危険思想と安全思想
戦時中には自由主義思想や共産主義思想は危険思想とされました。戦時中の体制にとっては自由主義や共産主義思想は気に入らぬ思想だったからです。そして危険思想に染まることは、その思想を信じている人たちの身にとって非常に危険なことでもありました。下手をすると社会の中で生きてゆくことが出来なくなったり、あるいは又拷問も受けるものでもあったからです。当時の日本の中で安全と思われた思想は天皇主義すなわち皇国思想と軍国主義思想でした。そのため当時の学生達は歴代の天皇の名前を丸暗記させられるような授業を受けてもいました。ですから歴代の天皇の名前を口にするぶんには問題はありませんが自由などと口走れば大変なことにもなりました。そして日本の中の危険思想を権力の力で排除して地ならしをし、大多数の国民が当時の安全思想を掲げて突っ走った結果は日本にとって惨憺たる状況をもたらしました。安全と思われた思想に基づいて大多数の日本人が行動したら、それが実は最も危険な結末に行き着くルートだったと言うことはどう判断すべきでしょうか?当時の時代に於いては危険思想を抱けば軍部から弾圧され、安全思想についていっても破滅の道が待っていたと言うことです。時の支配者(天皇や軍部)に逆らえばその報いが来、支配者に従ってもその報いが来たわけですが、それらどちらの報いも惨憺たる結末にしかならないものだったわけです。
現在の日の丸・君が代を巡る学校教育現場での動きも、なにかそのような動きに私には見えてきます。無理に無理をおしたような日の丸の掲揚と君が代の斉唱は、教育委員会の指示で形式がきっちり決められて行われる姿を採って画一的な形になってくると、それに従うことが安全思想というものになって行くことでしょうが、その安全思想で進んでいった行き先に安全があるのか危険が待っているのかは不明です。少なくとも過去の日本の歴史に於いては大きな危険が待っていたことは歴史的事実でした。私の母は戦時中、公立学校の教員で教師達の中で学校に一番距離的に近い位置に家があったので、学校に飾ってあるご真影(天皇の写真)などに何事かが起こりそうなときには、それに対処する役割を受け持たざるを得なかったそうです。平塚が空襲を受けたときに学校は火災になり母は燃えている校舎からご真影などを運び出したそうです。ご真影や教育勅語を傷めたり失ったりすれば、校長の責任問題すなわち校長はクビにもなりかねないほどの重い意味合いが当時のご真影や教育勅語にはあったからです。スポーツの大会の折に、北朝鮮の美女軍団が韓国国内で金正日の顔写真が印刷された横断幕が雨に濡れているのを見て「将軍様をこんな目に遭わせるなんて」と抗議した姿を現在の日本人は奇異に感じるかも知れませんが、かつての日本に於いてもこれによく似た状況が存在したわけです。複製が可能なご真影や教育勅語を守るために複製が不可能な人の命がかけられていたと言うことです。
現状のような形での日の丸・君が代の問題に対して異を唱えることが危険思想であるとされるのであれば、現状を踏まえて行われる日の丸・君が代の実施の仕方の先には安全が保証されていることが証明されているのでしょうか?歴史がどのように動きどのような結果を得るのかには時間をかけてみなければなりませんが、その時代の中での安全思想は将来的にも本当に安全を保証してくれる思想であるとは限らないことを、心にとめておかなければならないように思います。時の権力にとって危険と思われる思想も、時間が経つと権力側が自ら掲げる思想になることもあります。危険思想と安全思想が入れ替わることもあるのです。人間は誰しもが時代の中で振る舞わざるを得ない存在ですが、安全と危険が思想的に入れ替わったときには、振る舞いも入れ替わるという経験を日本はこれまでした経緯があります。本当に安全な思想とは何で危険な思想とは何かを見極める目も一人一人が持たなければならないでしょう。主権在民という戦後においての日本にとっては当たり前となっている国民主権の思想も天皇主権の明治憲法の時代に於いては危険思想であったことは明らかなことだからです。安全思想を守っていればその先には必ず安全が待っているとは言い切れないのがこれまでの歴史の現実だったとも私には思えるのですが・・・。卒業式で君が代を歌わない生徒が大勢いる学校では偏向教育が行われているという名目で、校長が責任を云々されたり、またその為に校長の職権で教師達が監督されたり、或いはその要請に応えて教師達が生徒を指導する姿は、何かかつてご真影や教育勅語という写真と紙切れを教師達が命がけで守らされていた時代にも重なって見えてきます。戦時中には教育勅語を三方に載せて神事を執り行うようにうやうやしく捧げ持って式典などを行いもしたようです。現在でも教育委員会のお偉い方達は卒業式を厳粛な形のものにしたいという意向があるようです。厳粛ではあっても形式的で感動のない卒業式では、現代っ子にはあまりおもしろくないのではないでしょうか。