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これまで学校にも家庭にもあるいは社会のどこにも自分の居場所が見つけられないと言った条件におかれていたのが不登校児と呼ばれる人たちでした。しかし現在では会社のリストラなどで、多くのサラリーマンが会社にも家庭の中にも自分の居場所を見つけられずに居るのではないでしょうか。日本で最古の学校は室町時代の学問所であった足利学校だそうです。創設者には諸説あるようですが千四百三十二年に上杉憲実が整備し千八百七十二年の明治期に至まで存続したとのことです。日本で初めて大学という言葉が使われたのは貴族の教育を行った奈良時代(七百十〜七百四十八年)だそうです。塾はシーボルトが長崎に千八百二十四年に開いた鳴滝塾が幕末に吉田松陰(千八百三十年〜五十九年)が長州に開いた松下村塾に先んじるものと言えるでしょう。また日本の英語塾は明治になってから清水の次郎長が後援した私塾の英語塾などが走りのようです。清水の次郎長は子供の頃から暴れん坊で六歳から八歳の頃までは寺子屋に通っていたようですが以後はその行動が原因で寺子屋を追放されてしまい、そのため大人になってからも漢字の読み書きはできなかった人だと言われます。しかしそのような彼が日本の近代化の一部を担う役割を果たしたことはすごいことです。それは戦後の日本で小学校しか出ていなかった松下幸之助氏が事業で成功し、晩年松下政経塾を作って多くの政治家などを生み出した姿にも似ています。自身の学歴は低くとも教育を重視していた姿は共通しているからです。清水の次郎長が明治になってから私塾の英語塾を後援するに至るまでには、それ以前に江戸時代末期からのジョン万次郎の数奇な運命が日本における英語教育の走りでありその後の流れを作るきっかけとしてあったと言ってもよいのでしょう。ジョン万次郎も家族の事情で寺子屋へも通うことすらきなかったところからその後の運命が始まった人と言われます。そして日本という名称を誰が考えついたのかは私には分かりませんがNipponと言う呼び名を使って著書を書きヨーロッパに伝えたのもシーボルトが最初だったと言えるでしょう。日本という国としての概念は七百一年の大宝律令で定められ遣唐使が初めて対外的に使ったようです。そして明治期の大日本帝国という名称はそれ以前の鎖国政策の江戸時代にすでにその呼称の一部分がヨーロッパに伝えられ準備されていたと言うことも興味深いものですが、それまではJapanのもととも思われるマルコポーロの『東方見聞録』(千二百九十八〜九十九年)のジパング(Zipangu)でヨーロッパに紹介されていたと言うことになるでしょう。世界で見れば最古の研究機関は古代エジプトだったかも知れません。古代ギリシャの数学者であるピタゴラス(紀元前582頃〜493頃)などはエジプトやバビロニアに渡って勉強をしたといわれます。古代の留学と言ったところでしょうか。その後ピタゴラスはイタリアに帰って学校を開いたと言われます。ピタゴラスの定理として知られている直角三角形の性質はエジプトのピラミッド建設当時にはすでに知られていた事のようで、ピタゴラスはそれを証明して見せたのでその名が残っているとのことです。ピラミッド建設は今から五千年も前のことです。それら紀元前の時代からずっと継続してきた研究教育ですが当時からすれば遙かに時間が過ぎている現代です。
さて現代の日本に眼を転じると、不登校児やリストラされたサラリーマンなどにとっては、学校や職場そして家庭のどこにも自分の気の休まる場所が無く、街のどこかで安らぐにはお金がかかると言う条件の中にあって、人には自分の居場所がどこにもないのです。ある程度の年齢になって毎日のように公園でぶらぶらしていれば不審者と思われてしまいます。これまでの日本では何の疑問もなく手に入れることができていたものが、いつの間にか日本の社会的条件が変化してしまっていたがために、自分の気持ちが癒される場所が社会の中のどこにも見あたらないと言うような条件が生まれ出てきてしまっていました。また優秀な人が地方で小さな企業などに勤めたりしようものなら、「あなたはこんなところにいるような人じゃあない」などとも言われて、本当は現在の日本にとっては地方にこそアイデアが出せる人材が必要なのにその人材も逆に肩身が狭かったりします。すなわち地方で能力を発揮してもらわなければならない人にもなかなかいい居場所がないのです。私の住む神奈川県の平塚市あたりでも東大出の教員が初任者研修に中学校などへ来ようものなら学校中で生徒達の話題にされてしまいます。 現在では「癒しブーム」とも言えるほど精神的な傷を受けたあるいは精神的に疲れた人々の問題が生まれ出てきていると思います。「癒し」はすでにアメリカやヨーロッパ諸国では通常の必需品とも思われるまでになっていますが、日本はただ欧米をまねるために「癒し」というものを取り入れているのではなく、日本の社会も物的にはある程度の豊かさを手に入れはしたものの、その裏で精神的な負担や精神のありようなどが変化して、人間相互間の関係の取り方などで非常に難しい問題が生まれてきていたのではないでしょうか。日本の戦国時代の武将たちは戦いの日々の中で自分の疲れた心をいやすためにお香を焚きました。現代でいえばアロマテラピーということになります。経済的には一見豊かに見える日本の中には、戦国時代のような殺伐とした人間関係が裏側に存在してきているのかもしれません。 それらは当然のことながら、日本の社会の変化、ことに経済的な側面における変化が大きく関わっていると思います。日本経済は江戸時代の鎖国政策とその後の明治維新による近代化、また第二次大戦の敗北による極端な経済的打撃、そして戦後の経済大国化への道など急速で大きな変化を遂げてきました。その変化があまりにも大きく急速だったがために、各世代間における考え方が全く異なってしまっていて、お互いに共通する価値観が見えにくくなっていることも否めないかと思います。ここでは主に戦後、そして現在の問題に近い部分を扱ってゆこうと思います。 かつての日本国内には多くの人々が生きんが為に生きなければならない状況が存在していました。それは戦前と言われる時代ばかりにではなく、日本の戦後千九百五十年代から六十年代の日本が世界第三位の経済力の国になった高度経済成長の時点においても、中学校の義務教育を終了できない人が百二十万人もいたと言われる時代もあったからです。しかし現在では高校が半ば義務教育年齢のように思われるほど(タイの高校進学率などは三十%代の状態ですが日本の高校進学率は九十七%以上です。)になり、ただ食べるために生きて行くだけではなくさまざまな価値観を持った人が自分を生かした生き方あるいは働き方を望むようになっていると思います。それらがいろいろな組織や社会制度の方針などとかみ合わず一見社会から脱落しているような生き方にならざるを得ない状態に置かれている人もいるかと思います。しかしそうなることの方が人間本来の性質から言えば自然だとも私は思います。これまでの単線的な道筋しかなかった日本の社会も変わらざるを得ないとすれば、それらの人々の選択にもまた新たなる道が生まれ出てくるような予感がします。何かしら幾分か変わり始めようとしている日本の社会を見て行きます。そこにはこうなった方がいいだろうとか、こうなってほしいという私の社会に対する願望も含まれています。 確かにこれまでの日本人は経済的な豊かさのために働くことは当然だと考えていたかも知れません。しかしある程度豊になってくると「自分とは何だろうか」と考え始める人たちが出現してきていることも確かなようです。「自分とは何だろうか」などと考えたことすらなかった世代の人間にとっては、急に哲学者が増えたような気分にもなるかも知れません。会社を辞めてしまう若い世代やフリーターの道を選ぶ高校卒の人たちを子供に持つ親としては、自分の世代の感覚とはおよそ異なった感覚の人間に出会った気分にもなると思います。当然このような若い世代の選択の仕方はそれ以前の世代にとっても「俺たちって何だろうか」という問いになって跳ね返っても来るわけです。「何のために俺たちは働いてきたのか」という疑問も生まれるかも知れません。たぶんそのようなときに、人間は本当に個人と言うものを意識し始めるのだと思います。自分と異質なものに出会ったとき人は自分を強く意識もするからです。これまでの日本の経済社会では一つの会社で永年勤め上げたことは評価されても、いくつもの職場を転々とするような生き方はマイナスのイメージでしか受け取られてきていませんでした。しかしバブル経済崩壊後の日本の状況は一つの会社にしがみついていたくともそれも許されないような事態にもなりました。これらの状況を目の当たりにしている若い世代が逆に積極的に職業を転々としてみようとするのもある面ではいいのかも知れません。否が応でも会社でリストラされて転職せざるを得なかったり他の会社に出向させられたりするのなら自分から職業を転々としてみようとする選択の方がプラス思考とも言えます。そのような行動は文部科学省には気に入らない事態と映るのかも知れませんが時代状況に対する若い世代なりの対応の仕方だとも思えるからです。九十年代末の日本には十三万人の不登校児と十三万人のフリーターの道を選んで行く高校卒業者がいると言われます。しかもフリーター全体の数は二千年末の時点では日本全国で二百万人、二千二年度では二百八万人、二千三年度では四百十七万人といわれています。しかしかつての日本人たちも自分が若かった頃には自分を取り巻く時代状況に対応しながら生きてきていたはずです。それが戦後すぐのようにどうやって自分たちの生活を維持し引き上げて行くのか(どん底の経済の中でどうやって生き延びるか、すなわち今日明日をどうやって食べていくか)が重要であった時代があったり、またそのような時期には企業の基盤も脆弱だったので正社員にすぐになれるわけではなく臨時雇いの立場からなんとしてでも本雇いになりたいと若い世代が望んだり(バブル経済崩壊後には、それまでの採用したら即正社員という制度から、入社後半年間は仮採用期間でその間に問題がなければ正社員になれるという制度に多くの企業が変更しましたが、戦後すぐの頃の臨時雇いの期間は半年よりももっと長い何年続くのかも分からないような期間でもありました )あるいは時代に対する反逆の形を取った時代もありましたし、あるいはまた現在のようにどのように時代や社会を自分が生きていけるように変えていったらいいのかで悩んだりしている時代もあるわけです。二千年時点での日本のフリーターはかつての日本の臨時雇いのような不安定な、また不利な雇用条件の中に身を置いているといえなくもないのですが、それはむしろ「自分の自由時間がとれるから」とか、「あまり組織に束縛されないから」といったような積極的な選択という意味合いがその中に含まれている部分もあると思えるので、かつて日本経済が脆弱すぎた時代の臨時雇いの人々の意識とはちょっと異なっている所もあるのではないでしょうか。ただ積極的な意味合いを持っていない消極的フリーター、すなわち何をやりたいのかが分からないのでとりあえずフリーターという選択の仕方には危うさがあることは確かでしょう。また、日本の現在の社会制度のもとでは、フリーターという選択はよほどの個人的な努力と自己研鑽をする覚悟でもなければ、長い人生全体で考えればハイリスク・ローリターンという道のりになることでもあるでしょう。 自分一人で自分が生きている社会を全て変えることは不可能です。しかし変えようとしなければ変わるはずもないだろうと思います。自分自身の行動を変えて行く人が増えてくれば既成の社会的な生き方をしていた人たちの考え方も変わってくるかも知れません。少なくともバブル経済の崩壊はこれまでの既成の社会に大きな疑問を投げるものだったことは確かでしょうし、これまでの日本のやり方の中に何か間違いがあったことを考えざるを得ない状況を作り上げた事態だと思います。日本の社会は明治時代は男性中心の家父長制の男社会で男尊女卑の社会でもありました。それは江戸封建制から受け継がれてきたものでもありましたが、その趨勢は戦時中にも引き継がれ戦後の社会にも影を落としていたことは事実です。ですが日本の大学進学率は『日本国勢図会』によれば千九百八十年時点では男子の方が女子をわずかに上回っていましたが九十年になるとそれが逆転し九十六年には男子の進学率が四十四・二%に対し女子は四十八・三%になり、二千二年時点では男子48・8%、女子48・5%とほぼ同率になっています。これは大きな変化と言ってもいいはずのものです。少なくとも私が大学生の最中であった七十年では男子二十九・二%、女子十七・七%だったのですから、その後の変化だけでも非常に大きく変化したと言えます。高等教育が大衆化したことは明らかです。したがって女性の能力はかつての日本女性の能力と考えられていた家事をこなし子供を産み育てる事だけと言うものとはまったく違っています。アメリカでは六十年代末から七十年代初頭にはウーマン・リブが起き女性の意見が強い影響力を持つようになりましたが、日本でも着実に女性が力を付けてゆく姿に見えます。二千五年度かと思いますが、早稲田大学を卒業した学生で首席で卒業したのは理工学部を含め全部の学部において女性だったと言う情報(未確認ですが)も聞いています。このような動きが早稲田だけではなく多くの大学における一般的な趨勢であるとするなら、それは女性が日本の社会の中でこれからさらに一段と大きく力を発揮し始めるであろう下地ができつつあることのようにも思えます。それはこれまでとは違った生き方をしても、それまでそのような生き方をしてきていた人たちが感じていた日本の社会と自分との間の抵抗感よりも遙かに抵抗感が少ない時代になったと言うことでもあるでしょう。少なくとも現代の日本女性は与謝野晶子が感じたような自分と社会との激しい軋轢の感覚は持たずに済むと言えます。また女性として初めて東京大学の教授になった『縦社会の人間関係』で知られる中根千枝さんのような苦労をその後の女性研究者は経験しなくても済むことでしょう。男以上の能力を発揮しなければ女性が男性と同等の者として認めてもらうこともなかなか出来なかった時代もあったからです。世界においても女性科学者は千九百三年にラジュウムを発見してノーベル物理学賞を受賞しその後ノーベル化学賞も受賞したマリー・キューリー(キューリー婦人)が科学の分野で大きな業績を残した最初の人で、それまではもっぱら男性ばかりだったようです。既成の社会的価値観が崩れると言うことは上のような女性の場合ばかりでなく、これまで一般的な評価はされない生き方をしてきた男性にとっても救いでもあるでしょう。社会一般に流布されていた常識というものが大きく崩れ去り始めている中では殺人のような犯罪を犯すというのでなければどんな生き方も許されるはずです。女性の方が男性よりも高学歴化したり男性と肩を並べたりすれば男性が女性を養うという既成の観念とは違って、妻の収入の方が夫の収入を上回る家族や夫婦共々同じ年収という家族もこれからは多くなることもあるでしょう。これまでの不登校児は惨めな思いをさせられてきていたかも知れませんがそのような人にとっても既成の社会が大きく崩れこれまでのオーソドックスな生き方と言われるものが何か変更されざるを得ない状況の中では幾分の救いになっているかも知れません。あまりに個々を無視した一律の価値観で判断を下されれば、その価値観に当てはまらない人間はアウトサイダーやアウトローになって行かざるを得ませんが、一律であった価値判断が崩壊してしまえばそれらの人たちにも名誉回復のチャンスが生まれます。社会の常識が大きく変わる時代には、そのチャンスを生かすも殺すもその人次第です。そしてその人次第だとは言ってもチャンスが多く何度でも可能性に挑むことが可能で価値が多様な社会の方がましなことは確かです。ただ、どのような生き方をしても許されるとしても、色々な生き方をしている間にも人間は確実に年齢だけは増えてしまっていると言うことは私の経験から言えることです。 戦後といわれる日本の社会は、戦争直後の極度の混乱の時代はともかくとして、その後はほぼ安定的に推移してきていたといっても過言ではないと思います。その間の世界は冷戦時代といわれる枠組みの中にありましたが、それは日本にとって幸福な時代であったともいえます。アメリカという大国のゆりかごの中で戦後の日本は育て上げられてきました。しかしそのように育てられた日本も、もはや子供ではなく国際社会の中で一人前の行動をとることを求められるほどに成長してしまったわけです。アメリカに依存しているだけでなく、自らの考えと判断で行動することを求められるようになりました。戦後日本の育ての親であるアメリカも、成長した日本の力を当てにしたい思いもあることでしょう。バブル経済は育ての親のアメリカに日本が「負けるもんか」と思って行動した動きでもあり、結果としては日本の方が力余ってこけてしまいました。そして日本はその時点では「負けるものか」と思う国はアメリカだけで、その他の国々はすべて日本を追い上げることはあったとしても、経済力で日本の上を行く国ではなかったのです。すなわちアメリカ以外の国に対しては、日本は追われる立場にまでなってしまっていたのです。かつての日本は追う立場であったとしても、それはすでに過去となってしまっていたのです。そしてバブル経済が崩壊し、日本は後続の国々に、いろいろな分野で追い越されつつある状況に立ち至っています。不利な条件にあった日本が戦後急速に順位を上げて、その挙げ句の果てに後続部隊に今度は日本が追い上げられ始めたという状況です。それは日本の国内においても同じことがいえるでしょう。社会の中での下克上が生まれ出てもおかしくない状況だからです。人間の社会には山本周五郎さんの言葉のように「負けながら勝つ」という生き方もありますし、「勝ちながら破れる」ということも起きると思います。そのときの負けが後の時代の勝ちになる場合もあるのです。当然その逆の、その時代の中での勝ちが次の時代の負けであることもあり得ます。揺れ動く時代の中では、そんなことがたくさん起きてくるように私には思えます。 二千二年には中教審答申がだされ「品格ある社会」という方針が打ち出されました。金があっても品位のない人は人に嫌われます。品性の悪い金儲けは犠牲者を作り出します。金が無くても人情の機微に敏感な人もいます。人間の心の襞が読みとれなかったり金があるが故に傲慢であったりすれば、人はついてこなくなることもあります。バブル経済のさなかの日本人は自分自身への過信を通り越して慢心し傲慢になりきっていたともいえると思います。「品格ある社会」の教養教育の主な中身は新聞紙面では以下のようになっています。 【幼少年期】 ・家庭での読み聞かせ、地域行事参加。 ・テレビ、ゲームの制限などの家庭の決まり。 ・学校での基礎の反復学習、放課後指導。 ・体験学習などの知的好奇心を高める取り組み。 ・音楽演劇などの文化芸術やスポーツ活動。 【高校】 ・卒論など論理的に考え表現する学習。 ・各校の必読書三十冊指定。 ・職業教育の充実。 ・死や挫折を学ぶ機会充実。 ・ボランテイアなど地域社会での体験活動。 ・海外留学、外国語教育の充実。 【大学】 ・断片的知識以外をみる入試。 ・古典リストの提示、読破。 ・チューター制などのきめ細かな指導。 ・重点大学指定、研究グループへ予算重点配分。 ・ボランテイア活動のプログラム化。 ・長期インターシップ、留学機会の充実。 【成人】 ・学習や地域活動参加を企業が支援。 ・評論や解説重視をマスコミに要請。 ・親の心構え、老いや死などを学ぶ機会充実。 ・大学や専修学校の社会人受け入れ拡大。 ・親子連れ演奏会や演劇鑑賞などの機会充実。 (二千二年二月二十一日朝日新聞夕刊より) 以上が教養教育の主な内容ですが、理想が羅列されている感がします。理想は理想として掲げる価値がないとは言いませんが、ではいったいどうすればそれが実現できるでしょうか。挫折や死を学ぶ機会などの項目は、不況の中で家計の都合で高校を退学せざるを得ない人や高校を卒業してもうまい就職先が無くスタートでつまずいてしまっている人、あるいは会社の倒産やリストラなどで失業状態の人間が家族の中にいる人など、二十一世紀はじめの日本の社会には考えるべき具体的な題材が豊富にあると言っても過言ではないと思います。自死遺児だけでも万単位の若者達が存在しているからです。日本の敗戦時には全国で十万人に上る戦災孤児が生まれましたが、それに似た状況とも言えます。自殺者数は千九百九十八年以後ずっと年間三万人以上を記録しています。二千三年度にはその数が三万四千四百二十七人と過去最悪になり、これまで男女とも世界第一位だった日本の平均寿命は男性が第二位に下がるまでの影響を与えています。失業や生活苦などの経済的な理由による自殺は八千八百九十七人になってしまっています。バブル経済崩壊前の自殺者数は二万人台だったとされるのですから、かなりの自殺者の増加がバブル崩壊後に起こったことになります。あしなが育英会の人からもらったパンフレットには、遺児母子家庭の平均勤労年収は百四十万円とあります。九十八年には二百万円を超えていたものが九十九年には百七十六万円台になり、二千年には百七十二万円台、二千一年には百四十万円台にまで落ち込んでいるのです。また二千四年三月十六日のNHKのニュースでは、不況の影響などで生活保護世帯は過去最高の九十万世帯になっているとの事です。そのニュースは生活保護の支給金から子供の高校入学に備えて学資を積み立てていたことが生活保護のオカネの使い方として不適当だと行政から言われたことの裁判についてのものでした。最高裁は学資を積み立てることは資産形成のためではないという判決を下しました。評価できる判決であると私は思います。そこには金があるか無いかという条件的な違いだけで能力があったとしても教育を受けるチャンスが大きく違ってしまうという事実が存在もしています。あるいは教員になることが夢だったにもかかわらず教員免許の取得に失敗したり、教員免許を取得しても少子化によって教員の採用枠が狭められ教員として採用の機会が無くやむをえず他の職業に就いている人もいるはずです。「でも、しか教師」の道にも遠かった人たちです。もしそれらの人が自分を語っても良いというのであれば、高校に招いて話をしてもらうこともできるでしょう。それは学生達にとってばかりでなく、運良く教職に就いている現職の先生達にとっても考えさせられる問題を含んでいることでもあろうと思うのです。それらの人々は、少なくとも学校の教員よりも挫折と言うことに関しては語るべき多くの内容を自らに所持している人であることは確かなことでしょう。むしろこのような方針を掲げる文部科学省の大臣やお役人の方が、よっぽども挫折とは縁遠いまた挫折に関して語るべき事としては乏しいものしか自らには持っていない身分の人たちなのかもしれません。 これら教育面での施策をいくら充実させても、果たして学習意欲がわくものかどうかです。事実、二千二年十一月二十四日の朝日新聞の『学ぶ意欲:転機の教育』には、不況の影響などで「一生懸命勉強してエリートになっても、リストラされてしまえばなにも意味はない」という声が紹介されています。学ぶことが金銭的見返りで報いられるはずだった社会が、不況に陥ったことでその見返りが無くなったがために意欲の低下につながってしまったといった様相です。子供に学ばせる親の方も見返りは子供に求めていたことでしょう。しかしその見返りが親子共々期待できなくなったというのなら、果たして学ぶと言うことはどこに意味を見いだせばよいのでしょうか。あるいは金銭的な見返りがないというのであれば学ぶことの必要もなくなるのでしょうか。私自身も確かにこれまで一応は学んではきましたし、足りない頭であれこれ考えてもきました。学んだと言うことや考えたと言うことがどれほどの金銭的な見返りとして私自身に返ってきていたのかと言えば、サラリーマンになっていった友人たちと比べてみれば私の場合は微々たるものといわざるを得ないでしょう。学んでしまったが故に、また考え込んでしまったが故に、私自身はその分生きて行きずらい気分になったこともしばしばです。必死にあがきもがいていたというのが若い頃の私の偽らざる姿といえるでしょう。しかし学んだことや考え込んだことによって私自身は全く報いられなかったかというと、決してそうではないと自分自身で感じています。学んでいるときは疑問や不安だらけでしたし、考え込んだり迷って思い悩んでいるときは性格も暗い感じのものでした。友人からも過去の私に対する想い出話としてそんなことを言われたことがあります。しかしある一定の時間が過ぎたとき、考え込んだり思い悩んだりしていたことのすべてが関連をもったものとして自分自身で理解でき始めました。それは自分なりの理解ですが、私自身にとっては十分すぎるほどの見返りのようにも思えます。学ぶとか考えるという事の見返りは本来的には「わかった」とか「理解できた」という現在で言えばアハ体験で報いられるべきものといえるのかも知れません。またその体験が継続され積み重ねられたとき大きな成功を勝ち得る人が生まれ出ることもあると言えるのでしょう。ですから私自身は、学んだことや考え込んで悩んだことあるいはあがき苦しんだことを後悔はしていないのです。むしろそのような時期を過ごせたことを幸せに思っています。私自身にとっては、金銭的な見返りがなければ学ぶことには意味がないとは思えなくなったのです。理論経済学を専攻した私がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、経済学を専攻したからと言って金儲けばかりをする必要もないのかも....とも思えるようになってしまったのです。経済的には現在でもあがくことはしばしばですが、しかし経済学の本を読むことも楽しいし、それらと現実の経済状態を見比べ突き合わせて考えてみるのもおもしろくなってしまったのです。それはただ自分の好奇心を満足させているだけのことなのかもしれません。でも、それでもいいと私には思えるのです。学ぶ課程では確かに苦しみもありましたが、学んだことの幸せは味わえているとも思っています。金銭的な見返りが得られそうにないからと言って学ぶことを放棄していたとしたら、私はこのような幸せは得られなかっただろうと思います。学ぶと言うことの見返りは必ずしも金銭だけではかられるべきかどうかなのです。入試は個人にとって大きな意味を持つものです。しかし受験にも役に立たずあるいはお金儲けにも役には立たないが、考えてみること自体が面白いテーマというものもあると思います。確かにお金は重要なもので無視するつもりもありませんし金銭的な動機付けは人間にとって大きなものだとも思います。またオカネがあったればこそ幸せになれる部分も人間の世界にはあるであろうことを否定もしませんが、人間の幸せみたいなものは大枚のカネが有ることだけが幸せを得る上での必須条件だというわけでもなく、またカネで換算できるものばかりでなくてもいいのではと思えてきています。大枚のカネがなければ人間は幸福にはなれないと思い込んでしまうことの方がむしろ不幸なことのようにも私には思えてきます。給料が上がったり下がったりで喜んだり悲しんだりすることもあるでしょうが、給料や出費は変わらないのに喜びやうれしさが多かった年や憂鬱や悲しみが多かった年などあることだろうからです。人の幸せなどはオカネだけでは計りきれない部分もあると思います。二千十年九月七日の読売新聞夕刊には「幸福感:年収六百三十万円で頭打ち」という見出しの記事があります。アメリカ・プリンストン大学のダニエル・カーネマン教授達が四十五万人を電話で調査してまとめた研究で、生活の満足度は収入が伸びるのにつれて増えてゆくが感情的幸福感はそうではないという結果だそうです。「高い年収で満足は買えるが幸福は買えない」という一言で言えば「幸福は金で買えない」という通説を裏付ける研究とされています。また、三十代までの結婚適齢期と言われる人の中で年収が六百万円以上の人の割合は日本ではわずか3%だそうです。もっとも幸福を味あわせてくれそうな人には滅多なことでは巡り会えそうにない数字といえます。オカネは確かに人に力を与えてくれる部分もありますがオカネがあれば万能になれるという訳のものでもありません。オカネの力を過大評価しすぎてしまうのも間違いだろうと言うことです。何かをやろうとするときには先立つものすなわちオカネが必要になりますが、オカネがあれば自分が本当にやりたいことが見つけ出せるというものでもなく、どんな事でも自分で出来るようになれると言うわけではありません。オカネがあれば自分が本当にやりたいことは何かを捜してゆく間の生活はまかなえると言うだけで、オカネが本当にやりたい事へと自分を導いてくれるわけでもないだろうと思います。またオカネがあっても自分の能力だけで出来ることは限られています。オカネを儲けるのも一つの能力とは言えるにしても、オカネがあれば高額な専門書も買うことが出来ますが、本が買えたからと言ってどんな分野の専門書の内容も自在に読みこなせ理解できるかどうかは別の話です。読みこなせたり理解できたりするかどうかもやはりその人の能力だからです。理解できるようになるためにはお金を払って手ほどきを受けなければならないかも知れません。また手ほどきを受けてもその人の理解力を超えているものもあります。すなわち手ほどきを受ければ誰にでも理解できるものばかりではないと思うのです。私も学生時代に古本屋でアインシュタインの『一般相対性理論』の本を眼にし三巻本か四巻本だった本の一冊を開いてみましたが、私には理解できそうにない数式がぎっしり詰まっていたので、学生の身分の私には決して安くはないにしてもアルバイト収入をはたいて買おうとすれば買えなくもない本ではあっても買うことをあきらめました。自分にはその本を理解し役立てるだけの能力がないと思ったからです。普通は自分の能力でできない部分を人にやらせるためにオカネで人を雇ったりするわけです。ブレインを雇うわけです。オカネというものは無ければ困るものですがオカネが沢山あり過ぎたがために問題が生まれる場合もあり、オカネは「あって良し、無くて良し」のようなものにも私には思えてきます。オリンピックに出場できなかったある日本の元男子水泳選手で、現在はコミカルな男女混合の団体水中演技で人気が出始めている人がテレビで話していた言葉では、「スポーツの競技は結果がすべてだ。でも結果が出せなかった人間はどうすればいいんだ。」ということでした。私自身の身に置き換えてこの言葉を翻訳し直させてもらえば、「経済学を勉強したが学者になれたわけでもなく企業に就職もしなかった人間はどうすればいいんだ」ということなのです。水泳にはプロリーグなどはないので水泳でたとえ結果を出せたとしても、「水泳なんかやっても、おまえその後で何で食ってくんだ」といわれるかも知れません。水泳教室か何かで働く以外その後の収入の道も水泳選手にはないかも知れないのです。私にとっても何で食べてゆくのかは重大な問題ですし、老後をどうするかも気がかりです。私自身は今のようになるだろうなどと予想して学んでいたわけでもありません。「こうすればこうなる」とか「こうすればこうなれる」などと自分自身を自分自身で予想できる範囲は非常に限られているとも思います。自分では思ってもいなかった結果が自分に対して訪れてくると言うこともしばしばあるのではないのでしょうか。不況の中でリストラされたサラリーマンは「こんなはずじゃあなかった」と思っているのかもしれません。私自身も「自分の人生がこうなるとは若い頃には予想もしていなかった」と思える部分も大ありです。何かしていれば何かしていただけの結果がその人に訪れてくることでしょうし、何もしないでいても何もしていなかったということのその人にとっての結果は出てくるでしょう。それはサラリーマンになっていった人たちの結果はそれらの人たちにはやってくるし、サラリーマンにはならなかった私のようなものにはそれなりの違う結果がやってくるということでもあるのでしょう。そして人間はある年令にまで生きてくればそれなりに自分の人生に対する答えみたいなものを出し始めるのかも知れませんが、他の人間が出したその人の人生の答えがそのまま自分の人生の答えになるわけでもありません。当然のことですが万人に共通した人生の正解などと言うものも存在はしないと思います。それは自分の人生が他の人と全く同じものだというわけではないからです。したがって自分の選択した結果を自分がどう判断するのかと言うことでもあるのだろうと思います。私自身の現在の自分自身への評価は人から褒められるような立派な生き方をしたとか一人前の生き方ができたとかとはとうていいえませんし品行方正な模範生というわけでなくても、ドジなところや間抜けなところなどプラス・マイナスは色々ある私でも自分自身にとって生きていたと言うことの意味すらも無かったほどの零点の人生だったという訳でもないだろうと思っています。ゼロというものがどんなものかを知ることが出来ただけでも私の人生はゼロではなかったとも思うのです。ただこれはあくまで途中経過のことなので、最終的な私自身の結論でもありませんが....。 確かに明治の学制改革以来、明治期の日本では千八百七十七年にできた東京帝国大学(現在の東京大学)をはじめとする国立大学と早稲田・慶応の卒業生などは日本の企業社会において昇進に費やす時間が最短距離にあり、昇進速度がもっとも速いシステムになっていたのも事実です。昇進速度が速いということは給料が高くなるのもそれだけ早いということです。