靖国神社の公式参拝について

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小泉純一郎首相は靖国神社の公式参拝を行うとの発言をしています。これまで政府の閣僚達が靖国神社を参拝する時には、おおくのマスメデイアが「公人か私人の立場でか?」と質問を浴びせる光景がテレビなどで再三放映されてきていました。しかしそれらの人々がどのような趣旨で靖国神社に参拝するのかという質問はされてきていませんでした。石原慎太郎東京都知事も靖国神社に参拝したときにインタビューされて「政治家にも信教の自由はある」 また「靖国神社の参拝は日本の文化だ」と述べはしましたが、なにを願って靖国にいったのかは不明のままです。

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私は政治家や閣僚が靖国神社に参拝することに一概には反対しません。公的な身分にある人が第二次大戦の象徴的な神社に参拝するには、それなりの趣旨を明らかにすべきだと思っています。公的な人が私人でいられるのは家の中で風呂に入っているとき とトイレにいる時間くらいなものだと自覚してもらいたいのです。家の中にいても電話はかかってくることでしょうし、ましてや家の外へ一歩出たら公的な立場の人は公人でしかないと思われていると自覚してほしいと思います。地下鉄やタクシーあるいはJRの山手線を使って靖国神社に行くのではなく公用車で神社に行って「公人の立場でのものではなく私人として」というのは論外のことです。 それは公用車の私物化だからです。

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かつての戦争で命を落とした多くの戦没者の御霊をねぎらう意味であるというのなら、それは「軍部の誤った方針の下に行われてしまった戦争によって、あたら命を落とさなければならなくなった人々に対して、国の政治を預かるものとしてその非を詫びる」という意味で参拝するのなら、私は政府の閣僚や首相が靖国神社を参拝することを支持します。当然 の事ながら戦争指導者である戦争犯罪人とされながら合祀されている東条英機をはじめとする十四人のA級戦犯の戦争指導者の人たちなどはその範囲には入りません。そのことはアジア諸国の理解を幾分かでも得ることのできる靖国神社の参拝への道でもあろうと思います。日本が被害を与えてしまったアジア諸国にも同時に詫びることができる参拝のありようだからです。日本政府の中枢にいる人間は国家神道を信奉するものであることを表明するためにでは決して無く、また当時の戦争で亡くなった人々を英雄視するという意味でもなく戦争の過ちを認めるために行くわけです。政教の分離は堅持すべきであり、政治家が個人的に宗教を信じていたとしてもその宗教を政治の場面で公的なものへと転化すべきではないと思います。国家神道によって統制してきたかつての戦争の経験は再び繰り返されるべきではないからです。 また戦時中を含めて三十年の間日本の植民地であった韓国などには日本の神道の神社を造って参拝を強要していた歴史も忘れるべきものではありません。 二千十三年には安倍内閣の政調会長である高市早苗氏が村山談話に対して違和感を覚えるとの意見を述べていますが、「日本の国としても間違いであったかつての戦争」というものに対して、「日本が植民地化されかねないという当時の状況では・・・」と、日本の当時の政府の判断は必ずしも間違いではないとの見解を述べていました。日本が植民地化されるのを避けるためにはそうせざるを得なかったと言うわけですが、「だから日本は韓国を植民地化した」という論理は通るのでしょうか??そのような歴史的背景があったので、韓国は戦後、日本から工業製品の製造技術は自ら受け入れることを希望しましたが日本の文化侵略を警戒して最近まで日本の大衆歌謡や映画などの受け入れは拒否してきていました。 当時日本が韓国に持ち込んだ日本の文化で現在も韓国人に受け入れられている風習はお花見の方だそうです。また日本が最初に植民地化した台湾において行って政策も皇民化政策でした。すなわち天皇の下に台湾の人々を置こうという日本の価値観の押しつけだったわけです。もし日本の敗戦時のアメリカの占領政策の中でアメリカが日本人をキリスト教の教会へ連れて行って「日本の天皇よりもイエス・キリストの方が偉いと思え」などと 強制したら 、たとえその時には日本人はアメリカに逆らえなかったとしても多くの日本人の気持ちは収まらなかったのではないのでしょうか。 日本を占領統治したアメリカはそのような無理強いをし反発を買うほど馬鹿ではなかったわけです。 アメリカが日本を占領統治していたときにアメリカ人の若い兵隊が二〜三人我が家に夜間にやってきて母はビックリしたそうですが、英語ができる親戚筋の人がたまたまそのとき居合わせていていくらか言葉を交わし、その日はクリスマスでアメリカ兵は「メリー・クリスマス」と言って玄関先で賛美歌を歌って去っていっただけだったようです。そして小泉首相は靖国神社は参拝してもローマ法王パウロ二世の葬儀には出席しませんでした。 昭和天皇の死去の際には各国の王族や首脳が来ましたし寒い雨空の中でテントの下で長時間にわたって葬儀が行われもしました。