国旗国歌法案が制定された折の千九百九十九年時点では「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものではない」と政府は答弁し、「児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導が行われることがあってはならない」と文部省は答弁していましたし、小渕内閣の文部大臣だった有馬朗人氏は「手で口をこじ開けてでも歌わせようと言うつもりはない」と述べていましたが、実際に法律が制定された以後の動きすなわちそれが実施段階に入ったあとの様子を見れば、なんとしてでも口をこじ開けようとする強制するための工夫ばかりが目につきます。それらの工夫をいくらしてもそれでも口をこじ開けることが出来なかった人は職場から追放処分と言うことです。あたかもこれはかつてのレッドパージの様相ですし、果たして東京都教育委員会や日本政府は、かつての軍国主義全盛当時の日本や現在の北朝鮮のように上から下への統制と締め付けの行き届いた強圧的で強権的な姿に日本の教育現場や日本の社会を変えようとするつもりなのでしょうか?また国旗・国歌法案によって『君が代』の君は天皇を意味すると定義した歌を強制力で押しつけることによって、政治指導者は国民や学生に何を求めどんな社会を実現したいのでしょうか?そしてそのようにすることで一つの形の社会が実現したとして、その社会は何を目的にしどんなことを達成しようと思うようになるのでしょうか?何かしら二千年代初めの時点の日本の姿は、日本人が歴史的に既に一回学習済みのことをまた再び復習させられているようにも感じられます。しかしこれまでの何十年間の日本の社会変化を考慮に入れずに、ただ遠い過去の姿に日本を復元してみても、新しく生まれ出ている日本の問題には対応しきれないのではないでしょうか・・・ それとも生徒の自主性を育てるための管理を徹底させようという自己矛盾を行うつもりなのでしょうか。自主性とはあくまで個人個人の意志で物事が始められることであり上からの締め付けで行われることではないからです。政治指導者にとっては自分に異を唱えたり批判したりする人間がいない、自分の命令で一斉に動いてくれる社会の方が都合がよいのでしょうが、それはかつての時代に大きな間違いを犯してしまって事でもありました。そして日の丸・君が代が東京都で義務化された二千三年以降、日の丸・君が代関連で処分を受けた教員の数は二千三年には全国で二百人そのうち東京都が百八十人ほどだったものが年度を追うごとに減少し二千九年度には全国で五十人ほど、そのうち東京都は五人へと急激に減少しています。いかに東京都の教員たちは日の丸・君が代の実施に抵抗をしなくなってきているかがはっきりと現れているといえます。このことは二千十一年一月二十九日の朝日新聞朝刊の記事でグラフに示されています。
日本の自主憲法制定の議論においては憲法第九条などの安全保障面での問題点などが指摘され、戦後の日本にアメリカによって押しつけられた現在の日本国憲法であるから日本人の手で自主憲法を作るべきだという言い分があります。しかし、二千四年七月二十二日のテレビニュースでは、アメリカのアーミテージ国務副長官が個人的な見解と断りながらも、「日本が海外で武力行使できない条件の憲法を保持する限り、国連常任理事国入りは難しく憲法九条を改正すべきだ」と述べたと伝えられています。個人的な見解とはいえアメリカ政府の要人からの言葉であり、このようなアメリカの意向にそって日本が憲法を改正したとしても、それは日本が自主的に憲法を作ったというのではなく、アメリカの意向をそのまま日本人が書き写して作文した憲法だと言うことになってしまいます。あるいは日本の改憲勢力が唱えていた事をアメリカが後押ししながら自主憲法を制定するという事態にもなります。また八月十三日にはアメリカのパウエル国務長官が憲法九条改正についてアーミテージさんと同様の内容のことを述べたと読売新聞紙上にあります。アメリカ政府の要人二人が同様の内容のことを述べたとすれば、これはアメリカ政府の考え方そのものだと受け取っても良いと言えるでしょう。あるいはブッシュ政権の中では穏健派と言われるパウエル国務長官ですらそうだとすれば、ネオコンと呼ばれるラムズフェルド国防長官だったらどうなるのかともいえるものです。また穏健派と言われるパウエル国務長官や知日派と言われるアーミテージ国務副長官が去りラムズフェルド国防長官そしてライス補佐官やチェイニー副大統領らが残る第二次ブッシュ政権のメンバーだとこの問題はどうなるのでしょうか?また、では憲法九条を改正すべきだと唱えていた勢力は自主憲法制定がスローガンでしたが、その自主性はどこにあると言えるのかという結果にもなりそうに思えます。アメリカのお声掛かりで行う憲法改正のどこに日本の自主性があるのかと言うことなのです。それとも「アメリカは日本の自主性を尊重すべきであり、いらぬ事を外からとやかく言うな」と自主憲法制定に賛成の人たちは声を上げるのでしょうか?すなわち「そのような憲法は自主憲法とは言えないので、アメリカの唱える方向の憲法の改正には反対だ」と言うのかどうかということになります。