努力が報われる社会

 

 私が高校生のころの世界史の教科書だったと思いますが、ドイツの第一次大戦後の急激なインフレについての一つの出来事が書かれてありました。兄はまじめな人で、こつこつ働いて一生懸命に貯金をしていたのです。一方その弟は酒飲みで、飲んでは酒瓶を山のように積み上げていたのだそうです。第一次世界大戦に敗れたドイツは多額の戦後賠償を求められ、その返済のために多くの紙幣を発行したのでドイツ国内は未曾有のインフレに見舞われました。そのため、先の兄弟の兄の貯めていた貯金はほとんど価値がなくなってしまい、弟の山のように貯まっていた酒瓶は高く売れて弟は兄よりも遙かに金持ちになったと言うことなのです。当時はわずかばかりの物品を買うにもリュックサックに札束を一杯に詰め込んで買いに行かなければならないほどの猛烈な天文学的インフレの時期だったというわけです。貨幣価値は下がり物の値段が跳ね上がっていたのです。

 日本にもかつてそんな時代がありました。それは終戦後のどさくさの時期です。その一例を挙げると敗戦の年の千九百四十五年には白米:標準10kgの値段が3.57円であったものが翌年の四十六年では19.50円、四十七年で76.34円、四十八年が226円、 一ドル=三百六十円の固定レートが作られた四十九年(日本を占領したマッカーサーが日本の貨幣単位は円すなわち丸を意味すると聞いて一ドルを三百六十円[ドッジラインと呼ばれます。それまでは一ドルは六百円ほどだったようです 。]にしたとリチャード・A・ヴェルナー著の『円の支配者』で紹介されています。この固定レートは千九百七十一年八月十五日のニクソンショックで変動相場制へと移行することになりました。固定レートの時代からすればバブル崩壊後の八十円台の円高の時期は別としても百十円台ならば日本円の通貨価値は三倍以上になったといえます。)には405円、五十年では445円、五十一年には515円、五十二年(この年の四月二十八日に日本はアメリカの占領政策が終了し独立国になります。アメリカによるそれまでの日本の政治経済分野の大改革が行われて日本が戦後をスタートさせました。)では白米10kgは620円、五十三年は680円、五十四年は765円、この年以後白米の値段は安定し始めます。十年間で白米の値段はかれこれ二百十四倍になったわけです(白米の値段は二千六年五月に神奈川県立湘南高等学校の創立八十五周年事業で作られた『湘高新聞:復刻版』の年譜から取らせていただきました)。これ以後五十年以上経った時点でも白米の値段は10kgで5000円あれば銘柄米でもものによっては買えるので五十年間では七倍以下のインフレで収まっています。しかし戦後の十年間におけるインフレの局面では、ドイツほどではないにしもそれまで貯めてきたお金があったとしても価値が目減りしたと言う状態が分かると思います。白米で見る限り貨幣価値が二百分の一以下になってしまったからです。二百万円あったお金の価値が何もしていないのに十年の間に一万円になってしまったようなものです。バブル経済の時には一般物価は比較的に安定していたものの土地の価格が短期間に二倍にも三倍にもなり、それまで住宅資金のつもりでお金を貯めていたとしてもそれでは思うような場所に思うような物件は買えなくなってしまいました。

 個人レベルではまじめに努力してさえいれば必ず報われるという訳ではないことがこの事実からは伺えます。日本の社会の中では努力した人の努力そのものが正当に評価されているでしょうか?日本の社会で働いたり暮らしたりしている皆さんの回りでも、まじめな努力家でありながら報われていない人がいたり、結構いいかげんなのにほかの人より幸せになっている人もいるのではないでしょうか。また、「そんなことを言うなら自分はもっと報われていてもいいはずだ・・・」と思う人も日本には大勢いるのではないでしょうか。バブル崩壊以後の日本の不況の中でリストラの憂き目にあった人はそれまで不真面目に過ごしてきた人達ばかりで努力もしてこないでいたと言うことでもないはずですし、IT化社会の中で成功した人達の全てが超まじめな人達ばかりでもないようです。バブル崩壊以後の失われた十年と呼ばれる間に就職時期を迎えていた人達は超氷河期と言われる厳しい就職難の時期を経験し、非正規雇用でしか職にありつけないという時代も経験しました。しかしその後団塊の世代の大量退職の時期には景気も幾分戻り労働市場は売り手市場になりました。同じ努力を払っていたにしても時期によって学生達の就職の苦労は同じではありませんでした。これら十年ほどの超氷河期に遭遇した谷間の世代と呼ばれる二百十二万人に上る人達の苦労や努力はその後に就職した人達の努力よりも遙かに大きかったにもかかわらず得られる成果は乏しいものでしかなかったといえるでしょう。またどれだけ努力しても非正規雇用からはい上がる道がないようなシステムに日本はなっています。誰がその運不運を埋め合わせてくれるのでしょうか?どんな時代の中でもまじめに努力しさえすれば必ず報われるというのであれば、人は努力することを選択もするでしょう。しかし努力した人が必ず報われるか、またまじめに努力した人は全て恵まれた境遇になっているかどうかは時代状況によっても異なって来るというわけです。

