ヒューマニズムとテロル

 

  このページの表題の『ヒューマニズムとテロル』という言葉は、私が学生時代に購入したことのある訳本のタイトルです。内容はほとんど覚えていない、あるいは読んでいないのかもしれませんが、タイトルだけははっきり覚えています。 著者はメルロー・ポンテイエだったかと記憶します。二千一年九月十一日にアメリカで起きた同時多発テロの模様を見ていて、この本のタイトルが頭の中に浮かんできました。

  この本のタイトルからの連想で私の考えを書くことにします。本のタイトルから「テロにもヒューマニズム的な要素が含まれている」というニュアンスがあると思います。多くの人々が 圧政に苦しんでいるという状況があって、その圧政の張本人をテロリストが攻撃する場合などです。テロ行為を行う上で全く理由もなくテロを行っているというわけではなく、多くの人々が政治上の理由で苦しめられたり死んでいったりする状況に憤りを覚えるという感情そのものはヒューマニステイ ックなものだといえます。もっと身近な問題でいうと、みんなからいじめにあっている生徒がいて、いじめに加わっている生徒のリーダーをナイフで刺したとしたら、一体その行為をどのように評価すべきでしょうか。その騒動に巻き込まれていじめを見て見ぬ振りをしていた一般の生徒も負傷したとすれば、ナイフで刺した生徒はどう扱われるのでしょうか。 そしてナイフで刺した生徒自身はナイフを買う金はなかったので、その生徒にナイフを貸すかナイフを買う金を貸してやった生徒がいたら、その生徒はなんと言われるのでしょうか。 しかもそのナイフを貸したりナイフを買う金を貸したりした生徒は、いじめグループと対抗する他のいじめグループのメンバーだったとしたらどうでしょうか。 このような場合に一般にはナイフで刺した生徒だけがもっぱら悪者にされるという結末で終わるのが通例です。 しかし悪者とされるべきなのは本当にナイフで刺した生徒だけなのでしょうか?ですがいじめにあっていた生徒はナイフで刺して報復をしてくれた生徒のことを自分の力強い味方あるいは守り神と思うかもしれません。 そしてそのことでいじめられなくなったというのなら、いじめられていた生徒はナイフで刺してくれた生徒にますます感謝の念を抱くことでしょう。 ナイフを貸したり買う金を貸してやった生徒は、国際政治の場面で言えば代理戦争を支援している先進国や武器提供国と同じ立場にあるといえます。 代理戦争を行っている小国や部族はこれまで常に大国の都合によって利用されざるを得ない立場に置かれていたのが事実です。

  行動にでるまでのテロリストの心の中にはヒューマニズム的要素が存在していることは確かだろうと思います。ただしその心情のためにテロ行為を行って大量殺戮に結びついたとき、そのテロリスト達のヒューマニズムは半分否定されたことになります。当然テロリストは非難の声を浴び処罰されるべきだと言われます。 しかし、ではテロリスト達が憤りを感じていた問題の方はどうなるのでしょうか。果たして人々はその問題の解決を本気で考えようとしてくれるのでしょうか。 あるいはテロを封じるだけでテロが引き起こされてくる原因の問題はなおざりにしたままにするのでしょうか。 日本の小泉首相は「いかなる理由があってもテロはいけない」と強調していましたが、ならば、テロの理由をなるたけ除去する努力を政治は行うべきでしょう。