宗教施設の靖国神社へゆけるならパウロ二世の葬儀にも出席してもいいはずです。アメリカの要人や各国首脳が一堂に会する場であるのなら小泉首相は各国首脳との外交の顔合わせをするためにもローマ法王の葬儀に出席しても良かったように思えます。しかも「政教分離の憲法の原則に違反する行為を行っても靖国神社へ参拝するのは日本を思う気持ちの発露であるので許されるのだ 」とするなら、二千五年四月に中国で起きた反日デモの若者たちが唱えた「愛国無罪」と同じ結果の言い分になるのではないでしょうか? また、かつてイランで起きたホメイニ師によるイスラム革命のように政教一致の体制にするつもりなのかという疑問も生まれます。そして中国では「愛国無罪」を唱えているのはデモ隊ですが、日本では為政者自身が行動面でやって見せているので、中国当局はデモを止め立てできても日本では 靖国参拝の憲法判断を日本の裁判所は正面から取り上げようとしてはしていないので、靖国参拝を止められる権限を持つ人がいないわけです。 また靖国参拝に批判の声を上げる中国や韓国などにたいして「内政干渉だ」との日本の反論も、内政干渉という相手の行動にくちばしを挟む程度の言葉の上での批判どころではない過酷な 実体的支配をかつての日本はアジア諸国に行ってしまっていたことは日本自身が認めておくべき ことだと思います。 またかつての時代に日本が自分でアジア諸国に持ち出していった国家神道の神社にこの時点で参拝することを、なぜ日本はそれを純粋な内政問題だと言い得るのでしょうか。 「戦没者の追悼の仕方について他国が干渉すべきではない」と小泉首相は国会で答弁していますが、日本はかつて他国に干渉し実態支配したことを認めるべきであり、干渉以上の行動をとったことは認めるべきでしょう。また二千十三年時点で自民党が与党に返り咲いた安倍内閣でも閣僚の靖国神社参拝などで中・韓国と関係がぎくしゃくしていますが、その時点でもやはり「内政干渉」との意見を櫻井よしこさんなどは新聞に意見広告として出しています。しかし果たしてかつての戦争では靖国神社の存在はもっぱら国内だけで済んでいた問題だったのでしょうか??「靖国で会おう・・」と靖国神社が出撃して行く兵隊達の心のよりどころであったなら、純粋に内政だけで片付けられないと思うのです。「日本の国のために命を落とした英霊・・」というのならその英霊達はどこで命を落としたのかです。靖国神社にまつられている英霊達は日本国内で命を落とした人達が大半を占めているなどと言うことではないことは明らかなことでしょう。安倍首相は靖国神社に変わる追悼施設の整備に否定的な考えを二千十三年五月四日に国会で答弁しましたが、その理由は「遺族の心が納得できる施設は靖国神社以外にはない」とのことです。裏を返せばかつての戦争に靖国神社という存在がいかに大きく関わっていたかと言うことの証明でもあるわけです。当時の日本人は身も心も国家に吸い上げられていたというのが戦時中の姿と言っていいのでしょう。日本の国内のことが海外諸国との関係に影響していたのです。そしてそれらに対して諸外国から批判の声が出ても日本としてはいいわけに終始するだけでその問題を解決するすべが自分では出せないと言うことです。これはちょっと例えとして正確かどうか分かりませんが、少子高齢化時代を迎えた日本は国内で需要が減少するわけですから、企業は成長が見込まれるアジア諸国に輸出したりあるいは生産基地を移したりします。国もそのような動きを後押しすることになります。少子高齢化は純粋に日本の国内問題です。しかしそのことのために日本は対外的な行動を起こしていくわけです。日本の国内問題が対外的な関係の中に入って行っていることが明らかです。第二次大戦は戦国時代の戦いのような日本の国内で起きた内戦などではありませんでした。日本が対外的に行った戦争でした。戦国時代の戦いならそれをとやかく言うのは内政干渉でしょうが、第二次対戦はそうはいきません。日本の国内事情だけで閉じている問題などでは決してなかったからです。

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当時の軍部の中枢が方針を誤ってしまったが為にアジア諸国に被害を与え日本人自らも大きな痛手を被ってしまったことを日本の国としての誤りであったとはっきりと表明すれば、アジア諸国にも日本政府の閣僚達が靖国神社を公式訪問することに対する幾分の理解は得られるだろうと私は考えます。そして国会で社民党党首の土井たか子さんが指摘したように、そのような戦争によって命を落とされた方たちの御霊が千鳥が淵戦没者墓苑にでも存在するなら戦争遂行の上に大きな力を持った (なぜなら当時の兵隊達は死の覚悟をした上で「靖国で会おう」と誓い合って出撃していったからでした。)国家神道の神社に詣でるよりももっと多くの人々、それは日本人ばかりでなく諸外国の人たちの理解も得られることであろうとは思います。 アメリカのアーリントン墓地には第二次大戦の戦没者が埋葬されていて日本の首脳も墓地を訪れて慰霊を行ったりしますが、アーリントン墓地は墓地であってキリスト教の教会ではありません。 