またそのような中で憲法が改正されたとしても、「今回の憲法はアメリカの干渉によって作られた憲法だから、日本独自で考えた憲法を作ろう」という話がすぐに出てきてもおかしくはないのではないかと思います。なぜなら占領当時のアメリカは日本の再軍備を極力警戒していたので現在の憲法九条を日本の憲法にとって必要不可欠の条文とする形にしたかも知れませんし、敗戦直後の多くの日本人が「もう軍部独裁も戦争も懲り懲り」という意識になっていたので、たとえそれがアメリカから押しつけられたものであったとしても当時の日本人にも受け入れやすいものだったともいえます。今だからこそ「アメリカから押しつけられた云々」と言う意見が出て来てはいても、当時の日本人達はこれでのうのうとできると思った人の方が多かったはずです。思想・信条の自由や言論の自由また信教の自由(信教の自由は日本では神仏混淆でしたが戦時中は神道が大きな支配力を持った政教一致の時代でした)や職業選択の自由が保障され徴兵制はなくなったからでした。現在の人々にとっても自分が望んだわけでもない慣れない仕事に安い給料で急に無理矢理引っ張り出されて、おまけに仕事がうまくできないとがみがみ言われたとしたらいい加減いやになるでしょうが、当時の多くの国民はそれ以上にひどい兵隊生活をさせられた人間達が大勢いたからです。戦後もだいぶん経ってからのこの時点での日本の改憲論者のどちらかと言えば憲法九条の足かせをはずしたいという考えは現在のアメリカからすれば「待ってました。おいで、おいで・・」というものだからです。東京都の石原都知事は著書で「アメリカは狡猾だ。だまされるな」とも述べていますが、日本が幾分か軍事優先の発想に傾けばアメリカの思うつぼにもなりかねません。戦後警察予備隊として出発した自衛隊は、その出生の課程に幾分かのいかがわしさがあったとしても、この時点では世界第二位の立派な軍隊になっているからです。イザヤ・ベンダサンは『日本人とユダヤ人』の中で、「日本はむき身の牡蠣が泳いでいるようなものだ」と日本人が安全に対する費用を念頭に置いていないことを表現しましたが、「こんな事を言うと、再軍備論者と思われるかも知れないが」と述べています。この本が出版された七十年代初頭においても、まだ日本の国内には日本の再軍備を嫌う感覚が根強かったからですが、自衛隊が立派な軍隊となっている現在では日本は再軍備をなしえたと言って良いでしょう。少なくとも日本が再軍備化を終えてアメリカからの注文までが出されてくるこのような中での日本の憲法改正は自主憲法ではなくアメリカとの合作、あるいは本でたとえれば一人の人が書いた著作ではなく日本とアメリカとの共著という形に近くなります。また日本の方針に中国や韓国など戦時中に日本から痛い目に遭わされた国々などが口を挟んだ場合には日本の政治家の中には「そのように日本のことに踏み込むことはいかがなものか」という人が大勢いますが、アメリカの以上のような言葉に対してはどうなのでしょうか・・・?「国連常任理事国は国際紛争解決のために軍事展開もせざるを得ない場面があるので日本の憲法九条では対応できない」とのアメリカの言い分に全く理がない訳ではありませんが、結果的には国連常任理事国入りと憲法九条改正とが引き替え条件のような形になっていることは問題があるように私には思えます。またアメリカの世界戦略の軍事面における一翼を日本にも分担させようと言うアメリカ側の思惑もあるかと私には思えます。そして憲法九条を改正して日本が国連常任理事国入りしたとしても、国連の総意あるいは常任理事会の意向とならないものでも単独でアメリカが軍事行動を起こした場合には、日本は日米安保条約と国連常任理事国という立場の中でどのような選択をするのかと言う問題も生まれます。なぜならイラク戦争はアメリカの単独行動から生まれたからです。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という日本国憲法第九条の理想は、残念ながら世界のどの国も実現できてはいません。世界の盟主のアメリカでさえ実現できていないのが現実です。ですが、だからこそ挑戦してみるに値する理想でもあると思います。またそれは紛争を武力で解決するよりも困難な道でもあるからです。憲法九条を改正する場合になっても、第二次大戦の日本の経験は十分生かし踏まえた上で行われることを私は望むものですが、しかし残念ながら第二次大戦における日本の兵隊達の証言集などが残されていないような中では、日本人が過去において何をなしていたのかを自覚しないままでの改正になってしまうことをおそれてもいます。戦後も六十年が経とうとして戦後という時代が古く感じられ始めたら戦前や戦中の時代がなにか新鮮なものに思われるようになったと言うただの感覚的なものだけでは、本当に何が新しく何が古いのかがとらえられないのではとも思います。千九百八十年代生まれの人にとって自分が生まれる前で知らないはずの千九百七十年代に作られた歌が自分と同世代の人にカバーされて流れてきたら妙に新鮮に聞こえてくるようなものだからです。