 アメリカでの同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラデインは中東問題、すなわちイスラエルとパレスチナの問題もテロを行った根拠としてあげています。「アメリカが味わった苦痛は、我々が何十年間に渡って味あわされた苦痛の一部に過ぎない」というわけです。事実、アメリカのブッシュ大統領はこの大規模なテロが起きた後、「将来的なパレスチナ国家の樹立」を口にし始めました。 アメリカの後押しでのイスラエル建国そして六十七年の第一次中東戦争によって生み出されたパレスチナ難民などのテロリストが胸に抱いたヒューマニズム的要素の部分の解決策が示された訳ですが、それは残念ながらアメリカでの大規模なテロが起きてしまってから後のことでした。 そしてアメリカはこのテロに対する報復攻撃を開始しましたが、報復攻撃自体もヒューマニズムから生まれるわけです。「テロによってこれほど多くの罪もない人々が殺された」というわけです。しかしこの報復攻撃を根拠付けるヒューマニズムもテロリストを殺害するという行為によって半分否定される結果に終わるといえます。 テロによっても報復攻撃によっても、程度の差こそあれ一般人が巻き添えになることは否めません。そしてもしパレスチナ国家が樹立されるようなことになればパレスチナ人にとってはこのテロ行為を行った首謀者達は自分たちの英雄となり得るでしょうし、アフガニスタンのタリバン政権の下で教育を受ける権利さえも奪われている女性達にとっては、タリバン政権を崩壊させる作戦を遂行しているアメリカ 軍は解放軍になり得るのかもしれません。 パレスチナの地でテロリスト達が英雄になり得るのは、日本の政治家達が靖国神社を参拝するときに「あなた方の貴い犠牲があったので戦後の日本の平和と繁栄がある」 と述べたりするロジックのような形にも似ていますが、日本の靖国神社参拝の論理よりももっとストレートな論理でわかりやすい形に収まる論理です。 靖国神社にまつられている戦没者達がこれまで「英霊」とされてきた以上に、この大規模なテロを行った人々はパレスチナの人々にとっては「英霊」ともなり得ると思います。 テロリスト達が足場にしているヒューマニズムを他の国々の人々も共有していたのならテロは起こらず、そのための報復攻撃も行わずにすんだかもしれません。しかし大規模なテロ行為に訴えなければならないほどに問題を放置していたとするなら、我々も考えなければならない点があるだろうと思うのです。 世界がパワー・ポリテイクスで動いて行く時代では、パワーがない人々は苦境だけを味あわされてしまう部分も生まれ出るのです。そこに生まれ出てくる問題を放置し続ければ思わぬしっぺ返しが起こることもあります。パワーを持った国は、それだけ自分たちが元で生み出 してしまっている歪みの問題にも敏感であるべきだといえます。 パワーとは軍事力だけではありません。経済力も権限を保持していることもまた大規模な組織であることも、それらを持っていない人々あるいは組織のメンバーでない人々にとっては十分にパワーと認識されることでしょう。 たとえば二酸化炭素の排出量を決めるべく行われた京都会議の議定書に最大の二酸化炭素排出国であるアメリカは署名を拒んでいます。しかし地球の温暖化で海面が上昇すれば、 アジアで最貧国であるバングラデイッシュなどは高波の被害に遭う危険性が高くなってしまいます。先進国の都合のためになぜに貧乏な人々がさらなる不幸を味合わされねばならないと言うのでしょうか。これらの問題に憤りを覚えることは悪 い事なのでしょうか。 そして日本が議長国として取りまとめた二酸化炭素排出基準の目標値を設定することに「コストが増加する」という理由で反対している日本の産業界や、そのことで日本自身がガス排出の目標値を達成できなかったとしたら、日本の産業界や日本に批判的な態度をとるのはよくないことなのでしょうか。

 このテロ攻撃に対するアメリカの対応に呼応して日本は自衛隊の派兵に踏み切りました。今回の議論の中で小泉純一郎首相は、「テロリスト達の訳の分からない論理のために多くの人間が犠牲になった」といきり立って主張しています。しかし私からすれば小泉首相が靖国神社を参拝する際に「日本では戦争犯罪人として処罰された人も戦闘で命をなくした一般の兵隊も、死んでしまえば同じ者とされる」と述べていましたが、日本人の私にもこれは訳の分からない論理に聞こえます。当然多くの被害と犠牲を強いられたアジア諸国の人々にとってはなおさら訳の分からない論理に思われることでしょう。むしろ「 天皇陛下万歳といって死ねば靖国神社にまつられる」といわれて玉砕していった旧日本軍の兵隊達と、「聖戦のために死ねばすばらしい世界へゆける」といわれて自爆テロを行ったテロリスト達との方に共通項を私は感じるのです。「テロリスト達の訳の分からない論理」と決めつけることで、テロリストが指摘している問題点までをも無視してしまうことは、問題の解決をしようとしないことに結びつくだけに終わってしまいます。それではテロを根絶することはできないことでしょう。何が問題でテロが起きて来ているのかをも理解しようとしない国が、自衛隊を派兵(Show the flag)してみせるだけでは国際社会の中で名誉ある地位を得ることは到底できない相談だろうと私は思います。東京の新宿駅の駅前では「No Terror No War」と垂れ幕を掲げてステージで歌を歌い踊っている若者達がいました。確かに「No Terror No War」というスローガンにはそれ自体で反対するつもりは私はないのですが、またそうであってほしいとも私は望むのですが、そうするためには、またそうなるためには何をしなければならないのか、何をしなければならないかの以前に何が問題 とされているのかを考えなければならないと思うのです。そうでなければ同じ事の繰り返 しで終わるだろうからです。 テロを行ったからといってそれ自体で問題が解決できるというものではありませんが、テロ行為によって人々に問題の存在を知らしめ、そのことによって問題解決の突破口を開くことができるというのであれば、様々な問題が世界に存在する限りテロは有効な手段だと受け取られテロ行為を根絶しきることはできないことでしょう。 前国連高等弁務官の緒方貞子さんが言うように「テロリストも隣人にとっては自由の戦士である場合もある」ということです。テロリストに寄り添い彼らに自分の運命をゆだねなければ、自分の解放がない人々も現実には存在しているのです。