靖国神社参拝の問題で安倍官房長官は「日本は信教の自由がある国だ」と述べてはいますが、それは宗教を公には認めない共産主義の国である中国への反論のつもりで言っ たとしても信教の自由のあるアメリカですらアーリントン墓地で花輪を手向けることはあってもキリスト教の教会で礼拝することまでもを海外からアメリカ人戦没者を慰霊に来る人たちにアメリカは求めたりはしていません。 全ての人には信教の自由があるので、それがカルトのような犯罪に走る危険性のあるものでない限りどのような宗教を信じることも自由なので他国の他の宗教を信じているかも知れない人に自国の主流な宗教を押しつけるようなことはしないように配慮をするわけです。 カルト教団などはヨーロッパ諸国でも活動を禁止され入国も許可されませんが、そうでない場合には相手側の信教の自由を認めその他者の信教の自由を侵したりしないようにするわけです。しかし日本の安倍官房長官の信教の自由という主張は日本の独りよがりなところが見え隠れするように感じられます。 いくら儀礼だとは言え自分の信教の自由が侵されてまで慰霊するのは差し控えるという選択を採る海外の首脳は存在すると言えるでしょう。 アメリカ人戦没者の慰霊のために日本の首相がキリスト教の教会で礼拝 し胸の前で十字を切ってみせるのはいくら慰霊のためであると言っても多くの日本人には、あるいは靖国神社に固執している人にとっては殊に抵抗感があるでしょう。 ブッシュ大統領も来日した際に小泉首相と靖国神社を訪れて流鏑馬を見物したりしていますが、 しかしブッシュ大統領は靖国神社には参拝はしていません。二千五年五月九日にはロシアでヨーロッパ戦線終結を記念した行事が行われ 、その際に戦勝国・敗戦国双方の諸国の首脳が一堂に会してモスクワの無名戦士の墓に献花し小泉首相も出席して同様に献花しましたが、それもロシア正教の教会で各国の首脳達が礼拝まで行ったわけではありません。 宗教施設である神社に参拝して戦没者の慰霊を行うという日本の慰霊の形式が世界の潮流になるかと言えば、そうなるとは私には到底思えません。もしそれが世界の潮流になると言うのなら、 イラク戦争での戦没者を慰霊するようなことがあった場合、イラクを訪れたアメリカ大統領がイスラムのモスクの絨毯の上に跪いてアラーの神にぬかずいてからイラク人の戦没者を慰霊するとでも言うのでしょうか? そしてイギリスの首相もそのようにするでしょうか?日本の首相や外務大臣とてイスラムのモスクの絨毯の上でアラーの神の前でぬかずいた後で戦没者を慰霊したりはしないでしょう。イスラム教徒は世界で十二億人以上、すなわち全人類の二割もの比重を占める最大の宗教人口である人たちだったとしてもアメリカ大統領もイギリスの首相もそして日本の首相とてもそのような慰霊の仕方はしないはずです。それと同じようにアメリカの大統領が日本の戦没者の慰霊のために靖国神社に参拝したとしたらアメリカのキリスト教保守派やキリスト教右派の人たちなどは強い抵抗感を感じるはずです。 またアラブの首脳たちでもそうでしょう。 日本の政治家がキリスト教の教会やアラブのモスクで礼拝をしなければならないなどと言った状況になったら、日本国内では「毅然とした態度で断固拒否すべきだ」と言った声が上がるのではないでしょうか。日本の場合の靖国神社はアメリカで言えばキリスト教の教会に当たるまたアラブで言えばイスラム教のモスクに当たる宗教施設であるので、アメリカ やロシアの墓地で行う慰霊の仕方とは全く違ってしまうのです。イスラム世界での慰霊の仕方がどうなるかは別にしても、そのような意味では靖国神社という存在は日本とは異なる宗教の諸外国の人たちあるいは無宗教の国の人たちが戦没者を慰霊することは考慮の中に入っておらず、そのことに対する相手側への配慮も全くなされていないものだといえると思います。第二次安倍内閣の官房長官である菅氏は「戦没者への尊崇の念を表すのはどこの国でもやっていることだ」とのべています。確かに自国のために戦って亡くなった人を慰霊するのはどこの国でも行うことで世界共通のことと言えます。しかし日本の慰霊の仕方は世界共通の仕方ではなく日本だけの特異なやりかたをしているのです。「靖国で会おう」と戦地へ散っていった兵隊達は死を覚悟して誓い合ったのだから慰霊は靖国神社でと言う考えは日本の考えとしてはあり得るとは思いますが、それはあくまで日本の中での論理でしかなく世界性は持ち得ないと思います。また靖国神社が戦時中にはそのような位置づけであったが為に、諸外国から靖国神社での慰霊を問題視されても日本政府でさえもが靖国の問題の解決に手を出せずにいるとも言えます。すなわち、どこの国においても自国の戦没者への慰霊や他国の戦没者への儀礼としての慰霊は行われますが、日本における慰霊の仕方はあまりにも 自分の殻の閉じこもってしまっていて対外的な配慮に欠け対外的に開かれた形になっていないと思えるのです。 海外から来た人に自国の戦没者の慰霊や追悼をしてもらうときにそれらの人を自国の宗教に引きずり込むようなことまで、すなわち相手の信教の自由を侵害までする国は世界にはありません。宗教は人間の心の問題です。だからこそ相手の心を刺激するようなことを最大限避ける工夫を世界のどの国々もしているわけです。 自国の宗教を持ち出すことで相手側の心を刺激したりしないように各国が工夫しているというわけです。自分にだけ心があって相手には心がないというわけにはいかないからです。