それらが背景となって日本の学歴社会が形成され受験競争も存在してきました。日本の学歴社会は人々の立身出世への道筋となっていたわけです。少なくとも日本の植民地政策の下におかれていた台湾や朝鮮は日本の方針によって学校教育も行われはしましたが、そこでの教育は初等教育とと中等教育までで高校や大学は置かれずに他の先進諸国から非難されない程度の学校教育を施しさえすればいいとの方針だったそうです。植民地からはその地域を仕切るようなエリートが排出することがないようにしていたわけです。これはNHKの放送大学で紹介されていたことです。また明治期においての大学生は現在の大学生よりも遙かに社会的には飛び抜けた人と思われてもおかしくないステータスの高い極々少数のエリートであったとも言えます。すなわち同じ大学生と言っても明治時代の大学生と現代の大学生では日本の社会の中での存在の意味合いはまったく違っていたことだろうと言うことです。そして日本には学閥も存在しています。ただそこで残念なのは、日本には学閥はあっても学派というものがないことです。学問の分野の最高学府が現代では大学だとするのであれば、大学で教えている学問的な考え方の違いから生まれる学派があってもいいと私は思うのですが、日本には学閥はあっても学派があまりありません。しかしそのような趨勢が大きな変化に見舞われているわけです。そして確かに学歴も学閥も必要ないかもしれません。二千二年時点からすればかれこれ四十年ほども前にソニーの故盛田昭夫氏が『学歴無用論』を発表していました。この本が出た当時の私は高校生で、「何も大学なんかに行かなくても....」といって親に猛反対されたことがありました。世の中には学歴はなくても立派に生きている人がたくさんいます。また学歴に伴う実体があればまだしもですが、実体がない学歴だけでは困りものにもなります。学歴だけしかほかに頼るものがない人の方が哀れかもしれません。スポーツや芸能あるいはコミック作家など、必ずしも学歴がなくてもまた学歴と関係なく大きな成功を収める人も出る分野においてもそれはそれで努力し研鑽を積まなければ自分の実績を達成できないものもたくさんあります。スポーツ選手などは高い学歴などを得ようとしたら年齢が上がってしまいプロとしての選手生活の肉体的ピークがすぐに過ぎてしまいます。したがって学歴はスポーツ選手にとっては逆にハンデにもなることでしょう。そして学歴があろうとなかろうと、人間が生きて行く上では無知のままでは生きて行くことができません。また生きてゆく上では知恵も働かさなければなりません。学歴がないからこそ社会へ出てから必死に学んでいる人も大勢います。また学歴はそれほど高くなくても生きてゆく上の知恵をたくさん持っている人もいます。安易な悪知恵やせっかくの知識や技術そして社会的な地位や立場あるいは自分の経歴の悪用に走ることなく本当に社会の中で長く生きてゆくには多くの知恵も働かさなければならないときもあります。また学生時代に一生懸命学んだからといって、それだけで一生事足りるわけでもありません。学生時代から何年かすればまた何十年か経ってしまえば、学生時代に習った知識などは陳腐なものになってしまっている場合が多いのです。何百年もの間なにも修正を施されることもなくまた改善もされずに存在する普遍的な知識などはほんのわずかでしかありません。だからこそ人間は進歩できるのですし、人間が進歩するからこそ社会も変わるのだと思います。また進歩した形に変わっていかない限り社会や世界から取り残されざるを得なくなるのだと思います。日本の東京大学は日本では最高のレベルの大学と考えられていますが、世界のランキングでは六十八位ほどだったかと思います。日本でトップの東大ですら世界では六十八位なのですから、他の日本の大学は押して知るべしです。国際標準の十五才の学生などの応用力テストではフィンランドがダントツ一位で日本は第八位だといわれますが、大学のランキングになると東京大学は六十八位になってしまいます。日本人が優秀なのは少年・少女の時代だけでその後は大人になればなるほどだめになると言っても良いほどです。そして東大が六十八位なら、では世界で六十五位のランキングの大学を多くの日本人は知っているのかと言えば、ほとんどの日本人は知らないのではないのでしょうか。私もその大学がどこの国の何という大学かは知りません。だとしたら、世界で六十八位でしかない日本の東京大学を世界の多くの人が知っていると思う方がおかしいと言うことになると思います。東京大学だ慶応大学だあるいは早稲田大学だ京都大学だと言う話だけで騒いでいるのは日本人だけでしかないのかもしれないのです。そしてそんなことだけで騒いでいられる時代でももはや日本はなくなっているようにも思います。確かに日本では東京大学や京都大学へ行くことはすごいことなのかもしれませんが、しかし世界はもっと広いと言うことです。 二千三年三月時点では十五才〜二十四才の若年労働力の失業率は十パーセントになろうとする高い水準にあります。親は自分の子供に大学以上の学歴を取得して欲しいと望んでいる人が六割に上るというデータもあります。発展途上国であったアジア諸国がモノ作りに参入し日本は追い上げられる立場になったので、日本企業はより高度な産業構造へと転換しなければならなくなったために日本の若年層にも高度な技術が要求されるようになり、教育面でも高度な教育を習得しなければならない時代に入ったことの表れのようにも見えます。私が千九百八十二年頃からこれまでに教えさせてもらってきた小・中・高の生徒のうちで大学院まで進んだ人はわかっているだけでも博士課程まで進んだ人一名を含めて全体の6.03% 程になってもいます。二千五年七月十日の読売新聞朝刊の大学進学フェアの広告ページのグラフでは、二千年の大学院入学者数は八万七千三百五十九人だったものが、二千四年には十万千九百二十四人にまで増加して来ています。二千四年度に二十二歳の大学卒年齢を迎える千九百八十二年生まれの人数は百五十一万人ほどなので、大学院進学率は6.75%程といえそうです。その間の大学数は六百四十九から七百九校へ増加し、大学院数は四百七十九から五百四十六へと増えています。産業の高度化、教育の高度化によって冷戦構造が崩壊したために自由市場に参入してきた安い社会主義圏の労働力ともまた発展途上国の労働力とも日本は対抗して競争しなければならなくなりました。その競争に敗れれば日本が終わって行くだけです。二千三年六月十八日のNHK放送大学の社会教育の授業では、日本で大学という言葉が生まれたのは奈良時代の貴族の教育機関に使われたものが最初だそうです。そしてトロウという人の高等教育の分類では、その社会の十五%以下の人しか高等教育を受けていない状態がエリート型、十五%〜五十%の人が高等教育を受けている状態がマス型、五十%以上の人が高等教育を受けている状態がユニバーサル型と呼ばれるそうです。日本の近代教育の一例を挙げれば、日本の近代物理学の草分けで湯川秀樹博士や朝永振一郎博士などの育ての親である仁科芳雄博士(1890生まれ)が中学生になった日露戦争の終わる頃(1905)の明治時代には旧制中学に行くことさえ裕福な家庭の子供だけだったと言われます。仁科博士はその後東大に進み留学もしコペンハーゲンで当時のノーベル物理学賞受賞者ボーアのもとで学びましたが、この時代にはスーパーエリートと言われる存在であることは当然のことだったと言えます。インドの大学進学率は二千六年近辺で七%と言われますから当然インドの大学生はエリートと呼ばれてよい人達といえます。私の祖母の時代は小学校四年まででそれ以上がなかったとかで、その後しばらくして小学校六年制になったそうです。祖母が存命なら二千四年には百二十二歳になっていたはずです。また野口英世(1876〜1928)が二十四歳頃にアメリカに留学するにあたって必要だった渡航費用は当時の日本円で五百円、現在の貨幣価値に換算すると八百五十万円だったそうです。当時アメリカに行くには船旅以外に方法がなかったわけですが、現在のアメリカまでの航空運賃が成田からロス・アンジェルスあるいはニューヨークまで往復で安ければ大人一人が七万円台であるのと比べて如何に海外へ行くことが費用がかかるものだったかもわかります。あるいは当時アメリカへ行くと言うことは、現在で言えば旅客機を一人でチャーターしてゆくようなものか、あるいは十五年〜二十年のローンでも組まなければ平均的サラリーマンではアメリカへ行くことが出来ないくらいの費用がかかったと言えるかも知れません。また、二千四年十月六日には民間の宇宙船の実験に成功したニュースが流れましたが、その宇宙船で三十分間の宇宙旅行に行く費用は訓練費用を含めて二千万円だそうです。まさに野口英世がアメリカに行ったことは現在では民間人が宇宙へ行くようなもので、誰もが行きたければゆけるというものでもないでしょう。それ程高額な渡航費用を払ってまで海外へ行った当時の日本人は、海外旅行をしている現在の人たちよりももっと強烈な目的意識を持って海外へと行ったことでもあるでしょう。強烈な目的意識でもなければ、ただの渡航費用だけとはいえこれほど多額な資金を必死の思いで工面しようなどとは誰も思わないからです。野口英世は野口英世に先んじてまた野口英世などを育て、コレラ菌を発見したドイツのコッホに教えを請うて研究し日本のノーベル賞候補第一号になっていたペスト菌の発見者で血清療法を発明した北里柴三郎のような国費留学ではないのですからこれらの費用は自分で用意しなければなりませんでした。ましてや留学している自分の子供の様子を知るために親までが子供の留学先を訪れてみようなどとはとうていできない時代でもありました。アメリカと日本を往復するだけでも当時は千七百万円にもなってしまうのですから、庶民が海外へ行くことなどはまったく考えることも出来ず、現在では四十万〜五十万円あれば十分ヨーロッパ旅行が出来るのですから、まさにアメリカから帰国した人などは当時としては洋行帰りと言う言葉がぴったりするものだったと言えるでしょう。現在を逆からみれば、何か問題意識を持っている人でもなければこれほど航空運賃が安くなって海外旅行の方が国内旅行よりも割安とされるような時代にあえて日本にとどまり海外へは行かないという選択を人々はしないでしょう。千九百六十三年以来の海外渡航の自由化によって日本人が海外へ行くことは徐々に一般化し、高校の修学旅行でも海外へ行くことが珍しくないほど海外旅行は現在では大衆レベルのものになりました。しかし海外への渡航自由化が始まった時点では行き先として許可されていたのはハワイのみで渡航費用は当時の国家公務員の初任給の七十四倍だったと言われます。これを二千八年時点での貨幣価値に直せばそれでも七百万円を超えることでしょう。したがってもし現在海外へ行っている人たちがあたかも自分が明治時代の洋行帰りの人間とあるいは渡航自由化が始まった頃の人間と同じに自分を錯覚しているとしたら、それこそ滑稽きわまりないことです。このようなアメリカまでの渡航費用は野口英世のアメリカ行きに先んじること三十年ほど前の時点の千八百七十一年では、その当時のアメリカとの定期航路のアメリカ号でゆくと片道二百七十五円滞在費を含めると千円で、現在の貨幣価値に直すとかれこれ一千万円くらいだと『日本で初めてカーブを投げた男』にあります。この本はアメリカに渡って鉄道技術を習得し日本の鉄道の発展に寄与し、アメリカから野球道具を持ち帰って日本初の野球クラブチームを作り正力松太郎とともに日本の野球殿堂入り第一号になった平岡X(ひろし)を主人公にした伝記ですが、当時は海外の新しい技術や文化を日本に輸入して日本初の偉業を達成することが何よりも重要な時期でした。すなわち世界から新しい技術や文化そしてものの考え方を取り入れながら日本を近代国家へと推し進めなければならないという国家的大目標が存在していました。しかし世界第二位の経済大国になって三十年以上が経過してしまっている現在の日本は日本初ではなく世界初の知識や技術そして文化や試みを日本人自身が数多く生み出さなければ日本が立ちゆかなくなったといえます。安い労働力ならアジアに豊富に存在しています。ではなぜ日本人は高い給与をもらっていることができるのかの根拠付けを自己証明しなければならないからです。高い報酬をもらっているにはそれなりの理由があるからだというのでなければどの産業分野であれいずれ競争に敗れてしまうでしょう。そして日本の場合は千九百六十五年頃には大学・短大の学生になる人が受験人口の五十%ほどになってマス型に到達し、八十年代には五十%以上のユニバーサル型になっているとのことです。戦時中に戦況が厳しさを増す中で学徒動員にかり出された日本の当時の大学生達はエリート型の時代の大学生であったことは確かなことです。なぜなら千九百四十二年生まれの人の大学進学率でさえ二十五%程でしかなく、これらの人は戦後になった千九百六十年に大学生の時期を迎えているからです。大学などの数は千九百五十年には大学・短大しかなく合わせて三百五十だったものが、二千三年では大学・短大が千二百二十九、高専・専門学校までをも合わせれば総数で四千二百五十六に上ります。二千年には大学・短大・専門学校生が七十%にまでなっています。それは二千三年版『文部科学白書』のグラフに載っているわけですが、同じくグラフとして大学・短大の進学率は二千三年時点で四十九%、大学・短大・高専・専門学校を合わせた進学率は七十二・九%として示されているのです。また大学・短大の合格率は八十九年以来上昇を続け二千三年では八十四%となっています。戦後最も十八歳人口が多かった団塊の世代と言われる人達の時代の六十六年頃では合格率は六十%ちょっとだったのですから、かなりの違いと言えます。したがって私自身はマス型と言われる時代に教育を受けた人間ですので、大学を卒業したからと言ってかつての時代におけるエリートであるというわけにもいかない時代に大学生だったといえるでしょう。私の時代にはマスプロ教育とも呼ばれていました。大学生を大量生産する方式の教育システムのことでした。これらは全て数字の上のことで数字が全てを語るというわけでもありませんが、数字は何も語らないと言うことでもないと思います。そして私が学生時代を過ごした頃よりも現在では大学生ばかりでなく多くの日本人にとって海外は遙かに身近な存在になってます。海外旅行をする人だけでも年間に日本の総人口の一割を超えているからです。当然のことながら留学もそれほど珍しいことではありません。明治時代に海外へ留学するなどと言えば、それは帰国後には日本のトップエリートになることが約束されている人たちだったといってよいでしょう。現在では企業に就職すれば海外赴任や海外出張を命じられるサラリーマンも多々存在しています。官庁や大手企業に就職したサラリーマンでも、ちょっとこれはと思われる人は初任者研修のためにアメリカなどに留学させられるケースもまれではありません。またインターネットなどという手段が生まれれば、私のように日本の狭い地域の中だけで生活している人間も、海外の見ず知らずの人とメールフレンドになったりもできます。海外の大学でどんな講義が行われているのかもホームページで覗いてみることが可能です。マサチューセッツ工科大学などはこれまでの講義の内容をすべて無料でホームページに掲載するとのことです。学ぼうとすればそのチャンスはかつてよりも多岐になっています。そして学んだ結果として大学を卒業しても、その後就職した人の割合は二千三年時点では五十七%です。平成四年すなわち千九百九十四年時点ではこの割合は八十%だったと言われます。不況のせいばかりではなく、学生の意識の中に「働く意義が分からない」といった非常にメンタルな理由が背景にあるからだと言われます。自分がどんな職業に向いているのか考えている学生も多々存在しているとは思いますが、数学者の広中平祐さんは著書の中で「自分が短距離ランナーに向いているか長距離ランナーに向いているかは、走ってみない限り考えることだけではわかりはしない」と述べています。すなわち、自分がどんな職業に向いているのかは働いてみない限り考えているだけではわかることでもないのでしょう。 また、二千四年二月十四日の朝日新聞朝刊には、日本の延べ派遣労働者数が二百十三万人となっているとの記事があります。企業のリストラによる人員削減に伴って派遣労働力にシフトした結果のようです。当然正社員ほどの賃金レベルではなく、企業にとっては固定費である人件費削減にとって好都合と言うことになるのでしょう。また二千四年七月二十三日の読売新聞夕刊には、大学・短大の志願者数と入学者数が一致する「大学全入時代」は、二千九年からとされていたものが二千七年からと予想が早まったことが記事になっています。えり好みしさえしなければ、大学や短大に行きたい人は全て入学が可能という条件に限りなく近くなりますが、それだけ大学生や短大生というものの価値は引き下げられ、大学生だからと言って取り立てて注目される存在でもない状態がくるとも言えます。大学出だからといって必ずしも正社員になることが約束されている時代でもなくなるのかも知れません。大学生はどこにでもいる時代だからです。放送大学の二千五年十一月十四日の講義「岐路に立つ大学」では、二千年時点頃では十二月一日時点には大学卒業予定の人の就職はほぼ百%決まっていたものが、二千四年頃には五人に一人が未決定になるような状況が生まれ出ているとのことです。また、就職試験や面接でその人の学歴あるいは出身大学を問題にする企業は上場企業では半数にも満たなくなっているとのことです。しかも教育研究者の最高レベルの学位である博士号を取得すれば確実に就職先があるかというと、それがそうではないオーバードクターの問題が二千四年七月二十四日の読売新聞夕刊で取り上げられています。博士課程の修了者数は千九百九十三年度では六千五百人ほどだったのが二千三年度では一万四千五百人ほどまでに増加していますが、就職率はその間六十三%ほどから五十五%程へと低下してしまっています。非常に優秀な人が自分をうまく生かせていないあるいは日本の社会が非常に優秀な人材を生かせ切れていないと言える状況で、これは日本社会にとっても損失と言えるのではないのでしょうか。かつての日本ではサラリーマンはあこがれのものでした。給料取りと呼ばれて多くの人がなってみたがる憧れの職業形態でしたが、その人口比は非常に少ないものでした。その頃の日本は第一次産業すなわち農業・漁業・林業などの比率が高い社会でした(千九百二十年時点では農業などの第一次産業の割合は五十五%強でした。また日本経済に占める生産高の割合では千九百四十年では第一次産業は二十四%程でしたが二千四年度では1.7%にまで減少しています:日本国勢図会『数字で見る日本の百年:第五版』より)が、現在の日本においては第一次産業の比率は数パーセントでしかなく(二千五年時点では製造業などの第二次産業が二十五%、卸・小売り・サービス業・その他の第三次産業が七十%になっています:日本国勢図会『数字で見る日本の百年:第五版』より)サラリーマンの比率は全勤労者の八十パーセントを超えるまでになっています。博士号取得者も、いくら人数が増えてきているとは言っても日本の社会の総人口に占める割合は数パーセントいるかいないかの貴重な人材と言えます。「末は博士か大臣か」と、将来を嘱望される若い人のことを表現する言葉も日本にはありますが、実体は「大学は出たけれど」ではなく「博士号は取ったけど」という状態のようです。 博士号取得者が就職できないという状況がある一方で、日本の十五歳の学生の学力は確実に世界と比べて低下傾向にあることが二千四年十二月七日にマスコミで報じられました。二千年時点と比べて数学の応用力や読解力が世界ランキングの中で低下したというわけです。九十九年には日本で国旗・国歌法案が成立し、日の丸と君が代が義務つけられたのですが、それと機を一にして日本の学生の学力が低下してしまったともいえる状況が生まれました。日の丸と君が代をいくら学生に押しつけてみたところで、肝心の学生の学力が低下してしまえば元も子もないといえる状態です。文部科学省や各教育委員会が日の丸と君が代に一生懸命になっているうちに日本の学生は馬鹿になっていたのかもしれないような状況です。二千一年からの「ゆとりの教育」と呼ばれる学校完全週五日制と日の丸・君が代の義務化で日本の学生が本来の学力の低下を招いたとしたら、何か考えるべきなのではないでしょうか?休みが増え学力が低下した人間が国を思う気持ちだけ強く持つようになったとしても他の重要な能力が全て大きく低下してしまった人達では実現できる国の理想のレベルもそれだけ下がらざるをえなくなってしまうとも思えるからです。以下の調査結果は文部科学省のホームページにも載っていますが、OECD(経済協力開発機構)が実施した国際的な学習到達度調査では、日本の学生の数学応用力は二千年度は一位であったものが二千三年には六位、読解力は二千年度八位だったものが二千三年度には十四位へと、どちらも五〜六ランクづつ大きく落ち込みました。また国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・ 理科教育動向調査では算数・数学、理科の調査では「勉強の楽しさ」「勉強への自信」など学習への意識の数値は世界最低レベルだそうです。学生たちが本を読まなくなった、あるいは読んでもコミック誌でしかなくなったと言われるようになってから久しく、その結果が数字となって現れてきたともいえますし、数学的な応用力が下がれば自然科学分野をはじめとする理工学分野が弱体化し、ひいては日本の製品の研究開発や製造に将来響いてくることが懸念されます。コミック誌を読んだからといって人間が馬鹿になるわけではありませんがコミック誌しか読まなくなれば馬鹿になる可能性はあるでしょう。コミックでしか表現できないものもある代わりにコミックの表現には向いていない分野も数多くこの世界には存在しているからです。先のOECDの調査で言う読解力とは、文章や図表を理解して利用し熟考する能力という意味だそうで、これはかなり広い範囲の分野にわたる基本的な能力だともいえるので、社会科学などの発展にも将来的に影響してくることなのかもしれません。日本の経済的な落ち込みと少子化ばかりでなく、若い世代の学力の低下は日本の将来に暗い影となって現れてくる日があるのかもしれません。この学力調査では、経済的には先進国といわれるG7の各国が必ずしも最上位ではなくなっていることは注目すべきでしょう。アメリカの数学応用能力は二十八位で、日本はG7のメンバー国の中では数学の応用能力は最上位ですがその部門のトップは香港、二位はフィンランド、三位は韓国です。G7の中ではトップといわれる日本ですら六位だということなので規模としては大きな経済を誇っているG7も後々その水準を維持できるかどうかは確かなことではないといえます。読解力のトップはフィンランド、二位が韓国、三位がカナダとなっています。カネがあることと学力があることとは必ずしも正比例の関係にはないともいえますし、カネがあったとしてもそれをうまく生かさない限り人間の能力の向上にはつながってこないともいえるのかもしれません。現在十五歳の子供を持つ親たちの学歴は、かつての時代に小学生や中学生あるいは高校生の子供を持っていた親たちの学歴と比べれば遙かにあるいは一段高くなっていると言ってもいいでしょう。また大学出の学校の教員と親の学歴との差もかつて無いほどに小さなものになっているといえるでしょう。むしろ親の学歴の方が教員の学歴よりも高い人もいることでしょう。しかしその子供たちの学力の国際比較の結果はかくのごときものであることは認めておかなければならないことなのではないのでしょうか。親の学歴の上昇が子供の学力の向上には反映されていないという結果だからです。親の学歴が上昇したこともあって親は自分の子供が通う学校の学校運営や授業の仕方などにももの申せるまでの時代を迎えてはいます。少なくとも子供を持った親の多くは教育評論家や教師の人物批評家である場合が多いのですが、このような子供の学力低下はいったいどう考えればいい事なのでしょうか。小学生でも学校の先生や自分の親についての感想文くらいは書けるのです。かつての日本は「三歩下がって師の影を踏まず」という言葉があったように教師の地位は高く敬われており、卒業した後でも明治生まれの年配者達は「先生様」と呼ぶほど教師達はあがめられてもいました。しかし日本で高等教育が一般化した時点では教師達は学生達からさえ「セン公」と呼ばれるまでになってしまっています。「教師は聖職だ」と私は今時言う気はありませんが親が家庭で教師をバカにしてみせれば子供が学校で教師の言うことを聞かなくなるのも当然です。それでも子供が親の言うことを聞いている間はまだいいでしょうが親の言うことも子供が聞かなくなれば子供が学齢期の間は誰の言うことも聞かないという状態に至ります。親が学校の教師などは手玉にとれると子供に思わせてしまうことも同じです。問題のある教師もいるのは確かなのでしょうが問題のある親も存在しているとは思います。安倍首相は「高い規範意識を持たせる教育を」と主張しますが、このような条件の中においては教師が生徒に規範を求めることは困難で不可能に近いと言えるでしょう。しかし安倍首相の真意は学生に規範意識を持たせることよりも教育労組などがあってもこのような条件に置かれた教員の方に規範意識を要求しているのかも知れません。教育に関することとなると学校教育もこの社会における役割分担の一つの部分だという考えになかなかなりません。教師よりも親の方が偉いとか偉くないとかあるいは頭がいいとかバカだとかの話になってもしまいます。ですが教師は教育という役割分担を果たすことを仕事としている人達だと言うだけのことです。どんな社会であれみな役割分担をして生きて暮らしているのだからです。どこの家庭の中にも役割分担はあるはずです。そして現在は家庭・学校・地域の各々が教育のどこのなにを受け持つかの役割分担の線引きが曖昧になってしまってはいないのかと言うことが問題だと思います。また、ゆとり教育で学校が週休二日になる時点で、子供たちの塾通いが増えるという批判的な指摘もありましたが、家族と過ごす時間も実際には増えています。すなわち高学歴化している親と子供たちが一緒に過ごす時間は増えているというわけです。しかし子供たちの学力は低下してしまったわけです。条件的なものから考えれば子供の学力が低下することの方がむしろ不思議なくらいです。学歴が一般的に高くなっている親と過ごす時間が増えていながらなぜ子供たちだけが馬鹿にならなければならないのだろうかと言うことなのです。少子化に加え日本の若年層の学力低下が今後も続いて大きくなれば、日本経済の将来的な競争力の低下は加速することだろうと考えられます。現状に甘んじ安定だけを求めていた日本人は安定の中に安住して停滞してしまい、徐々に追い落とされかねない状況を迎えるかもしれません。政治家たちが教育を通じて自分たちに都合のよい人間だけを作り出すことばかりに力を入れても学生たちの学力は向上しないだろうともいえます。学力の低下は日本経済にとってマイナスになるばかりでなく、経済場面での国際的な競争により何よりも学力が低下してしまっている人たち自身の将来の生活水準に響いてもくることです。そしてこの学力低下の問題は、子供に勉強を強いるばかりでなく大人も自分が勉強したり仕事をしたりしている姿を子供に見せることが重要なことのようにも思います。子供が幼く身の回りの世話を焼いてやらねばならない時期が過ぎたら「お父さんやお母さんは自分の仕事を一生懸命するから、お前はお前で自分のやるべき事をちゃんとやりなさい」くらいの子供との距離感を保つのもいいのかも知れません。この学力調査は生涯にわたって学習する能力が身につけいているかどうかをはかるための調査だということですから、日本はそれを先取りして学齢をすでにすぎている親たちが子供と同じ内容ではなくても親は親なりに自分に必要な何かを学んでみせればよいのではないのでしょうか。親が勉強して見せた方が話が早いからです。親が勉強したり一生懸命働いたりしている姿を見せる事なく子供だけに勉強することを求めても子供は納得しないことでしょう。勉強すること自体がメリットがあることであるし、大人になっても必要に迫られて勉強せざるを得ないこともあるし、また学んで楽しいこともあると大人が自覚していないのならば子供も喜んで勉強はしないだろうと言うことです。長年にわたって学者や研究者でやってきた人なら「勉強はもういいよ」と言う資格もあるのでしょうが、一般の人間はなかなかそうはなれないからです。まあ、親が子供の反面教師になって子供が親と違う方向に行くこともありますが..。 二千五年二月二十六日の朝日新聞"Be on Saturday"には「少子化で学歴社会は改善されますか?」と題したモニター調査の結果が掲載されました。それによれば学歴社会は改善されないとした人が3958人中68%を占め、改善されるとした人はわずか12%です。学歴でいやな思いをしたことのある人は40%で、そうでない人は60%であるにもかかわらず、大学全入時代が間近になっていても学校間の偏差値差がより重要になるという考えが主流を占めています。会社や身近で学歴が重視されているかの問いには、そう思う人が63%、そう思わない人が21%です。学歴にどれだけのメリットがあるのか、また学歴に伴う能力や実力の違いが実際にどの程度存在しているのかなどは、実社会で働いている人自身が十分知っていることでしょう。それよりもむしろ私にとって気がかりなのはバブル経済時点では総中流意識だった日本の社会の中産階級が減少し日本社会が低所得者層と富裕層とに二極化することに伴い、その影響で教育も二極化していってしまうことです。カネのあるなしで教育を受けられるチャンスそのものが大きく変わってしまうからです。教育が二極化してしまうことでもし実際に日本の社会が学歴主義の傾向にあるとしたなら、そのことによって日本の社会階層が固定化されてしまうことが大きな問題になるだろうと思います。正社員とパート労働やフリーターなどによる賃金の二極化などもそのような問題に関連してくるものだと思えます。階層移行が全くない固定化した階層社会である江戸時代の士農工商(士農工商といえるものは存在しなかったとの理由で、現在は士農工商という言葉は教科書から消えているようです)のような身分制度の階層秩序が固定した社会に逆戻りしたのでは、日本の活力はなくなって行きます。階層移行が可能な分野は芸能人かスポーツ選手あるいはコミック作家になる以外に道がないのでは問題がありすぎると言えるでしょう。明治維新においてそれまでの旧体制が崩壊し能力のある若い人材達に活躍の場が生まれ、また日本の第二次大戦の敗北によって農村部の貧富の格差が是正されまた財閥なども力がそがれ、戦後の時代には混乱のどさくさの中から多くの新興勢力が生まれました。それらの中には戦後と言われる時代に日本を代表する企業になっていったものもありました。安い学費であった東大・京大をはじめとする多くの国立大学は経済的には裕福ではなくても頭脳が優秀で能力がある人々へ学ぶチャンスを与えてくれていたと言って良いでしょう。明治期以降の日本においては階層移行のための突破口を用意してくれていたのは教育分野でした。しかし国立大学も法人化され学費の方も徐々になりと引き上げられてゆく趨勢の中では、頭脳が優秀である人間が家庭の経済的理由によってその頭脳をさらに磨いたり社会の中で力を発揮したりできない条件が強くなってしまいます。これは日本にとっては大きな損失になると言って良いでしょう。教育を受ける道が閉ざされてしまうことを通じて日本の格差社会が固定化される可能性は高くなると言えるでしょう。そして社会が固定化されないためにも大きく日本の社会が揺らいでいる時期に若い世代の活躍の場を広げておくことも日本の活路といえます。IT産業などのハイテク分野はどちらかと言えば若者たちが得意とする分野であり、年配者にとっては不得意分野です。したがって産業分野としても若い世代が活躍できる分野は存在しています。これから先どんな新しい知識が生み出され新規分野が開拓されどんな新しい発明品が生まれてくるかは予想しきることはできませんが、それらの全く新しい知識や発明品は若者たちにそれなりのチャンスを与えてもくれることでしょう。若者たちが意識面で単に前世代のものまねだけをし、まねができるようになれた分だけ自分が大人になった気分に浸っていたとすれば、たちまち古びてしまいます。前世代は時とともに古びてゆくので、まねだけができるようになっただけでは古びる速度がそれだけ速まるからです。ですから、若者たちが本当に新しいものは何かを見分ける目を持っていないと、また自分自身で新しい価値を作り出す力を養ってゆかないと、自分が前世代とともに古びてしまうこともあるというわけです。前世代から受け継いだ技術や知識を習得したとしても、それらをさらに自分自身で高度化したり改善したりする努力を払わなければ、いずれは捨てられてゆくでしょう。 しかしそれよりももっと重大な問題は日本の多くの学生達が勉強離れを起こしていることのように思えます。二千五年三月十六日の東京新聞に載っている日本青少年研究所が行った調査結果では、日本の高校生はアメリカ、中国の高校生に比べて学習意欲が低く生活のサイクルも乱れがちな様子が示されています。学校以外では勉強しない割合が日本では45%、アメリカは15%、中国は8%、宿題をきちんとする割合は日本が53%、アメリカが86%、中国が82%、授業中寝たりぼーっとする割合は日本が73%、アメリカが49%、中国は29%です。