 緒方貞子さんが日本代表となって東京で行われたアフガン復興支援国際会議で、アフガニスタンにおけるテロリストの問題は一つの節目を迎えたといえるかもしれません。しかしアメリカはテロ組織アルカイダの掃討作戦を行う方針のようです。その中にはアフリカの角と呼ばれたソマリアやイエメンなども含まれています。しかし世界の二酸化炭素排出量(NASAの衛星写真)で見るとき、アメリカは世界最大の二酸化炭素排出量の国(NASAの衛星写真)であるのに比べ、ソマリアの人口は九百三十八万人で、二酸化炭素排出量は世界百五十二カ国の中で最低の国なのです。 アメリカの二酸化炭素排出量はソマリアの三十五万倍以上です。 日本の半導体の権威である西澤潤一さんは『自分史』の中で「金持ちのうちの電気は暗く」と述べて、金持ちは節約をする人のように描いていますが、少なくとも上の写真のように世界の夜間の光景を宇宙から見た場合には、「金持ちのうちは光り輝いて見えている」 また「電気をつける金もないうちはやはり暗い」のが事実のようです。日本の二酸化炭素排出量はソマリアの七万七千八百倍以上です。イエメンは二酸化炭素の排出量が世界で七十五番目で、アメリカの二酸化炭素排出量の三千二百分の一です。人口は千七百万人です。アメリカによってテロ戦争に陥って攻撃対象にされたアフガニスタンの二酸化炭素排出量は世界の中で百二十五番目です。 人口は二千五百万人です。日本と国旗のデザインがよく似ているバングラデイッシュでも二酸化炭素の排出量は世界で七十番目で人口も日本とほぼ同じです。二酸化炭素の排出量については二千二年一月九日の朝日新聞十八〜十九面に掲載されているソーラーハウスの全面広告のところの国別二酸化炭素排出量の棒グラフでわかります。同じくアメリカのテロ対策指定国家の中にはインドネシアやフィリピン ・イラン・イラク・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も含まれますが、このグラフの順位ではインドネシアは二十一番目、フィリピンは四十四番目で人口は七千五百万人、、イランは十九番目、人口は六千百万人、イラクは三十七番目で人口は二千二百万人 、そして朝鮮民主主義人民共和国は二十番目で人口は二千三百四十万人です。 テロ組織アルカイダをかくまったタリバン政権を支援し、後にアメリカのテロ撲滅戦争に協力したパキスタンですら二酸化炭素の排出量は世界で三十五番目です。 一億二千万人の人口の日本は世界第四位ですが、人口はインドネシアの半分のはずです。 アメリカの二酸化炭素排出量は日本の四・五倍ほどですが、人口は日本の二倍くらい、また面積はかれこれ日本の二十五倍です。二酸化炭素排出量で世界第二位の中国は日本の二・九倍近い二酸化炭素を排出していますが、中国の人口は日本の十倍です。 インドは五番目で日本の0.85倍の二酸化炭素しか出していませんが、人口は日本の七倍くらいと考えてよいでしょう。このように見てくると、テロ対策は豊かな国による貧しい国への取り締まり強化のような構図にも見えてきます。 アメリカ・ロシア・日本・ドイツ・イギリス・カナダ・イタリア・フランスのG8のメンバー国はすべて二酸化炭素の排出量の多さではトップ十二位の中に入っているからです。このような見方 をする傾向のある私に対しては「芥子(ケシ)を栽培して麻薬を輸出しているタリバンに対しても資金援助するのか!」という批判的な声もありました。しかし麻薬の輸出はアメリカの軍事行動の支援を受けながらタリバン政権を打倒して北部同盟がアフガニスタンの支配権を握ってしまったあとの方が、麻薬の輸出量が以前より増加したとのことです。ならば「麻薬の輸出量を増やしている北部同盟を中心にした暫定行政機構に、国際社会は支援の金を出すのか ?」ということにもなってしまいます。私を批判するのなら同時に復興資金を出す日本政府も批判の対象にすべきでしょう。これからいえることは、支配権がテロリストのオサマ・ビンラデインをかくまったタリバンにあるか北部同盟にあるかではなく、アフガニスタンという地には麻薬以外に外貨 あるいは現金収入を稼ぐ上での有望な換金作物が存在していないという事実です。当然工業製品を輸出できるような国情の国でもアフガニスタンはありません。合法的に外貨が稼げるというのであれば何も問題はありませんが、それすら不可能な国や地域は現実の世界には存在するというわけです。すなわち貧困そのものが大きな原因 だといえるでしょう。貧困な国々や地域の人々が合法的に利益を得ることは、先進国の人間には想像できないくらいの困難さがあると考えた方がよいでしょう。実際には先進国の人間が考えるほどには、貧しい地域の人間が金を得ることは容易ではないということです。それは日本国内で中小企業の人間が大企業や都市銀行の人たちの給与と同じ給与を得るためには、大企業や都市銀行の人たちの苦労の何倍もの苦労をし てもとうてい不可能 だという事にも似ています。あるいは東京のような大都市の人間が現金収入にありつくための苦労より地方の人間が現金収入にありつくための苦労はそれを上回ると言うことと同じともいえます。非合法であることは承知の上でも、貧困の状態から抜け出すための手段として麻薬の輸出は存在しているからです。 二千年三月二十六日にはアフガニスタン北部で大きな地震が起き二千人以上が死亡したと伝えられますが、麻薬を輸出している国だから救援する必要はないともいえないものです。貧困にさらに追い打ちをかける事態だからです。世界のテロ対策は、世界に存在する貧困撲滅対策とセットで行わないと不十分なのではないのでしょうか。貧困に対して戦争を仕掛けるのではなく、貧困を除去することによって対テロ戦争をしなくてもすむような条件を作らなければならないと言うことです。 それは世界にとっても対テロ戦争を行うよりも大変な仕事だといえますが、テロに対して行う報復戦争より重要なことのように私には思えます。「貧しいが故に貧しい人間は問題を起こす。だから貧しい人間達を逮捕しさえすればいい。」という方法だけでは、何か割り切れない感じが私には残るのです。 しかし二千二年二月に開かれたダボス会議の参加国二十五カ国中で、貧困撲滅のために一%の増税を受け入れるかという質問に対する世論調査の反応では、 世界第二位の経済力である日本は参加国中最低の方から二番目だというのが実状のようです。 このように私は書いてきましたが、「海外へ一度も行ったことのないおまえのいうことは頭の中だけでの理解だ。」といわれるかもしれません。しかしそうだからこそ頭の中でだけでも理解しておきたいと私は思うのです。現在は年間に日本の総人口の一割以上にも上る人々が海外旅行に繰り出しています。十年もすれば日本人全員が海外旅行をした勘定になる数です。また、八十年代と九十年代に海外旅行をした日本人の総数は、日本の総人口をゆうに上回る数になっていることも事実でしょう。それらの日本人の認識はどうであるのだろうかとも私は思います。世界の貧しい人々が豊かな国に怒りの感情を持ったとき、先の衛星写真の中にある 一番まばゆく光り輝いている所に攻撃を仕掛ければもっとも効果的だと思ってもおかしくはないことでしょう。そして「世界には大きな貧富の格差があって当然だ」といって放置して おくままでいいのでしょうか。