 最近の話で言えば近年の日本の高齢化社会では、高齢者の介護あるいは胃瘻や痰の吸引などの看護を含めてなるたけ家庭で行うようにとの政府の方針が鮮明になってきています(胃婁の経管栄養や痰の吸引などを行うことは医療関係者か家族以外の人にしか許されていませんでした。現在はヘルパーさんなどでも研修を受ければできるように制度が改正されているかもしれません)。二千十五年五月二十七日の読売新聞朝刊の記事では、認知症の人一人を家族が介護した場合の介護負担費用が年間で382万円とされました。この中には見守りの費用などは含まれていないとされるので大きな欠陥があると言えるにしても数字が出されたのは前進と言えます。見守りが含まれていないことが大きな欠陥だという理由は、二千七年十二月に愛知県大府市で認知症の要介護4の九十一歳の男性が線路内に立ち入って死亡事故となり電車の運行を妨害したとして七百万円以上の賠償金をJRから請求されて裁判になった事例においてもわかることです。この事件は結局のところ家人が目を離した隙に男性が家から出て徘徊したことが原因で見守りに手落ちがあったとされたことからでした。この事件は最高裁まで争われ最終的には無罪とされましたが、介護されている人が寝たきりでもない限り見守りを含めないことは実際に介護の現場では考えられないことだと言うことの証明でもあるでしょう。ただ、不備があるとは言っても数字が出されたことは評価できることです。と言うのもこれまで専業主婦の家事労働などを経済計算した数字はありましたが介護に対する家族の負担額は出されていなかったからです。しかし国や地方自治体の財政は危機的状態なのでその様な家族に幾分かの経済的支援を公的機関が行えるというわけではなく、数字が出されたとは言っても結局の所は絵に描いた餅のようなものです。国は家庭で同居している家族に介護させた方が社会保障の費用を削減できるので要介護3までの人の介護はなるたけ家庭で家族に行わせよう、あるいは施設に入所できる条件として要介護3以上の高齢者を必要条件としてきたわけなので、同居家族による家庭での介護費用がこのような数字になるということをはじき出したからと言ってそれを国が費用負担するなどとは到底考えられないわけです。要介護3以上の高齢者でも入所したいと思ったらすぐに入所ができるとかというとそういうものでもなく、費用が比較的に安い特別養護老人ホームの場合などは施設に空きができるまで何年も待たされるのは介護の現場では常識的なものでもあります。私も老親を長年家庭で同居しながら介護してきていましたが、必要に迫られて成年後見人にもなりました。しかしこの場合、家族が介護に費やした労力の報酬などを親の年金からさっ引くことなどは成年後見人を所轄する家庭裁判所からはあまり歓迎はされません。また裁判所の方もこのような数字が出される前にはそれを考慮に入れようなどとは思ってもいなかったのかも知れません。「親子でも法律的には別人格」なので介護を受けている家族から介護をしている家族が金銭的利益を受けるべきではない、すなわち被成年後見人の所得や財産は減らすべきではないとされるのです。成年後見人の報酬の目安はリンクの通りですが、多くても年間で六十万円〜七十万円ほどです。また成年後見人には家族や親族ではなく司法書士の方たちなどがなるのが一般的なことのようです。二千十六年四月十三日のNHKの夜七時のニュースでは、「以前は成年後見人を親族が行う場合が多かったが不正が頻発したので司法書士や弁護士などの専門職が行う場合が増え現在では半数以上が専門職の人達が成年後見人の仕事をになっているものの、専門職による管理財産の使い込みなど横領の件数が増加傾向にある」とのことです。中には裁判所が紹介した専門職の人が横領をしたような事件もあると伝えられています。専門職の人が成年後見人になる場合には当然その人達は財産管理の部分だけを仕事とし被後見人の介護に直接関わって介護の労力を家庭の中に入り込んで分担することまで請け負うと言うことはないはずです。