とか改善する事だけに必死にもなりますが、それらのものがある程度みたされてくれば人間は自由や自分だけの夢を追うことあるいは幾分か給料が安くても自分自身にとってやりがいのある仕事や、風通しが良くて自由な雰囲気の職場などを求め始めると思います。そして社会の中でや職場の中でどれだけ自己実現が可能なのかを考え始めたりもすると思うのです。一世代あるいは二世代も前の人間にはそれらは考えることもできないほどの贅沢ともうつるのでしょうが、そのような人の数が増えてくること自体日本の社会がそれだけ豊になったことの証明でもあると思います。生きんがために生きたり食べるためだけに働いたりするのでは飽き足らなくなるわけです。

 しかし二十世紀も終わろうとしている日本経済の現状は不況に伴う完全失業率の上昇に伴って自殺率も上昇してしまっています。これまでビジネス戦士と呼ばれた世代の自殺が増えているのも事実でしょう。ビジネス戦士の名誉の戦死とばかり言ってはいられない状況があるわけです。戦後すぐの時点においては戦災孤児の問題がありました。車社会に突入した以後の日本には交通大戦争といわれる状況の中で交通遺児の問題が生まれてきました。しかし九十年代最後の時点では不況による自殺からビジネス戦士たちの子供たちが遺児になって行きそうな状況です。不況遺児と言われるような若い世代が生まれ出てしまうと言う状況の中では一般の家庭の中にも教育費が払えずやむなく子供に進学をあきらめさせたり学業継続が不可能にならざるを得ないような家庭が不況遺児の人数よりももっと多数存在しているであろう事は想像に難くないと思います。

 戦後のシステムが崩壊し、その余波で自殺者まで出る日本の状況は、日本のこれまでのシステムに何か欠陥があったのではないのかと考えさせるのに十分なものです。経済は人間がある程度幸せを得るための手段でしかないはずのものでありながら、その手段のために人間が死んで行かなければならないとしたら、それは何かしらおかしなことです。お金がなければ確かに困ります。しかしお金さえあれば必ず幸福になれると言い切れるものでもないはずです。高額所得者からすれば貧乏人に見える人にもそれなりの幸福が得られている時間もあることでしょう。なのになぜ手段でしかない経済のために人が死んで行かなければならないようなことになってしまうのでしょうか。戦時中の日本より戦後の日本の方が遙かにましな社会だろうと私は考えます。しかし戦後の日本よりももっとましな社会も作ろうとすれば作れると私は思います。その社会とはどんな社会なのでしょうか?平和はただで手に入るものではないにしても、戦争はそれ以上に高く付くものでもあるでしょう。戦時中のように極度の貧困に多くの国民が耐え忍ぶことなく平和の中でも自殺する必要などない社会をどうすれば実現できるのかと言うことです。