就寝時間は午前0時以降まで起きている割合は日本が六割以上、アメリカや中国は1割程度だそうです。携帯電話で通話したりメール交換に費やす時間も日本がトップです。「勉強するやつなんかはダサイやつ」という雰囲気は学生達の中にかなり前から生まれ出てはいましたしバブル経済時点でそれは顕著(勉強なんかしなくても就職先はいくらでもあるという気分)になりましたが、自由の国アメリカ以上に学習面では規則性を持った学習ができていない状況が生まれていることが数字で出ています。バブル経済が日本の多くの人々に与えた影響はカネの面で中世封建時代の遺物といえる貴族社会をあこがれの対象にしてしまったことのようです。しかしそれは貴族のような教養を身につけようと言うことよりも、封建制度のもとでの搾取の結果として形成された富の蓄積である貴族のような贅を尽くした生活をしたいと言う欲求の方が強かったわけです。戦後日本の女性達が社会進出しようとしていたときに、それを阻む日本の男社会を批判するために日本の女性達は日本の男性を「封建的」と呼びましたが、日本の女性達が社会進出に成功した結果として選んだのは封建時代の名残とも言える貴族的な贅沢な生活だったというのは皮肉なことです。バブル経済以後にはヨーロッパ社交界に出入りしているとか言う人たちがもてはやされるようになったりしました。パリの社交界で知られるフランスにおいても、中産階級の人々が幾分豊かになったのはつい最近のことだとはフランス人の人から私が聞いたことでした。それ以前にはフランスの社会も貧富の差が大きかったといえるのかも知れません。そのフランスでも、移民系の人たちが二千五年の十一月には暴動を起こしました。あまりにも不遇な立場に自分たちがおかれているという不満が下地にあり、警官に追われて変電所に逃げ込んで感電死した若者が出たことが暴動のきっかけになりました。移民系の人々はフランスが昔植民地にしていた歴史が背景となってアフリカ系やアラブ系からの人々が多いと思われますが、日本もかつての時代の歴史的な背景で韓国や朝鮮の人々をはじめとするアジア系の人たちが多くいます。少なくともフランスのような事態を引き起こさないためにも、日本の社会は他の国をルーツとする人たちにあまりの差別的冷遇を与えないように注意する必要はあると思います。たとえそれが日本人だったとしても、あまりの冷遇を強いられている人はその社会を恨みもするからです。日本でも過去に打ち壊しなどの歴史もあったからです。その社会に不満を持つ人々があまりに多くなると暴動のような危険も増えてきます。封建制時代のフランスの貴族社会の頂点である絶対王政ルイ王朝を倒したフランス革命にもそんな側面もあったといえるでしょう。マリー・アントワネットの世間知らずの一言が革命を引き起こす引き金になったという説もあります。二千五年の暴動にもフランス政府高官であるサルコジ内相の「人間のクズ」発言が火に油を注いだようでもあります。フランス革命では自由・平等・博愛が理念でしたし、それは現在のフランスの国旗となって象徴されてもいます。日本の社会の中に生まれつつある貧富の格差、経済的な部分での極端な二極化が危機的な問題を生み出したりしないようにする必要はあると思うのです。バブル経済以降、貴族のような生活を望んだりそのような生活をしている人を日本のマスコミがもてはやしたりしていますが、戦後間もない頃の多くの日本人のあこがれはアメリカの中産階級の生活スタイルでした。バブル経済以降に貴族社会をあこがれにしたのは千九百七十年代にはアメリカの中産階級の生活スタイルはかなり多くの日本人にとって当たり前なものになっていたからでした。その背景には銀行が住宅ローンなどの制度を作って現金の用意が全てできていなくてもマイホームを手に入れることができるようになってもいたからです。それ以上の生活を目指すとなれば貴族社会のようなものにもなって行きます。そして日本ではこれまでになく学ぶ上での条件的なものは整備されてきていると言っていいでしょう。大検やフリースクールなど、学業途中で躓いた人たちをフォローする制度も生まれていますし、インターネット環境も整備されてきています。成人に対する社会人大学院などもその数は増える傾向にあります。しかし誰でもに学べる環境が整備されたとき、それと反比例する形で肝心な若年層の学生は学ぶ気を失っていたという皮肉な状況です。あるいは現在の経済状態を国際比較した場合と同じ結果が学習意欲にも反映されているのかも知れません。経済的に活力があり先行きに希望のある国の方が若い年代がそれだけ勉強しようとする意欲が強いと言うことなのかも知れないのです。ただ、先行きが見えにくいあるいは先行きに希望が持てないから現状を放棄するとしたら先行きはもっと暗いものになるのではないのでしょうか。バブル経済の崩壊後には四年制大学を卒業したと言うだけでは即戦力を求める企業の要求に応えきれないので、就職に有利にするために四年制大学と専門学校の両方へ通うというダブルスクールも生まれ出ました。しかしそのような学生は家庭の経済力がある程度ある家庭の子女といえるでしょう。しかしそれでもなかなか思うような就職先がない時代が十年ほど続いてきました。何かをしようとするとオカネが必要だと言うことにはすぐに思い至りますが、それと同じように何かをしようとすると知識が必要だとか知識が足りないとか如何に自分が何も知らないかと言うことに突き当たることがよくあります。何もしようとしなければそのような自分の無知の壁にぶつかることもありません。学ぶと言うことの前提に何かを知りたいとか何かをしたいという欲求があれば、必然的に人間は自分に不足しているものを学ばねばならないという気持ちになってくると思います。勉強離れが進みつつある現在の日本の若年層には何がやりたいのかの目標が見えていないのかあるいは何かを知りたいとかやりたいという欲求の度合いが薄れているのかも知れません。先行きの方針が立てられなかったり欲求の度合いが薄れていることなどが背景でNEET(Not in Employment Education or Training)の問題にもつながって行くのかも知れません。ニートの総数は二千二年時点で八十四万七千人だと内閣府が発表したと二千五年三月二十四日の朝日新聞朝刊にあります。九十二年に比べてその数は十八万人増えているとのことです。このNEETと呼ばれる階層は十五歳から三十四歳までの範囲にある人たちに限って呼ばれていますが、若い世代の特徴と思われていたフリーターも、企業を解雇されて再就職がうまく行かない中高年にもそれが広がり、中高年フリーターも生まれ始めていると言われます。フリーター達や派遣社員などの安い労働力に支えられて一部の人間だけが多くの富を所有し貴族のような生活を送るというのは、かつての封建制社会の領主や初期資本主義の弱肉強食の時代の搾取体制の構造にも類似してくるのかも知れません。 二千五年四月十五日の毎日新聞朝刊には、先に書いた東京大学の世界有力大学二百の中でのランキングが総合十二位になっているとあります。先にここで紹介した数字からするとかなりの上昇ですが、日本の若年層の学力低下などがこれから少なくとも十年ないし十五年後に大学の若手研究者などになって活動し始める頃に現れてくるランキングにどのように作用してくるのかはわかりません。東大が総合十二位という中でも工学・情報工学は七位なので、社会科学分野などの文系が足を引っ張っている部分もありそうです。東大の小宮山宏学長は、「ライバルはハーバード大、オックスフォード大、ケンブリッジ大」と述べているようですが、社会科学分野などではまだまだ目標とすべき大学は世界に多数あると言ってもよいようです。少なくとも経済学の分野ではアメリカだけでもハーバード大学だけでなく、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学、カリフォルニア大学、エール大学など日本の上を行く数多くの大学があります。以上に紹介した大学のホームページはインターネットの準備のある人なら誰でも覗いてみることができるものですが、日本のインターネットの普及率は二千四年には全体で62.3%にまでなっています。二十代は92.3%、三十代では90.5%、四十代では84.5%、五十代が65.8%、六十〜六十四歳が49.0%、六十五歳以上が17.5%の普及率だというデータが二千六年二月三日の朝日新聞エリア広告特集に載りました。五年前の二千年時点からすれば多くの世代でインターネット普及率が倍増したと言ってもよいくらいに伸び、インターネットはもはや成熟期を迎えたと言えそうです。ウインドウズ95が発売されて急速にインターネットブームが起きてからかれこれ十年経っただけでもうインターネットが成熟期に入ったとするなら、その普及の速度はこれまでの産業に比べてきわめて速い速度だったといえるかも知れません。一つの企業や産業分野の寿命がほぼ三十年と言われる説もあるのですから、十年で成熟期を迎えてしまうのは速い速度ではないかと思うわけです。パソコン普及率は公式にもデータが出されています。十年で市場が成熟した家電製品は千九百五十五年時点から始まったテレビの普及率にも匹敵するとも言えるかも知れません。当然その当時は白黒テレビですがテレビは急速に日本の社会に普及し、その後カラーになり現在は薄型大画面そして地上デジタルに変わりながら推移しています。パソコンはビジネスだけでなく教育分野でも盛んに使われるようになりましたが、バブル経済崩壊後の格差の発生によって大学進学を学力よりも学費が問題となってあきらめざるを得ない高校生が増えていると思えるデータが二千六年二月十二日の朝日新聞朝刊に載りました。ライセンス・アカデミーが調査したものが載っているのですが、高校側の意見としては「家庭の経済力によって、高等教育を受けられる格差が広がっている」と考える高校の進路指導担当者は八割を超えるとされています。現在の大学生にはパソコンは必須のアイテムといえますが、大学進学を断念してもインターネットを利用することで大学よりも学費の安い、しかしレベルとしては大学レベルに近い教育機会が作られればとも思います。あるいは放送と通信の融合によってNHKの放送大学のような形態にインターネットの利用あるいはWebカメラなどを組み合わせた形も考えられるかも知れません。二千五年度の世界大学ランキングでは日本の東京大学は十六位で、アジアでトップの座を中国の北京大学に譲ることになってしまっています。経済においてもあるいは教育においても、果たして日本の復権はなるかと言ったところです。 教育における格差のことに関しては二千六年三月二十三日に朝日新聞の朝刊にも二千四年度の都道府県立校の文科省調査結果として載っています。授業料の減免措置を受けている学生は十一人に一人と見出しに大きく出ています。九十六年から資料が用意され始めたとのことですが、日本社会に何か地殻変動が起きてきていることは確かなようです。頭脳の優秀な子供は必ずカネのある家庭に生まれるというのであればまだしもですが、カネのない家庭に生まれた優秀な子供にとっては災難の時代到来と言うことにもなり、また日本の国としても大きな人的資源の損失にもなりかねません。新聞紙面に紹介された二千六年度の『情報通信白書』によると、日本のネット人口はパソコンや携帯電話をあわせて八千五百二十九万人、普及率は六十七%とになったとあります。若い世代を中心に携帯電話は広く普及していますが、教育機器として使う場合には携帯電話ではどうしても制約があり、やはりパソコンの方が有効な面もあるかと思います。パソコンの普及率が学生がいる世帯ほど高いような状態になれば、安い費用で多くの知識や情報に触れることも可能になるかと思います。そして自分が興味を持った分野はパソコンだけでなくその分野に関連した書籍などを探してさらに深く自分で学ぶことも可能になるでしょう。そして日本の十八歳人口は千九百九十二年度には二百万人ちょっとあったものが二千七年度には百三十万人ほどへと急減しています。十五年ほどの間に35%の減少です。それにつれて大学合格率は九十二年が六十七%程度だったものが二千五年度には九十%ほどになり、二千七年度には大学全入時代が到来すると予想される状態になっています。この数字は二千六年七月十四日の読売新聞朝刊に載っているグラフです。頭数が多く大学の数は現在よりも少なかったために激しい受験競争を経験した団塊の世代(当時すなわち千九百六十年代中盤から後半の大学・短大への合格率は六十%ちょっとでした。また競争が激しかったために高校や大学受験を苦にした自殺者が二千人だったとも言われます)が大量退職し始めるのと時期を同じくして大学全入時代が始まるというのも奇妙な偶然の一致のように思えます。大学は減少する学生数の中から生徒を如何に獲得するかの学生の奪い合いも生まれるでしょうが、それによって学生のレベルをどうしたら下げないで学生を確保できるかも大学の抱える悩ましい問題となってくることでしょう。「学費さえ払ってくれるならどんな学生も受け入れます」と言ってしまったら、同じ大学の卒業生でも全入時代の学生はそうでなかった時代の学生のレベルと比べて一ランクも二ランクも学力のレベルが下がっているような事態も想定されるからです。大学全入時代が始まる一年前の二千六年の入試では私立大学の四割すなわち過去最多の二百二十二校が定員割れに陥ったと二千六年七月二十五日の読売新聞朝刊に記事が載りましたが、工学部や薬学部などが減少し北海道と北関東、中国、四国、九州などが苦戦した地域だそうです。薬学部が減ったのはそれまでの四年制から六年制へと学業期間の制度変更があったためと薬学部を含めて工学部などの理科系は国立・私立を問わず文化系に比べて相対的に学費が高いことも背景にあるかも知れません。受験人口が減る中で規制緩和によって大学は新設されているわけですから大学が定員割れのような状況にもなるのでしょう。これらの条件から学生の学力が低下していてもあるいは勉強をしなくても大学には入学できる時代になったとしても、日本国内だけでの話ならそれでもいいかも知れませんが残念ながら日本は国際的な場面で競争してゆかなければなりません。それは何も農業・漁業そして林業や工業分野ばかりでなく金融などのサービス分野にも及んできます。金融工学の分野などは非常に高度な数学の知識も要求されてきてしまいます。金融工学の分野でノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者の名を取ったブラック・ショールズ式で使われる重要な数式は伊藤清さんが作り出し二千六年にはガウス賞の最初の受賞者にもなりましたが、それら高度な数学が必要とされる時、基本的な能力が低下していたのでは到底競争に太刀打ちができないことになってしまいます。観光地の旅館やホテルなどのサービス業とて国内旅行と海外旅行とでの国際競争にさらされます。海外旅行に流れて減ってしまった日本人観光客の分を海外からの観光客を増やすことで埋め合わせようとするなら日本の観光地のホテルや旅館の従業員には語学の習得も必要になるかも知れません。その場合には英語やフランス語あるいはドイツ語と言った欧米の言語だけでなく中国語や韓国語などのアジアの言語も含まれてくることでしょう。私は学力だけが人間の能力の全てだとは思いませんが、学力は人間の能力のうちの重要な一部だろうとは思っています。しかし大学全入時代を迎えようとしている時点では高等教育も一般化し教育のあるなしでの差はこれまでになく相対的に小さくなったのでカネのあるなしの差の方だけに人々の関心が向いているのかも知れません。インドの場合には千九百九十一年頃から経済がテイクオフ(離陸)し始め成長軌道に乗ったとは言っても、農業はインドのGDPの二十五%でしかないにもかかわらず人口の八十%は農民で識字率は六十五%、全人口の三十五%が文盲すなわち文字が読み書きできない人だそうです。「世界の十五才以上で文字の読み書きが出来ない人の人口は八億人でその半分がインドに集中しているとのことです。またインドでも女性の識字率は四割で男性の七割にくらべて低い水準にあると言われます。」(この部分はNHKの[海外ネットワーク]からのもの)インド社会の最底辺の人々が教育に支払うオカネの何百倍ものオカネを裕福な階層の人は自分の子供の教育費にかけ、日本の格差社会どころではない格差がインド社会の内部にはあると二千六年七月二十二日のNHKの衛星放送の番組で流されていました。このような社会にあっては豊かになるためにも教育を受けることがどうしても必要不可欠だという人々の教育を受ける事への渇望すなわち学ぶ事への渇望があります。物欲や金銭欲は食欲や性欲と並んで人間にとっては強い欲望といえますが、ただそれだけで知識欲を失うと次なるステップに踏み出すことが出来ないことにもなることでしょう。学校へ行きたいが家庭の事情で行かせてもらえないので小学校の校舎の外から教室の窓越しに授業を眺めていた人もいたつい七十〜八十年前のかつての日本ですが、そのような姿はさすがに現在の日本では消え失せてしまったもののようにも思えます。あるいは再び日本はそんな戦前のような社会へと戻りたいのでしょうか?この時点での日本はかつての日本と戦後型日本経済の時代との間を揺れ動きながら進んでいるようにも見えてきます。 しかし日本の社会はただ単に昔に戻るのかと言えば、昔とは全く異なる部分もかいま見えています。それが顕著なのは教育に関連する部分です。二千六年五月時点での高校進学率は97・7%、大学・短大への進学率は52・3%、大学院の学生数二十六万一千人、大学・大学院の女子学生数百十二万七千人、大学の数七百四十四校。これらはいずれも過去最高のものであると二千六年八月十一日の読売新聞朝刊の記事にあります(韓国の大学進学率は八十五%だそうです。日本以上の学歴社会といえます)。男女を問わず日本人は高学歴になり教育の面ではかつて日本が経験したことのないような水準に日本はあると言っていいようです。資源小国の日本にとっては人的資源だけが唯一の頼りとも言えるので教育が重要になっても来るのですが、高等教育を受ける人の数が増えることにより日本社会の全ての分野のレベルがもう一段レベルアップするかどうかが問われてくると言えるでしょう。またその一方で小学生数七百十八万七千人、中学生数三百六十万二千人、小学校の数二万二千八百校といずれも過去最低となっています。これらの少子化に伴う動きの影響がこれからの日本社会にどのような影響をもたらしてくるのかも重要な問題になって来ると思います。地域の子供の数の減少によって学校の統廃合も起き空き家になる学校も出て来ますが、それらを地域でどう活用するのか、たとえば使われなくなった小学校や中学校の校舎を地域のSOHO企業やベンチャー企業育成の拠点として各教室を校舎の維持管理費程度の安い賃料で民間に開放することなども一つの考えではあるでしょう。校舎を雑居ビルにするのです。東京都心などにあるSOHOマンションなどは四畳半から六畳程度で一ヶ月の家賃は九万円前後だと言われるので、それよりも遙かに安い賃料にすればコスト競争力はあるわけです。一つの教室分ではフロアー面積が広すぎるような小ビジネスなら教室を間仕切りで分割してもいいでしょう。東京都内は多くのオフィスビルが林立し競合している地域ですので都内の廃校になった小・中学校をオフィスビルにしてもあまり意味がないのですが、オフィスビルなどの準備があまりない地方にとってはそこをオフィスビル代わりにして地域発信のビジネスの一つの拠点にもしていけるはずです。体育館は倉庫にしたりイベント会場にしたりもできるでしょう。地方の学校には校庭も十分にあるのでそこを駐車スペースにもできます。東京都心のSOHOマンションでは駐車スペースが付随しているなどと言うことはほとんど期待すべくもありません。車一台に五万円や六万円などの高い駐車場料金を別に払って車をおいておく以外にないのです。地方は利便性の点では東京に到底太刀打ちすることはできません。ですが幾分不便であると言うことは土地などの価格が安いと言う利点もあります。低価格路線を発揮できる条件が十分あると言うことです。それは地方ならではの強みと言えるでしょう。東京に対してコストの面で地方は比較優位にありコスト・パーフォーマンスの点では優れているわけです。公立の小・中学校は市町村立のもので地域住民が払った税金で建てられていてその地域に最も身近なものなのですから、県や国の許可を取る必要がなく地域住民のためになるような活用方法を地方行政とそこの住民達で考えればいいはずのものです。仲間を募った家庭の主婦が何か小さな事業でも始めたいというなら、そんな人達が活動する場になったとしてもそれは廃校になった学校の活用方法としては大いにいいことだとも言えるでしょう。地方とはいえ学生生活を経験した人が皆無と言うこともないでしょうから、学生時代のクラブ活動やサークルのノリで小さな事業は興していけるとも思います。事業を成功させるまでには色々試行錯誤や工夫や苦労など産みの苦しみの時期があるのは確かでしょうが「ものは試し」のつもりで始めたらいいと思います。何もしないでじり貧になるより遙かに意味のあることです。事業としての基本的なアドバイスを行政がやってもいいと思いますし地方銀行などの民間の人にアドバイザーを依頼してもいいでしょう。第三セクターではなく地方行政が出資する訳ではないので、事業を興す人はたとえ事業が失敗に終わってもそれほど大きな痛手にはならない程度の元手(小資本)でできる事業から始めるのがいいかもしれません。またその地域に必要なサービスを手がけるNPOの活動の拠点になってもいいはずです。どんな事業を始めるかはその地域の人達のアイデアと工夫次第です。そしてもし幸いにも事業が成功して規模が大きくなり始め学校の教室だけでは間に合わなくなったらその地域に一軒店を出せばいいわけです。他地域から産業を呼び込むことも望めないとするなら地方自身の中から産業を生み出していく努力をしなければ地方の人口流出は進み地方の人口減少がさらに加速してしまうからです。どのような形の産業であれまたNPO活動であれ地方で収入が得られる雇用の受け皿を増やしてゆく以外に地方が生き延びて行く道はないのではとも思います。地域に収入が得られる産業の受け皿がない限り、若い世代は雇用を求めて都市部あるいは大都市圏に出て行かざるを得ません。地方発の産業がその地域の中で利益を上げるばかりでなく他地域へも展開できるようになればそれは地域にとっても望むところといえるでしょう。この時点での日本の状態は過去に経験したことがない事態に直面している事が明らかなので前例踏襲型のことだけをしていたのでは対応しきれない状況だと言うことははっきりと言えるでしょう。これまでになかった前例を新たに作り出してゆかねばなりません。法的に問題がない範囲での事業を行うのなら、これまで経験したことのない事態が生まれ出てきている日本の社会においては、どんな形のものであれ何かの事業を行こなおうという人にたいして「そんなこと言った人はいない」とか「そんなことやった人はいない」とかという言葉は意味を失うと思います。その地域の中で何かをやりたい人がどのくらいいるのかを事前にアンケート調査でもして話し合いを始めるくらいの取り組みは地方行政としてもやってみる価値のあることだろうと思うのです。また行政がコーデイネートをしてもいいと思います。若者達には自分が生まれ育ったところではない外の世界を見に行きたい気持ちもあるでしょうが、若者達でも地方で活動して見たがるような魅力ある地方を作る工夫も必要になって来ると思います。 日本の少子化が加速する背景には一人の子供を養育し一人前に育て上げるまでの費用が上昇していることもあるのかも知れません。新聞に載ったグラフと記事をチェックし忘れてしまい読売新聞の方に電話をして調べていただいたのですが、記事がうまく見あたらずその際にAIU保険株式会社が調べた「現代子育て経済考」を紹介していただきましたが、それによると二千五年度時点では子供一人を公立の小・中・高・大学へ通わせた場合学費は全体で千三百四十五万円ほど、私立の場合は小学校がないので公立の学費で計算したとしても文系の場合は大学の学費が六百四万円で全体では二千六十三万円、私立の理系の大学の学費は七百二十万円、医科・歯科系は二千九百六十五万円となります。これは公立の場合で前年比百六十六万円の上昇、私立文系で二百九十四万円の上昇だそうです。それ以外に出産費用九十一万円、二十二年間の子供の食費六百七十一万円、被服費百四十一万円、医療費百九十三万円、小遣いやレジャー費用四百六十九万円、私物九十三万円となり、これらの合計は千六百四十万円。子供を公立の大学の文系に入れたとしても教育費と子供の出産・生活費の合計は一人あたりかれこれ三千万円です。幼稚園から一貫して私立へ通わせしかも私立の医科・歯科系の大学へ子供を入れようものなら養育費と教育費を合わせると費用は六千三百一万円と遙かに高くなってしまいます。高等教育を受けさせることが社会的にも必要不可欠と思われ始めている日本の社会の中にあって一人あたりの子育ての費用がかなりなものであるというのなら、多くの子供を産み育てることは経済的に親にとって大きな負担になり、その分子供の数を減らすという選択をする親も多くなってしまうかも知れないのです。そうでもしないと親の経済が持ちこたえられないからです。しかも上の費用には何百万円もの結婚式の費用は含まれません。本当なら結婚するだけでも費用がかかるはずです。日本人の親の全てが上述のような経済的条件を全てクリアーできる人ばかりではないだろうと私は思います。結婚していたとしても子供を持ちたいと思っても実際に子供を作るなどは無謀な行為だと感じられてくる若い世代の非正規雇用で低賃金の人もいることでしょう。日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんのお父さんは、子供を三人も大学へ入れるだけの経済的余裕はないので三人の内誰かに大学進学をあきらめてもらわなければならないとして、当時高校の成績が兄弟の中で一番芳しくなかった秀樹さんに白羽の矢を向けたところ、秀樹さんは親に泣きついて大学へ進学させてもらったとの記事が以前新聞に載りました。現在で言えばその時点での湯川さんのお父さんの頭の中のジレンマも秀樹さんの頭の中のジレンマもゲームの理論で説明でき解決できると言われるのかも知れませんが、湯川さんの家庭の経済的理由のために秀樹さんの大学進学の道が閉ざされてしまっていたとしたら、日本人初のノーベル賞受賞者の誕生はもっと遅れていたかも知れないのです。湯川秀樹さんのノーベル物理学賞受賞のニュースは敗戦でうちひしがれていた日本人に希望の光を与えてくれるできごとでもありました。家庭の経済的理由で本来なら優秀な人材になり得るかも知れなかった人が、また人類の知にも大きく貢献するかも知れなかった人が芽を出せずに終わるかも知れないということは、時代が経った現在(二千七年一月二十三日は湯川秀樹生誕百年だそうです)の日本においても変わらずに言えることのようです。現代にも第二の湯川秀樹や第三の湯川秀樹は存在するかも知れないのです。このような問題は教育基本法を改正しようが改正しまいがそれとは直接には関係のないことでもあると思います。経済苦による親の自殺で自死遺児を増やしてしまっておきながら教育基本法ばかりいじっても解決しない問題もあります。そして二千六年九月八日の読売新聞夕刊には労働白書の分析として二十五歳〜三十九歳の年代が働きすぎであることが少子化の要因になっているとの記事が載りました。その年代の一週間の労働時間が六十時間を超える人の割合が20%を越すという現実があるからだそうです。その割合は千九百九十四年に比べて二千四年ではかなり増加しています。しかしたとえ幸運にも子供ができた場合でも、やはり働き過ぎと言われるくらい働かなければ子供を育て教育を受けさせることが可能にならないであろう事は上の子育ての費用の数字から明らかなことでしょう。子供が三人、四人と増えたらもっと働かなければならなくなります。 このような子育ての負担軽減策の一つとして全国の小学校で放課後教室を開設し、放課後の子供の居場所作りと共働き家庭の子供の預かり時間を延長する施策を二千七年度から実施する旨の記事が二千六年八月二十九日の読売新聞夕刊に載りました。文部科学省と厚生労働省が連携して行う事業ですが、全児童対象の時間帯と、それ以降の親が留守の家庭の子供を対象とする時間帯に分け、地域住民や教員OBそして教職希望の学生や保育士などがスタッフとして当たることのようです。そのねらいは親の負担の軽減と経済的な理由で塾に通えない子供にも学びの機会を与えることのようです。共働き家庭はこの時点で六百万世帯、母子家庭は三百万世帯といずれも増加傾向をたどり学童保育の人数は十年で倍増していると二千七年10月17日のNHKクローズアップ現代では紹介されています。放課後教室では地域のお年寄りが子供に遊びなどを教えるというメニューもあるようですが、その遊びにはメンコなどが含まれていました。メンコは私は子供時代得意だったので子供に教えることもできます。二千七年一月二十三日のNHK衛星放送の「遊び伝承塾」ほど詳しくはなくても、またその番組で紹介されたメンコの遊び方と我々の遊び方とはちょと違っていてもです。ですがメンコを売っているような駄菓子屋は私の住んでいる街にはなくなってしまっていてメンコの入手はできないのが現実です。四十五〜五十年も前の日本ならともかく現在の日本でメンコを生産しているところなどあるのでしょうか?メンコは自分の大事な小遣いを割いて買って勝負をし得したり損したりするからこそ面白いのであって、メンコを自分でボール紙を切って作っていたのでは本気になって遊ぶことができません。子供の遊びであっても真剣になったり本気になったりして遊ぶ醍醐味は味わっていいものだと思います。下手をするとせっかく買った自分のメンコを全て巻き上げられてしまうと言うことも経験できるのです。メンコで負けて全ての自分のメンコを取られてしまうことを私たちの子供時代には「スッパになる」と呼んでいました。ですが誰とメンコをしてもいつも相手をスッパにしてしまう程メンコの強い子は、たまにはメンコが無くなってしまった相手に自分のメンコをあげて「メンコをしよう」と友達を誘わなかぎり誰も遊んでくれる友達がいなくなってしまう場合もあります。遊びを通して人間関係も学べます。それはメンコでもビー玉でも同じ事です。そしてメンコが買えない現在であるなら現在の子供に人気のある「ムシキング」のカードをメンコの代用にすることはできるでしょう。ただ、ムシキングのカードを代用した場合は角メンで、丸メン程の強さはありません。メンコをやったことのある人なら誰でも自分の経験からわかることだと思いますが、角メンは丸メンよりも不利なのです。なんだったら現代ではパソコンのいらなくなったCD-ROMでメンコでも出来るのかも知れませんが・・。ただしCD-ROMでメンコをした場合は欠けたりするとその破片が目に入る危険性があります。また運動場が舗装されて砂場もないような東京の小学校ではメンコをする場所もありません。このような方策を立てている人達が昔の頭のままで考えているからそういうことにもなるのでしょう。私は学習塾を生業にしこのように述べてはいますが、子供の居場所作りについてのこの施策には大いに賛成するものです。しかし千九百六十五年時点の学生達の通塾率は30%で二千年時点でのそれは65%になってはいますが、もっと勉強したいと思っている学生の割合は六十五年時点では60%以上あったものが二千円時点では30%台にまで下がってしまっているという問題(2006年九月十三日放送のNHK放送大学『人間と自然』より)も認めなければならないかも知れません。確かに以前の時代よりも日本は全体的には豊かになってきていたとはいえ、物質的には満たされてはいても子供の意欲は条件が整備されるのに反比例して低下していると言うことです。また、共働きのために学童保育が修了した後の時間の子供の面倒を見るために小学生を六年間預かっていたりもした経験があるので、このような施策はそのような親にとってもありがたいものにもなるだろうと思います。ただ、共働きのために子供だけで食事をしなければならない孤食の問題もありますが、夫の給与がある程度のものでなければ一人働きでは到底無理なことで共働きでないと先のような子供の子育て費用を工面できないという難しさもあります。利用料や開設時間は市町村ごとに異なるが全児童を対象にした時間帯の利用料は無料にする方針でもあるようです。一昔前なら共働きでも子供はお爺さんやお婆さんに預けておくこともできましたが、現在のように核家族化が進んでしまった社会ではそれもままなりません。親が勤務地の関係で家族そろってお爺さんお婆さんとは違う土地に移り住まなければならない家族もいることでしょう。そもそも子供が親の居住地で勤務している方が少なくなっているかも知れないのです。出世する人間ほどあちこち飛び回って自分の居住地にじっくり腰を落ち着かせていることなどないのが現実でもあります。出世してゆく上では長期出張や単身赴任あるいは家族を伴っての転勤の連続というような条件になる人が多いからです。広域展開していない中小企業の従業員は狭い範囲で勤務も出来ますが一流企業や大会社のサラリーマンほどそうなる可能性が大きいわけです。また出世してある程度の地位についても一つの場所でゆっくりなどは出来ていないはずです。