成年後見人の事務作業だけなら一人の専門職の人なら年間で十人分や二十人分の後見業務を担当できることでしょうが、一つ家の中で認知症の人間を一人で十人も二十人も介護することは不可能と言えるでしょう。すなわち成年後見人業務として払っている労力と介護に払う労力とでは負担している労力に大きな違いがあるというわけです。成年後見人は財産や資産の保全や管理に重点が置かれるので、家族や親族が介護をしながら成年後見人になった場合でもなるたけ親の収入などは減らさないようにすることが求められるのです。ですがもし自分の年収から382万円ほどが減額されるとしたらどうなのでしょう。「親子でも法律上は別人格だ」というのであれば、親の年金から介護いている子供がその金額を丸々受け取ってもよいはずのものですが、果たしてそれほどの年金をもらえている人はどの位いるのでしょうか?年収が二千万円や三千万円以上もある高額所得の人なら生活を幾分か見直すことで対応もできるでしょうが、介護が必要な人を抱えているのは必ずしもそういう人ばかりではありません。二千十六年の配偶者控除の見直し議論に関連して出された数字でも、それまでは百三万円までの妻の収入には三十八万円の控除が夫の収入からなされていたものが夫の年収などが一千百二十万円以上では二十六万円、千百七十万円以上では十三万円と徐々に控除は減額され千二百二十万円以上に達した所得がある世帯は妻は配偶者控除を受けられないようにすると言う場合ですら、それら夫の年収などが千百二十万円を超えるような世帯は二千十五年時点では百万世帯でしかないとされるので、日本の世帯総数が五千三百万世帯ちょっとであることからするとその様な世帯は全体の2%未満にしかすぎません。年収で三百万円〜四百万円くらいの減収などは痛くもかゆくもないと言っていられる家庭がどのくらいあるのかはこの数字から分かるはずです。二千十六年時点での数字では私が住む神奈川県の男性の平均年収は六百一万八千円ほど、女性は四百十五万円ほどとされています。神奈川県は全国の都道府県の中で平均給与は高い方で共働きなら平均給与で計算すると世帯収入は一千万円に近くなるとはいえ共働き率は全国で低い方から数えた方が早い位置にあります。また四十三・五歳の国家公務員の平均年収は四・一ヶ月分のボーナスを含めて二千十四年度では六百六十一万八千円です。月収では四十万九千五百六十二円でボーナスを除いた基本給だけでは年収が五百万円にすれすれ届かないと言ったところです。民間で働く会社員やパート従業員などの二千十四年度の平均給与は二年連続で上昇したとはいえ年収で四百十五万円、正規でも四百七十七万円ほどとのことですので、年収が五百万円や六百万円の人の場合はその中から四百万円近い額が減額されでもしたらたとえ法務省の官僚や検察庁に勤めている人あるいは裁判所に勤めている人であったとしてもそれは死活問題になったり生活設計が大きく狂うことにもなってくるはずです。企業などに勤めていて介護休暇を取れる間は減額されるとは言え収入はある程度確保されてもそれは90日までと言う条件があり、またその90日を三回に分けて取得できるように法改正されたとしてもうまくその範囲で介護が終了できるかどうかが問題となります。それができなかった場合などには離職して介護に専念せざるを得なくなる訳なので、その後にどれだけ介護のために多くの労力を家庭の中で払ったとしても無収入の状態になります。家族間での無償の行為は家族愛として美しいといわれるかもしれません。例えば子育てをしている母親が自分の食べる分を減らしてもそれを子供に食べさせようとすることは無償の愛とされ美しい母子の姿とされるでしょう。しかしそれにも限度はあって母親が栄養失調になって倒れてしまう程にまで自分の食事を減らしてしまえば子供の世話をすることも不可能になってしまいます。介護にも同じことが言えます。介護している人が生きてゆけないような条件に置かれたとしたら介護される人にも影響が及ぶのは当然です。私はあえて法に挑戦しようなどと言うつもりは毛頭ありませんが、法律関係の人でも自分が家庭での家族の介護に挑戦しようものなら条件次第では同じ苦境を味わうのではと思うのです。それとも法律の専門家だけしか知らない法の抜け道でもあるのでしょうか?