そして靖国神社に強い思い入れがあるのは日本人だけだからです。 日本人が自分の心だけを大事にし他の人の心には全く無関心だったり相手の心を傷つけたりしたらそれは間違いでしょう。誰にもそれなりに心はあるからです。もし「対外的な 人の心に配慮をしないことが古来からの日本の伝統であり日本の固有な文化の有り様だ」というのであれば、そのような伝統や文化の有り様は修正され是正されてしかるべきだと思います。 どこの国のどんな宗教を信じる人でも日本に来て慰霊するには靖国神社で榊をお供えして柏手を打たなければならないと言うのでしょうか。 相手国の人を自分の宗教に引きずり込んでまで日本の戦没者の慰霊をしてもらおうというような自国の宗教を他国から来る人へそうまで押しつけ がましい形にしてしまったのでは諸外国の首脳で日本の戦没者を慰霊する人はいないと言うことにもなるでしょう。 自分の信じる宗教ではない宗教に頭を下げてまで、相手国の戦没者に慰霊を行う諸外国首脳などはいないことだろうと思います。どこの国も他国から来る人々にそこまでの押しつけがましい対応はしてはいないといえます。ここでの問題は日本文化論としてだけで見るのではなく比較文化論的に考えた方が問題がどこにあるのかが良くわかるものでもあるようです。 日本の靖国参拝を支持する政治家達の中には靖国神社に参拝することをそれに反対する中国に対しての面当てのような感覚になっている人もいるようですが、しかしいくら中国に対する面当てであっても日本の慰霊の仕方は他の欧米諸国やロシアなどからも理解されないものだといえます。 私はいわゆる日本的なやり方としての「ことを無難にしよう」と言っているのではありません。私はあえて異論を唱えんがために唱えているわけではありません。しかし日本のやり方はあまりにも明らかに国際常識から逸脱してはいないのかと言うことです。 そしてさらに悲しいことには、日本の慰霊の仕方が国際的な常識から大きく逸脱するものであることを靖国神社に参拝している日本の政治家達が自覚していないことです。中国や韓国に言われた言われないの 問題なのではなく、また中国や韓国にとって靖国問題はもはや外交カードの羽成得ない云々の問題でもなく、日本の戦没者の慰霊の仕方は世界の儀式的な式典として世界の慣例からかけ離れた特異な形という側面があることが問題だと言うのが私の考えです。 その特異さが世界への門戸を閉ざす障壁になっている部分があると思えるのです。 戦後の靖国問題は日本人だけの中で閉じた世界になってはいますが、なぜそれが問題になるのかというとかつての日本が対外的に膨張し広がっていった歴史の結果でもあり 、それが靖国神社に集約されてもいるからです。また日本の国会議員たちの靖国神社参拝は戦時中の戦闘で命を落とした人たちに対してばかりではなく、思想犯として投獄されたり死に至らしめられた人々に対しても日本の国として詫びるべきものだとも思います。戦闘で勇敢に戦い自分の死をもおそれなかった人々、そしてそれとは反対に 少しの血を見ただけでも気持ちが悪くなってしまうような気の小さな臆病な兵隊というのはどこの国の軍隊にもいたわけで、当時の日本軍ばかりでなく中国軍にも日本の植民地とされて日本軍の一員にされていた韓国の人々の中にも、またソ連軍にもアメリカ人などの欧米人の中にもいたわけです。戦争の時代にはどこの国の人間でもその国のために勇敢に死をもおそれず戦った人間がたたえられるのは共通しています。それらの人たちは自国の英雄だからです。そして実際に戦った経験のある人は敵同士であってもその相手の人々を十分認めているのです。自国の英雄だけを褒め称えようとするのは現場で実際に戦闘行動をしたことのない人々の方だと思います。敵であっても一目も二目もおかなければならない相手が存在していることは戦った経験のある人なら知っていることです。それらの戦闘に実際に加わっていた兵士達は戦争が終わって時間が経 って当時に対してわだかまりが一応消えたあとでは相手の勇敢さを褒め称えることとてあります。それは戦った人が相手を十分認めているからですし、国家によって引き起こされる戦争は個人的な恨みだけで殺し合いを始めているわけではないからです。ですが敵を兵士達が十分自分で認識できていた戦争はベトナム戦争までで、湾岸戦争以降は兵器がハイテク化され個々の兵士がどれだけ勇敢かを認識することのできない戦争の形態へと変わろうとしています。しかし第二次大戦時においてはまだまだそのようなものにはなっていなかったので兵士達は、 殊に陸戦に参加した兵士達である歩兵たちは自分の皮膚感覚で相手の勇敢さと手強さを認識できていた部分があったと思います。