偉くなったらなったであちこち飛び回らざるを得ない人が多いようです。小さな子供がいる家族でたとえ通勤であったとしても学校で自分の子供に何か起こったとして五分か十分ですぐに学校へ駆けつけることができるようなところにばかり親の勤務地があるとは限らないはずです。農家と個人商店ばかりで成り立っているわけではないのが現代の日本の社会だからです。市町村議会議員の行動範囲と国会議員の行動範囲とでは大きく異なっていると言うことにも似ています。市町村会議員なら自分の家の近くで見かけることはありますが、国会議員ともなればテレビで時々見るくらいで滅多に地域で実物を見ることがないのです。社会的には高い地位に就かなかった人間あるいは就けなかった人間が各地域に滞留しているだけだとも言えるのかも知れません。多くの地域を渡り歩きながら出世の階段を昇っていった人達からは地域に残っているのは半ば落ちこぼればっかりと言う見方もされがちです。そのことはこのような教育のあり方などを審議する立場になるような人達が、それまでどのようにしていたがためにそのような立場にまでなり得たのかを考えてもらえればわかることですし、また同じく日本の社会の中である程度の地位にまでなった人達がどのように生きてきたが故にそのような地位にたどり着き得たのかを振り返ってみてもらうだけで明らかになることです。このような状況を見れば家庭の教育力も地域の教育力も低下せざるを得ないことでしょう。地域には高齢者ばかりという状態が生まれるからです。あるいはかつて(千九百七十年代中盤の)農業のことを3ちゃん農業と表現したように、じいちゃん、ばあちゃん、母ちゃんが地域に残っているとでも言えばいいでしょうか?地域の教育力は3ちゃん教育なのです。3ちゃん農業の父ちゃんはカネを稼ぐために出稼ぎなのですが、下手をすると3ちゃん教育の父ちゃんは単身赴任で母ちゃんも家計を助けるためにパートで仕事をせざるを得ないでいるかも知れないので、地域の教育力はじいちゃんとばあちゃんだけでしかも子供は鍵っ子になってしまい3ちゃん農業以下とも言えます。広域で人々が移動をしながら経済社会の中で行動することは法律違反でもなくまた会社の内務規定に違反するわけでもないのですが、そのような行動をとっている人が多数になると地域社会は崩壊しかねないという問題が生まれてきます。そのような日本の社会・経済構造の変化に対して、いろいろな違った問題はあるとは言っても地域の中に子供の居場所を確保しようとするこの施策は役に立つ部分があるだろうと思えます。また全国の小学校で行われると言うことなので、海外赴任も当たり前な現在の日本の社会であるとするなら親の勤務地がどこへ変わるかわからないのが現実ですから少なくとも日本国内だけだとは言っても親にとってはいい方策のように思えます。 以上の子供の居場所作りの話は公立小学校の場合ですが、公教育に対して不安を持ったり不満を持ったりする親は自分の子供を私立に通わせもします。二千七年一月十五日の朝日新聞夕刊には首都圏の中学生の六人に一人すなわち五万人(他の報道では五万七千人以上)が私立か国立の付属中学を受験すると言う予想を報じています。ゆとり教育による学力の低下を親が懸念してのことと私立学校が増えたことによるもののようです。バブル経済の末期には経済力のあることを示すための一つの選択肢として私立志向すなわち「お受験」がもてはやされはしましたが、私立が中高一貫教育によって受験実績を残してきていたところにゆとり教育による学力低下が問題とされたことでこの時点での私立志向が生まれたようです。バブル経済の崩壊時には親も経済的なゆとりを失い公立志向になりましたが、景気が幾分回復基調になり始めていることも追い風になっているのかも知れません。幼少期からの学習がそのまま自覚して勉強しなければならなくなる年齢にまで持続して行ければいいのですが、親の意向などで動かし易い年齢の時にガツガツ勉強させることによって子供が息切れしてしまうこともあります。教育関係の人の間ではそれを「よい子の息切れ」と呼んでいるようです。小学校、それも低学年のうちは友達同士や自然の中で遊んでいた子の方が先々伸びる場合もあります。千九百八十年から始められたゆとり教育の目的は「自ら学び自ら考える」で自ら学び自ら考えるこ自体は大人になってからも必要なことであろうと思います。社会人になっても自らテーマを見つけ考えて工夫をして行かなければならない問題がたくさんあるからです。そしてゆとり教育の目玉が教科の枠を超えた総合学習でしたが、学校教育の週休二日制などに伴って授業時間数が減り自ら学ぶことや自ら考えることの多くの時間が家庭に移り自学しなければならないような形になってしまい、目標そのものはよかったのですが成果をあまり上げられなかったと評価されたのかも知れません。自ら学ぶためにはテーマが必要ですし、自ら考えるにはヒントとなる知識が必要にもなります。自ら学び考えようとするにはたとえそれが些細なものでも何かのとっかかりがないとなかなか動き始めません。きっかけがあってそれに興味を子持てば子供でも独りでに学び始めますが、それらがなにもないところで小学生などに時間だけを与えてもなかなか理想は実現できません。しかしわずか五年でゆとり教育を見直さなければならなくなると言うのもあまりにも朝令暮改で一つの制度のもとで行われた事の事後検証が不十分な制度いじりばかりで教育現場は対応するだけでもバタバタにならざるを得ないことでしょう。制度いじりばかりで教育現場に落ち着きが無くなってしまっているかも知れないのです。二千七年五月十二日の読売新聞夕刊には読売新聞社の調査として千人の中学生へのアンケート結果が載っていますが、もっと授業時間を増やして欲しい科目として理科と英語が上位になっています。理科がトップになっていることの理由をベネッセ教育研究開発センターの研究員が「今の中学生は小学生の頃から総合学習で、生活に関連することを自分で調べる体験をしており、実験や観察がある理科に興味を持ちやすくなってきているのではないか」と分析しています。主要五科の中では国語が最下位数学が第四位ですが、これまでの総合学習には全く何も成果がなかったというわけではないようです。二千七年二月三日の朝日新聞夕刊には教育特区を利用して設立された株式会社立中学・高校が助成がないので経営が苦しい状態にあるとの記事が載りました。安倍首相の肝いりで始められた教育再生会議の座長である野依良治さんは「勉強の出来ない子が塾へ行くのはよいが普通以上の子供が塾へ行くことは禁止すべきだ」と述べて話題になりましたが、これまでもどこからも補助金をもらうことなく頑張っている塾は褒められてもいいとも思える状態です。一つの株式会社立の学園長は「赤字が無くなるのに五年ほどかかるだろう。それでもやるのは、もうそろばんじゃなくて夢」と語っていると記事にはありますが、塾の経営者の中にも同じ想いの人もいそうに思えてきます。公立学校の先生達でも「そろばん勘定ばかりしていたら教師なんかやっていける仕事ではない」と思っている教師は大勢いると思います。教育分野は誰がやってみてもそれほどガバガバ儲けられる産業分野ではなく、そして多くの教師は金儲けだけを最大の喜びとし生き甲斐にしている人々でもないようです。また教育分野は先生ばかりが儲けて見せさえすればそれでいいと言う分野でもないと思います。二千七年三月四日の朝日新聞の”家族”という連載記事に四十四才の教師の父親でやはり職業訓練校の教師だった人の挿話がありました。「教え子と熱心に向き合った。休みの日には自宅に招きカレーライスを振る舞った。電気店で働く卒業生に頼まれれば、懐具合も考えずに冷蔵庫や洗濯機を買った」これがその一部ですが、四十四才の方の父親であればかなりの年配者とも言え昔気質の教師像と言えばそういえなくもないにしても、また教師を取り巻く社会環境にも大きな変化が生まれていて(教師は社会的な信用を重んずるので詐欺行為をしても訴えることが少ないという理由で詐欺を行う人達のターゲットにもされ易いとも言われます。しかし「そうならそうで教師もそれなりの心構えを致しましょう」という自分たちにとっての社会環境の変化に対する自己防衛をし始めたとしてもおかしくないわけです。日本の証券会社などには金銭上のトラブルを処理するために顧問弁護士が雇われているようにアメリカの大学などには構内のトラブルや学生の成績評価を巡って裁判になることもあるようなので、大学には専属の弁護士が用意されていると言われます。日本の公立学校などに弁護士を常駐させておいたり教職退職者組合が選任の弁護士を用意しておかなければならなくなるような社会が理想であるのかどうかは日本人自身が判断すべきところです。生徒に体罰を与えたりいじめを放置するなど理不尽な扱いをした教師が親から法的に訴えられることがあるのと同じように、親などが学校に不当な要求をした場合には学校側も法的に対応する事も余儀なくされるのは当然とも言えるでしょう。そうなれば本来の教育目的の費用とは別の費用が別途必要になってもきます。訴訟に備えるための保険に加入している教師の数は増加の一途のようです。)現在の若い教師達にまねしろと言っても無理な面もあるのかも知れませんが、一つの教師の典型のようにも思えてきます。教育は人間の基盤を形作るものかも知れません。しかし教育にあまりに多額の費用がかかってしまえば教育を受けた人が生涯をかけて稼ぎ出す収入とくらべたとき損益がマイナスになってしまう場合も考えられます。それは誰が考えてもばかげたことだと思われることでしょう。日本でもベストセラーになった『金持ち父さん、貧乏父さん』も学校の教師で金儲けは下手だった著者の父親と金儲けの才がある友人の商店主の父親との比較を題材にして出来上がったという経緯のある本のようです。M&AやTOBを駆使し金融工学など投資に繋がる画期的な考え方も生み出し現代資本主義の権化のようにも思えるアメリカでも教師は金儲けからは縁遠い人種と言うことなのでしょう。「金儲けの出来ない教師なんて馬鹿よ!」と言う人も実際にいます。しかし教師達は職員室でいつも金の話ばかりをしていたり金にまつわる情報交換をしていると言うことではないのです。また授業の立案などを放っておいて株価や債権あるいは投資信託などの金融商品の予想話ばかりしていて許される人達でもないでしょう。また株や先物取引の本ばかり読んでいるわけでもないはずです。休み時間には生徒の相手をするより職員室から証券会社に電話を入れて株の売買の話ばかりしていたりあるいは個人のパソコンからだとはいえネット証券のページにアクセスして頻繁に株の売買のボタンをクリックしている教師はよい教師だと一般の父兄は評価してくれるのでしょうか?またそのような教師に自分の子どもの教育を任せたいと親は思うでしょうか?ですが一般のサラリーマンの多くは株取引をしていたりするわけですから教師だけがしてはならないという理由もないはずですし教師が世間を知る上でも株取引をしてもいいかも知れないのです。しかしそのような教師は教師の鏡ではないというのであれば『金持ち父さん、貧乏父さん』を読んだりする多くの日本人の目は金持ち父さんの方にだけ向くのかも知れませんが、貧乏父さんはなぜ貧乏だったのかもちょっと考えておくべきことのように思います。人間の才能は多種多様な分野にわたりますが、金に直接結びつくのは金融部門での才能といえるでしょう。しかし学校の教師は生徒の多種多様な才能を伸ばすことが仕事であり金融部門の才能だけを伸ばすことが仕事であったり使命であったりするわけでもありません。日本の大手銀行の支店長クラスになれば年収は二千万円ほどと言われます。これは日本の有名私立大学の教授の年俸に匹敵するもので日本の公立学校の校長の給与はそこまで届いているでしょうか?銀行の支店長クラスは四十代の人の場合もあるので、その年代の人の子供なら中・高生であることでしょう。二千六年時点では一万五千人を超えた学位としては最高の博士号取得者ですが、大学院の博士課程を修了し博士号を持った研究員で大学に研修生として残っているポストドクター(博士研究員)でも東京大学のように恵まれている場合でさえ年収は五百万円、条件の悪いポストドクターの場合には年収が三百万円台や無給の場合もあるとは二千七年五月のNHKの”クローズアップ現代”で報じられたことです。博士号をとるまでには三十才を超えている場合もよくあることですし(ポストドクターは三十五才以上が三十%だそうです)博士号取得者を一人誕生させるためには一億円ほどの費用がかけられると言われますが、これら学歴と経済面での日本の状況を見るならば所得の面だけからすれば相手がたとえ博士であったとしても馬鹿にしてかかることの出来る人もいるわけですから公立の小中高校の一般教員が父兄から見くびられることもありそうに思えます。巷で「経済学者がカネを持っているわけではないから・・」とカネがありさえすれば経済学の知識は不要と言わんばかりの言葉が出てくるのにも似ています。学生の応用力テストで世界のトップのフィンランドの場合は学校の教員全てが修士課程の修了者(現在の日本では修士号という呼び名ではなく博士課程前期と呼び、博士号は博士課程後期と呼ぶ方が一般的になっているようです)であるとは二千七年五月二十二日の国会質問に立った民主党議員の話です。それが事実であるとするなら「さもありなん」と思える話でもありました。修士号は博士号ほどには独自の画期的なアイデアや発見を生み出さなくても取得できますが、教科書をマスターするだけで済む学部の学士号取得者とは違って半分は研究者としての目も持っている人達です。日本では修士号の人でも大学で教鞭を執っている人も大勢います。知識の量も重要ですが必ずしも知識の量が多いか少ないかだけで決まらないのが大学院の修士や博士というものといえそうです。どの分野であれ既存の知識に新たな知識を付け加えたり既存の知識にない知識を発見したりあるいは既存の知識の中の未解決の問題を解決したりすることが出来るかどうかで判断されるからです。そのためには自分の頭を使って考えなければなりません。他人の頭が考え出したものばかりを拝借しているだけでは済まないレベルにまで到達している人達だからです。既存の知識にないものは何かを探し出すだけでもその領域のある程度のことを一通り知らなければならないのでそれ相応の知識量は必要になるというわけです。確かに博士号を持っている大学の教授にとっても非常な名誉とされるノーベル賞を受賞した日本の島津製作所の田中耕一さんは学士号だけで修士号も博士号も持たない研究者でした。またノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士も東大理学部を卒業しただけの学士号取得者として民間企業で研究を行いその成果が認められ東京大学から修士号を飛ばして直接博士号を授与された後でノーベル賞を受賞しました。それ以外には博士号がもらえるだけでいいと思って書いた博士論文でノーベル経済学賞を受賞してしまったアメリカの経済学者マーコビッツ氏などもいますが、それらは人が逸話として話題にするほどまれなものでもあるようです。高卒の学歴だけで東大教授になった安藤忠雄さんのような建築家も居ますし高卒の日本人女性で長年研究に従事して博士号を取得したとの記事も新聞で紹介されて読んだことがあります。日本でも博士号への道は誰にでも開かれているとはいえ学歴のハンデを克服するためには大変な苦労があったことでしょう。そして学士号しか持たない田中さんの場合でも研究者としての素養や素質そして努力がなかったならばノーベル賞は到底受賞できなかったことでしょう。そのような意味合いからみるとフィンランドの小・中・高校の一般教員が全て修士号取得者であると言うことはフィンランドの教育現場の教育を施す側のレベルは日本のそれよりも全体的に一ランク上のレベルにあると言ってもいいようです。また安倍首相が唱える「日本のどこにいても高い水準の学力を身につけさせる」ために将来的に日本の教員を全てフィンランドと同じく大学院修士課程修了者にするにしてもその実現にはかなりの時間がかかることでしょう。日本でも教職大学院が二千八年度から出来ますが大学で教鞭を執るのは全て博士号取得者で小・中・高校の教師は全て修士号取得者で埋めるというような状態の日本を実現するまでには予算面を含めいろいろな困難もありまた時間も相当かかると思えるのです。教職大学院よりも先に開設されている法科大学院は全国で四十七大学ですが教職大学院の数は二十一大学に絞られていると二千七年七月七日の読売新聞にあります。民間大手企業などでも大学院修士卒の初任給は大卒のそれよりも二千七年時点では二万円ほど高く(大卒初任給のほぼ一割り増しに)設定されているので修士課程卒の教員を増やす場合でも果たして都道府県や市町村は教育予算をその分増額できるかどうかと言うことにもなって来ます。あるいはそれが可能な地方自治体ばかりかどうかと言うことにもなります。それが可能にできないのなら大学院修士卒で教員免許を持っている人も産業界の方へ流れて教育分野には優秀な人材が入ってこないようなことにもなってしまいます。教育基本法を改正した安倍首相は「日本のどこでも高い教育が受けられる社会の実現」と言いますが、実際にそれを実現するためには長い準備期間が必要になり、法律を改正しただけであるいは教員免許を更新制にするだけでにわかにその目標が達成できることになるわけでもないように思います。私は大学院修士課程に三年ほど在籍し体調を崩し中退した者ですが私の経験では教員免許の取得試験は学部学生の間しか受けられず、院生になったら研究に専念すべしとして教員免許は院生になってからでは取得することが出来ない制度になっていました。従って私は大学院へ残ってから教師の道を考えたりもしたので教員免許を取得することが出来ませんでした。教員免許がなければ教員採用試験に応募することが出来ないのは当然ですが、教員を全て修士卒にするには大学院に残ってからでも教員資格の取得が可能となる道を用意した制度にする必要も生まれるかも知れません。二千七年八月十四日に乗ったJR上野ー我孫子間の列車の日本教育大学院大学の広告には、「大学院卒の先生の割合、日本9%、アメリカ59%」とありました。学校の教員達が少なくとも大学院修士課程卒になれば、修士課程は順調に終了すれば二年間なので医学部やあるいは制度変更で六年間になった薬学部とほぼ同じ学業年数となり弁護士などとも同じくらいの養成年数なので教員の社会的なステータスも今よりも高くなることでしょう。教育現場の教師達や大学の教員達のレベル全体がアップすれば日本の政治家達の発想もこれまでのままではいられなくなる部分も出てくるのではないでしょうか。社会全体の教養が向上すれば政治家へのレベルアップも要求されてくるからです。ですが教員のほとんどが大学院修士課程卒になるには大学院進学率が今よりももっと増えなければならないでしょう。大学院へ行った人が全て教員になるわけでもなく産業界へ就職する人も多いことを考えれば日本の大学院進学率が20%〜30%くらいにならないとかなりの数の教員が大学院卒という条件を実現できないかも知れません。数字で見る限りでは現在は少数の大学院卒を高学歴の人間だとからかい半分ではやし立てて済ませて喜こんでいられるだけの日本の現状と海外先進諸国との落差は大きいと言えそうです。日本国内だけでならそれで済みますが海外の先進国あるいは教育先進国へ出たら全く通用しない条件的違いがありそうです。なぜなら日本では大学院卒は少数派ではあっても先進諸外国の教員の世界では高学歴とされる大学院卒の人はもはや少数派などではないと言えるからです。日本と教育面で上を行くそれらの国との落差を日本人は笑ってすませることも出来ないでしょう。アメリカと日本との教員のデータを見比べただけでも教育分野の人的資源の厚みは雲泥の差と言えそうです。フィンランドの人口は七百二十八万人と東京都よりも総人口が少ないので日本よりも国家的な意志決定をはかりやすいという面もあり国が教育に力を入れる場合には国民的な合意を取り付けるための話が速く決められると言うことにもなるでしょう。しかし日本よりも人口の多いアメリカと比べても日本の教育現場の水準は見劣りするのです。安倍内閣の教育再生で「再生と言うからにはこれまでの教育は死にかかっていると言うことだ」との意見もありますが、日本はこれまで教育分野の条件整備や環境整備また教師の水準の向上策を政策的に図ろうとせずあまりにもないがしろにしてきたために、すなわち教師を政治家の手足にしようとはしても教育分野あるいは教育現場を大切にしようとしてこなかったことにより先進諸外国と比較したときに大きく立ち後れ見劣りする環境になってしまっていたと言うことのようです。例え親が教育熱心でも教師の育成の手を抜いてしまえばどうにもならないとも言えるでしょう。これからの教育制度改革の中で学士卒の現職の教員でも将来的に大学院でより高いレベルへの再教育をして大学院卒の教員として現場復帰できるような制度的準備が出来るのでしょうか。十年ごとの教員免許更新の機会に単に免許を更新するだけでなく学士の教員は修士号の学位を取得できるよう研修制度にしてもいいのではとも思います。教員免許の更新制というものが制度を利用した教師のフィルタリングになってしまうようではだめだと思います。教員の全てが大学院卒といわれるフィンランドは企業雇用者千人当たりの研究員の数は世界のトップで15.5人、そして教員の59%が大学院卒といわれるアメリカのそれは三位の日本とほぼ同じ12人ほどです。アメリカと日本とでは教員に占める大学院卒の割合には開きがあり企業雇用の研究者の人数はトントンではありますが、それは二千四年時点での数字で二千年時点ではアメリカは十一人に対し日本は十人程度だったのです。教員の学歴が高い国ほど企業雇用者に占める研究者の数は多いと言えそうです。そして金儲けそれ自体を主目的とする学校運営が可能になるかどうかは株式会社であれ学校法人であれ独立行政法人であれ、どのような形態であっても試してみてもらえるとわかって来ることなのかも知れません。金儲けそれ自体が目的のどこかの投資ファンドが短期的な利益を求めて株式会社立の学校の株を買い占めて経営陣を送り込み株主のために企業価値を高めさせようとしても、果たしてその学校から優秀な人材を多数世に送り出せるかどうかは別のことだろうと思います。優秀で有能な人材や有意の人達を輩出できなければ学校としての評価は上がらず株主にとっての企業価値も生まれ出ないからです。少なくともファンドが買い占めた学校の中学生や高校生の中から将来優秀なファンドマネージャーになるような人を多数生み出せるようになるかどうかと言うことにもなってきます。それらの人材をうまく生み出せたとしても生み出すまでには六年どころでは済まない年数がかかるわけです。モノ作りなら高い特許料を払えば相手と同じモノを作ることも出来るのでしょうが、十歳の子供に年間二千万円の教育費を投ずれば次の年にはその子供は二十歳になっていると言う訳には行かないのが教育だからです。ファンドが学校の株式を買い占めてみてもそれで優秀なファンドマネージャーが生み出せなかったら投資ファンドのメンツが立たないというものです。ファンドとてファンドの資金の出資者から高い利益を出すように要求されているわけですが、教育分野に手を出してそれがうまく行くかどうかです。世界有数の大学であるアメリカのハーバード大学は私立大学で著名人や大金持ちなどアメリカ社会に大きな影響力を持つ人々を多数輩出し、それら社会に出て大きな成功を収めた卒業生達からの多額の寄付金で支えられている部分もあります。ハーバード大学の授業料が世界一高いからハーバード大学が世界で名だたる名門大学になっているというわけでもないようです(ちなみに二千十四年四月二十二日のNHK衛星放送の”CNNスチューデントニュース”では、アメリカの公立大学の学費の平均は九千ドル、私立大学のそれは三万ドルだそうです)。すなわちアメリカのハーバード大学は必ずしも市場原理だけで運営されているというわけではないわけです。ハーバード大学そのものが創立者が自分の蔵書を全て寄贈して作られたという経緯もあるくらいです。アメリカでの個人の寄付の総額は二十二兆九千九百二十億円。一方日本の個人の寄付は二千百八十九億円でしかありません。これは二千七年三月二十九日の朝日新聞朝刊に載ったグラフからのものですが、アメリカでは個人の寄付が圧倒的に高く、法人はアメリカでは一兆五千二百五十五億円、日本は五千九十二億円です。法人の方はアメリカと日本との人口あるいは経済規模の差に幾分近い値を反映したアメリカは日本の二倍〜三倍ほどのものとも言えますが、個人の場面では日本の二〜三倍どころか百倍以上にも上ります。それらの寄付はキリスト教の教会をはじめとする慈善団体ばかりでなくUNICEFやUNHCRそしてWFPなどの国連機関あるいはその他のNPOやNGOなど様々な分野にたいして行われるのでしょうがその中には学校などの教育分野も当然含まれているはずです。アメリカの寄付社会の一端を示した記事が以前新聞に載っていましたが、ハンバーガーチェーンのマクドナルドが行った懸賞の当たりくじを貧困層が多く住む地域の学校へ匿名で郵送した人がいたそうです。マクドナルドの規定ではくじは他人に譲渡できないとされていたそうですが、この場合に限って喜んで賞金を払うとの決定を下したと言うことでした。億を優に超える賞金がもらえる当たりくじを寄付した人も、また事情を考慮してその賞金を規定にこだわらずに支払うことを決めたマクドナルドも両方とも褒められるべきもののように私には思えてきます。アメリカには個人で私財を提供して基金を作る人も大勢います。日本以上に経済的な格差が存在しているとも言われるアメリカ社会には、それを是正するシステムあるいは日本は贈答文化と言われるようにアメリカには寄付文化と言ってもいいものが用意されていると言っていいのでしょう。贈答文化は目下の人が目上の人に持ってゆく場合が多いですが、寄付の文化はその流れは逆のものといえるでしょう。すなわち市場原理一辺倒で社会の全てが動いているわけではないのがアメリカといえそうです。日本の場合は年間の寄付金の総額は七千億円であるのに対しアメリカは二十二兆円だと二千十年三月三十一日のNHKクローズアップ現代で同様な報道がされています。また二千十年八月上旬のテレビニュースでは米著名投資家ウォーレン・バフェット氏がアメリカの富豪の上位四百人に自分の個人資産の半分を寄付するようにとの呼びかけ八十人に直接電話して四十人から賛同の意を得たとされ、その中にはマイクロソフトのビル・ゲイツ氏などそうそうたる富豪が含まれ四百人全員が応じることになればその寄付総額は日本円で五十六兆円になる見込みと報じられました。アメリカの場合は寄付したときには税制面での優遇措置があるので一概に日本とは比較できないとは言っても、それにしてもアメリカの富豪達が自分の個人資産の半分を寄付に回すということは日本のおおかたの人間からすれば驚くべきことです。またそれが実現した場合にはこれはアメリカの年間の国防費五十三兆円を超えるものですし日本の年間の国家予算の一般会計の六割にも迫るものです。これがどのように運用され何に使われるのかはわかりませんが非常に巨額であることは事実です。また、二千十一年一月十五日のNHKの午後七時のニュースでは個人の寄付金額の総額はアメリカが十九兆円、イギリスが一兆三千億円、日本のそれは五千億円とされています。どのような社会であれあまりにも金持ちと貧乏人との格差が大きくなったままでは社会の底辺にいる人達には不満が鬱積してしまい社会が不安定になってしまいます。市場原理で動いている社会だとは言っても、その社会が持っている欠陥を補う機構が社会の中に組み込まれているのがアメリカのようです。そのような装置が社会に組み込まれないまま日本社会がアメリカと同じような市場原理のエンジンだけを吹かして格差社会になればこれはあまりに悲劇的なことといえます。アメリカは市場原理と寄付文化の二本の足で立っていますが日本は経済社会も教育分野にも競争社会の市場原理を導入しようとしていて、市場原理だけの一本足で立とうとする不安定さがあります。公立の学校で頑張った教師にはそれなりの給与面での優遇をする案にしても、優遇するための資金の手当てを別途用意するというわけでなく予算の枠は従来のままにした中でそのような方式を導入すればそれは「誰かの利益は誰かの損失」というゼロ・サムゲームになってしまいます。そうなるとそれでなくとも教員は担任制でお山の大将になりがちだと批判されたりするのですから教員間の連携や協力関係がこれまで以上に円滑に行かなくなることも考えられます。企業ならば社員が頑張れば売り上げの増加に繋がり企業収益が増えるので増えた収益の中から成果主義で給与面で配分も出来ますが公教育の場面では教師が頑張って質の高い教育を施し学生の質を高めても教育予算全体が増額されるとは限らないので企業の場合のようにはなりません。企業は四半期ごとにでも収益を発表できますが教育の場面では教師達が頑張って優秀な生徒が増えてそれらの人が社会人となって企業収益を上げ行政に多くの税金が入るようになってからでしか教師の頑張りは予算の面では評価されないのです。公務員給与は民間の給与水準を参考にして決定されているからです。すなわち教師に対する評価は教え子達が社会に出て活躍するようになるまでの長いタイムラグがあるというわけです。それまでは教師達の社会的な評価は出ないのです。また校長が誰が頑張った教師かを評価するにしても、同僚の教師達の誰もが「もっとも」と納得して認めるような評価にならなければ職場の雰囲気が悪くなってしまうこともあることでしょう。校長や教育制度改革で新設が決まった副校長などへのごますりのうまい教師だけが評価されるようにはならないようにしなければならないはずです。少子化によって生徒数が減少しても教師の数は減らさないとか教育予算を減額しないというのであれば実質的に教師の待遇は改善されたことになり雑用に追われる教師達にも少しは余裕が生まれて生徒に対しても目が行き届くようになるでしょう。しかしそうでない場合は教師達が頑張って優秀な生徒を多数生み出したり、学力が最低と評価されていた学校を建て直して見せたりした時、それらの卒業生達から学校に寄付などの協力が得られるのなら教師達がお互いにゼロ・サムゲームに陥ることもないはずです。日本の教師達が授業以外のことに多くの時間を割いて多忙である様子は二千七年六月九日の読売新聞夕刊に載った日教組が各国の教職員組合に依頼して行った調査結果からも分かります。その記事では日本、韓国、米国、英国、フランス、ドイツ、フィンランドの七カ国の小・中・高校の先生が調査の対象とされていますが、部活動やクラブ活動などの授業以外の十八業務の中でどの位を教師達が担っているのかという調査内容では、日本は11.1、韓国9.3、ドイツ7.8、英国5.3、米国5.0、フィンランド4.9、フランス3.4だそうです。これでは日本の教師達はどんな授業を行うかの企業で言えば企画書とも言える授業の教案を作るのにも時間的に余裕がなく大変であり、自宅には持ち帰ってはならないことになっている教案作成や生徒の成績評価を自宅でやらなければならないことにもなってくるでしょう。そのため自動車の中などから生徒の個人情報が入ったパソコンが持ち去られてしまうなどの事件も起きてくるのかとも思います。学生の応用力テストで世界のトップを行くフィンランドの教師の場合は授業と親との意思疎通が主なようです。日本の教師はあまりにも多くの役割を押しつけられすぎているとも言えそうです。そしてアメリカではカネがある人はカネがある人なりの行動をとるとも言えそうなのに、日本ではカネがあってもそれなりの行動を個人が取ろうとしていないと言うことになっているからです。外車に乗っていながら自分の子供の給食費を払おうとしないような親が学校に寄付をしようなどとは到底考えたりはしないことでしょう。給食費の催促をしたり集金に親の元まで教師が訪ねていったりするだけでも教師には大きな負担になってきます。また寄付と言ってもそれとても名門学校とそうでない学校では差が付きかねません。日本は個人一人あたりの豊かさでは世界で最高と言われますが、金持ちの日本人は「自分たちは社会の中で利益を得させてもらっているのだから、利益の一部は社会へ還元しよう」という話にはならず「自分で稼いだカネなのに何で寄付なんかしなけりゃならないのか?」と言う論理になってしまい同じ金持ちとは言ってもアメリカとくらべたとき社会に対して大した志も持っていない程度の低い金持ちと言われても仕方ないことになってしまうのです。市場原理の社会で成功した者はなにをすべきかをアメリカの金持ちは知っているようです。「儲けるだけ儲けてそれで終わり」あるいは「儲けてカネがあることをこれ見よがしにひけらかして見せるだけで終わり」にしないところがアメリカの金持ちの金持ちたる所以といえるでしょう。日本も市場原理の社会になるなら市場原理の社会での勝者は何をなすべきかを考えるべきなのではないでしょうか。勝者になりさえすればそれだけで済むはずのものでもないでしょう。私は金儲けが悪だとは思っていません。法に違反せず不当な要求を消費者にすることもなくまた社会を大混乱に陥れることもなく利益を上げるのであれば大いに儲けてもらってもいいと思っています。商才のある人や投資の能力がある人はその才能を大いに発揮してくれていいのです。私自身ももし儲けられるのなら儲けてみたいなとも思います。