成年後見人制度はもともとは精神的な問題から財産管理ができない禁治産者を対象に考えられた制度のようですが、年収から四百万円近い額のお金を減額されたりしたら平均的なサラリーマンの多くは生活が破たんし経済的に破滅してしまうであろうことは正常な精神の持ち主で正常な経済観念と判断力のある人であれば、幸運にも介護をせずに過ごせて直接自分がそのような経験をしたというわけではなくても上の数字を見比べただけで理解もできまた想像もつくことでしょう。「何かを学ぶのに自分で経験する以上にいい方法はない」とのアインシュタインの言葉をテレビCMは紹介しています。確かに家庭での家族の介護も自分で経験すればより深く理解できるだけでなく実感もでき同じ立場の人に共感する事もあるでしょう。しかし幸いなことに自分では介護の経験をしないで済ませられた人にも理解できる部分はあるはずだろうと言うことです。即ち正常な精神の持ち主であったとしても家庭での介護生活に入れば経済的には下手をすると破たんへの道にもなるということなのです。しかしそれは仮定の話だとは言っても家族による介護をただ働き同然のように扱っている現状では、それに近いことが家庭で介護している家族には現実に起きていることだというわけです。払った労力の382万円分をタダにされてしまったら介護プアー(介護者の貧困)が生まれてくるのは当然と言えるでしょう。このようなことを一般企業が行えばそれは「ブラック企業」と呼ばれるはずです。しかし国家ならば同じようなことをしても大っぴらにまかり通ると言うことになるのでしょうか?そして介護している人にも老後はやってくるわけですから、介護している人自身が下手をすると自分の老後の年金の積み立てもままならないことにもなり無年金の老後になって生活保護を受けることが確実にもなりかねないからです。そのような人が年老いて認知症になり成年後見人の制度を利用しなければならなくなった時には後見人への報酬すら支払えないことも起きてくるかもしれません。それでも成年後見人の役回りを引き受ける人はいるのでしょうか?後見人の費用を公費で負担せざるを得なくなることも考えられます。すなわち介護を家族に任せることでその時は社会保障費を低く抑えられていたとしても、後々になってその費用が増す結果になる場合も考えられるのです。先の記事では家族介護の費用の総計は六兆二千億円に上ると推計されています。この巨額な数字は二千十五年時点での消費税率に換算すればかれこれ2.5%分程の消費税収額に匹敵するものですが、実際には日本経済の中に表だっては数字として計上されることなく裏に隠れているものなのです。どんなに家族の介護を努力してもまた頑張ってみても、経済的にその対価は家庭で介護してきた人には全く保証されているものではありません。すなわち家族以外の所からは支払われようがないのです。二千十五年六月十四日の読売新聞朝刊には先の記事の関連記事が載り、その中に「当たり前と思われがちな家族介護の負担が初めて可視化されたことで、ようやく社会的な評価を得ることができた。負担に見合う支援の充実策を拡充してほしい」とのNPO法人「介護者サポートネットワークセンターアラジン」の牧野史子理事長の言葉が紹介されています。また私の場合には五月の記事が出る二ヶ月ほど前に家庭での介護は終了し私の手から離れているので、この記事の後で家庭で介護をしている人に対する何らかの対策が打たれたとしてもその恩恵に私は浴することはできません。それは私に運がなかったと言うことで人によっては「それが人生だ!」と言うかも知れません。であれば、首相などが「努力が報われる社会」とか「やる気のある人が報われる社会」とか、あるいは「頑張る人が報われる社会」とかこれまでいくつかの内閣がニュアンスの違いはあっても同じような言葉を言ってきてはみても、結局は家庭でこれまで介護をしてきた人達からすればそんな言葉はどれも所詮は絵空事に過ぎないものになります。「私は頑張ったから首相になれた」というのなら、家庭の中で長年家族の介護で頑張った人はそのことでいったい社会的に何になれるのかと言うことにもなるのです。現在は評価が小さくなったとはいえそれでも企業などでは年功も幾分かの評価対象にはなりますが、家庭内で長年家族の介護をしてきたとはいってもそのような人はそれだけでは社会的に評価はされません。もしそれらの人が社会的な何かになれるというのであれば、今の日本にはその様な部分には多様で豊富な人材が存在しているように私には思えます。なぜなら家庭で家族を介護している人の数は二千十六年時点での報道によれば五百五十七万人とされているからです。 