これまでの日本国内での靖国神社参拝の議論は、ともすれば戦時中に対する回帰の流れのなかにあるようにも見えていましたが、そのような流れとは決別すべきであろうというのが私の意見です。 国立墓苑の方が靖国神社よりも諸外国からの疑問をもたれにくい参拝の方法であると思われるにもかかわらず、なぜに靖国神社に日本政府の人々、あるいは中曽根康弘元首相や小泉純一郎首相はあえてこだわろうとするでしょうか。憲法に抵触する恐れがある行動そしてまた 戦犯も一緒にまつられているがためにアジア諸国から誤解を招きかねないような行動をあえて取ろうとする理由は何なのかは注意すべきところだろうと思います。 靖国神社建立の立て役者が明治天皇だったからなのでしょうか。 小泉首相は「戦犯も一般の兵隊も死んでしまえば同じものとするのが日本の文化だ」と述べていましたが、ではドイツでかつてのドイツ兵を慰霊するときにはヒトラーにも慰霊するのでしょうか? ドイツの首相が自国の戦没者を慰霊するときにヒトラーや宣伝大臣だったゲッペルスなどのナチス幹部たちまで一緒にして慰霊したり追悼したりしたらイギリスもフランスもポーランドもロシアも、あるいはイスラエルや世界に散らばるユダヤ人たちもそれを黙って認めることはできないことでしょう。アメリカとていい顔はしないと思います。ドイツ政府は決してそのようなことはしないでしょうし、そのようなことを間違ってしたら抗議の声は上がるはずです。 抗議するのが当然だと私は思います。 ヒトラーとてドイツ国民に功績を残さなかった人物ではありませんでした。第一次大戦による多額の賠償金で疲弊し大量の失業に苦しんでいたドイツにアウトバーンを建設し て失業を救ったりしたからです。しかしだからといって、ドイツ首相が戦後になってヒトラーを慰霊したりしたら被害を受けた周辺国は収まるわけはありません。ドイツは戦後そのようなことはしてこなかったので、関係国との間では日中・日韓などでの日本の戦没者慰霊を巡っての諍いや確執のようなものは起きていません。その程度のけじめと相手国への節度はヨーロッパ諸国間においては常識であると言って良いでしょう。 また日本もそのくらいのけじめと節度は身につけていいとも思います。日本が軍国主義になる下地を用意したのは二・二・六の青年将校達の反乱によって高橋是清などが暗殺され、その後軍部の発言権が強まった からですが、青年将校達とて全く理由もなく反乱を起こしたわけではありませんでした。第一次大戦の終了に伴う 戦争特需の終息とアメリカの大恐慌の余波による極度の経済の悪化、それに政界の腐敗などへの憤りでした。しかしそのような理由があったとしても、その後の軍国主義で突っ走っ た歴史は日本にとって幸福をもたらす結果にはなりませんでしたし、アジア諸国にも大きな悲劇を残してしまいました。 千九百十七年にはロシア革命が起こり、第一次大戦が終了した千九百十九年にはベルサイユ条約が締結されましたが、その年の五月四日には中国への支配を強める日本にたいして中国の学生達が反日運動を起こしてもいます。いわゆる五四運動です。したがってその 後の日中戦争などに発展していった戦争の戦犯までもを慰霊するのには多くの問題が存在するといえるのです。もしそれに問題がないというのであれば、将来的にイラク戦争で死亡したイラク兵士を慰霊するときには、日本の政治家たちは もし裁判で死刑にされることになったりしたとしてもフセイン大統領も慰霊の対象にすることを慣例にするのでしょうか?戦犯までもがまつられている靖国神社へ行って「不戦の誓いをするのだから誤解しないで欲しい 」と言ってもそれは誤解しないでくれという方が無理にも私には思えます。しかしそれ以後の日本の歴史の流れの中で、日本人が過去を正当化しようとする欲求や戦時中という時代への未練のために過去をいつまでもずるずる引きずるような形でない靖国神社の位置付けとその戦没者の慰霊に参拝のあり方に変えるべきだと思うのです。そのためにもかつての戦争は日本の国として誤りであったことをはっきりと認め被害を与えてしまったアジア諸国をはじめとする世界の国々の人々に謝罪した上で行うべきことだと思います。そのことをはっきりとさせないままで靖国神社の公式参拝を行えば、諸外国からこれまでも何度にもわたって行われてきた抗議と非難の声を日本は受け、日本自身が未来志向をとれないように自分自身を縛ってしまう結果になるからです。日本がそうしない限り自分が前へ進もうとするときに過去の問題で同じように何度でもつまずかざるを得ないということだと思います。日本の国として過ちの歴史であったことを認めない限り中国・韓国をはじめとするアジア諸国は納得はしないことでしょう。 これまで日本はアジア諸国から過去の問題が提示されると「未来志向の関係を」と述べながら過去にはふれたがりませんでした。従って過去を十分には認めずにいたずらに靖国神社へ参拝することは、結果的には未来への扉を日本が閉ざす事であり 、また未来への扉をぶち壊しにしているのは日本自身であるということにもなるからです。 口では未来志向と述べておきながら、行動面ではアジアの人々が過去を想起せざるを得ない道を日本の指導者たちがとっているのです。過去のことを正面から認めてしまうと未来へ行けなくなってしまうわけではありません。むしろ認めた方が未来への道はさらに広がることでしょう。石原東京都知事は自著『「アメリカ信仰」を捨てよ』の中で「日本が韓国を植民地にしていた時代よりも、国家が分断された冷戦構造の時代の方が朝鮮半島にとっては不幸が大きい時代だった」と述べていますが、日本の植民地化が原因で米ソ両国が対日参戦を仕掛ける課程で朝鮮分断が起きたことを考えれば、冷戦時代においての朝鮮半島情勢の種をまいたのは日本に他なりません。北朝鮮の日本人拉致問題にしても、拉致そのものはその家族の人たちや本人にとって大変な不幸であるといえても、日本 が戦時中の自らの非を認めてからでないと、北朝鮮からの反論にあうことでしょう。