しかしなかなか思うに任せず私には金儲けは簡単なことではないと言うことは十分自覚しています。したがってカネを儲けて財をなす人はそれなりの才能がある人だろうとは認めているのです。人と同じ着眼点では人より多く儲けることも出来ないからですし人より先に物事に着眼しておかなければ大きな利益にも繋がらないだろうからです。ですが儲けた人は、儲けたら儲けたなりに金儲け以外にもしなければならないことが出来てくるのが人間の社会というものだろうとも思います。そしてそのような振る舞いも社会の中ですべきだろうというのが私の考えです。アメリカのヘッジファンドのジョージ・ソロスはオープン・ソサエテイ財団を作って旧ソ連に対する支援の基金を準備してもアメリカ国民からは偽善だと批判もされます。ヘビー級のチャンピオンだったムハマド・アリも現役の時にベトナム戦争の徴兵を拒否して「俺は爆撃機を何機買えるだけの税金を払っている」と言ったところインタビュアーからは「そのオカネは観客から得たものだろ」と反論もされました。アリはイスラム社会に寄付もし、チャンピオンへの復帰戦であるアフリカでのキンシャサの戦いにおいてはファイトマネーで現地に病院を建てると言って試合に臨んだりしました。病になったあとには基金を作ったりもしています。世界で最も富豪とされるマイクロソフトのビル・ゲイツ氏もゲイツ基金を作って国際的に活動してもいます。二千七年のダボス会議でビル・ゲイツ氏は大気中の二酸化炭素を減らす技術を考え出した人に三十億円を与えると述べたりしています。世界を相手に金儲けをした人たちは世界が抱える問題に対して儲けた自分のカネの一部を割いて財団などを通じて個人で活動もしているわけです。日本にも「俺はこれだけ儲けた」という人は沢山います。しかし「儲けたカネでこれこれの社会貢献をしている」と述べる人は少数です。また本当の大金持ちともなれば自分は何も言わなくても周りの人が「あの人はこんな活動もしているらしい」と話題にします。カネを儲けた人に対する人々の目はカネを儲ければ儲けるほど、またそうすることで社会への影響力が大きくなればなるほどそれだけ厳しくなることはカネを儲けた人自身が十分考えておくべきことでしょう。またカネを儲ければ儲けるほど金儲け以外にやらなければならないことが増えるとの覚悟も必要でしょう。日本でもノーベル賞を受賞した小柴さんは六千万円の個人資産を投じて理科教育の財団を作っていますが、日本の産業界の方達の中からももっと多くのそのような行動をとる人が出てきてくるといいと思います。しかしアメリカ社会は名だたる富豪達が少々カネを出したくらいでは埋め合わせることが出来ないほどの(10%の人が富の70%を所有する)格差社会になってしまっています。テレビのインタビュー番組に出演していたソロス氏は「私の立場は微妙だ。共産主義圏に行けば市場の利点を重視しろと言うし、アメリカのように市場への依存が行き過ぎたところでは市場原理が全ての問題を解決できると思うべきではない。政府の役割が重要だと言う」と述べていました。巨額の資金を動かし自らも大金持ちになったジョージ・ソロス氏は「カール・ポパーから大きな影響を受けた」としていますが、彼が導き出した経済社会観の結論はどうもサミュエルソンの混合経済のようなイメージが私には感じられて来ます。またソロス氏は「貧富の格差があまりにも大きくなった社会はどこかが間違っていると思うべきだ」とも述べています。ある個人が大金持ちになることはその個人にとっては成功であってもその社会に大きな貧富が存在しているのなら、それは失敗した社会として考えられるものになると言えそうです。企業経営モデルとしては沢山の成功例があったとしても社会モデルとしては失敗なのです。経済のメカニズムや制度に何らかの欠陥があると考えるべきだからです。二千七年十一月十六日には大磯町在住の横溝千鶴子さんが生まれ故郷である南足柄市へ十億円を現金で寄付するというニュースが各テレビで流されました。教育と有益な人材の育成に使ってほしいとの意向で、四十八歳の時に八十八歳になったら十億円を寄付するという志を立てて四十年をかけて会社経営をしながら節約に心がけた生活をして貯めたお金を八十八歳の誕生日に寄付することになったと言うことでした。これほど豪華な米寿の祝い方には私は驚くばかりです。南足柄市は奨学金などに使わせてもらうという方針のようですが、横溝さんはそれ以前の八十歳の時にも地元の大磯町へ五億円を寄付したりされているとニュースでは伝えています。ご本人としては十分満足のいく人生といえる大変幸せな方と私には思えてしまいます。指輪は二つしか持っていないとのことでケチむところはケチみ出すところには出すという見事な生き方だと思えます。しかしそれだけでは終わらず、これからは優秀な教師の養成塾を作る目標もお持ちのようです。まさに地域の篤志家と呼べる方も日本にはいたとも思います。 ハーバードなどの大学は高等教育の問題ですが、初等教育である小学生の勉強に対する姿勢などの比較調査の結果が各メデイアに載りました。東京、北京、ソウルの小学四年〜六年生を対象にした調査ですが、二千七年三月八日の朝日新聞に載ったその記事では「将来のためにも、今、頑張りたい」「勉強の出来る子になりたい」と答えた子供が北京とソウルともに八割なのに対し東京は四割。「よく勉強すれば、将来いい仕事がある」とか「先生の言うことをよく聞きなさい」と親から言われている子供の割合は東京は北京やソウルの半分以下だったとされます。日本では勉強すればいい仕事に就けるとは必ずしも言えないと言う時代の中での親の迷いが子供の教育への迷いになっているのか、勉強してもたどり着けるのはせいぜいこんなところでしかないと親自身が自分の限界を悟ってしまっていて勉強したから自分はここまでの存在になれていると子供に自分を示してみせることができなくなっているからなのか、あるいは親の方が教師と同じくらいの学歴や所得はあると言うことで学校を軽視しているのか、いじめ問題などと関連して親の学校への不信感がそうさせているのか、それとも親が学ぶことを通じての将来的な展望を子供に示したり語ったりできなくなってしまったからなのかなど、日本の親の子育てと中国や韓国の親の子育てとではかなりの違いがあるようです。いじめ問題などで学校の隠蔽体質も問題にはされますが、問題を隠蔽しようとするのは学校ばかりでなく企業組織も官僚組織も政治家にもあることなので、それは学校固有の問題と言うよりも日本の社会全体の問題とも言えそうです。また上のような日本の状況では、例え学校の教師がいじめを察知しても生徒にいじめを止めるように指導したところで子供は「先生の言うことは聞くように」と親から日頃言われてもいないので教師の言う事などは聞かずいじめが収まるわけもないことでしょう。いじめを止められない教師は「指導力不足」とされるわけです。そしてここでは調査がなされていないインドの首都ニューデリーでも同様の調査を行ったらどんな結果が出るのかは興味のあるところです。インドの職業別階層の身分制度であるカースト制度に風穴を開けたのはインドに進出したアメリカのIT企業のようです。どのようなカーストに属していても数学の能力に秀でた人材をIT企業が採用したからでした。インドでの階層移行を可能にしたのはIT産業の登場であり数学の能力だったのです。そのためインドの若者達は恵まれない学習環境の中でも数学に必死で取り組んだりしています。また日本で働いているインド人のIT技術者の数は二千七年時点で三十七万人になっているそうです。確かにインドのIT産業の雇用者数は千二百百万人ほどと言うことなのでインドの人口規模が十一億人であることを考えれば雇用の受け皿としてはIT産業だけで事足りる訳はありません。製造業が不可欠になりまたサービス産業も必要になることでしょう。インフラ整備もまだまだ不十分なところもあるかもしれませんし何より電力不足も解消しなければならないかもしれません。しかしインドには学ぼうとする熱意と学ぶことの夢がありそうです。その一方日本では日本人の平均的な経済水準がたとえ世界最高水準にあったとしても、教育面では描くべき目標が見つけられなくなってしまっているようです。このような状態が長く続けば世界はおろかアジアにおいても日本はいずれこれまで程の影響力を保持し切れなくなることでしょう。確かに上の比較調査はいずれも日本、中国、韓国の首都を対象にした調査で地方を対象に調査をすればまた違った結果も出るのかも知れませんが、日本の状況と日本を追い上げようとするアジアの国々との有り様を象徴しているようにも思えます。「なんだかんだ言っても日本はそれでもいい方だ」といつまで言っていられるか一抹の不安が残ります。故人となった作家開高健氏は「人間は外から来る危機には対処できるが自分の心の中からくる危機には対処しにくく手がつけられない」と語っていましたが、現在の日本人にとってはそれが当てはまるような感じもしてきます。二千七年のアメリカの雑誌『フォーブズ』では、十億ドル以上の資産を持つ世界の長者番付では三億人の貧困層を抱えていると言われてはいても七億人の中間層を持ち三十六人の長者を生んだインドに抜かれ日本はアジアのトップを譲り、「日本はもはやアジアの長者スポットではなくなった」と評価されたと言われます。世界の長者数は九百四十六人、そのうちアメリカが四百十五人、インドの長者数三十六人、日本は二十四人、中国は二十人とすでに日本のかつての地位は揺らぎ始めてしまっています。六十人を超えてアメリカに次いで長者数が多いのは石油のビジネスなどに関連して台頭したロシアだと言われます。確かにロシアもインドもまた中国も貧富の格差などの深刻な社会問題を抱えている国だとは言っても、ただそれだけで日本人はそれらの国々を見くびることも甘く見ることもましてや馬鹿にしてかかることも到底出来なくなりつつあります。明治期の近代化でアジアで初の近代国家になった日本ではあったとしても、また戦後「奇跡の復興」と呼ばれるほどに急速に経済発展し世界第二位の経済大国にまでのし上がった日本であったとしてもそれはすでに過去の栄光になりつつあります。二千七年七月八日の読売新聞朝刊には米証券会社メリルリンチの発表として百万ドル以上の富裕層が世界では8.3%増え九百五十万人に達し日本の富裕層は景気拡大で前年比5.1%増の百四十七万人とアメリカに次いで第二位とありますが、上のフォーブズの記事と比較すると日本は小金持ちが多いと言うことになりそうです。一日一ドル以下で生活している貧困層がアジアには七億人いると言われていても勉強や学問でも金儲けでも日本はアメリカに追いつき追い越せどころかある部分ではアジアに追い抜かれつつあるわけです。日本はもはやアジアの雄ではなくなりつつあると言ってもいいでしょう。そのような状況に対する条件反射として日本は逆に強がって見せようとするのかも知れません。ですが強がってみせる暇があったらどの分野であれ巻き返しを図ろうとするのならそのための地道な努力と研鑽をした方が身のためとも言えそうです。 しかしかつてほどの輝きを失いかけつつある日本のようにも見えますが、日本の社会において教育が普及することによって変わってきていた面もあるようです。その最も顕著なものが高校進学率の変化と十才から十九才十万人あたりの殺人検挙少年人数の推移です。その年代の殺人検挙少年の数が最も多かった年は千九百四十六年以降では千九百五十一年で十万人あたりで二・五人です。その時点での高校進学率は四十%程でしかありませんでした。しかし高校進学率は千九百七十年代にまでかけて急速に上昇し七十年頃には九十%程にまで達しています。それにつれて殺人検挙少年人数の方は減少傾向をたどり七十一年時点では十万人あたり一人、千九百八十年で最低を記録し0.25人まで低下しました。その後は九十年以降幾分の上昇がありますがそれでも一人以下の水準で推移しています。殺人検挙少年の減少は凶悪犯の検挙率が低下してきていることに起因するとばかりは言えないことだろうと思います。殺人検挙少年の人口割合が低下したことと高校教育の一般化との間に因果関係があるのかどうかを論証することは難しいかも知れませんが、データだけでの比較では面白いもののように思えます。このデータは『早稲田学報』二千七年六月号の[データで見る教育格差:西原博史]からのものです。確かにテレビニュースなどでは高校生が母親を殺し首や腕を切断しばらばらにしようとしたりするショッキングな話も報じられては来ますが、殺人を実行する少年の人口比は実際には減少してきたのが事実と言えそうです。このデータを示すグラフは千九百四十六年から二千四年までですが、その間に日本経済は戦後のどさくさの時期から高度経済成長期を経て千九百六十九年には世界第二位の経済大国となり、七十年代の二度のオイルショック、八十年代の円高不況と八十年代末のバブル経済から九十年代初頭におけるその崩壊、その後の失われた十年と言われる経済低迷のデフレ時代を経験してきました。しかし失われた十年と言われる日本経済が大きな落ち込みを経験していた時期においてすら殺人検挙少年の十万人あたりの数は四十年代、五十年代そして六十年代のそれよりも遙かに低い水準で推移してきたと言えます。安倍内閣では教育基本法が改正され安倍首相は高い規範意識を求めるようにもなりました。ですが安倍内閣が戦後レジームからの脱却を唱えているとは言っても戦後と言われる時代の中ですでに若者達の最低限の規範意識を身につけるための準備は十分されてきていたことはこの殺人検挙少年の人数の人口比の低下から伺えると言っていいでしょう。少なくとも凶悪犯や粗暴犯は減少してきていると言えるでしょうが、その反面知能犯は増えているのかも知れません。知能犯が大人になっても犯罪を行うとすればそれは経済犯罪に走ると言えそうです。戦後レジームから脱却するという安倍首相の提唱する高い規範意識も戦後と言う時代の中で構築されてきていた規範意識の上に築かれると言えそうです。日本が本当に戦後レジームから脱却するのはまた嫌でも脱却を強いられざるを得なくなるのは、中国やインドが経済規模で日本を追い抜くあるいは中国がアメリカをも経済規模で追い抜く時点においてのことのように私には思えます。すなわち戦後と言われる時代に日本が勝ち得てきた世界の中での地位を日本が失うときに日本の戦後レジームは日本人の意識の面を含めて名実ともに変更されるのだろうと思います。その時になって日本の戦後レジームは本当に終焉すると言えるでしょう。そしてそれはそれほど遠い未来のことではなさそうです。日本が戦後レジームから脱却して新しい時代に向かうにしてもそれが戦前の日本に回帰する姿であるなら日本を取り巻く国際環境はその時点では戦後ともましてや戦前とも大きく異なってしまった世界になっていることだろうと言うことです。皮肉な言い方をすれば二千七年七月二十九日に行われた夏の参議院選挙で安倍首相率いる自民党が大敗しその結果それまで五十年にもわたって自民党がずっと独占してきていた参議院議長の座が初めて自民党ではない民主党に移ったのは国内の戦後レジームの一つは変更されたとも言えそうです。 国際環境も大きく変化を起こしていますが、日本国内の教育事情も文科省が学校の苦情対応を外部に発注する方策の試験的試みを行う方針を打ち出したと二千七年七月二十一日の読売新聞の一面に出ました。理不尽な親の要求に対応するため教師が疲弊したり授業に支障が出ている現実を踏まえてのものですが、トラブルの処理に弁護士なども活用するようです。また訴訟になった場合などに備える訴訟保険に加入する教師の数は東京都の場合二千年時点では千人程度だったものが二千七年度には二万人以上にまで増えています。これは二千七年七月二十四日の読売新聞夕刊に載ったいるわけですが、これまでは教育は教師と生徒そして保護者との信頼関係に基づいて行われると信じられていたものが崩れ抗議や訴訟が引き起こされる事態に教師自身も信頼関係だけに依存して無防備ではいられなくなり自己防衛せざるを得ない時代を迎えたことを表しているとも言えそうです。教師という職業そのものに対する社会的な評価の低下すなわち社会の中での教師のステータスの低下が起きてきていたことも関連していると言えるでしょう。教師を巡る社会的な条件があまりに悪化すれば教員免許を持ってはいても優秀な人材は他の道を選ぶことも十分出来る能力がある訳なので教職を捨てて民間企業の方へ就職することを選ぶかも知れません。それでは教師の質そのものが維持出来なくなる事態が生まれて来ます。二千七年七月二十四日のNHKクローズアップ現代の「求む”若手教員”」では団塊の世代の教員の大量退職に伴い若手教員の採用を増やさざるを得ない東京都の教員採用試験の倍率は三倍に届かず青森県の教員採用試験の倍率は少子化の影響で二十七倍と極端な地域格差があるとされます。公立学校の教員採用倍率の地域間格差は最大で二十倍を超えるそうです。ふくれあがる人口の大都市圏と人口減少を経験している地方とのひずみが現れていますし、東京のように三倍以下での競争倍率では良質な教員の確保は困難だとされます。東京などでは教員免許を持っていても優秀な人はそれ以外にも多くの選択肢が与えられている場所なので、日の丸・君が代などで教育委員会に強く締め付けられたりあるいは保護者からこづき回されたりする条件の悪い立場に置かれた教員の道をあえて選ぶ必要のない人もいることでしょう。そのような意味では大都市圏は人的な部分で教育環境が整っていないとも言えそうですし競争倍率の高い地方の方が厳しい選抜によって良質な教員を確保できるとも言えますが、少子化に見舞われて採用枠を狭めている地方で教職に就く道がない人は大都市圏へ出てこざるを得ません。したがって大都市圏は全ての面で恵まれた条件にあるというわけでもなく、また地方も恵まれているわけでもないのが教育における日本の現状のように思えます。これは神奈川県だけの数字ですが、二千七年度の県内の高校生の大学進学率は51%と過去最高になったと八月三日の読売新聞朝刊にあります。短大の進学率は減ったが四年制大学が増えたそうです。七十〜八十年代は30%〜40%で推移していたものが団塊ジュニアが大学受験を迎えた八十九年頃には高校生の人口増加に伴い24%と過去最低になりその後は少子化の影響で進学率が上昇してきていたとのことです。県の調査は七十二年度から開始されてきていたとも書かれています。神奈川県も人口増加が起きている自治体ですが増加分の半数は横浜市で起きていますから、横浜市の教員確保と教育の質の確保は大変かも知れません。神奈川県も東京都の都立高校の復権に倣って二千七年五月に学力向上進学重点校を十校指定しましたが、そのうちの四校は横浜市です。しかもそれ以外の指定校も県の東京湾と相模湾沿岸部の市町村にあり秦野・厚木・津久井などの県央には指定校が一校もありません。神奈川県の大学進学率が伸びたと言っても果たしてどれだけの学力を身につけて大学へ入学できているのかが問われるところです。神奈川県にとっての横浜市は言ってみれば日本にとっての東京都のような存在で他の多くの地域から見れば別世界といえます。ちなみに二千七年度での給与所得は松沢神奈川県知事二千百六十七万円よりも中田横浜市長の給与所得の方が二千四百九万円と多いのです。また、二千七年八月十日の読売新聞には文部科学省の学校基本調査の結果として二千七年春に大学・短大へ進学した割合が51.2%と初めて五割を超えたとあります。男子の進学率が49.9%、女子の進学率が52.5%だったそうです。都道府県別では京都府が63.0%で最も高く、次が東京都の61.4%だそうです。これからすれば神奈川県は全国平均と言えそうです。そして大学全入時代の始まりの年とはいえ全入からはまだまだ遠いと言えそうです。 しかしそれでも日本の大学進学率は日本の歴史上これまでにないほど高い水準に達していると言えるでしょう。大学という高等教育が一般化すればこれまで以上に種々雑多な学生が大学生となるわけで大学を卒業して殊に伴う学力が備わった人が卒業してくるかどうかが問われてきます。そのため中央教育審議会は「大学卒業までに学生が最低限身につけなければならない能力を[学士力](仮称)と定義し、国として具体的に示す素案をまとめた」と二千七年九月十日の読売新聞夕刊で紹介されました。それによると「学士力」の主な内容は【知識】▽異文化の理解:外国などの文化を理解する▽社会情勢や自然、文化への理解:人類の文化や社会情勢などを理解する【技能】▽コミュニケーション能力:日本語、特定の外国語で読み、書き、聞き、話すことが出来る▽情報活用能力:インターネットなどの多様な情報を適切に使い、活用できる▽論理的思考力:情報や知識を分析し、表現できる【態度】チームワーク、リーダーシップ:他者と協力して行動したり、目標実現のために方向性を示せる▽倫理観:自分の良心や社会のルールに従って、行動できる▽生涯学習力:卒業後も自ら学習できる【創造的思考力】知識、技能、態度を総合的に活用し、問題を解決することが出来る。以上が「学士力」とされるものだそうです。私自身も自らの身に照らし合わせて「自分はどうだろうか??」などと考えてしまいますが、学生時代に自分の良心に従ったがために学生運動に傾いていた私はどちらかというと日本のおおかたのルールにはそぐわない経験もしました。また日本人の半数すなわち二人に一人がこれからは大学卒の人が占めるような社会が到来すると予想される中で、社会の半数の人がリーダーシップを発揮しようとして「俺が、俺が」になったら、九人のメンバーの野球チームにキャプテンが四人も五人もいるようなものでまとまらなくなってしまうこともあるとも言えそうです。また生涯学習力はいわゆる学齢期よりもその後の社会人の期間の方が遙かに長い時間なので非常に重要になると思いますが、ではどうやって大学在学中にそれを判断 し評価できるのかという難しさがあると思います。そしてこのような学士力を打ち出すことは、これまで日本は受験は大変だったが入学してしまえば卒業するのは楽と言われた傾向を入学するのは簡単でも卒業するのは大変なアメリカ型へと方針を変更するのかも知れません。大学全入時代を迎えて誰でもが大学生になれる条件が生まれたがために大学卒という肩書きのレベルを保つための方法と言えるでしょう。大学卒と言うことは何の意味も持たないものになっているという産業界の評価もそれに影響しているのかも知れません。これまでもどこの大学を出たかは判断材料にされても大学で何を学んだかはあまり就職する上で問われてきてはいませんでした。大学で何を学んだかによらず企業に就職してから十分な社員教育をすればそれで済むとも思われていたからでしょうが、その余裕が企業になくなりつつある状況の中ではなにも学んで来なかったかも知れない大学生では話にもならないと言うことなのかも知れません。企業は学生に社員教育をすることなく即戦力なることを求めるようになっています。大学がレジャーランドと呼ばれるようになって久しいからです。なぜ大学がレジャーランド化したのかの理由は難しい入試に合格して大学へ入学するとその反動で学生達が羽を伸ばそうとしたことも一因として考えられるのでしょう。「大学へ入ったら遊ばなきゃ損」というわけですが、どうもこれからはそうも行かなくなるのかも知れません。 日本の小・中学生は基本的な知識は習得できてもその活用がどうもうまくできないという調査結果が二千七年10月25日に文部省から発表されました。四十三年ぶりに行われた全国学力調査で明らかになったことですが、この調査で成績が上位になったのは全体的にならしてみれば大都市や中核市の成績は他の町村や僻地などに比べて高いのですが、小学校の国語や中学校の数学では基本並びに応用とも秋田、青森、福井、富山などのどちらかというと雪所が上位 を多く占め、必ずしも大都市圏が成績が上位と言うことにはなっていないようです。また成績面での平均の差は僅差といえます。高校の全国学力調査を行ったらどうなるのかは興味のあるところですが、全国の学生の学力差以上の経済格差が日本国内には存在していることの方が問題となるでしょう。学力差がそれほどない学生達が全国で同じようにがんばったとしても経済格差は歴然としてきてしまっています。能力はそれほど違わないのに住んでいる地域が違うだけで雇用機会すなわち有効求人倍率や収入には大きな違いが生まれるのです。沖縄など離島を多く抱える所はいわゆる僻地を多く抱えているわけで成績も最下位となり文部科学省に対策や支援を申し出たりしています。しかしごく優秀な人材が地方から生まれ出ないのかというと決してそうではなく大都市圏ではない地域からも東京大学へ合格したり大学院で博士号を取ったり出来る人も生まれ出ることは確かです。二千七年十月二十九日の朝日新聞朝刊には東大の博士院生の授業料を基本的に無料にするという記事が載りました。二千八年度から実施の予定とされますが、国際的に見ても日本の博士課程在籍者の生活は冷遇されている状況を幾分かでも改善し頭脳を呼び込もうと言うことのようです。この記事が出たしばらく後には東大生の中で家庭の収入が四百万円に満たない人には授業料を免除するという方針が打ち出されたとの記事も載りました。東大に合格できるだけの頭の人は必ず経済的にも恵まれた家庭の人ばかりだとも言えない訳なので、苦学生にとっては朗報かもしれません。優秀な頭脳はゆくゆくは日本の社会に貢献してもくれる存在であるというのであれば、それらを養成する手助けは十分すべきものにもなってくることでしょう。日本の大学も国際化され入学してくる学生が必ずしも日本人ばかりではない状況の方が日本人の学生にも刺激になって良いかもしれません。このようなことが発表された後の二千七年十二月二十二日の朝日新聞朝刊には東京工大も博士大学院生の学費を無料化するという方針が報道されたりしました。これらの優遇策は海外から日本に留学してくる優秀な学生にも恩恵をもたらすべきものだとも思います。そして日本はそれらの人たちが活躍できる場をもっと広げる必要もあるかもしれません。優秀な人材をうまく生かすことの出来ない社会ではその社会自身がそれ以上伸びてゆくことが出来なくなってしまいます。これまで蓄積されてきた知識にさらに新たな知識を付け加えたり、全く新たな考え方や技術を生み出したり出来る人材は貴重でありどこの社会でもほしがられる人々ですが、それらの人材をやっかみ半分で訳もわからずつぶしにかかるような社会では、それらの人は自分を評価してくれる所へ逃げ出していってしまいます。六十年代から七十年代初めの頃には日本の頭脳流出を心配する声が大きかったのも事実です。アメリカなどの方が頭脳の優秀な人に対する待遇が日本よりも遙かに良かったからです。その頃は日本が発展途上国からやっと先進国へと上り詰める時期でしたが、すでに世界第二位の経済大国となってから四十年になろうとしている時期の日本にとっては、未知なる分野の解明に挑んだり先端的分野を自ら切り開いてゆける人が是非とも必要になってきています。そのためには優秀な頭脳や高度な技術者が重要になってきます。その基盤を作るのが教育ということになってもきます。そのためには教師のレベルが重要にもなってくるわけですが、二千七年十一月二十七日の朝日新聞夕刊には二千八年度から学生の受け入れを始める教職大学院が十九校認可されたと報じられています。十九校で受け入れる学生数は総数でも七百六人でしかありませんが、これからの学校教育の場での中核的な教師になる人の養成と言うことになるのでしょう。「終了すると教職修士号(専門職)が与えられるが、待遇は各教委の判断に任されている」と記事にはあります。先に述べたように民間企業では修士号取得者の初任給は大卒のそれの一割り増しが相場ですが、しかしそれだけ払えるのは大企業に限られていると言えるのかもしれません。それと同様に教員の場合にもそれだけの給与を支払える自治体ばかりとは言えなくなります。自治体の財政力の格差があまりに大きいので、財政力のある地方自治体は高い給与を支払えるかもしれませんが、それだけの費用負担が可能でない自治体も多いと思われるので、自分の地域の自治体の財政力が弱い場合には優秀な教育分野の人材が財政力のある地域へと流出することも考えられます。そうでないなら大学院を卒業して出身地や地元の財政力の弱い自治体の学校の教員になろうとする人には泣いてもらわなければならないことになるでしょう。優秀な人材が大都市圏に集まり次世代を教育するための優秀な教員も大都市圏に集まってしまう状況は何とか回避しなければならないと思います。 以上は教育の現場などでの動きですが、教育を受けて社会人になってゆく人たちの意識はどのようになっているのかが二千七年十一月二十五日の朝日新聞に載りました。新入社員の働く目的に対する意識調査の結果ですが、二千年時点から急激に伸びた「楽しい生活」という項目が二千七年でも三十八%ほどのトップで、第二位の「経済的に豊かな生活」を十五ポイントほど上回っています。経済的な豊かさを目的にしたのはバブル経済の時点でもっともピークになりました。千九百七十年代に三十七%と目的のトップとされてきていた「自分の能力を試す」は年々減少して二千七年時点では二十%を切る第三位になっています。第四位ながら「社会の役に立つ」は順次その比率が高まって十%ほどになってきています。二千七年時点での楽しい生活の中身はというと「物質的な豊かさは多少犠牲にしても、充実感のある人生を歩みたい」と望む人が増えていてやりがいのある仕事をしたいとのことのようだと記事にはあります。自分の人生が空疎なものであるよりも充実したものであることは誰しもが望むことなのでしょうが、どうしたら自分の人生を充実感のあるものにしてゆけるかはそれぞれの人の心がけにかかってくるところもあるでしょう。新入社員といっても大企業と中小企業あるいは大都市圏で就職した人と地方企業に勤めた人とでは意識に違いがあるかもしれません。そして能力主義である成果主義がまだ取り入れられていなかったいわゆる年功序列が主流だった千九百七十年代の方が成果主義が取り入れられた二千年代よりも「自分の能力を試す」という項目が高い比率を示しているのは皮肉なことです。充実した人生を送るためには自分の能力を高めることを忘れることも出来ませんし自分の能力が試されることを避けて通ることも出来ないことだと言えるのかもしれません。それらが前提となった楽しい生活であってもらいたいと思いますが、しかし実際の職場はあわただしく考えるまもなく働かされることもあるのではないでしょうか。体をこわさずにこれからの社会を支えていってもらいたいと思います。これからの高齢化社会は若者だけで支えることが出来るという条件でもなさそうなので、これからの年寄りは若者を当てにしてただ遊びほうけてばかりもいられなくなるでしょうから、高齢者といわれる人たちにも体が動き頭が働くうちはある程度の社会的な活動の場を企業や地域社会の中に残しておいてもよいように思います。それは都市部でも農村部でも言えることでしょう。農村部などは高齢者といえども働かなければその地域を維持できないところも多いはずです。そのためには年配者の方も若い世代のじゃまにならず社会について行けるように心がけなければならないかもしれません。あるいは若い世代がやっている暇がない部分ややりたがらない部分をやるのも役回りになるのかもしれません。ただ、若い世代の人たちが社会科学を含めて科学技術分野の研究もやりたがらなくなってしまうと日本としてはまずいことになるでしょう。国際的な学力調査を行っているOECDのアンヘル・グリア事務総長は「日本の教育は今はあまり心配しなくて良い。しかし二十年後には課題があるかもしれない。研究職に就く人が少ないと、社会全体の革新が出来ない」と、三十歳で科学関連の職業に就くことを期待している生徒の割合がOECD平均が二十五%なのに対し日本は八%であることに懸念を示したと二千七年十二月九日の朝日新聞朝刊にあります。そのOECDは、二千六年の国際的な学習到達度調査の結果を二千七年十二月四日に発表しましたが、十二月五日に朝日新聞朝刊に掲載された記事では日本の数学の能力の評価は前回の調査の六位から十位へ、科学は二位から六位へ、読解力は十四位から十五位へといずれも順位が低下したことが報じられています。この調査は五十七カ国・地域の参加で行われたようで前回よりも参加国が増えたこともありますが、読解力では韓国が一位、フィンランドが二位、数学的リテラシーでは初参加の台湾が一位、フィンランドが二位、科学的リテラシーではフィンランドが一位、香港が二位だそうです。参加国の中では上位にあるとはいえ日本はアジアにおいてももはやトップの座ではないという状況ですが、将来どのような日本になってゆくかはこれから以後の学生達が人生の中でどのような選択をしてゆくかにかってきます。そして研究者を増やすには理数系をはじめとする各分野で大学院生の割合が現在よりももっと大きな比重を占めることが必要になってくることでしょう。一通りの知識を習得したと言うだけの大学卒のレベルではなく、それらの知識に新たに知識を付け加えることの出来るレベルにまでなることを要求されるのは大学院の学生ですし、それらの人たちが最も研究者に近い人たちだからです。そして新しい考えの理論や発見そして新規の技術分野などは研究者の頭から生まれる確率が最も高いからです。日本の問題点は到達度テストの結果が国際比較で低下していると言うことと意欲や意識も低下しているという二つのことのようです。二千年、二千三年、そして二千六年と三年毎に行われているこの調査結果では、年次を追う毎に日本は順位が落ち長期低落傾向をたどっていると言えそうな状態です。