 また二千十五年七月二十五日の読売新聞夕刊には成年後見人制度が拡充されるとの記事が載りましたが、それにおいても後見人が郵便物の開封や火葬の手続きなどをできるようにすると言うもので、後見人が家庭で介護している人の介護負担の費用を計上もできるかどうかと言うことなどには触れられていません。国会での全会一致で承認されたとされる後見人制度の拡充でもやはり不十分なところがあると感じざるを得ません。認知症の人は約五百万人とされている中で政府としては二千十四年末で利用者が十八万四千六百七十人である成年後見人を増やし制度の利用を広く普及させたい意向のようですが、介護されている人の年金などが主な収入源と言える条件の中で家庭で介護しそれ以外にさしたる収入の道がないような人には、私の知り合いにも介護に追われる人達はいても、自分の経験から私はそれらの人にあまりこの制度を利用することを勧める気にはなれません。ことに介護している人が単身者(シングルマザーや父子家庭と同じような独り身の立場の人)である場合にはできることなら成年後見人の制度は利用しないほうがいいだろうと感じます。介護する人が何歳くらいから介護を始めなければならないのかは家族によってばらばらなので一概には言えないにしてもです。それは以上に述べたように現状では先の382万円とされる家族の介護負担の費用と成年後見人制度との間には大きな乖離があってその二つに整合性が無いように思えるからです。介護する家族にとってはヘルパーさんやケアマネージャーさんあるいは看護師さんなどは大きな力添えをしてくれる存在です。しかし成年後見人制度は家庭で家族を介護している人には力を貸してくれるようなものではないと言って良いでしょう。成年後見の制度は介護する側の立場の人にとっての配慮があまりにも不十分であるというかこの制度ではほとんど考慮の外に置かれてしまっているがために、家計のやりくりの上などで介護している人の生活が時間的な制約をうけるというだけでなく大きな経済的制約も生まれてしまうからです。すなわち成年後見人という制度はその前提条件が介護される側も介護する側も共に生きていられるものにはなっていないように感じられるからです。極端ないい方をすれば家庭で介護している人は生きていてはいけない、すなわち生存権も生活権も認められていないようなことにもなりかねないのです。それはあながち私の被害妄想だとばかりは言えないことだろうと思います。と言うのも「生活困窮者自立支援法」が制定されたことに関連して報じられた神奈川県川崎市における事例ですが、団地に母親と二人で住んで高齢の母親の年金などで暮らしながら母親を介護していた男性が、母親の死亡に伴い無収入の状態となりこの自立支援法を受けることになったと言うことです。その男性は介護の経験があることから行政の支援で介護資格を取得し介護施設で働くことができるようになり生活保護を受けずに済んだとのことでした。このように自立支援法の趣旨は経済的な困窮から生活保護に落ちてしまう一歩手前で何とかその人に仕事を探し生活保護を受けるような状況にならないように行政が手助けするというものですが、もしこの事例に挙げられている人の母親が介護されている途中で認知症になり男性が成年後見人制度を利用せざるを得なくなったとしたらどうなるのかと言うことです。後見人制度を厳格に適用して母親の財産を保全するために「親子でも別人格だから母親の年金を自分の生活費に充てることなどはまかりならない」とされたならば、その男性はその時点で生活保護でも申請しなければ生きてゆけなくなるわけで母親の介護もできなくなると言うことになってしまいます。これは非常におかしな話です。一つの国の中において一方の法律では生活保護に落ちることを食い止めようとしているのにもう一つの制度の方は生活保護に人を追いやることになってしまうからです。私は政府が成年後見人制度の利用を普及させようとすることに声高に反対はしません。普及させたければ推し進めてくれればいいと言うだけです。なぜならこの制度を多くの人々が利用するようになれば私がここで指摘しているこの制度の問題点を理解してくれる人もそれなりに増えてくることだろうと思うからです。これはテレビで流された情報ですが年収一千万円あった大手百貨店勤務の男性サラリーマンの人も家族の介護のために離職し介護生活に入ったがために生活保護にまで身を落とさざるを得なかった例も実際に存在しているのが現状のようです。そのご本人曰く「ここまで落ちるとは思わなかった」とのことです。ビジネス社会の中では成果主義とか能力給などと言われて報酬が決められているとはいっても、同じ能力の人間でもその人がどのような立場に身を置かざるを得なくなるのかによって収入などは全く異なったものになってくるわけです。