「当時の日本の行ったことを考えれば、拉致問題云々でとやかく言われる筋合いはない」という北朝鮮側の言い分が出てきてもおかしくはないのです。 なぜなら当時の日本は、当時の日本の植民地政策下での法律においては合法的なやり方といえても、植民地政策の中で韓国・朝鮮人を日本に連れてきたからです。 国家的な方針による合法を装った大量拉致ともいえます。小泉純一郎首相は国会答弁で、「靖国神社に参拝することは日本人の気持ちとして当然のものだ。二度と戦争はすべきではない」と述べています。 しかし「戦争をすべきでない」という日本人の気持ちを表す場として、かつての戦争遂行に力を貸した靖国神社は果たしてふさわしい場所といえるかです。 不戦の誓いなら日本国憲法にも明記されていることですのでそれを守り通すと各国に日本国憲法の条文を説明すればよいわけですし、またそのような誓いを再度表明するならそれはそれでそれにふさわしい場所というものを選ぶべきだと思います。 不戦の誓いは広島や長崎あるいは沖縄や東京の下町など、日本にはそれをするにふさわしい場所があると言うことです。日本人の心がアジア諸国の人々や世界の人々に受け入れられ理解と納得を得られる姿にするべきだろうと思います。日本人だけにしかわからない日本人の心では日本人が他の諸国との関わりの中で起こしてしまった出来事の解決にはならないからです。 かつての戦争の戦没者は日本の内戦によって亡くなった方ではないからです。 すなわち明治維新に於いて命を落とした坂本龍馬の墓参りに行こうが、あるいは新撰組の墓参りに行こうが、はたまた西郷隆盛の墓参りや勝海舟の墓参りに日本の首相が行こうがアジア諸国は何ら問題視はしないはずですが、大東亜戦争から太平洋戦争へと展開されたかつての戦争はそうは行かないところがあります。そして日本の戦没者遺族の心情と中国・韓国などの懸念の双方に答えることのできる靖国参拝のあり方は謝罪のほかにはないのではないかと私は考えます。 そして国の力によって戦没者にまでなってしまった人々が死んでから後になってまで政治に利用され騒ぎになるような戦没者であったとすれば、戦没者はあまりにも惨めでしかないとも思います。 過去に犠牲になった人たちの弔い方が問題で後の戦争に直接関わった経験などない世代の間で新たに一悶着が起こるのはあまりにも悲しい二重の悲劇です。そして小泉純一郎氏の靖国神社参拝は、将来的には国立墓苑の参拝への過渡的姿にしてもらいたいと思います。 アジア諸国から孤立しても日本人は日本人の心を重視したいというのであれば、その結果も日本人自身が引き受けなければならなくなることでしょう。 そして小泉首相が田中真紀子外務大臣の反対の意向を押し切って参拝するのであれば、そのことによって生じる外交的な問題は外務省が処理に当たるのではなく小泉純一郎 氏個人が首相としてもっぱら行うべき事になると思います。 日本の首相が公式に靖国神社に参拝するという行為が日本の外交にマイナスになることはあってもプラスになるとは私には思えないからです。 当然の事ながら、過去の問題で何度もアジア諸国とぎくしゃくした関係に陥ることは参拝に出かける議員の人たちの自意識の満足にはなっても日本の将来にとっての国益にはならないことでしょう。 国立墓苑ができてそこが若者達の散策の場所になったりデートコースになったりしても私はいいと思います。それほど素敵な場所であるなら戦没者の心も癒されることでしょう。そして若者達が何かの折りに、ここがどんな理由でできているのかを少しだけ気にかけてくれればいいのだと思います。アジア諸国をはじめとする諸外国と不愉快で気まずい思いをお互いにするようなことをいつまでも続けている必要もないと思うからです。 そのようなことを繰り返すことが日本の外交として建設的な行動だとは私にはとうてい思えません。 このコーナーの文章を書き記してきてかれこれ二年以上の月日が経ったとき、 『文藝春秋』二千三年七月号には昭和天皇の国民への謝罪詔書草稿が発見されたと記事が載りました。田島道治初代宮内庁長官が用意した文章とされますが、そこには「朕、....先ニ善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終リ、惨禍今日ノ甚シキニ至ル.....屍ヲ戦場ニ暴シ、命ヲ職域ニ致シタルモノ算ナク、思フテ其人及其遺族ニ及ブ時寔ニ仲怛ノ情禁ズル能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或ハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ 、剰ヘ一般産業ノ不振、諸價ノミ騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ国家未曾有ノ災殃トイフベク....朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」とあります。これは 吉田茂氏が「未来が語られていない」と公表に反対したことなどから天皇の口から直接には公にはされなかったとの事なのですが、昭和天皇の当時の国民への謝罪という意味があります。 