研究職に就く人のレベルまでもがそれに従って下がればその社会の動態的な活力は失われていってしまいます。その社会は単純再生産を繰り返すだけで飛躍などが生まれ出てこないからです。古色蒼然旧態依然ではいずれその社会は消え去ってしまうこともあり得ます。新規の産業分野も技術革新も生まれ出ず新たな雇用の場も出来てこないような社会では若い世代にとっても展望が無くなってしまうからです。従来からある産業であっても形を変え新規の技術や方式を取り入れながら産業のスタイルを更新してゆかなければ存続も危うくなります。新たに生まれる知識や技術を自分の仕事や生活の中に取り入れてゆくことが必要となる訳ですが、新たな知識や技術を生み出す力のある人がその社会にいなくなるとそれらを取り入れることすら出来ないことになるからです。日本は明治期の近代化以降多くのものを海外から取り入れて近代化を達成しました。それは主に欧米からのものでしたが、江戸時代の鎖国政策以前の時代には中国や韓国から多くのものを日本は取り入れていました。しかし世界第二位の経済大国になってから四十年が経とうとしている日本にとっては国際社会の中において上位の地位を維持し続けることがいかに大変かという問題が突きつけられているようにも思えます。研究職に就く人が少ない社会になって研究者や技術者をただの物珍しさだけでしか見ることが出来なってしまうようではその社会の先行きは暗いものになるといえます。高度な研究成果を出せる人、その研究成果を理解し手助けできる人、そしてそれを次の世代に伝えるだけの教育場面での力量のある人など、様々なレベルで力のある人材は不可欠となってきます。それらが順次高度化しながら推移してゆかないと世界の流れを作り出したり世界の流れについて行ったり出来ない社会となってしまうからです。前世代を手がかりにしながらでも次の世代は前世代を超える地平にまでゆかなければ進歩はありません。それは個人においても社会においても言えることでしょう。 二千八年度の予算編成では公立の小・中学校の教員数を千人増やすことと京都大学の山中伸弥教授の人間の皮膚から万能細胞を作る研究などの予算が付きました。後者には五年間で百億円の規模の財政支出ですが財政難の日本としては教育や科学技術に対してこれでも精一杯の予算措置なのかもしれません。財政面では国にも地方にも余裕がない状態であることを考えれば、新たな追加費用をかけることなく現在ある資源を最大限有効活用する以外にないことになります。その最たるものがパソコンかもしれません。パソコンの通信料も定額制になっている現在では費用負担の増加を気にすることなくインターネットが活用できる条件になっているので、個人レベルでも社会のレベルでも最大限有効に活用して社会全体の効率を高める必要が出てくるかもしれないのです。教育面では中学校などでは職業・家庭の時間にパソコンが教えられていますが、それ以外の教科と連携させた授業も可能といえるようですし、パソコンの普及率が高くなっている時点の現在では家庭に眠るパソコンを各家庭が有効活用する方法をさらに工夫することでもかなりの社会的変化になるといえるかもしれません。インターネットの連絡網が整備されると言うことはその社会の神経回路が密になることを意味すると思えるので、社会の連携も密になってゆけるわけです。大学の先生達や高校の教員達などが最大限自分の分野の知識あるいは知的所産などをホームページやブログで紹介することが出来れば、それは学生達にも大いに参考に出来るはずです。学校の授業の範囲内のことだけでなくもっと幅広い知識にもふれることも出来き知的刺激になるかもしれません。それを知的刺激と感じ取ることができるだけの条件が学生には求められることではあるでしょうが・・。そしてパソコンをただのゲーム機器にしてしまうのも、あるいは教育機器にするのも、それはパソコンをどう使うかの使う側の問題になってきます。なぜならパソコンは多種多様のアプリケーションソフトがあるので用途は多岐にわたるからです。パソコンを使った教育サービスも可能でしょうし教育用のソフトも多数あります。千九百七十七年に世界で最初にパソコンすなわち個人でも購入が可能な価格帯のアップルUを作ったのはアップル社でした。グラフィック・ユーザー・インターフェイス(GUI)という方式によりそれまでコマンドを書き入れることで操作していたパソコンをマウス操作で誰にも使いやすくしたマッキントッシュを発売したのもアップル社です。マウスそのものはIBMの研究員の人の発明した入力装置だったとしてもそれを使ってパソコンの操作を格段に便利なものにしたのがアップルでした。その創業は後にアップルのカリスマ経営者と呼ばれ二千十一年十月に亡くなったスティーブ・ジョブズ氏を含む人たちによるものでしたが発足は千九百七十六年のことでマッキントッシュが最初に発売されたのは千九百八十四年のことでした。それらの開発にはスティーブ・ジョブズ氏のアイデアが色濃く投影されていたと言うことのようです。パソコンが開発されるに当たっての元となった理念は「知的作業の補助をする機械」ということだったと言われます。ですから本来的にはパソコンは教育・研究分野でこそ最も活用されて良いはずのツールです。ゲームやビジネスで利用するのはむしろ二次的だったはずでもあります。しかし現実にはビジネスの場面ではオフィス労働にパソコンはなくてはならない必需品であり、若い世代にとっては夢中になってパソコンを使うのはゲームの方かもしれません。それを本来の目的に比重を移すだけでも大きな変化が起こるかもしれません。ただ日本の場合はペットボトルなどの飲料マーケットでも五兆円ほどでありパチンコ産業に至っては千九百九十四年〜九十六年にかけては三十兆円産業であったとする記事もあります。長引く不況で大卒の就職内定率が過去最低と言われる二千十年時点においてさえパチンコ産業は二十兆円規模を維持しています。二千十二年時点では携帯電話の五割以上がスマートフォンになっていると言われてもその経済規模は七兆二千億円でしかありません。そして携帯電話やスマートフォンを利用したソーシャルゲームの市場規模は二千十二年度には二千八百億円になると二千十二年九月二十五日のNHK”クローズアップ現代”で紹介されていました。その5年前には僅か四億円の市場規模だったというのですからすさまじい成長力と言えます。パソコンやスマートフォンなどによるネットゲームあるいはテレビゲームなどはパチンコ産業とは競合するものだとも言えるでしょうが、この時点ではまだまだパチンコ産業が優位を保っていると言えそうです。また二千十二年九月十二日のNHK”クローズアップ現代”で特集されていた日本経済が富裕層と低所得層へと二極化したために日本で増加している富裕層を対象としたビジネスでもその規模は十兆円だとされています。しかしその一方で二千十二年五月の段階の日本には二百十一万人以上の生活保護を受けている人がいるのも事実です。それらの人への生活保護費の支給総額は消費税収入の2%分に当たる五兆円とも言われています。スマホ市場や富裕層ビジネスなどの規模に比べたとき低所得層でも楽しめる二十兆円産業のパチンコ産業がいかに規模が大きいかが分かる数字です。二千十二年三月四日の朝日新聞朝刊の広告記事には『パチンコに日本人は20年で540兆円使った』という表題の本が紹介されています。これを単純に年平均にすれば二十七兆円と言うことになります。本のタイトルの脇には「このカネと時間は何に使うべきだったか?」とありますが、パチンコ産業がこのような隆盛を示すその一方で教育産業は一兆円産業に過ぎないことを考えれば、学ぶことに人々を夢中にさせることは望むべくもないことといえるようです。ですが少なくとも日本の教育産業の産業規模がパチンコ産業の規模の半分にでもなったりすれば日本人の知的レベルや教養のレベルはかなり上昇することでしょう。それはスマートフォンなどの情報機器を通しての学習でもいっこうに問題はありません。かく言う私はパチンコが嫌いな人間ではなく、今はほとんどしなくなっていますが(パチンコの台がハイテク化したために玉が出なくなってしまったのが理由です。すなわちパチンコで勝てなくなったのでやらなくなったのです。)若い頃にはよくパチンコ店に通ったりしていました。確かにパチンコ産業は資本集約的でパチンコ球の購入は自動販売機、ゲームも客はパチンコ台に向き合って行い不正行為は監視カメラで行い玉の出方がおかしいときにはそれを内部のモニターでチェックし、客がもうけた場合の出玉の数を数えるのは自動のカウンターですので店の規模に対して従業員の数は少なく景品交換所にも一人か二人の人間で済みます。これに対し教育産業は人が人を相手に行うので目の行き届いた教育を行おうとすればするほどマンパワーに頼らざるを得ず労働集約的になる趨勢を持った産業といえるのかもしれません。ソニーの創業者の井深大さんですらもが「育児は機械化すべきではない」と言っていた分野でもあります。子供が幼ければ幼いほど人が手をかけて育てなければならないのが人間なのかもしれません。二千十二年九月九日のTBS「夢の扉」では泣き止まない子供を最適なあやしのリズムで揺れてあやし寝付かせてくれる”SUIMA”という商品名の育児ベッドが紹介されていました。幼い子供が泣き止まずそれをあやすのに時間を取られてしまう親のストレスを軽減するためのツールと言えます。育児のストレスのために虐待に至るような悲劇を軽減することも開発者の問題意識の中にはあるようですが、人肌に触れたことも無く成長してしまったような子供にしてしまっても当然問題があるのでしょうから育児の機械化は何処までが許されどこから先は人間に任せるべきなのかの線引きも難しいところです。クローンで作り出された、すなわち遺伝情報は全く同じである牛ですら牛舎や餌などの違いによって異なる性格の牛になると言われているのですから、人間の場合においても育てられる環境によって異なる人格になるであろうことは容易に想像がつくというわけです。そして医療や介護も労働集約的になる趨勢が強い分野とも言えますが、それらどれもが二千年代に入ってから大きな曲がり角に直面してしまっています。医療分野の場合二千九年四月八日のNHK首都圏ネットワークでは医師の事務的作業の負担を軽減する医療クラークが配置されている茨城県取手共同病院などは病院の経費の半分は人件費と言うことです。アメリカの金融危機で破綻したアメリカの投資銀行リーマンブラザーズは優秀な社員の確保のために社員報酬をきわめて高額にしたために収益の五十一%が社員の報酬の人件費になっていたとされます。しかしそれは金融業界でも異例と言われる高水準の人件費のようです。また介護分野は教育分野と同じく一兆円産業に到達していますし、その規模はこれから加速することが見込まれる高齢化を考えればさらに規模は拡大することでしょう。いずれも人々の生活に必要不可欠な部門でありながら経済的には採算性が低く賃金面でもあまり報われていない分野です。医院や病院にはパソコンが導入されて事務や診療の省力化が図られてはいます。教育分野も学生がある程度の年齢にまでなればパソコンを導入することで人がパソコンの画面に向き合って学習することも可能になる部分があります。教師がプロジェクターを使い生徒がパソコンの画面に向き合うというのも今では普通に行われている授業風景です。それにインターネットを組み合わせて外部のページの知識を生徒に一斉に紹介することも可能です。またこれもアップル社が先行した部分が大きいiPadに代表される電子書籍端末すなわちタブレットなどは教科書や参考書そして辞書などを全て一つの端末に納めてしまえる品物です。しかもインターネットに接続もできるので生徒一人に一台の端末を用意すればパソコンルームも必要がなくなるかも知れません。校内LANになって各教室で直接インターネットが利用できるからです。現在では電子黒板も開発され普及が進みつつあるようです。労働集約的だった教育分野が幾分資本集約的な分野にもなれるわけです。それが教育分野におけるパソコンなどの情報機器活用の可能性といえそうです。当然スマートフォンなどもその中に加えて良いでしょう。二千八年九月十七日の讀賣新聞朝刊には文部科学省の二千七年度における『学校における教育の情報化の実態等に関する調査』の内容が紹介されていますが、普通教室の校内LANの整備率は米国が94%、韓国は100%であるのに対し日本は62.5%であり、またこれは意外な結果かも知れませんが都道府県別では東京は37%と四十七都道府県中で四十六位だとされてす。また東京都に隣接する私が住む神奈川県は二千八年九月二十六日の讀賣新聞朝刊の地域面では公立の小中高校に導入されているパソコン一台あたりに対する生徒数が9.3人と全国ワースト2、すなわち四十七都道府県のうちの四十六番目です。全国平均は7.0人で校務に使うパソコンの教員達への配備率も全国平均が57.8%であるのに対し神奈川県は48.0%と全国で三十五位です。私が中学生に聞いた範囲では以前は三人に一人でしたが現在は生徒の三人に二人の割合の家庭にパソコンがあるようです。学校現場よりも家庭の方がパソコンの普及率という点では大きく先行していると言えそうです。そして教材研究・指導準備・子供の評価などにパソコンを活用できる教員の割合は全国平均が71.4%、神奈川は69.5% と全国で三十五位、パソコンで授業が出来る教員の割合は全国平均が55.2%であるのに対し神奈川県は53.2%と二十八位、パソコンの操作方法を生徒に指導できる教員の割合は全国平均が57.8%であるのに対し神奈川県は54.9%と全国三十六位に低迷しています。これらから言えることは大都市圏を抱える地方自治体だからといっても必ずしも良質な教育を与えるだけの設備体制を整えているわけでもなくまたマンパワーを準備しているわけでもないと言うことです。そして現在ではどこの学校にもパソコンルームが一教室分はあるのが当たり前にはなっていますが普通教室もLAN体制になればパソコンを使った授業はずっと身近なものにもなります。これまでにも学校教育にはテレビやビデオなどの機材が投入されては来ていましたがパソコンはもっと強力な教育機器にもなり得ることでしょう。とは言っても医療分野が医療機器を介在させても医師と患者が向き合う分野であるのと同様に教育分野もパソコンを介在させたとしても学生と教師が向き合う分野であり、教育は最終的には人間が人間に関わるという部分はなくなることがないのは確かです。医療が労働集約的にならざるを得ないのは医療機器が高度化したものになってもそのデータや画像を判読するのは人間の仕事になるからです。教育も知能指数やEQそして偏差値などを始め様々なものを数値化した個人の能力を判断しようとしますが、判断するのはやはりあくまで人間です。数値化が難しいと言われる人物本位の選別ともなればもっと人間の判断が必要になるとも言えるでしょう。二千八年二月三日の朝日新聞には秋田県教育委員会が博士号を持っていれば教員免許を持っていなくても教員として採用する方針を決めたという記事が載りました。学級は担任せず県内の小・中・高校の複数の学校を掛け持ちで授業をするようにするそうで、全国から農学・工学・理学・教育学の博士号保有者を募集するそうです。学生達はそれまでとはひと味もふた味も違った授業を受けることが出来るようになるかもしれません。勉強していた人と研究していた人との違いはあっておかしくないからです。三十九歳までという年齢制限はあるにしても採用された博士号取得者は高度な専門性のある知識を加味しながらいかにわかりやすく専門知識を高校生や小・中学生に伝えるかという難しい課題が課せられそうです。先にも述べたように日本の学校現場には大学院修士課程卒の教員の割合さえ他の教育先進国に比べて見劣りする現状であることを考えれば、博士号保有者の授業の補佐を修士課程卒の人たちがするようなことにでもなればすごい授業が出来るのかもしれないなどと思ってしまいます。パソコンのゲームによる興奮よりも学校などでの授業の知識による知的興奮の度合いの方が高くなれば学生達もゲームよりも勉強の方に夢中になることもあるでしょう。そうするためにも教育現場の教員の教育力の底上げは図ってゆかなければならないことにもなってきます。そして全国初といわれる秋田県のこの試みはやってみるに値することのように私には思えますしそれなりの成果が出てほしいとも思います。ただ博士教員の採用枠は若干名ということですので、日本にはオーバードクターなど博士号を持っていながら不遇な境遇にある博士号保有者がかなりの数で存在していることを考えるなら秋田の冬は厳しいという不利な条件の地域とはいえ競争率が高くなるかもしれません。また昨今は学生の理科離れが深刻になってきている中で、深い理科系の知識に裏打ちされた博士達の授業によって理科の面白さを伝えてもらえる事も可能になるかもしれません。博士号保有者が高校などで授業をすると言うのは言ってみれば医学博士の学位を持っている医師が中学や高校で保健の授業を担当したり保健室に待機していたりするようなものであまりにもったいないあるいは贅沢な人材の使い方とも思えますし博士号保有者は本来研究職を希望する人達だったかもしれないにしても、それが思うに任せなかった人は地方の学校教育で一肌脱いでもらえたらと願うものです。このことに関しては二千八年六月四日の讀賣新聞朝刊にその後のことが記事になって載っていましたが、採用枠六名に対して五十七名の応募があったとのことです。競争率はかれこれ十倍です。教育分野で自分を活かしても良いと思っている博士号保有者はまだまだいるというのが事実のようでもあります。中卒の人や高卒の人でもまじめに働けば一人前に生活してゆける社会はそれはそれでよい社会といえます。しかしその一方で博士課程修了者が職にあぶれてしまっているようでは社会のレベルは低下してしまいます。日本の人的資源を労働力資源としてだけでしか評価せず知的資源の部分を切り捨ててしまったのでは日本のような天然資源に恵まれていない社会はゆくゆくは元も子もなくなってしまうことでしょう。知的資源となりうる人たちの活用も社会で考えて行くべきです。なぜなら日本の社会は知的資源の部分がないがしろにされがちだからです。知的資源としてそれらの人たちを活用すると言うことは彼らを単なる労働力と考えるのではなく彼らの頭脳が生み出した知的産物を社会や企業が活用することを意味します。アインシュタインに使い走りをさせて喜んでいるよりもアインシュタインの知的所産である彼の作り出した理論を活用した方が社会が得る利益は遙かに大きいとでも言えばいいでしょうか?そのためには少なくとも博士達が生み出した知的成果を理解できる水準の人が社会や企業の側に存在していることが前提条件になるでしょう。理解できなければ活用できるはずもないのは当然だからです。二千八年二月十四日の朝日新聞夕刊には「東北大[抜群教授]に特別手当」とのタイトルの記事があります。優れた業績を上げた現役教授の給与に最大で二十万円のプラスアルファーをつけるとのことです。東北大学の教授の平均給与は千百一万円とのことで一割から最大で二割ほどの年収アップになります。それ以外にも東大や京大なども優秀な教授の引き抜きに多額な費用を割くとのことです。研究分野での競争で優秀な人材を集めようとするこのような動きに合わせて初等・中等教育そして高等学校の教育課程の分野のレベルを上げるためにその部分にも高度な知識のある教員を投入することでタイアップしなければならないことにもなってくることでしょう。先の博士号教員の話などはそのような条件作りの手始めにもなるような試みとも言えそうです。そのためにはそれらの人たちを給与の面でもはっきりとした待遇を与えるべきでもあります。二千年代に入ってからだけでも何本の学園ドラマがテレビで流されたことでしょうか?授業風景のないホームルームと音楽や体育の時間ばかりのような学園ドラマをいくら作ってテレビで流しても実際の学生達の学力は国際的には上昇してはいなかったわけです。テレビで流される学園ドラマの授業風景は実際の学校の授業よりも遙かに生徒達を楽しませ勉強に夢中にさせるだけの教育内容のある授業で、実際の教員がビデオやDVDに録画しておいて帰宅後にそれを見て自分の授業の参考にしてみたくなったり学生達が見て人間的な成長につながったりするそんな学園ドラマであるというならまだいいのですが、視聴率を取るための受けを狙っただけでしかない番組であるにもかかわらず出演者は実際の教員達よりも遙かに高い報酬を得ているというのでは現実に教育の現場に身を置いている者はやっていられないという気分にもなってくることでしょう。 このような状況の中で文部科学省は学習指導要領の改訂に伴い四十年ぶりに小・中学校の授業時間を増やす方針を決めたと二千八年二月十六日の朝日新聞朝刊に記事が載りました。二千九年度から実施に移されるようですが、小学校で約五%、中学校で約四%の時間数の増加となり教科では算数・数学が約十八%、理科は約二十三%増やされるとのことです。全ての教科の基盤となる言語力も重視され国語や小学校での英語教育なども現実化され強化される模様です。自分が興味を持ったものに付随する知識を自分で調べ学びまた考え始めていってくれればそれに越したことはありませんが、そのような環境を学校教育の中に作り出すには教師達にも大変な努力と力量が求められてくることになります。高度な大学教育に結びつけてゆくには小学校・中学校・高校と順次学生達に十分な力を培っておいてもらわなければならなくなるからです。日本全体の競争力を日本人の力だけで保持してゆくことがだんだん難しくなりつつある中で企業も大学もアジア地域などの優秀な学生達を日本に取り込む動きを強めています。二千八年二月二十四日の朝日新聞に載った「東大に財界が基金」という記事などはその一例です。その記事では、大手十五社の企業が百二十億円の基金を作り年間約二億五千万円ほどの運用益を大学側に寄付すると言うことです。大学側はその寄付金で優秀な留学生を招致するための奨学金に充てるとのことで、欧米や豪州などの大学がアジアの人材に目を向けていることに対抗するためのようですが、日本ももはや自前の人材だけでは大学も国際競争力の面で対抗してゆけず国際社会の中での地位を保持してゆくことができないところにまで立ち至ったともとれます。東大は十年以内に様々な基金を併せて総額二千億円までに運用総額を増やす意向のようですが、自治体レベルでは神奈川県の川崎市などはベトナムの工科大学の優秀な学生に目を向け彼らが日本企業に就職したり自ら日本国内で起業するための支援策なども採り始めています。とうぜんのことながらIIT(インド工科大学) の学生なども日本企業視野に入っていることでしょう。日本は人材の面でこれからかなり国際化の速度を速めてゆくのかもしれません。アジアの人材を呼び込むにしてもそれには日本の大学や企業あるいは日本の社会が日本の外から日本を見ている人たちに魅力のあるものに映ることが重要な要素にはなることでしょう。そして実際にそれらの人たちが日本にやってきたとき、現実の日本に幻滅したり失望したりしてしまうことなくやはり日本の社会は魅力のあるものだったと感じてもらえるかどうかも重要なことでしょう。そのためには日本人が彼らに心を開いておく必要があるかもしれません。アジアの優秀な人材に対してもまた日本の優秀な人に対しても日本の多くの人たちが心を開いておかないと結果的に日本そのものにとっての損失につながりかねません。少なくとも優秀な人材を社会の中や組織の中で外してしまうようなことだけはしない方がいいと思います。二千年代近くの時点では海外留学の経験のある学生が就職する際には自分の留学の経歴を伏して就職面接などに望んだりしていると言われます。異文化の洗礼を受けた者は日本の企業社会においては扱いづらいと思われてしまう危険性を避けるためです。しかし日本の企業のそのような風土はたぶん日本が伸びてゆくためには障害になる場合も出てくるのではないでしょうか。日本の多くの企業が海外との接触を全く持たずにビジネスが出来てゆけるというのであるのならともかく、現在の日本はいやがおうもなく海外と付き合ってゆかなければならない環境にあります。異質を排除して同質の仲間内だけの話でやってゆける条件にはないのが現実です。いやでも異質な者と交流してゆかなければならないはずです。しかも日本人の留学者数は減少している模様です。少なくともアメリカで学んでいる日本人留学生の数は千九百八十五年頃は一万二千人ほどだったものが九十年頃には四万人以上にまで急増して二千年までの間は五万人近くの水準にあったものが二千年代に入ると減少に転じ二千五年には三万八千人程度までに低下している様子が二千八年三月三日の朝日新聞朝刊にグラフで示されています。左前になり始めた日本経済をもう一度成長軌道に戻せるかどうかは次の世代の肩にも掛かってくる部分が大きく、日本人留学生の数が減少して内向き傾向を強めることも心配の材料にはなってきます。一方、東京大学は二千八年度から大学院博士課程の大部分の学生に授業料(年額五十二万八百円)を半額ほどにすると決めたそうです。総額で八億四千万円の学生支援になり優秀な院生二千人を含む博士課程在籍者五千三百人のうちの九割などが恩恵を受けると言われます。優秀な人材達がさらに自分の能力を磨くための支援を行い、それらの人が大いに活躍することで日本の再興に寄与してくれることを願う者ですが、日本の教育分野が日本の内外に人材を求めて日本の社会が再び活力のある社会になる事への地ならしの準備が徐々にながら始まったと言えるのかもしれません。研究者になる可能性のある人や研究者の人たちはそれはそれなりに経済面で生活が出来る条件が与えられるべきですが、研究者が求めるのは収入だけかというとそうでもない場合もあることが二千八年三月十三日の朝日新聞朝刊にグラフで載っています。研究者が所属機関を移っても良いと思う最重要条件としては民間企業の研究者は収入を重要とする割合が高くなっていますが、大学の研究者はどちらかと言えば収入よりも研究環境を重視しているようです。本来ならどちらも重要と言いたいところなのでしょうが日本の研究現場では両方を望むことは出来ないのが現状のようです。そこには日本の旧帝国大学七校の教授の平均年収も示されていますが、一位の東京大学が千二百五万円、二位の大阪大学が千百七十七万円、三位の京都大学が千百六十七万円、四位は名古屋大学で千百五十二万円、五位が九州大学の千百三十六万円、六位は東北大学の千百一万円、七位が北海道大学の千八十七万円です。いずれも一千万円を超えているとはいえ大手企業の部長クラスの人たちから見れば「教授と言ってもそんなもんかよ」と言われそうな収入なのかもしれません。不動産業を手広くやっている人の方が遙かに多くの収入を得ている場合もあるでしょう。少なくとも銀座のママの年収よりも低いと言えそうです。それだけ日本の教育は安い費用で行われているとも言えるのかもしれませんが、コストを安くしてある分教育のレベルもそれほどは高くないというようなことにでもなるなら教授の収入がそれほど高額でないことを笑ってばかりはいられなくなります。教授達は自前で高価な専門書の購入などもしなければならない人たちだからです。医師達の場合においても民間病院にいるときは高額所得者で国立大学の医局に異動したりすると低所得者になったりすると言うのが現実のようです。コストを低く抑えることとレベルや質を維持することとを両立できるのかどうかは医療のみならず教育分野にとっても言えることです。 二千八年三月三十一日の読売新聞朝刊には「文部省(当時)が、研究開発能力を強化しようと、千九百九十一年に大学院重点化計画を掲げて以来、大学院生の数は、同年の約九万人から二千六年には約二十六万人に増加したが、受け皿となるべき大学教員や研究職の数は増えなかった。そのため、博士号を取得しても職に就けない[オーバードクター]や、任期付きの研究職[ポストドクター]と呼ばれる人たちが増加し、深刻な問題となっている。」とあります。この記事はそれらの人たちの就職支援を行う動きが徐々に日本の社会の中にも生まれ始めていることを報じていますが、それらの動きは当然のものだとも言えるもので、院生専用の就職情報サイトの[アカリクWEB]の林社長の言葉として「今までは院生向けの就職市場がなく、売れるはずの人が売れずに、企業も人材を取りこぼしていた。・・・院生の優秀さを企業に知ってもらいたい」と記されています。大学院卒の人たちを社会の中でどう活かしていけるかは日本のこれからの課題でもあることでしょう。同じ日の朝日新聞朝刊には筑波大学の場合は大学院への進学率が四割を超えて周囲には多くの研究機関がありながらポストドクターの職探しも楽ではないと紹介されています。院生の進路について語り合う院生達が運営するサークルや大学の就職課が開催する院生がブースを開いて企業の人が面接を受ける逆求人セミナーの話などが載っていますが、自分に就職先がない院生なら何人かが集まって自分達で起業してしまうのも一つの選択肢かとも思います。少なくとも大卒ばかりが幅をきかせて博士号の取得者が肩身を狭くし小さくなっていなければならないような社会はどこかが間違っているといえるようにも思います。日本国内の研究費の七割以上を支出しているのは企業であると二千八年四月十三日の読売新聞朝刊にあります。民間企業の研究はすぐに製品開発に結びつく短期的なものに傾き、大学の研究はより基礎研究的なものになる傾向の違いはあるでしょうが、どちらも日本の科学技術を担う存在です。しかしそれらの研究機関も全ての博士号取得者を受け入れきれないのでオーバードクターの問題などが生まれてくるのかもしれません。しかし先端的なあるいは高レベルな科学技術の産物はそれらの人達の頭の中から生み出される確率が高いわけです。少なくともそれらの人達がある程度社会の中で自分を活かした活躍が出来る場を用意する必要があろうかと思います。それが教育の場であれ企業の生産や研究の場であれ、優秀な人材が活動できる場を増やしてゆかない限り日本の社会全体のレベルも経済のレベルも上向いてゆけないからです。二千八年五月一日の読売新聞夕刊では教育支出をGDPの5%にするという目標について文科省と財務省が対立しているという記事が載っています。この数値はOECD諸国の教育支出の平均値だそうで、現在の日本の教育支出は3.5%、日本とアメリカの大学生一人あたりの公財政支出額は日本が六十七万円に対しアメリカは百六万円だそうです。学生一人あたりにどれだけの予算を割いているのかの差ばかりでなく学校教育現場の教員のレベルも日本とアメリカでは大きな差が生まれてしまっています。日本の教育予算を増やせば教育現場に大学院卒の人材を大量採用したり、教員の数を増やしたり出来る部分もあるかも知れません。託児所や保育園の不足から大学教育に至るまで、日本の社会は人間を育てるためのコストを低く抑えすぎているようにも思えます。教育支出をGDPの5%にするというこの方針は「教育振興基本計画」で明文化されることが決まったようですが財務省との間で軋轢があるとの記事が再度二千八年五月九日の讀賣新聞夕刊に載りました。そこに示されている主要国の教育投資のGDP比のグラフではフランス5.7%、アメリカ5.1%、イギリス5.0%、韓国4.4%、ドイツ4.3%で日本は3.5%というわけです。これを1.5%増やして5%にするためには七兆四千億円ほどの予算が必要になると記されています。これから考えると5%の教育投資の総額はかれこれ二十四兆七千億円と言うことになります。それでもパチンコ産業の産業規模には届かない額と言えるでしょう。また文部科学省はスーパー理科教員を養成する予算を二千九年度から準備する方針を打ち出したと二千八年五月六日の讀賣新聞にあります。理工系の大学・大学院に小・中・高校の理科専門教員の養成課程をもうけるというものです。この背景にはOECDの国際学習到達度調査の結果として参加五十七カ国・地域のうちで「科学に興味がある」と回答した子供の割合が五十%と順位では五十二番目と低く、「科学的応用力」も二千三年度の二位から二千六年度では六位へ理科の成績が低下していることが上げられています。理科に興味を持ってもらえるように高度な知識でもわかりやすく指導できる人材を育てるのがこのスーパー理科教員の養成の目標ですが、理科系の教育においては数学オリンピックや物理オリンピックあるいはまた化学オリンピックや生物学オリンピックへの出場を目指せるようなレベルの高校生を指導しなければならない立場などになったら、少なくともそれらの分野の修士課程卒以上の力のある人でないと指導するのがきついのではないでしょうか。数学オリンピックや物理オリンピックそれに化学オリンピックや生物学オリンピックに出場するような人達がその後も研鑽を続けてくれるなら、その中からは数学や物理や化学あるいは生物学の発展に寄与してくれる人が生まれ出る可能性は非常に大と言えるのかも知れません。二千八年九月六日の讀賣新聞朝刊に掲載された二千八年度の科学オリンピックの順位表では、数学の分野のトップは中国、二位がロシア、三位アメリカ、四位韓国、五位イランで日本は十一位、物理は一位中国、二位台湾、三位韓国、四位インド、五位アメリカで日本は十七位、化学は一位中国、二位ロシア、三位ウクライナ、四位韓国、五位タイで日本は三十三位、生物学は一位韓国、二位台湾、三位アメリカ、四位タイ、五位シンガポールで日本は十四位です。五十五〜九十七の国・地域が参加してはいると言ってもこれから見ると日本は決してトップクラスとも言えません。日本のノーベル化学賞受賞者の故福井謙一博士は生前「数学が進歩しなければ物理学が進歩しない。