これは同一人物の話かも知れませんが年収千二百万円あった人が介護がきっかけでホームレスにまで身を落とし、その後任意団体「反貧困ネットワーク埼玉」などで活動することで生活保護から抜け出した高野昭博さんの話などが『AERA』二千十七年一月二十三日号に”親子の大問題”で「親をリスクにしない」などの記事として特集され介護にまつわるオカネの問題なども色々取り扱われています。これまでには専業主婦の家事労働などを費用として計算した数字などは出されてきていました。それらの数字は夫婦が離婚する場合などに資産形成の上で果たした妻の寄与分として額を割り出す根拠とされ離婚の際の財産分与において参考とされる目安にもなるものでした。しかし介護においては介護している人の介護負担額が介護されている人が亡くなった時に遺産があった場合などに相続分から控除されるのかと言えば、介護されている人の財産を保全させておいた上でその遺産額に丸々相続税が課税されることになります。介護している家族にはほとんど何の権利も与えられていないと言って良いでしょう。すなわち介護している家族には専業主婦ほどの権利も認められてはいないと言うことにもなるのです。そうさせることで誰が得をするのかと言えば介護されてきていて死期を迎えた人でもなく介護してきていた家族でもなく相続税は国税なので税を徴収する国の利益になるというわけです。日本の国家財政は巨額の財政赤字を抱えているので「取れるものは取りたい」と国が考えるのも理解できなくはないのですが、それがあまりにも理不尽な形のものになってしまうと不満を持つ人が増えてしまうのではないでしょうか?家族の介護にまつわる悲劇が二千十五年十二月にはいくつも起きました。七ヶ浜での母親と兄の殺害事件や利根川無理心中事件などです。利根川無理心中事件などは、十年以上にわたる認知症の母親への介護疲れと経済苦による痛ましい出来事のように私には感じられます。私よりも遙かに厳しい環境で介護生活を行ってきていた方のように思えるので、父親の「お母さんを一人残すのはかわいそうだから一緒に死のう」という一言が介護していた娘さんの心にとどめを刺してしまったのかも知れません。その娘さんからすればまだまだ楽な環境の中で介護をしてきていた私だとは言っても、わずかな言葉でそれまでの耐えていた心の糸が切れそうになる感覚になったことは私にもあります。いずれ裁判ということになるのでしょうが、願わくば介護をされていた娘さんに少しでも温情のある判決が出されることを私は願うものの一人です。TBSの”ひるおび”の番組の中で八代英輝氏は「父親に対しては自殺幇助だが、少なくとも認知症の母親は死にたいとは言っていないので、これは厳しいかも知れないが殺人罪になる。」と述べていました。確かに「死にたい」とは言っていなかったにしても「死にたくない」と言っていたとも報道はされていません。あるいは「どちらでもいい」とも言っていなかったのでしょう。すなわち「死にたいとは言っていなかった」というのは事の半分であり、それを全てであるかのようにしてしまっているように私には感じられてならないのです。認知症の人達はその症状の進行度合いにもよりますが、情動や皮膚感覚などは残っていても自分の考えなどをしっかりと持てない、あるいははっきりと言葉で意思表示できなくなっている人なのです。私の母も認知症で家の中で転倒し運悪くこめかみの動脈を切って出血してしまい救急車で病院へ運んで処置してもらったことがあります。そして傷口を縫合してもらって一週間後くらいに抜糸をしてもらうときに、母は抜糸のチクッとした痛みが嫌で医師に「死んじゃうのはいいけど痛いのは嫌だ」と言いました。その後私の母は認知症が進んでほとんど言葉を発することもないような状態になりました。利根川無理心中事件の裁判では母親が水に入るのをいやがったと報じられていますが、水の冷たさを嫌っていることと死を拒否していることとは別問題なのかも知れません。多くの人達も「死ぬのなら苦しまずに死にたい」とは願うだろうからです。苦痛を嫌うことと死を受け入れることとの問題です。「親子三人で一緒に死ぬことがもっとも幸せな選択だ」とその時は考えられたのかも知れません。少なくとも裁判所の方達には高見で見物している評論家のような姿勢だけはとって欲しくはありません。裁判所が三権分立の中で立法や行政から独立した存在であることは認めますが、だからといって裁判所が社会の制度のありようを無視して社会から孤立した存在になってもいいというわけではないと思います。なぜなら日本の社会は家庭で家族を介護している人には報われる道がない形になってしまっているからです。