 

 付記:

『ヒューマニズムとテロル』の本を友人から借りてちょっと読んでみました。私はすでにこの本を焼失してしまっていたからです。この本は現在ではなかなか手に入れることができないだろうと思います。 著者はモーリス・メルロー・ポンテイでした。千九百六十四年に五十一才で急逝したとあとがきにありますが、『ヒューマニズムとテロル』は千九百四十七年の著作のようです。冷戦時代のまっただ中の千九百六十五年に第一刷が訳本の形で日本では発刊され ました。時代背景がそうなので、副題は「共産主義の論理」となっています。マルクス主義をテーマにはしていても、そこにある「名義上は自由主義的な体制が、実際には抑圧的であることはあり得ることだ。逆に、自らの暴力を認める体制が、より多くの真のヒューマニテイを内包することもあり得る。」というこがモチーフといえると思います。これは当然冷戦以後の世界にも通用する考えが含まれているともいえるでしょう。 日本赤軍もハイジャックやテロを行いましたが、それは冷戦時代という時代背景の中のものであり、またイスラエルのテルアビブ空港での乱射事件などはイスラエルとパレスチナの中東問題が背景に存在していました。しかし、冷戦後に日本で起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件によるテロは、テロ行為を行う上でよって立つ根拠の中にヒューマニズム的な要素が私には感じ取れないところがあります。ヒューマニズム的な要素を内包しないテロ行為は単なる殺戮目的のための殺戮行為以上のものではないと思えるのです。 そしてアメリカでの大規模なテロに対して、それまでのテロは事件すなわち犯罪として扱われてきていたのが、ブッシュ大統領の「New War」宣言によって、テロ行為が戦争行為と同じ扱いをされるという新しい段階に入りました。日本も真珠湾を奇襲攻撃し玉砕型(自爆)の突撃を行って戦争を始めましたが、当時の戦争を正当化しようとする「新しい歴史教科書」の考え方は、従軍慰安婦問題などの、かつての日本軍の反ヒューマニズム的な行為を 湖塗し正当化しようという言い分のように思えます。