物理学が進歩しないと化学が進歩しない」と述べていました。私には理系の各分野がどのような関係にあるのかまでは詳しいことがわかりませんが、数学の発展は経済学のような社会科学の分野にも影響してくるものでもあります。しかしこれらの方策の前提条件である十五歳以下の子供の数は千七百万人となって二十七年連続の減少で過去最低を記録しています。教育予算を含めての日本の少子化対策も考えなければならないのかも知れません。財務省は子供の数が減っているので一人あたりで考えた教育投資額は諸外国と比べて少ないとは言えないとの反論をしています。しかし逆に教育費の親の負担を減らすことで少子化に幾分かなりとも歯止めをかけられる部分もあるかと思えます。子供の数が減る中でそれら人数が少なくなった子供達には高度な知識や技能を習得してもらっておかないとそれらの子供達が大人になる頃の日本の競争力は大きく低下しかねません。また海外から多くの若い人達を日本に受け入れることも必要になってくることでしょう。そのためには日本に魅力がなければなりません。日本に行けば高度な知識や技能に触れることが出来るというのであればそれも日本の魅力の一つにはなることでしょう。 財務省と文部科学省とのつばぜり合いがある中で文部科学省は教育振興基本計画原案の作成に当たって二万五千人の教員増を打ち出したと二千八年五月に二十三日の讀賣新聞朝刊で報じられました。二千八年度から五年間をかけての増員のようですが、小学校での英語教育の専門教員に二千四百人や理数系の少人数指導要員に八千八百人を充てるなど、教育現場の負担軽減などを考慮しての方針のようです。教育予算をGDPの3.5%から5%へ引き上げることによって増える約七兆円は小中高校などの教職員の増員分に約2.8兆円と大学教育に約3.5兆円の振り分けをする方針のようです。経済面でも教育面でも日本の見劣りが目立つ中でこの文部科学省の方針が財務省に受け入れられるかどうかは興味のあるところです。その後二十八日に文部科学省が教育予算が増額された場合の増額分七兆円の使い道の内容が発表されたと二十九日の讀賣新聞夕刊に掲載されました。見出しには「バラマキ文科省案」とありますが、年収二百万円未満の家庭の大学・短大生の授業料は免除、五百万円未満は半額免除、私立大・短大は三十万円の給付、幼稚園児と保育所を無償化などですが、確かに学校の耐震化に約一兆円などこれらの施策を講じれば恩恵を受ける家庭はそれなりにあると思えるもので必ずしもそれがバラマキとも言い切れません。逆の言い方をすれば七兆円あればこれだけのことが出来ると言うことなのですが、ただそこには教員のレベルを引き上げるための施策がでていないのが私には疑問です。教員の数と教員の質の両面から教育現場を変えてゆく必要があるのではと思うからです。そしてこの教育分野での数値目標は財政健全化による財務省の抵抗などで実現はしませんでしたが、日本の科学技術力の水準が低下すればそれは即座に日本の経済面での国際競争力の低下に結びつく可能性が生まれます。二千八年版の日本の『科学技術白書』では全米アカデミーの「強まる嵐を超える」の教育制度についてのものも引用されていますが、それは「最近になって公表されたある調査によると、米国の有権者の八十六%は「国は科学および数学に関する経歴を持つ労働者の数を増やすべきであり、さもないと世界経済における米国の競争力が低下する]と考えている」とあります。果たして日本の成人のうち科学や諸科学の基礎に座る数学が重要だという認識を持っている人の割合はどれだけいることでしょうか?また科学分野や数学の分野の書籍は他の分野に比べて売れているのでしょうか?すなわち多くの日本人はそれらに関心を払っているのかどうかと言うことでもあります。この白書の部分には「海外旅行中にみた外国の高校生と我が国の高校生を比較したとき、将来の我が国の労働力について空恐ろしいものを感じる」というマイクロソフトのビル・ゲイツ会長の言葉が紹介されてもいます。ビル・ゲイツ氏が日本の高校生をどう思っているかはわかりませんが、少なくとも自分たちにも豊かになる可能性が開けてきたと感じている発展途上国の若い学生達の学ぼうとする事への熱意と豊かさの中で満ち足りてしまっている学生達との間には大きな違いがあるのかも知れません。二千八年六月二十八日にはビル・ゲイツ氏はマイクロソフトの経営から実質的に引退し自分が設立した基金の活動に専念する方針だと各マスコミで報じられています。地球環境や世界規模での貧困の問題などが彼のこれからの活動のテーマになるのかとも思われます。ビル・ゲイツ氏はハーバード大学ロースクールを中退してマイクロソフトを立ち上げ大成功して世界屈指の大富豪になりました。「社会的に成功するかしないかは必ずしも学歴だけではない」と言うことかも知れないにしても、その彼も小学生時代には国防総省のコンピューターと学校のコンピュータを回線で結んで通信をする教育プログラムに参加していたのです。しかも開発したウインドウズのソフトを採用する場合は使用許諾に同意するという条件をつけて販売し成功を勝ち得たわけで、彼がコンピュータプログラムや法律に全く無知なまま成功を収めることができたという訳ではありません。また、パソコンが使いやすくなるためには基本ソフトだけでなく入力装置であるマウスの発明などはIBMの研究員の博士の力なども必要でありました。そしてまたパソコンでインターネット通信を行う上での基本規格であるTCP/IPの技術も大学のビントン・カーフさんとロバート・カーン博士の二人の研究者が考え出しました。ウインドウズがインターネット時代に最も成功したOSだったとしても、またビル・ゲイツが大学を中退した人だったとしても、それらが成功するまでには博士クラスの人達の下準備があって初めて可能となった部分もあります。それらのことをみるだけでも博士レベルの人を社会の中でうまく活用しないことは博士自身は言うまでもなく社会にとっても企業にとっても損失であることはわかるわけですが、日本の場合は残念ながら博士課程修了者の四人に一人は「浪人」という記事が二千八年七月二十六日の讀賣新聞夕刊に載りました。そこにあるグラフでは二千七年度の博士課程修了者は一万六千人超、就職あるいは進学以外の博士の数は四千人ほどになっています。浪人する博士の割合が高いのは文系の博士号取得者だとされていますが、文系・理系を問わず各分野のレベルを引き上げてくれる可能性の高い人が職にあぶれるのはあまり望ましいこととは言えないように私には思えてきます。この時点での日本は企業の技術レベルも社会一般の考えのレベルもこれまで以上にレベルアップしてゆかないと国際情勢の動きの中で飲み込まれるだけになりかねません。製造業における技術のみならず企業経営や国・地方の行政などのマクロの社会マネッジメントなど様々分野で頭を使った工夫をしてゆかなければ切り抜けてゆくことが困難な問題が多数出てきてしまっています。しかもそれをカネのないところでやらなければならないというわけです。日本の財政事情を考えれば何かをするにも潤沢な資金を用意できるという条件では国も地方もなくなっています。原油や食料品などをはじめとする資源価格すなわち原材料価格が急騰している二千八年時点では国や地方自治体などの行政も企業も家計も社会全体がカネもモノも無駄は最大限になくさなければならない状況が来ている中あって、人材だけはあるいは知識は無駄にしてもいいという話はないと思います。それとも博士とは日本の社会にとっては無駄でしかない人達だと言うことなのでしょうか。民間企業が博士の採用に消極的な理由として「博士課程の修了は最速でも二十七歳だが、留学などで三十歳を過ぎ、企業の募集年齢を超えてしまう人も多いからだ。さらに企業側には[専門知識で頭はこちこち][社会常識や協調性に欠ける]と言った偏見が広がっているという。」と紹介されています。しかも文系の場合日本では博士号を取るのに時間がかかります。日本では博士号が取りにくいのです。私が専攻した経済学の分野でも海外へ留学して博士号を取得し日本に帰国している人もいます。そして私から言わせてもらうなら下ネタ以外にさしたる話をしようともしない大卒サラリーマンより博士の話の方がはるかに参考になったりためにもなるとも思います。そして博士は専門知識でこちこちで社会常識がないかどうかは医学博士号を持った医師に世話になることもあるでしょうからそれらの人に世間話でもしてみればそれが本当かどうかを自分で確認できることではないでしょうか?博士号取得者は日常会話も出来ないような人だと決めつけるべきでもないですし、また企業もいかなる専門知識もなしでやって行けている会社はないと思います。博士に対する企業社会の偏見は会社人間の亭主を女房が「うちの人は地域のことなんか何も知らないんだから・・」と言っている姿にも思えてきます。そんな亭主でもやらせてみれば地域の仕事も人並み以上にちゃんと出来る人かも知れないのです。高卒が半ば義務教育のようになり大学進学率が同年齢の半数以上にも達している中では大学卒がかつての高校卒のようなものになり、そのような流れの中では国の方針如何に関わらず大学院の修士課程や博士課程に進む人の数はこれまで右肩上がりに増えいますしこれからも増えると考えられるのに、最高学位である博士号取得者を冷遇していたのでは日本の教育制度の下で教育を受ける人達の励みもなくなります。二千八年十月十七日の朝日新聞朝刊に紹介された大学院博士課程在籍者数のグラフでは千九百六十年度では一万人にも満たなかった数が七十年には一万人を超え九十五年には四万人以上となり二千五年には八万人近くにまで増加して二千八年にわずかに初めて減少したという推移になっています。当然のことながら大学院修士課程の人の数はそれよりもさらに多いと言えるでしょう。さしたる天然資源もない日本にとって最後の頼みの綱である人的資源、それも最良の人的資源とも言える博士課程修了者を粗末に扱ったのではゆくゆくは日本の社会が立ちゆかなくなることも考えられて来ます。それでなくても日本は教育に対する費用は出し惜しんでいながら費用を掛けて育てられた人材は捨て去るというのではあまりに社会的な対応の仕方がむちゃくちゃで損失ばかりが大き過ぎると言えるでしょう。日本の教育支出の出し惜しみについては二千五年時点での一年間の幼稚園から大学までの公的教育支出の比較としてOECD加盟国(先進三十四カ国)の統計のある二十八カ国中でGDPに占める公的教育支出の割合は日本が最低という記事が二千八年九月十日の讀賣新聞朝刊に載りました。この時期は小泉構造改革の最中の時期でもありますが、OECDの平均は5.0%である一方日本は3.4%。トップはアイスランドの7.2%、二位はデンマークの、三位スウェーデン、四位フィンランドと北欧諸国が上位を占めアメリカは十六位、韓国が十九位とされています。このような状態の日本である事実を踏まえたとしても教育予算を政府がどうするのかなどの政治の意志決定を待ってばかりではいられないので、日本人が博士の能力を十分生かせるような場を作る工夫をするように自らの意識を変えることでこれらの問題に対処すべきなのではないでしょうか。日本人が学ぶあるいは学習することをどれだけ重視しているかを示すとも言えるレジャー白書2008のデータで成長余力の大きな種目として第四位に社会人大学/市民大学が入っていることは幾分かの救いと言えるでしょうか。トップはメタボ検診の影響もあってフィットネスで成長余力は六千七百八十億円、二位がクルージングの五千九百八十億円、三位はエステで四千三百五十億円、四位の先の社会人大学/市民大学は二千八百八十億円、五位がヨガ・ピラィテスで二千五百五十億円とされると二千八年九月十一日の日テレニュース24で報道されました。ほとんどが健康関連のものではありますが、学びが第四位であることは日本の社会人もまだまだ捨てたものではないと言えるかも知れません。博士課程修了者が社会の中で活躍する場をなかなか得られないと言うなら現役の社会人がそれに匹敵する力を身につけてその分を埋め合わせなければならい部分もあるでしょう。健康管理はどんな仕事においても基本ですから当然健康関連への出費は必要と誰しもが考えるにしても、仕事上の知識や技能の更なるレベルアップへの投資も個々人にとって必要になる場面もあることでしょう。仕事もしながらそれ以外に勉強もするというのは大変な苦労と負担がかかることではあるにしても、博士などという専門知識を持った人が職場の中など身近にいなければ自分の方から大学へ出向いて教えを請わなければならなくもなります。 その日本の大学はと言うと二千八年十月十日の朝日新聞夕刊には二千八年度の世界トップ200大学の記事が載りましたが、一位はハーバード大学、二位はエール大学、三位はイギリス・ケンブリッジ大学と二十位の中の十三は欧米だそうです。トップテンの中にはイギリスの大学が四校含まれているそうです。日本の東京大学は十九位、京都大学は二十五位、大阪大学は四十四位、東京工業大学は六十一位、東北大学は百十二位、名古屋大学は百二十位、九州大学が百五十八位、北海道大学が百七十四位、早稲田大学が百八十位、神戸大学は百九十九位となっています。唯一早稲田大学だけが私立でそれ以外は大学法人になったとはいえ全て旧国立大学ばかりですが、世界に冠たるアメリカのハーバード大学はすでに書いたように私立大学です。この大学評価の評価基準は研究者による評価や論文の引用数などの研究が中心で、それ以外に教育力と企業からの評価や留学生の数などで総合評価するそうです。日本の大学だからと言って必ずしもきわめて上位だというわけではありません。二千八年のノーベル賞は物理学三人と化学一人の四人の日本人とは言ってもそのうちの一人は米国籍ですから日系人といった方がいいかもしれませんしもう一人もアメリカ在住ですが、これまでなかった多くのノーベル賞受賞者が生まれました。しかしこれらの大学評価を見れば海外の国々には日本よりも遙かに多くのノーベル賞受賞者がいておかしくないと言うことは容易に想像が付きます。そのような国際的な場面で見た日本の高等教育ですが日本の教育費は平均で世帯年収の三分の一にも達しているという数字が二千八年十月十六日にマスコミで紹介されました。朝日新聞夕刊では日本政策金融公庫のアンケート結果として世帯年収が二百万円から四百万円の層では小学校以上に子供が在籍する費用は世帯年収の55.6%、在学費用の絶対額は年収が九百万円以上ある世帯は二百万円から四百万円の世帯よりも五十七万円あまり多く平均では二百二十一万一千円ほどだそうです。そして高校から大学までにかかる教育費は受験料や入学金などを含めると平均で千二十三万六千円ほどになるそうです。教育費は前にも述べたように企業で言えば研究開発投資であり国でいえば科学技術予算のようなもので先行投資に当たりますし、企業の未来や子供の将来あるいは国の科学技術レベルを決める重要な費用なので削るに削れないという側面があります。そのため何をその分削るのかですが、記事によれば一位が旅行・レジャー費の62.1%、二位が食費で48.8%、三位が衣類購入費の46%だそうです。遊ぶこと、食べること、着ることを我慢して教育するわけですが、企業で言えば研究開発投資が成果を生んでくれるかどうかに企業経営者は大きな関心を寄せるはずです。当然のことながら教育費を負担する親も教育にかけた費用に見合う成果を期待するわけですが、教育を受けた人間を社会的に活かせるかどうかまた社会的に最善の活用が出来ているのかどうかは、社会全体が費用負担をしているわけではないとするなら企業や社会はその費用が活かされているのかどうかにはあまり関心を払わないこともあるでしょう。企業が自らの費用で教育研修を施した社員が一〜二年もしないうちに転職でもされたら企業としても泣きたい気持ちになるであろうにしても親がカネをかけて育てた子供なら企業は使い捨てにしても痛くもかゆくもないと言うことなのですが、しかし社会全体で考えたときの子供の養育・教育にかけた総費用と人材の活用による成果である総利益とを全てひっくるめて考えたときにはうまく人間を活用できないとそれだけ社会全体では損失が生まれていることになると言うことです。総利益から総費用を差し引きして考えなければならない訳なので、人材を使い捨てにすることはかけた費用を社会的に無駄にしていることになるからです。かけた費用はなるたけ早く回収しなければ利益は大きくならず費用を費用のままにして回収できなければ損失になってしまいます。食べることも我慢して教育費にとは言ってもファーストフードやファミリーレストランそして飲食店などを含めた日本の外食産業の産業規模は不況の中で外食する人が減っているとはいえ十二兆円〜十三兆円と言われますから日本の教育産業の産業規模よりも遙かに大きいと言えます。学齢期にある人の学校教育ばかりでなく派遣切りなどにあう人達が増えている二千八年末から二千九年の時点では社会人教育や技能訓練など成人にとっての職業訓練の場なども必要になってくるでしょう。二千八年十一月六日のNHKクローズアップ現代では“教育に穴が空く”として非正規教員が教育現場で増えていると報じていましたが、地方行政の財政悪化や財政負担の軽減のためにパートの教員に依存する公教育の姿があらわです。以前に記した教育現場の教員を大卒から大学院卒にレベルアップすることなどは夢のまた夢で望むべきもないのが日本の教育を巡る現状だというのが正直なところなのでしょう。また子供がまだ成人には達していないと思われる三十代から四十代のサラリーマンの労働時間は二千八年時点ではそれまでの五年で月に五時間多くなっていると言われます。ゆとり教育で子供の家庭で過ごす時間は増えていたのかも知れませんが親の方が時間がなくなり始め、そのため親が子供にふれあったり家庭で教育したりする余裕が物理的になくなりつつあると言うことです。子供の教育というものへの条件は学校も家庭もなかなか十分な体制を整えることができていない姿が明らかです。また親に近い年齢の人達を養成する社員教育や社員研修を十分施すだけの余裕が企業にもなくなりつつあります。これまでは自社で人材育成を行ってきていた日本企業でしたが、バブル経済の崩壊以降は即戦力となる能力は学生時代に身につけておくことを企業が求めるようにもなっていたからです。 そのような中で理数系の授業数を増加させるのに伴い文科省は授業支援の非常勤講師を学校現場に一万人配置するために五十六億円の予算をつける方針だと二千八年十二月十七日の朝日新聞朝刊にはあります。国際比較での日本の学生の理数科目離れと成績不振をなんとかしなければという事ですが、講師には退職教員を当てる方針のようなので若手教員と組ませればて若手の育成を兼ねることも出来るかもしれません。ただ、文科省は千五百人の正規教員の増加を希望していたがそれは八百人に抑えられたとのことで、教育現場は非常勤講師で支えられる部分が大きくなると言うことのようです。しかし増やされる非常勤教員や正規教員の数を上回る病気休職の教職員の数が増えています。小中高校の病気休職の教職員の数は九十七年時点では四千人ほどでそのうち精神疾患によるものは千七百人ほど、その割合は四十%程度だったものがその後二千七年時点では病気休職の教職員の数は増え八千人となりそのうち精神疾患によるものが全体の六十%程に上昇し五千人に上っている様子が二千八年十二月二十五日の朝日新聞朝刊にグラフで示されています。これら病気休職の教職員が職場復帰してくれるだけでも教育現場はかなり負担が軽減されると言えますが、負担が大きすぎるために教師達は精神疾患に陥るという悪循環が生まれてしまっているとも言えそうです。教育現場の環境は精神的には良好な環境とは言えない教師達が消耗しきってしまっている状況が生まれていると言えるでしょう。不況に伴うリストラなどで企業などの会社社会の中でも企業マン達は負担が増えて精神疾患に罹る人の割合は高くなることが予想されのでしょうが、教師達が精神疾患を病む確率は企業社会よりも高いのではないのでしょうか。救急医療などとともに日本の教育は現場から崩壊しそうな状態と言ってもいいようにも思えてきます。どちらも人々にとってはなくてはならない社会の構成部分であったにしてもです。日本の教育現場がかなり痛んでいる状況の一方で二千八年のリーマンショック以来の金融危機に見舞われたアメリカではオバマ大統領が二千九年一月二十日の就任式に先立ってグリーンニューディールなどの予算を表明していますが、その中には二十一世紀への教育として千四百億ドル以上の教育分野への予算配分が含まれています。一ドル=九十円で計算しても一兆二千六百億円以上の額に上ります。アメリカの経済規模は日本の三倍程度ですからそれで修正して日本の予算に置き換えると四兆円以上に匹敵するでしょう。これらの予算措置の効果は単に経済対策というばかりでなく次の時点でのアメリカの飛躍を用意することになるのかも知れません。教育は次の時代を担い作り上げる人材を養成することになるからです。ただ、アメリカの不況の影響で地方行政の歳入が減少してニューヨーク州などは教育予算を削減したりしているので、連邦予算の教育予算が増やされたとしてもそれは削減された部分の穴埋めにしかならないことも十分考えられます。 それでもアメリカは人口増加社会ですが日本は総人口が減少し始めています。二千九年三月十二日の朝日新聞夕刊には二十五歳から三十九歳の年代の非正規男性社員の婚姻率は正社員の半分だとの厚生労働省の調査結果の記事が載っています。正社員の男性はこの五年間で二十四%が結婚しているのに対し非正規社員は十二%であり、年収百万円未満の男性がこの三年間に結婚した割合は八%なのに対し、年収四百万円〜五百万円での結婚率は二十一%と三倍近い開きになっています。同じ年収でも男性よりも女性の方が結婚率はいくぶん高くなっておりテレビなどではカネがなくても愛を勝ち得てハッピーになれるといった筋書きのドラマが放映されたりはしますが、玉の輿や逆玉というまれな事例はあったにしても実際はカネのあるなしによって結婚できるか出来ないかが大きく左右される要因の一つであるとも言えるでしょう。例えば二人の月収をあわせても二十万円に満たない若い男女が二千年代の日本の都会で暮らしたとして、食料を手に入れるにも現金が必要でそれにアパートなどの家賃や光熱費を支払った残りのカネでいったい何人の子供を産み育てられるというのでしょうか。しかも長年働いても賃金が上がる保証がないと言う条件の下に置かれたら多くの子供を産み育てることは絶望的と言わざるを得ないはずです。そして貧困世帯の子供は十分な教育機会に恵まれず貧困が代譲りになると言うことばかりでなく、貧困に陥る人の数が増えれば結婚し家庭を持つこと自体が不可能になるのでその分子供も生まれにくくなり少子化を加速させる原因にもなってくることでしょう。経済的に恵まれなさすぎるがために子供を作れない人が増え子供を持てるのはある程度の所得のある人だけになって行けば、もし資本主義社会の富は搾取の体系の結果であったなら搾取の対象になる安い労働力そのものはどんどん減少し搾取するシステムも行き詰まるのかも知れません。自分や家族が上位の社会階層に移行することは望むべくもないと言うだけでなく、搾取が行き過ぎれば子供を産み育てその子供がまた子供を産み育てるという単純再生産のサイクルさえ維持出来なくなってしまうからです。それは貧困世帯の子供達が教育を受ける機会に恵まれないという問題よりも以前の段階に位置するさらに深刻な問題だと言えるでしょう。上に示したような実際に日本では非正規雇用の人の方が正規雇用の人に比べて男女とも婚姻率が低いという数字が出ています。非正規雇用の人の割合は日本ではすでに勤労者の三分の一を占め千七百万人にまでになっていることを考えれば、日本の社会が底辺から抜け落ちてゆくと言うことはある程度明らかといえるでしょう。これが世界第三位の経済大国の座をまだ保持してはいても日本の現実の一部でもあることが事実と言えそうです。このような賃金水準はマルクスの言葉で言えば生存費賃金という人間が自己の生命を維持するためだけでぎりぎりの賃金水準と言え、人間が生物として子孫を残すという生物学的要件を満たせない社会条件の水準にいる階層が生み出されていることにもなります。これでは企業は一時的に利益を上げることが出来たとしても長期にわたって成長してゆくことが出来なくなります。日本の場合出生率は1.3程で総人口を維持してゆくことも出来ませんし、たとえ婚姻して子供ができても最下層に近い所得水準の人達の家庭では下手をすれば乳児死亡率が上がってしまうことも考えられます。最も弱い立場の乳児の死亡率が高いと言うことは、人類学者の目からするとその国が如何に経済大国であってもまた軍事大国であってもその国が将来的には衰退の道をたどることを示す重要な指標と考えられるそうです。日本の乳児死亡率はこの時点ではまだ低く抑えられていますがアメリカのそれはかなり高い水準にあり旧ソ連はそれよりも高い水準だったとされます。自由主義市場経済は市場のメカニズムを通して資源(生産要素)を最適に配分するシステムだというのが自由主義市場経済を支持する人の主張の中にあります。しかし自由主義市場経済が人的資源の再生産すら不可能にしてしまう水準にまで突き進むものだという事実を見れば必ずしも自由主義市場経済が合理的なものであるとも言えなくなります。むしろそう思うことは自由主義市場経済というものに対する幻想にもなってしまうからです。人間がいない経済などはあり得ないからです。オカネが儲かって喜ぶのも損をして嘆くのもまたお金を使って楽しい気分を味わうのも全ては人間のやることだからです。すなわち経済活動の主体はあくまで人間だと言うことです。そして市場経済は縛りすぎても経済は死んでしまいますが自由にさせすぎて野放図になると何をしでかすか分からないところがあります。高額所得者がいくら強がって見せてもその経済社会は足下から崩れてしまうこともあります。一つの社会の衰退や崩壊はその社会の底辺が抜け落ちてゆくことから引き起こされるのかも知れないからです。 日本の教育分野でのインターネットの利用もかなり進んできていると思われますが、日本のインターネット利用者数に関する総務省の調査結果が二千九年四月五日の讀賣新聞朝刊に発表されています。それによると日本のネット人口は九千九十一万人となり四人に三人がネットの利用者になっていると推計されています。パソコンからの利用が八千二百五十五万人と最多で、携帯電話などがな千五百六万人、ゲーム機やテレビなどからが五百六十七万人の利用だそうです。先の日本国内における経済格差などを加味して考えたとき、ネットカフェ難民などの問題はあっても情報格差だけは小さくしていかなければなりません。貧困世帯と言われる世帯、殊に学齢期の子供がいるそのような世帯にとってもせめてパソコンがあれば割安で学ぶ機会や学習の仕方の支援をするものもネット上には存在していますし、それは大学レベルの教育も受けられる条件ができはじめています(例:1 Hello School.2Net Teacher.3.道塾 4.e点ネット塾,5.gacco)。インターネット利用の国際比較では、利用者数は一位が米国、二位が中国、三位が日本となっていますが、人口が各々違うのでむしろ普及率の方が重要と言えるかと思います。普及率では日本は世界で十位程度のようです。インターネットの利用も経済力や景気の動向などの影響は受けるわけで、日本のインターネット利用率は二千八年末時点では七十五・三%ではあっても、年収二千万円以上の世帯の利用率は前年より九%以上増えて八十六・九%、六百万円以上八百万円以下の世帯では七十九・一%、二百万円以上四百万円未満が66%とどの階層も一ポイント以上増えています。しかしに百万円未満では五十・五%と前年より五・五ポイント減少だそうです。年齢別では二十〜二十九歳が九十六・三%の利用率で最高、五〜十二歳が六十八・九%、五十から五十九歳が八十二・二%、でどの階層も増加している一方で七十〜七十九歳が二十七・七%と一・一ポイントの減少、八十歳以上は十四・五%でゼロ・九ポイントの減少だそうです。これは二千九年版の『情報通信白書』の数字として二千九年七月十一日讀賣新聞朝刊の記事になっている部分ですが、低所得者や高齢者が景気の低迷などの影響を受けて通信費を減らしていると言えそうです。若い世代の利用率が高いのは救いですが、学齢期にある学生達が問題なくネットを利用できる環境が与えられていることが望ましいとも言えます。これらは各家庭の状態を示す数字ですが公的な教育の部分に対して言えば、日本は子供の数が減り続けているのでそれに併せて予算を減額するのではなく教育予算は据え置いたままにすれば子供一人当たりの教育投資額は増えることになります。二千九年五月五日の讀賣新聞朝刊には十五歳以下の子供の数が二十八年連続で減少し過去最低の一千七百十四万人になったとあります。頭数の多い団塊の世代が子供だった千九百五十年頃は三千万人ほどですので半分近くに減少しているわけですし、二十八年前の団塊ジュニア達が子供だった千九百八十年は二千七百万人ほどで、それ以後これまで減少し続けた子供に対して物価変動を調整した上での同額の教育予算を組めばかなり充実した教育が施されることになるとも言えます。教育予算を二十八年前と実質的に同額に据え置けば学生一人当たりの教育予算は二千九年度には二十八年前の 1.5倍強になるからです。民間のアンケート調査では子供達が将来なりたい職業として男子は第一位がプロ野球選手、第二位がサッカー選手、第三位は学者で、女子は第一位が食べ物屋さんなどだそうですが、十年前には子供達がなりたい職業の第九位に入っていたサラリーマンと言う答えは二千九年には十位圏内からは消え去ってしまったとのことです。経済的苦境の中で日本の勤労者の八十二%を占め実質的に日本経済を支えているサラリーマン社会が大きく揺らいでいる影響と言えるのかも知れません。所得格差によって生まれ出る教育の格差については二千九年五月二十九日の讀賣新聞朝刊の社説でも取り上げられていますが、政府の教育再生懇談会の第四次報告として「他の先進国に比べて幼児教育と高等教育への公的支出が少ない点を重視し、その私的負担の大きさは[看過できない水準にまで至っている]としている。・・四年制大学への進学率は約50%に上るが、実際には親の経済力によって大きな差がある。年収四百万円以下だと約30%、一千万円超であれば約60%と、二倍もの開きが出ている。文部科学省の推計では、標準世帯で子供がふたりとも大学生の場合、その費用は家計の三分の一を占めるという。」と述べられています。所得が低い家庭に生まれたが故に優秀な頭脳の持ち主でありながらその芽が摘まれてしまうような事態は最大限避けなければならないところです。アメリカでは二千八年秋に始まった金融危機のあおりでカリフォルニア州が財政破綻の危機に見舞われ、アメリカで最も経済規模が大きい地方自治体でありながら二千九年夏にはシュワルツネッガー知事が財政の非常事態宣言を発表し三万五千人に上る教職員の削減をしなければならなくなりました。連邦政府による不況対策の財政支出によってそのうちの五千人は雇用が守られるとしても三万人は解雇されるだろうとはアメリカのテレビニュースが春の時点で報じていたところです。これを日本に置き換えるなら東京都が財政難に陥って教育・福祉予算を大幅に削減するために教職員を大量解雇するような状況と言えます。たとえその時の財政は持ちこたえられたとしても次の時代を担う人材が育ってこなかったとしたらこれは大きな将来への禍根を残すものともなってもきます。日本では全国学力調査の結果として親の収入が高いほど子供の学力も高いという相関関係があることが指摘されました。勉強のできる子イコ−ルお金持ちの子、勉強のできない子イコール貧乏人の子と言われてしまいそうな分析結果なのですが、二千九年八月五日の讀賣新聞朝刊に載った記事では最も平均正答率が高いのは年収が千二百万円以上千五百万円未満の世帯の子供で二百万円未満の世帯の子供の正答率とは二十ポイントもの開きができてしまっていることがグラフで示されています。この時点の雑誌記事などには親が自分の子供に勉強をさせようとするときには「うちは金持ちじゃあないんだから一生懸命勉強しなさい」と子供に言って聞かせるとかですが、親が子供を勉強に向かわせるのは高額所得者の方が時間的にもその余裕がありそうな感じがします。高学力の子供の親は幼い頃からの絵本の読み聞かせや博物館・美術館巡りをしたりニュースや新聞記事を話題に出すなどの傾向があり、本の読み聞かせやニュースを話題にするなどは親の所得に関係なく学力向上に役立つと記事にはありますが、親が生活に追われて時間的な余裕がとれない状態だとそれもままなりません。私は「結果が同じでなければならない」と言う悪平等には賛成しないのですが、子供のスタートラインはできるだけ同じものにしておくべきことと思っています。ただそこで難しいのは親の結果が子供のスタートラインに影響してしまっていることなのです。二千十二年五月二十二日の読売新聞夕刊の記事では、二千十年の文科省の調査結果として塾や習い事あるいは参考書代などの学校外学習費の出費額は年収が千二百万円以上の世帯では三十四万円ほどで年収が六百万円から七百九十九万円の階層では二十一万円ほどであるのに対し年収が四百万円以下の階層になると十八万円ほどと二十万円を切ってしまっています。これからすれば親の年収によって子供達の知識や教養が大きく違ってきてしまうと言えるでしょう。