できることなら裁判所の裁判官は判決を下すだけでなく家庭で家族を介護している人の条件の改善を立法や行政に呼びかけるくらいの判断を示して欲しくも思います。それぞれの家族の資産や所得の状態を考慮して行うべきなのは当然で家庭で家族を介護している全ての家族にそうすべきだとまでは言わないにしても、この家族の場合は無理心中する直前には生活保護の手続きなどもしていたと報じられてはいるので、生活保護と言うよりも家庭で介護している家族が介護の労苦への正当な対価として幾ばくかでも報酬、例えてみれば家庭での介護負担額とされる年382万円の半分の190万円ほどでもが社会から受け取れる社会制度になっていればこの家族の運命も幾分かは違ったものになっていたのではとも思います。私からすれば起こるべくして起きてしまった悲劇のように感じられるのです。二千十六年二月十四日にヤフーニュースで流された記事によると在宅介護の担い手は七割が女性とされる中で殺人や無理心中に至った事件の加害者の七割は男性だったという二千八年から二千十六年にかけての調査結果が日本福祉大の湯原悦子准教授から出されたとされました。女性よりも男性の方が自分一人で問題を抱え込んでしまい介護によって追い詰められ孤立する確率が高いという結論のようです。通算で二十五年以上にわたって自宅で両親を介護してきたとは言え男性の私がマスコミのニュース種にまでなる様な社会的事件を起こさずに済んだことには、私自身がその幸運に感謝すべきことなのでしょう。しかし上の事例はいずれも女性が介護していたケースです。女性でもとことん追い詰められれば耐えきれなくなる場合もあると言えるでしょう。安倍政権は一億総活躍社会を掲げて二千二十年代までに「介護離職ゼロ」を目指し施設を増設して収容人数を増やすことで介護による共倒れを防ごうとしている事は二千十五年九月二十四日の読売新聞朝刊でも「特養増設・待機解消」という見出しで紹介されていますが、それが実現したとしてもそれ以前に介護を家庭でしていた人達には共倒れの可能性はなかったのかと言えば、それは十分に共倒れの危険性があったわけです。介護が必要になる人の症状は必ずしも介護する側の人の都合に合わせてくれるわけではありません。よほどの幸運でもなければ介護離職せずに済ませることはできない相談と言うことになるだろうと思うのです。その記事のグラフでは二千十一年度では介護離職した人の数は約十万人ほどでその大半は女性です。そしてそのような中の非常に厳しい条件におかれた人達がマスコミに事件として取り上げられるようなニュースにまでなるのだろうと思われます。私に自分用の介護保険を紹介してくれた私よりずっと若い生命保険会社の女性従業員の人も介護離職していったりしていました。安倍首相は「世界に冠たる日本の社会保障制度」と述べていますが、国民健康保険などの医療分野はともかくとして介護分野は以上のようなことが実状と言ったところなのでそれほど大見得が切れるものでもないだろうと思います。

 ある時代の中で評価されていたものも時代が変わると評価が失われてしまうことがあります。まじめに努力することはどんな時代にも評価されるものなのかどうかにも、疑問の余地が生まれてきます。バブル経済のさなかの日本人は真剣でまじめだったのでしょうか?土地とカネが全てのように思い込み、知恵などはどうでもいいような位置づけであったものが、バブル経済が崩壊したら知恵が一番大事なもののように言われ始めたりします。しかしバブル経済崩壊後に日本人が使った知恵は、詐欺や偽装あるいは粉飾あげくの果てにはインサイダー取引などの悪知恵の方が目立ち真っ当に努力するのが馬鹿馬鹿しく思えてくるような状態です。また、そのような状況なので真っ当に努力しようとしない人が増えるのかも知れません。振り込め詐欺グループなどもその内部は成果主義で努力しなければたいした分け前ももらえないようですが、しかしそれらの悪知恵を働かせただましの手口をいくら巧妙化したところでそれは日本経済の国際競争力を高める上では何の役にも立たず、そのような利益のあげ方では被害者がでるだけで徐々に日本経済全体の力を弱め、長期的には悪知恵を働かせた人たちにとってもマイナスになってくる結果に至ることでしょう。誰も努力しなくなれば他人の努力の上に乗ることも努力の成果をかすめ取ることもできなくなるからです。なぜなら努力して成果を出せる人が少なくなってしまっているからですが、詐欺などは他人の努力の成果をだまし取ること以外の何ものでもないからです。たとえば振り込め詐欺やリフォーム詐欺でカネを儲けた人が耐震偽装のマンションを購入してしまったらどうなるのかみたいなものです。