「上官の命令は朕の命令である」という縦社会の構造の中で戦争が遂行されそれが惨憺たる結末に終わったなら、その責任は上から下へと言う当時の命令系統を逆にさかのぼって問われるべきものであるでしょう。また日本が過去の問題に出くわしたときに未来を語ることによって過去を真正面から認めようとしたがらない傾向はこの草稿が用意された1948年(昭和二十三年)頃にすでに形ち作られていたようで、その後五十年以上の長きにわたって日本の政治家達はアジアからの声の中の過去の問題に対処する上でこの方法を踏襲してきていたと言っても良いと思えます。そして靖国神社の公式参拝に赴く政治家や官僚の人たちの心の中に、この昭和天皇のお言葉として用意された文章の気持ちが幾分かでも含まれていることを切に望む者の一人です。日本人がまだ忘れてしまって良いものだとも私には思えないのです。 私にはこの昭和天皇のかつての戦争というものに対する認識は至極当然で当たり前なことを述べていると思われるのですが、これまで靖国神社を参拝していた政治家や現在靖国神社に参拝している政治家や官僚の人たちにはそれが当然の事でも当たり前なものにもなっていないように感じられるところが私には非常に気がかりな事なのです。 第二次大戦中にアメリカで強制収容された日系人にたいして「人権侵害であった」とアメリカ政府は謝罪し保証もし記念碑も建てましたが、ある強制収容時で過ごした一人の日系人は「過ちは過ちとして認めることができて初めて一流国家といえる」と述べていました。 不当に被害を受けさせられたら日系人でもそういうわけですが、日本は果たして日本が被害を与えてしまった国々の人から一流国家といわれるだけの評価を得るためにはどのように振る舞うべきなのでしょうか。 日本には「人の振り見て我が振り直せ」という諺がありますが、この問題においては日本は「世界の振り見て我が振り直せ」と言ったところなのでしょうか??? 人と違う行動をとっても何も問題が生まれていないというのならばそれでもいいでしょうが、問題が生まれてしまっているのならそれは自分自身で考えなければならないことでしょう。 戦没者の慰霊の方式には日本側に大きな不備があると言ってもいいと思われるからです。 千九百七十五年の三木総理の参拝以来、千九百八十五年の中曽根康弘元総理の参拝にたいして周辺諸国から抗議の声が上がってから、何年経ち、またその間に日本は靖国参拝の形式にどれだけの手直しをこれまでしてきたといえるのでしょうか。 日本の歴史教科書が問題になって中国や韓国が批判したおりに、『新しい歴史教科書』の執筆者は国定教科書の韓国や中国は日本をとやかく言う資格はないと反論しましたが、しかしその後その批判を受けて韓国も中国も日本に見習って教科書の検定制度に切り替えると言う手直しをしています。しかし日本側は靖国参拝に付随する不備を何も手直しせずに年月が経ったからまた同じように靖国参拝を再開し繰り返すというだけなら、他のアジア諸国や欧米諸国との関係ではらちがあかない状態が続くことでしょう。 過去の問題の決着は何も付けられないままでずるずる時間だけが経ってゆくことが未来志向なのかどうかです。かつての戦争に関係した諸外国の人たちに戦争で死亡した日本の兵士たちが慰霊もしてもらうことができないような寂しい立場に日本の戦没者をおいてしまっています。それは日本の慰霊の仕方が独自すぎて諸外国の慰霊の常識とかけ離れているために諸外国の理解や納得を得られる形になっていないからです。 また日本の慰霊の仕方が独自であると言ってもその独自性が果たして世界に誇れるものなのかどうか、また将来的には世界の国々がそのスタイルを慰霊の仕方として見習うようになって日本の慰霊の仕方が未来にお ける世界の潮流になる日があるのかすなわち先駆性があるのかと言えば、私にはとうていそうは思えません。 先駆的なものはそれが生まれ出てくる時点では独自なものとして人々に認識されますが、独自でありさえすればどんなものにも先駆性があるのかというとそうではないからです。 世界が天才と呼ぶ人には変わり者が多いようでもありますが、変わり者でありさえするなら世界の人々がその人を必ず天才と呼ぶと言うわけでもないことと同じです。独自性の中にも世界につながってゆく独自性もあれば世界とはつながることがない独自性というものもあると思います。 日・米安保条約を模して千九百六十二年に締結された中・朝軍事同盟によって中国の後ろ盾があるからミサイルを自分の好き勝手に発射できると考える北朝鮮の行動は中国にとってもお荷物と映ることもあるでしょう。 アメリカが擁護してくれるから・・・とそれで国際的な非難が出てしまうほどの行き過ぎた軍事行動にイスラエルが走ればアメリカも頭が痛いところもあるでしょう。それと同じようにアジア諸国の理解を得られない靖国神社への参拝を意地でも通そうとする日本の行動は同盟国で日本の後ろ盾にもなっているアメリカにとってもやっかいな行動と見られても仕方ないと思います。 「同盟関係にあってもその行動はちょっと控えてくれ」と言うのがアメリカの本音ではないのでしょうか。世界にはいくつもの宗教があり、それに基づいた文化もあり、それらはお互いに尊重し合うべきですが、しかし相手を無理矢理自国の文化に引きづり込むことはすべきではないはずです。