 

 参考資料:戦後のテロ・ゲリラ事件(2001年11月9日 朝日新聞朝刊より)

'60: 社会党委員長・浅沼稲次郎の右翼による刺殺

'61: 中央公論社長宅の右翼による襲撃 女性に名死傷

'63: 野村秋介 河野一郎元農相宅焼き討ち

'70: 三島由紀夫自決 よど号ハイジャック事件

'72: あさま山荘事件

'74: 三菱重工ビル爆破事件

'77: 野村らの経団連会館襲撃

'81: 米国総領事館放火未遂事件・日本民族独立義勇軍が犯行声明

'87: 朝日新聞阪神支局襲撃事件

'90: 右翼構成員による本島等・広島市長銃撃

'92: 自民党副総裁金丸信に右翼が発砲

'93: 野村が朝日新聞東京本社で自殺

'94: 野村の門下生が朝日新聞東京本社立てこもり

'95: 地下鉄サリン事件

  以上のように、日本国内でも右翼・左翼によるテロやゲリラ事件はこれまでにも起きてきていますが、左翼の場合、ゲリラ事件やテロを引き起こす時の主張には、社会に存在する貧困や搾取あるいは戦争加担の企業に対する抗議などが底流に存在しています。 ここには記載されいてはいませんがペルーの日本大使館人質事件の場合に典型的に見られるように、左翼ゲリラの行動の根拠にはペルー国内の貧困の問題が存在していました。それに対し右翼団体のテロの場合は昭和天皇の戦争責任など、皇国思想を批判したり天皇の責任を問題にする人間に対してテロなどが引き起こされる場合が多いように思われます。右翼の場合のテロには、天皇崇拝以外の考えを持ち込む人間に対する憎悪であってヒューマニズム的な要素は薄いものとしての印象を受けます。 それよりも千九百三十六年二月二十六日の二二六事件の青年将校達の叛乱の方が、千九百二十九年のアメリカの大恐慌の余波によって引き起こされた当時の日本社会に存在していた生活に窮乏する人々への思いがあったと思いますが、戦後の右翼の場合にはそのような部分は欠落しているというのが事実のように感じられます。 すなわち戦時中を懐かしがる戦後の右翼よりも、軍国主義時代の青年将校達の方がヒューマニズムがあったという感想を私は持ちます。

  そしてもう一つ付け加えるなら、日本は難民や亡命者にとってどれだけヒューマニズムに基づいた対応をとっているのかと言うことも問題があると思います。国連高等弁務官事務所の発行しているUNHCRニュース『難民』二千二年第三号には、「難民に門戸を開く」というデイエゴ・ロゼロ氏の記事の中に 千九百九十二年から二千一年までの主要七カ国の年平均難民申請数の表が載っています。それによると、ドイツ:十五万九千七百五十人、米国:十二万五千八百六十人、 英国:五万七千二百人、カナダ:二万九千三百九十人、フランス:二万八千百人、イタリア:八千三百四十人、日本:百五十五人となっています。この数字からして、日本人の皆さんは何を思うのでしょうか?「日本人は自分の身内だけを大切にして、外部の人間には冷たい」と思われても仕方がない数字といえるのではないのでしょうか。「かたくなに世界に日本を開こうとしない、金はあるが難民や亡命者 などの過酷な境遇にある人には冷たい国 だ」と日本が思われても致し方ないと思います。 日本の外で困っている人たちにはもっと日本という国を開いても良いのではないのでしょうか?確かに日本はベトナム戦争の終盤で大量に発生したボートピープルすなわち南ベトナムからの難民を受け入れた経緯はあります。しかしそれ以後かれこれ二十五年以上たった現在では上のような数字になっているのです。ベトナム難民の受け入れ施設はすでに閉鎖されその役割は終わっていますが、難民は現在も世界には多数存在しています。政治難民、経済難民、そしてこれからは環境難民も生まれ出てくることでしょう。しかしそれらの人々に対する日本の対応は先進国としてあまりにお粗末と言わざるをえないのが現状なのではないのでしょうか。