また儲けた金で恋人を連れて海外旅行でもしようとして、その航空機は整備士が手を抜いていたので大惨事になってしまったりしたらどうでしょうか?航空運賃が高いか安いかの比較は誰にでも出来ることですが、機体の整備がしっかりなされているかどうかまた機長の体調は万全かどうかまでは一般乗客には確認も出来ず、客席に座ってシートベルトを締めただけでわかるわけでもなく、また確認する知識もない人がほとんどで分からないからです。また航空機の管制官が前の晩酒を飲み過ぎたために体調不良だったりあるいは夫婦げんかをして集中力が落ちていい加減な航空機の誘導をした場合も同じです。ヤバイ仕事をする以上にヤバイ結果にもなります。振り込め詐欺の犯人の親や祖父母は絶対に振り込め詐欺には引っかからないとも言えません。振り込め詐欺グループは多数存在するわけですから振り込め詐欺グループのメンバーが電話をかけている相手が違う振り込め詐欺グループのメンバーの親かどうかや祖父母かどうかなどはわかりはしないわけです。そしてもし引っかかったりしたらまさに漫画です。また人気があるテレビCMを提供していても問題を起こした企業もたくさんあります。日々口にしている食品も本当に表示通りのものなのかどうかも疑問になるようなニュースも流れます。高級料亭でさえもが食品をごまかしていても、そこで料理を食べてメニューに書かれている食材と実物が違っていても「これはおかしい」と食べ分けるだけの味覚を備えた舌を持つ人も少ないので何年間も内部告発でもされない限りだまし続けることが出来ていたはずです。相手は正直者(だまされているとは知らないでお金だけはちゃんと払ってくれる人)だという前提があればだます方は安心して人をだませもするでしょうが、全ての人が信用できないものになったときにはだましている方もうかうかしてはいられないことにもなります。だましたり誤魔化したり裏切ったりする能力は自分だけに固有の特殊能力だと言うのであればともかく、そうではないなら自分もだまされるかも知れないと常に気にしていなければならなくなるからですし、一人の人間は全ての領域の専門家になれるわけでもなく、自分の領域以外のことに関してはほとんど無知な状態の訳なので相手が無知だからこそだませたとしても、自分が無知の部分の領域ではどこでだまされるかは知れたものではないのです。生活してゆく上ですべてが嘘でないかどうかを一々確認しながら生きなければならないとしたらひどく手間がかかることです。そして人生全体で考えてみれば努力した人は必ず評価され人をだますよりも努力した方が遙かに多くの経済的な利益も得られると言うことが多くの人々の認めるところにならない限り、時代とのぶつかり具合の運の善し悪しだけの話で終わるか、運良くあぶく銭を得ようとする安易な行動に走って行く結果になってしまいます。詐欺や粉飾決算やインサイダーで逮捕され裁判で有罪となった後でも人並み以上の生活をしていけるというのなら、犯罪を犯してでも儲けた人間の方が勝ちだと言う風潮が生まれそう思う人は減らないことでしょう。そして政府の主要な立場にある人達が「努力した人が報われる社会」と言うときには、政府や中央銀行などの政策担当者が時代を動かすことによって、努力していたにもかかわらず時代の動きの中で憂き目を見させられる人も生まれ出ることへの心配りを忘れずにいて欲しくもあります。政府や中央銀行がその気になってだましにかかろうものなら、その余波は国民規模のものになるからです。千九百八十年代末から九十年代初頭に起きたバブル経済や、二千十一年三月に起きた東日本大震災に伴う原発事故にみられたそれまでの安全神話などまさにその様なものの一例と言えます。二千七年七月十八日のNHK放送大学の「心理学入門:文化と人」では、韓国では努力は必要と考えている人はそう思わない人より理数科目の成績は高く、アメリカでは努力は必要と思っている人はそう思わない人より理数科目の成績が低く、日本では努力は必要と思う人とそう思わない人との理数科の成績はほぼ同じだそうです。「努力」という言葉の受け取り方や意味合いも文化圏によって非常に異なるのかも知れません。しかし「努力」というものに対する評価が欧米や日本とでは違うように、日本では「馬鹿正直」とか「正直者は馬鹿を見る」いう言葉があったりして、人前でうまくごまかし嘘が言えるようになることを大人になったことの証のように思ったりして「正直であること」はそれほど重きを置かれないかもしれませんが、欧米人は「正直である」という態度に対しては高い評価を与えます。