それよりもネオ・ナチの台頭などが懸念されるとはいえ、戦後六十年という節目の年にユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の歴史を忘れないためにアメリカ人にデザインを委託してベルリンの一等地に大きなモニュメントを作ったドイツの独自性の方が国際社会の中で遙かに立派な身の処し方をしていると私には思えてきます。 今後多分、自分たちの罪を認めたドイツのモニュメントには世界の多くの観光客が訪れることでしょうが、日本の靖国神社参拝は日本人だけの独りよがりでそれほど多くの海外の人々が訪れることはないのではないでしょうか。 まあ、これから先の百年でも二百年でも、あるいは三百年でも五百年でもずっと毎年日本の歴代の首相が靖国神社を参拝し、それに対して毎年アジア諸国が抗議し、その度毎に日本の首相とアジア諸国の首脳がお互いの考えを述べ合うために会談することを繰り返せば、お互いが折れ合うことはなくともお互いの言い分はいやと言うほどお互いで分かり合うことができることでしょうが・・・。 そしてお互いがこの問題を話し合うのはうんざりと言う気分になるのも一つの歴史であるといえることでしょう。日本人だけの宗教とは言っても、古来からの日本の風神・雷神・水神などの方が世界の人々の共感と理解を得られる神のようにも私には思えてきてしまいます。 私の意見は多くの日本人の考えとは違っているかも知れません。しかし日本人の靖国神社をめぐる慰霊の行動は世界の多くの国々の慰霊の仕方と違っていると思います。 靖国神社のあり方に何も修正や変更を加えないままにしておいて、アジア諸国やそれ以外の国々に「理解してください」「わかってください」と言ったところで諸外国からの理解 も納得も日本は少しも得られないことでしょう。 諸外国から何度も問題視されているにもかかわらず日本側が何ら問題解決の方策を示せないのなら、それはあまりにも日本が無策であると言うことになるでしょう。靖国神社を二千十三年十二月二十六日に参拝した第二次安倍内閣の首相である安倍晋三氏に対しては、中国・韓国だけでなくロシア・EUからも批判する言葉が出され、同盟国アメリカからまでも「失望している」との表明が出されました。上述のような意見の持ち主である私は日本国内では少数派で孤立しているのかもしれませんが、日本が私の述べたこととは逆方向に靖国参拝を押し通そうとするのであれば、それは日本が国際社会から政治的に孤立し八方塞がりの道を進んでゆくことになるのだろうということなのです。「日本の国のために命を落とした人を政治家が靖国神社で慰霊する」ことが世界との関係の中では「日本の国のためにならない」という構図になってしまっているのは皮肉なことながら事実です。その政治的な孤立が下手に経済にまで波及してくるようなことにでもなれば国民にとっては大きな災難にないます。私は国家主義者でもないですし右翼がかった考えの持ち主でもないのですが、これは私なりの憂国の情ともいえるものです。なぜなら日本は世界から孤立しては生きてゆくことなどできない国であることは明らかだからです。食料とエネルギーを止められただけでも日本などはたちまち寝たきり状態の国になってしまうことは明らかです。世界の全てを敵に回してどこにも自分の味方がいないような状態にしてしまった時には日本が生きて行く道は途絶えてしまうことでしょう。そして二千十四年一月十一日には日米友好協会の議員たちがアメリカを訪問して安倍首相の不戦の誓いの靖国神社参拝の趣旨を説明してアメリカ政府の理解を得たと報じられましたが、「自国の戦没者に尊崇の念を持って参拝するのはどこの国でも行っていることだ」というのであれば、なぜに日本がそうする場合だけ海外諸国に説明して回らなければ理解してもらえないことなのかは日本人自身が考えてみる必要があるでしょう。かつての同盟国であったドイツもイタリアも自国の戦没者を慰霊することを一々海外諸国に説明したりはしていないのです。ましてやかつての戦勝国は説明などする必要もないのです。戦争に勝った側も負けた側も海外諸国に説明や釈明をしなくても慰霊はでき他の国々もそのことに対しては何も問題視してはいないのです。一方、説明して回らなければ世界では当たり前に行われることも日本ではできないと言うことはどこに原因があるからなのかなのです。またこの時点でアメリカ政府が靖国神社参拝に理解を示したとしても、アメリカ政府は日本が日本自身の手で日韓・日中の外交関係を修復することを当然要求することでしょう。果たして靖国神社の参拝を継続することでそれが可能になると日本人自身に思えるのかどうかでもあります。少なくともアメリカに仲介役を頼むことなく靖国神社参拝が日韓・日中の外交関係にプラスに働くファクターなのかマイナスに働くファクターなのかは日本側が自分で判断すべきことです。すなわち靖国参拝は韓国や中国を日本に引き寄せ近づける行為なのかそれとも相手を遠ざけてしまう行為なのかということの判断です。「対話の窓は常に開かれている」と安倍首相率いる日本政府が何度韓国や中国に呼びかけても、それは相手のあることで相手が乗ってきてくれなければ成り立たない話だからです。少なくとも日本が呼びかけたくらいでは相手が動いてきてはくれないことがほぼ明らかです。では日本側はどうするかと言うことになってくるわけです。