アメリカの高校では高校生の10%が中退しておりそれらの生徒が社会の重荷にならないようにYouth Buildという公的教育機関ではない団体による建築の実地訓練を兼ねた教育システムなども取り入れられていると二千十二年五月二十二日の衛星放送NewsHourで紹介されていますが、日本のニート対策なども考えていかないと、それらの人たちが社会参加できないだけでなく生活保護の人たちとなって行くことなどで社会的な負担も増加してしまうと言うことに結果していきます。 二千九年八月三十日に行われた衆議院議員選挙で大勝した民主党のマニフェストでは「子供一人当たり年三十一万二千円(月額二万六千円)の[子ども手当]を中学卒業まで支給。公立高校生の授業料を無償化し、私立高校生には年十二〜二十四万円を女性。大学生、専門学校生の希望者全員が受けられる奨学金制度を創設。生活保護の母子加算を復活し、父子家庭にも児童扶養手当を支給する」とされています。これがそのまま実現すれば子育て家庭にとっては大きな支援になるとも言えます。出生時から15歳までに累計で四百六十八万円になる計算だそうです。これらのために民主党は約五兆五千億円ほどの財源確保を目指しているとされますが、確かに子どものために支給されたお金でありながら子育て支援で浮いた分のお金を遊興費に使ってしまう親も中にはいることでしょう。しかし子育てがしやすいまた子供をもつことに尻込みをして二の足を踏まずに済む社会は用意すべきだとも言えます。それまでの自公政権の下で行われていた児童手当などの予算規模は二千六年時点で九千七百五十一億円だったことを考えるとかれこれ五倍以上の予算規模になります。子供に教育を受けさせたいが資金面で無理があると思っている家庭への支援になることは確かです。将来的には日本は高校までを義務教育にしてもいい時期に来ているのかも知れません。そうすると大学進学をする人が現在は二人に一人の割合ですがその割合はさらに大きくなって大学卒という学歴もかつてほどの価値は相対的になくなって来ると考えられますが、大学レベルの知識を学ぶと言うことの意味が低下するわけではないとも思います。日本の子育ては親の費用負担の割合が高く公的な支出の割合が諸外国と比べて低くなっています。二千九年九月十二日の讀賣新聞朝刊の記事では子ども一人を幼稚園から大学卒まで育てるのにかかる費用は最少でも千三百六十万円、最高では四千三百八十六万円とされています。これでは何人もの子供を持つことを敬遠してしまう若い夫婦も多数存在することだろうと考えられます。また多くの子持ちになれるのは富裕層のみと言うことも当然だろうと思えてくる数字でもあります。そしてこれら子育て世代への支援とともに教育現場の充実も重要になることでしょう。教師達への研修はもとより教育機材などの充当も必要だろうと思います。教師一人当たり一台のパソコンの用意や校内LAN体制の整備などで教師と生徒の親あるいは教師間の情報共有など教育の裏側で教育の下ごしらえをするための下地を整える部分を効率化することなども目指すべきだろうと思います。教育分野でも効率化・省力化できる部分はそうする必要はあることでしょう。雑務などの手間がかかっていた部分を時間短縮できれば浮いた時間で学生達と接触する機会を増やすこともできます。あるいは教科のプラン作りをじっくり練る時間にも使えるかも知れません。それらのために情報機器の活用方法を工夫するのは有意義なことと言えます。私が住む神奈川県平塚市も文科省が推進する「学校ICT環境整備事業」を活用して情報活用能力の育成と教職員の校務負担の軽減を図るそうです。九月五日の地域紙の湘南新聞に載った記事では国からの補助金は二億一千万円と市の支出約千二百万円で中学校教職員には一人一台のパソコンを目指して四百台購入、それ以外に液晶テレビや小学校には校内LANの整備そして同軸ケーブルの敷設などを行うそうです。記事の内容から推測するとどうもクラウドコンピューティングにして生徒の名簿などをサーバ側におくことで共有化し重複する作業を省略して効率化を図るようなシステムになるようです。各学年クラスごとの名簿などはそれが表計算ソフトのファイルで作られていれば、事務の職員が作成したものをサーバに置くことによってそれを基にして各教科の担当の教員達は試験結果の集計などもでき教員の手間を省くことも可能になります。あるいは書式の決まっている書類などもそのひな形をサーバに置けば個々の教員が各自で書式を作る必要もなく全ての教員がサーバ上のひな形を使うことができます。少なくともこれまで事務所や教員間で重複して行われていた作業などは省略して簡略化できるわけです。学校の教職員にとってもパソコンは必須アイテムとなるわけですが、日本のインターネット人口が八割近くに近づいている中ではそれも当然と言えるでしょう。このような政策は「第三次教育IT化時代の到来」としてパソコン整備士協会の会報『ADJUSTER』の二千九年十一月一日号でも取り上げられています。それによると「平成六年(千九百九十四年)から開始されたPCの整備を第一次教育IT化時代、平成十年(千九百九十八年)からの高速回線への接続を第二次教育IT化時代とすると、[学校ICT環境整備事業}は第三次教育IT化時代の幕開けと期待している。なんせ、これまではモデル地区のみ、あるいは一クラス当たり数万円のIT予算しかあてられなかった[学校マーケット]に、四千億円規模が一気に投じられることになるからだ。現在学校で活用されているアナログテレビ四十四万台がデジタルテレビに入れ替えられ、小中学校に一台ずつ電子黒板が設置されるという。さらには二百万台ものPCが配備されることになる。動作の遅いWindows98を十年近くも使い廻してきていた学校現場にとっては絶好の機会となり得る。」とあります。教師が学生に「パソコンを教え」また「パソコンで教える」ことにより授業がこれまで以上に生徒達に分かりやすいものになって行けばよいことと言えます。これは日本の「iJapan戦略2015」という事業の三つの柱[電子政府・電子自治体][医療・健康]のうちの一つが[教育・人材]とされていることによるもののようで、先の記事には「具体的な施策としては [教員のデジタル活用指導力の向上]や[電子黒板当デジタル機器を用いたわかりやすい授業の実現][高度デジタル人材の育成] などが重点事項として特記されている。まさに補正予算で整備したハードを補うソフトの充実を目指した事業だ」と解説されています。パソコンなどのデジタル機器を介在させるとは言っても教育は人が人に関わることだと言う基本に変わりはないことでしょう。教育のデジタル化などによって作業効率を上げ浮いた時間で生徒達への対応の時間がこれまで以上にとれるようになることを切に望みます。パソコンに代表される情報通信社会の到来は家屋の外観や車などのようにぱっと外から見える変化ではなくともテレビや電話が日本の社会を変えたように日本の教育分野をも大きくまた確実に変える力を持っていると言えます。学校教育を充実させ多くの学生がなるたけ高い教育を受けるチャンスを増やすことで日本の社会の中で優秀な人達が新たなビジネスや新たな製品開発などで力を発揮してもらわないとその次の世代の雇用の場も増えてきません。パソコンは情報通信という一つの産業分野を形成し製造業や接続業者あるいはパソコン教室そしてプログラマーやページデザイナーなど新たな分野での雇用の場を提供はしましたが、製品として出荷されるパソコンは人々の作業効率を上昇させ省力化にとっての強力なツールでもあるので雇用すべき人数をそれまでより減少させても職場が動くことを可能にもしています。一人当たり生産性が上昇すると言うことは同じ仕事量をそれまでより少ない人数でこなすことができるようになったことを意味するので、少なくなった分の残りの人達には新たな雇用の場が必要になるわけです。二千九年九月十二日には二千十年度の高卒求人倍率についての発表がありましたが、それまで団塊の世代の大量退職に伴う人員の減少を埋めるため求人が増えていたのが二千八年九月のリーマンショック以後の世界同時不況によって高卒求人倍率はそれまでの1.5から0.71へと急落してしまいました。殊にひどいのは沖縄の0.11倍、青森0.16、熊本0.20倍、鹿児島0.22倍、岩手0.23倍、高知0.23倍、宮崎0.24倍、北海道0.26倍、秋田0.26倍、福島0.31倍などの地域で、一倍を超えているのは東京2.62倍、大阪1.46倍、愛知1.35倍、香川1.04倍だけだと二千九年九月十二日の讀賣新聞朝刊にあります。求人倍率が一倍以下の地域ことに最下位十位以内に含まれるような地域にこそ新たなる産業が生まれてこなければならないと言えるでしょう。地域間の雇用機会のばらつきは必ずしも学生達の能力のばらつきとは相関関係にあるとも言えないようです。学業面で劣っているわけでもないのに地元には雇用の場がないなどと言うのは悲劇です。地方の大学にも新たな産業の芽となるような研究成果を上げてもらいそれを地元の有志や企業に提供して地場産業の活性化に寄与してもらわなければならないかも知れません。どのような形であれ一時的な景気対策による効果だけでなく持続して活動できる産業が地方には是非とも必要になってきます。 教育とも密接に関係してくるであろう民主党が政権を取って行われる「子ども手当」によってどのような動きが生まれるかを分析して予想した記事が『日経ビジネス』二千九年九月十九日臨時増刊号に載っています。それによると千九百九十三年から二千七年にかけて中学生の塾通いは六十%から五十三%程へと減少傾向をたどっていますが、小学生の塾通いは二十三%程から二十六%程へと上昇し、通信添削は小学生・中学生ともに十一%程から二十%・十七%程へと増加してきていました。親は手始めに月額三千円ないし五千円ほどの通信教育から始めてその後講師からの指導が必要だと思い始めた場合に月謝二万円から三万円の塾へと移ることのようですが、子ども手当はその通信教育と塾の費用の差額を埋め合わせることができると分析しています。また学習指導要領が改訂されることによって授業内容が難しくなり学校の補修を必要とする生徒が増え学習塾には追い風になるとも予想しています。ただ、これまで学習塾は受験実績を重視してきたために中間層を対象にした授業を準備していなかったことが裏目に出て機会損失になりかねないとも分析しています。学習塾や通信教育が学校教育の下請的な存在になったとしても生徒達の学力のレベルが幾分かでもそれで底上げされるのであればそれはそれで悪いことではないにしても、先にも述べたように学生達にとってのその後の雇用の場をどうするのかの問題は残ってきます。他の予測では日本の少子化によって二千三十年には塾などへの家計の教育関連支出は今より二十一%減少するとも言われています。全体の消費は二千三十年では現在より七%減少しているだろうとの予測でもありますが、全体的に日本の経済規模が縮小して行く傾向の中で教育を受けても東京や大阪などの大都市に行かない限り職に就けないという状況では地方からは若者が消えてゆかざるを得ません。すなわち民主党政権が二期あるいは三期続いて子ども手当の政策が八年〜十二年と継続した場合、その子ども手当の恩恵を受けられる世代は都市部に集まってしまっていると言うことになります。幾分かでも都市の風を受けた経験のある若者が都市の風に触れた目で地方の産物や利点を再評価してなにがしかの貢献を地方にもたらしてくれることを願わざるを得なくなります。それはこれまで地元の人が気づいていなかった地元の産物や素材の新たなる用途開発などによる新しい商品開発や企画についての知識であっても、あるいは販売促進などのマーケティングの知識であってもいいはずです。あるいはまた商品のパッケージのしゃれたデザインや気の利いた商品のネーミングはたまたキャッチコピーや人目を引く商用サイトのホームページ作成などによっても地方に貢献できるはずです。すなわち都市で身につけたスキルを地方の特性を活かしながら地方にも還元してもらうことです。地方の人は地方の人で最大限自分でも工夫しなければならないのは確かなことですが何かしらのヒントも出してもらうことは可能なはずです。成功に導くのは決して容易ではないにしてもです。そして「子ども手当」はOECD諸国の中でも公的費用負担の割合が二十八カ国中二十七番目ときわめて低い水準にある日本の順位を幾分か上昇させる効果もあると思えます。また国や地方の財政状態を考えるなら子ども手当の支給に子どもの人数と所得とを勘案して所得に上限を設けるのもいいと思いますし上限を設けるべきだとも思います。学びたくとも学べないと言う条件にある生徒を少しでも減らしてゆくためにはそうすべきでもあるでしょう。「子どもは等しく社会全体で育てる」とは言っても、子供を持つ家庭が全て等しい経済状態にあるわけではないからです。二千九年十二月十八日の朝日新聞夕刊では年収八百六十万円以下を支給対象にした場合は支給対象となるのは九割で年収を二千万円以下に設定すると99.9%が支給対象になると記されています。これから考えると子どもがいる比較的若い年代の夫婦では年収が一千万円近い家庭は十数軒に一軒、二千万円以上となると千軒に一軒と言うことになります。高校の授業料無償化にしても少なくともこの時点では年間六千五百人の高校中退者が存在しています。その中で経済的理由で中退せざるを得ない人を何とかすべきです。かつての日本には高い教育を受けた人を敬う気風が社会一般にありました。ですがこの時点の日本は如何に多くの人達に高い教育を受けるチャンスを与えそしてなるたけ多くの人が高い教育を受けられるようにするのかが課題となってきています。そうでないとこれからの日本が経済的にもやって行けなくなる危険性をはらんでいるからです。学んだ知識や技術をさらに発展させたり応用したりしながら新しい製品やサービスをどんどん生み出してゆかない限り日本の将来を切り開いて行く道がなくなるからです。それらの知識や技術の中には地方にとって非常に役立つものも生まれ出てくるかも知れません。地方にとってこそ必要な知識や技術が多数生み出されてくれば日本の地域間格差も幾分かは解消できるというものです。地域間格差を埋めるすべを作り出してくれるのも多分頭脳だからです。二千九年九月二十九日のNHK[ゆうどきネットワーク」で放映された規格外野菜を粉末にしたり海苔のようなシート状に加工したりする技術などは農家にとって福音となります。規格外野菜は生産量の二割ほど生まれでるといわれているからです。規格外野菜の粉末にしたものはケーキなどの原料に使用できるそうで野菜の色素で彩りの綺麗なケーキができるようです。長ネギ、ゴボウ、ニンジンなどかなりの種類の野菜を粉末にできるようですが、それまで家畜の飼料としてただで引き取ってもらっていた紫芋などの規格外野菜も値段をつけて買ってもらえるとのことです。また野菜をシート状にする技術は大学の研究者の協力も得てすりつぶした野菜につなぎを加えることで可能になったようですが、大根や紫タマネギあるいはニンジンやカボチャなど各種野菜をシート状にする技術で野菜は軽量で運びやすい商品になっています。彩り鮮やかな海苔巻きなども作れるのです。これらの商品は野菜としての保存期間よりも長く保存できるという利点もありますし、野菜の水分は飛ばされて軽量なので宇宙ステーションや南極の基地あるいは遠洋航海へ出る船舶や潜水艦の中などでもビタミンや野菜の色素が不足しそうな環境にあるところでそれらの問題を解消する食品として使えそうにも私には思えてきます。また、これらの商品は生鮮野菜のように鮮度が落ちたり傷むことがないので輸出にも適しています。輸送のための温度管理などにはそれほど気を遣わなくても済むからです。確かに干し芋や野菜ではないとは言え干し柿や干し椎茸などに代表されるような干し野菜などの野菜を保存食にするための知恵はこれまでもあり、漁業の分野なら海苔は言うに及ばずスルメイカや魚の干物あるいは昆布やテングサを原料とする寒天そしてホタテの貝柱の乾物や鰹節あるいはちりめんじゃこなどと言ったところです。今は時代の流れでなくなってしまっていますが、私の街にもかつてはそれらの食品を専門的に扱う乾物屋さんもありました。そして日本人は「農耕民族」としてやってきた歴史が長いですが、これからは如何にして「脳耕民族」あるいは「脳考民族」に変身できるかです。どんな分野の仕事に就いていてもこれからの日本人は日々を過ごす中で仕事においても生活の中でも悪知恵ではない本物の知恵を働かせるために一生懸命「脳作業」をしなければならなくなって来たとも言えます。また、すでにある技術で地方経済に貢献できるものは速やかに導入する努力を払うべきです。風力発電や波力発電そしてエタノールの生産や小水力発電などの地方にこそうってつけと言える自然エネルギー分野の技術はすでに日本にはあるわけですからそれらを速く国内で実用化し活用できる体制を整えるべきでしょう。それらの技術を活かすだけの自然条件も日本にはあります。自然エネルギーの技術それも世界有数のレベルにある技術を他国に売り込むだけで自国では活用しないでいるというのは宝の持ち腐れだからです。すなわち日本の技術を世界に誇ってばかりいないで自分でも活用すべきなのです。日本の技術の産物である製品を導入した国から「こういうのはまだ日本にはないだろう」と言われることくらい滑稽なこともないはずです。それらの技術を活用でききらずにいるとしたら制度を含め日本の社会システムの中に何かの不備や欠陥があると考えるべきでしょう。中国が推し進めている東シナ海でのガス田開発を問題にするのであれば、それと同程度に自国内でのエネルギーの自給体制のことも考えておくべきだと思います。 地方に有望な産業が数多く生まれ出なければ地方の若者は都市部へと仕事を求めて出て行かざるを得なくなります。ましてや都市部から地方へと人が移ってくることなどは望むべくもありません。二千九年十月二十二日の朝日新聞夕刊には東京都が異例とも言える二度目の教員採用試験を行うという記事が載りました。三十年ぶりのことだとされますが、教員の採用枠を広げようとしている東京都の小学校教員採用試験の倍率は2.6倍と優秀な人材を確保できる水準の倍率を割り込んでしまっているからです。東京都の場合は塾や予備校などが十分用意されているので教員のレベルが少しばかり低くとも子どもの学力は維持できていると皮肉な見方もできます。これに対し小学校の教員の採用試験の倍率は秋田22.8倍、青森19.7倍、宮城7.4倍、福岡7.3倍、長崎13.7倍などと地方ほど競争倍率が高くなっているので、その地域から東京都は教員を引き抜こうとするわけですが、教員志望の学生は地元志向が強いと記事では解説されています。これらの地方には塾や予備校のない地域もあることでしょうが、なぜ地方の教員試験の倍率が高いかと言えば地方が少子化のあおりと人口の流出に襲われていることが原因と言えます。地方に多くの産業があり若い世代が地方で働き暮らし子供を作り教育を与えるだけの条件があれば地方の教員採用枠も広がり教員採用試験の倍率も下がるはずですが現状ではそうなっていません。地方の学生で教員志望の人達にとって地方の教員になることは非常に狭き門とも言えます。そのような学生達に対して教員の質を高めるためにさらに大学院まで進学することを求めることができるのかどうかと言うことにもなってきます。更なる学費を投入してもその先には雇用の場が必ずしも用意されているわけではないとしたらリスクがあまりに大きすぎるからです。二千九年十一月二十一日の朝日新聞夕刊には「教員養成[六年]の波紋」との記事が載りました。「教師の新たな質向上策として、文部科学省の政務三役が導入を表明した[教員養成六年制]。マニフェストでうたった民主党肝いりの政策で、学部の四年だけでなく大学院の修士課程もセットで義務づけ、手厚い体制で教師を育てようという考えだ。」というものです。しかしそのような政策を採用した場合には「今の大学で修士に進めば二年間で二百三十万円以上かかる」とあるように、教員の志望者が減るのではという懸念があります。その前例が薬学部が六年制になったことで志望者が三割も減少したことです。親ないしは本人の経済的な負担が大きくなることで教員への道を敬遠する高校生が増えるのではとの指摘も十分根拠があると言えます。教員六年制が唱えられるようになった背景には日本の社会全体が高学歴化し大学出の先生と言うだけでは尊敬されないまでになったことです。雑用ばかりが多く親からはああだのこうだのと小突かれ、しかも身分が安定しているとはいえ給与は安く大学院を出てどんなに教師として成功したところで公立学校の教師はビジネスマンや金融マンのように最終学歴は大学卒でしかなくとも年収が一千万円や二千万円になったりわずかの間に億からのカネを残せたりするというわけのものでもないのであれば、割の合わないしかも費用は割高になる教員の道を選ぶ人はほかに就職先がない地域ならともかくそうでもない限り少なくなるのも当然と言えます。東京のような所であればたとえ教員免許を持っていたとしても別に教員にならずとも他の選択肢は沢山あります。しかし日本の社会は社会全体がもう一段のレベルアップを要求されるような国際的状況が生まれ出てもいます。レベルアップしなければならないのは教育もその一つですし教育を介して育てられる人々もそのような状況の中にいます。しかもそのレベルアップを日本はカネのない中で実現しなければならない条件下にあります。教師の条件については修士号のレベルの話がほとんどといえますが、修士の上に位置する博士号についてみると、大学へ通って博士号を取る「課程博士」は二千六年時点では一万三千八百七十五人と十年前の二倍になっていると二千九年十一月二十三日の朝日新聞朝刊の記事にあります。その一方論文審査だけで博士号を取得する「論文博士」はこの十年で四割減っているそうです。Sonyに入社し後にノーベル賞を受賞した江崎玲於奈さんは確か論文博士だったかと記憶しますが、課程博士と論文博士の如何を問わず日本にとっては貴重な人材であることは確かなことです。しかし大学卒だけでなく修士課程や博士課程を卒業できる人はまだ恵まれているというのが現実のようです。二千九年時点では公立の小・中学校に通うこともままならずに就学援助を受けている人が百四十三万六千人に上ると二千九年十二月十日のNHKの六時のニュースで報じられました。また母子家庭の高校生は塾や参考書購入などの学校以外での教育費が十万円と公立の場合は全国平均の約六割だという記事が二千九年十二月十一日の朝日新聞夕刊に記されています。あしなが育英会の調査結果だそうですが三百八十五人の回答者の半数は低所得を理由とした授業料全額免除を受けている家庭と言われます。その日の同紙には二千五年時点では海外留学生は十年前の1.3倍に増えている一方でアメリカへの留学生の人数がこの十年で一万人減っているとの記事があります。留学できるだけでもまだ恵まれている条件の人だとはいえますが、このような状況の中では教育を受けた人はなるたけその人達の活用の道を考え、教育を受けられない人をなるたけ減らすような工夫をしなければならない社会になってきてしまったとも言えます。恵まれた境遇の人達には自分達は恵まれた境遇にあると言うことを自覚するだけでなく新規の技術や製品開発あるいは新たなサービスなどを考案してもらい日本の雇用の場を創出するようなアイデアを出してもらわねばなりません。恵まれた立場の人は自分の利益を求めるだけでなく自分の行動が他の人の利益にも繋がるように、また損害や損失は与えないように心がけてもらいたいのです。 日本人の知識水準とも関係のある本の売上額が二十一年ぶりに二兆円を割ったとの記事が二千九年十二月十三日の朝日新聞朝刊に載っています。それによると八十九年に二兆三百九十九億円と初めて二兆円台を記録したあと九十六年に過去最高の二兆六千五百六十三億円を記録しましたが二千九年度は二兆円を割り込む見込みとされています。書籍の売り上げ額は微減である一方雑誌の売上額が大きく落ち込んでいます。その間に起きていた社会的事象と言えばインターネットの急速な普及があったと言えます。ちょっとした情報や知識ならインターネットで入手できるようになりました。確かに書籍を販売するアマゾン・ドットコムや電子書籍のようなインターネット上の書籍販売サービスも生まれたとはいえ、インターネットが書籍や雑誌の販売にプラスに働いたかマイナスに作用したかは微妙とも言えるでしょう。また二千十年一月二十六日の朝日新聞夕刊の記事ではこの十年間で全国の書店の数は6403店減少し書店の数は全国で二千年十月時点では一万五千五百十九店舗とされています。和歌山県の場合などは減少率が46.7%にも達していますが、書籍の販売が大学校内にある生協の書店ですら激減して売れ行き不振ともなれば日本の先行きはきわめて暗いということもなってしまいます。そして書籍と言っても小説などの分野が多いのでしょうから学術専門書は非常にわずかと言えるのかも知れません。研究分野がビジネスになるのも非常に困難を伴うことのようです。二千九年十二月二十一日の朝日新聞朝刊には大学発の起業が四割に急減したとあります。その記事に紹介されているのは失敗例も成功例もともにバイオテクノロジーの分野のバイオベンチャーですが、その日の夕刊に載っているアルツハイマー治療薬アリセプト開発者の杉本八郎さんについての記事には、新薬開発に成功する確率は0.02%とあります。研究者としては研究成果を出すだけでも大変な苦労を伴う上にそれを研究者自身がビジネスとしても成功させることは至難の業とも言えるのでしょう。大学起業はバイオとIT分野が主だそうですが研究することとビジネスとして成り立たせることとはまた違う能力が必要とされても来るからだと言えるのかも知れません。大学発の起業への助成は成功する確率と雇用への波及などで見た場合の費用対効果が小さいという理由で削減される傾向にあるとのことです。民主党が政権を取ったあとの事業仕分けでも科学技術関連の予算が削られる場面も出てきていますが、無駄を削ることと本当に必要な費用までをも誤って削ってしまうこととでは結果が大違いになってしまいます。そのような過ちだけは最小限にとどめておいてもらいたいと私は切に願うものです。そうでないと次の時点での日本にとってはよって立つ基盤がなくなってしまうからです。科学技術予算と教育関連予算はその意味で重要性を持っています。アメリカの場合政府が教育を重視して教育政策に関与の度合いを強めたのは千九百五十七年のソ連邦による世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げ以降からだと言われます。当時のアイゼンハワー・アメリカ大統領はソ連に対抗するため物理学や数学教育を重視する姿勢を表明し教育に大きく政府が関与する方向へと舵を切りました。日本の教育基本法改正などの場合において政治家が教育に影響力を持とうとするときには道徳教育や規範意識などが取りざたされてどちらかというと精神論になりがちですが、アメリカはもっとプラグマティズム(実用主義)といえるでしょうか。数学などは物理学のみならず全ての科学の基礎に位置するものですのです。二千年代に入った頃のアメリカは金融を経済の主要な柱の一つにしようとブッシュ政権は考えましたが、その背景にあったのも高度な数学を駆使した金融工学などが生まれていたからに他なりません。日本でも深刻化する理科離れを食い止めようと政府も思案しているところですし、政権を取った民主党は高校の授業料無償化を政策の目玉の一つにも掲げました。二千九年十二月二十四日の朝日新聞夕刊には公立高校生の家庭にプラスされる年額が所得階層別に表にして載せられています。それによると年収二百五十万円の家庭は九万四千三百円、三百五十万円の家庭は同じく九万四千三百円、六百万円の家庭は八万一千八百円、八百万円の家庭は五万六千八百円、千二百万円の家庭は四万九千三百円、千八百万円の家庭は二万四千三百円、二千五百万円の家庭は六千八百円となっています。所得階層が高くなるに従って支給金額が減るのは評価できるというものです。予算案で一兆七千四百六十五億円のこども手当や三千九百三十三億円の高校授業料無償化などの教育分野への投資がどの程度経済への波及効果を持つかの経済計算はある程度できたとしても、そのような中で教育を受けた人達が社会人となってどれだけ日本経済に貢献してくれるものなのかはにわかには計算としてはじき出せないところです。二千十年一月十日の朝日新聞朝刊には博報堂が行った意識調査としてこども手当の使い道についてのアンケート結果が出ていますが、それによると三分の二は「教育や育児」に使うとした一方で三割の家庭は「生活全般」にと答えているようです。個々の家庭の経済状態によってこども手当による負担軽減分の使い道も異なってくると言えるのでしょう。使い道のトップは「学校の費用全般」次が「スポーツクラブ」「学資保険」などの順だそうです。二千八年度の段階では各家庭の「学校外活動費」が公立・私立を問わず幼稚園・小学校・中学校・高校と私立小学校と公立中学校を除いて軒並みダウンしています。二千十年一月二十八日の朝日新聞に載った文科相が調べた結果では各家庭が不況の影響で学校外の塾や稽古事などに費用を回すだけの余裕が無くなってきていることが鮮明になっていると言えるでしょう。高校生のいる家庭の場合などは学習参考書への出費までもを削っているとされています。このような状態の中でこども手当や高校の授業料無償化が実施される訳なので、子供のいる各家庭がどのような選択をするのかです。あとは教育分野では大学・大学院の学生に対する支援体制をどうするかが残された課題と言えます。そしてこのような教育分野への支援がこれからの日本の出生率を変えるものかどうかも気になるところです。日本の五十歳までの非婚者数は男女ともこれまでになく高くなっていますが、それには女性が結婚相手に望む年収が四百万円以上であるのに対しサラリーマンの平均年収はこの時点では三百七十万円台でしかないことも影響しているようです。平均で三百七十万円ですから中には一千万円あるいは二千万円や時としては億以上の年収の人もいる訳なので平均以下の年収の人が半数よりも遙かに大きな割合を占めていることは明らかです。一例を挙げれば官僚トップの事務次官の年収は二千三百万円ほどで部長級では千六百万円ほどとの報道もあるからです。またソニーの社長の年収は一億円とかつて語られていましたし二千十年六月十八日の読売新聞夕刊ではソニーのストリンガー会長の年収は四億一千万円ストックオプション分まで含めると八億一千六百五十万円以上とされまた六月二十三日には日産のゴーン社長は八億九千万円とされています。したがって初めて結婚する比較的に若い世代の男性にとっては年収は上の平均よりも当然大きく低いとも言えるでしょうから、女性の希望を満たすことのできる男性は非常に少ないと言うことになってくるはずです。そのため非婚者の数は女性よりも男性の方が遙かに多くなっています。この時点では年収二百万円以下の人が一千万人以上いるとされています。このような状況下では男性でもある程度の年齢にならなければ年収が四百万円には到達しないので晩婚化あるいは非婚化してしまいます。日本の社会は一応見た目は文明社会にはなってはいますがその中の作りは経済的に強い者が伴侶に恵まれ多くの子孫を残すという、さながら野生動物の世界と似た様相とも言えるようです。男女雇用機会均等法も準備されているわけですから女性には自分で働いてみて実際に自分はどれだけの年収が得られるものなのかを自己確認してもらう必要もあるかも知れません。自分は年収四百万円以上の男性にふさわしい価値がある女性かどうかを自分で試してもらうわけです。女性が男性を市場価値だけで計るすなわち男性を値踏みするなら女性も市場価値で計られ男性から値踏みされるのが公平とも言えるでしょう。 年収四百万円を結婚相手の男性に求める場合には女性は自分自身が専業主婦になる形を思い描いているかも知れませんが、夫婦共々非正規雇用の場合だと二人で働いて家族の年収がやっと四百万円になるかならないかの条件に置かれることは容易に予想されます。二千年前後の失われた十年と呼ばれる時期にはロストジェネレーションと呼ばれる人々が生まれました。就職氷河期と呼ばれた時期の人々です。その時期に非正規雇用の人が大量に生まれたわけですが、二千十年にも就職内定率は大きく下がり再びの就職氷河期と言える状況に入っています。大学生の就職内定率は二千八年と二千九年では80%を維持していますが二千十年度には73.1%へと大きく低下しています。二千十年一月十五日の朝日新聞朝刊ではその数字は調査開始の千九百九十六年以来最低、下げ幅も7.4ポイントと過去最大とのことです。従って実際の就職率は二千九年度は96.7%でしたが二千十年度にはそれも大きく下がると予想されます。高校生の就職内定率に至っては全国平均でも六割台になっています。このような環境に置かれた学生達の中には就職するつもりでいてもそれがままならない場合には景気が回復するのを待ち不況の時期をやり過ごすために一時的な身の置き所して高校生なら専門学校や大学への進学あるいは大学生の場合は大学院への進学をする人も出てくることでしょう。しかしそのような選択が可能なのはそれらの人の家庭に経済的な余力がある場合に限られ振り落とされて行く学生の方が数が多いと言えるのも確かでしょう。そのような人達を少しでも減らすには奨学金制度などの更なる拡充が必要になってきますし貸与型だけでなく給付型の奨学金を増やさなければならないでしょう。そしてこれらは日本国内の学生に対してのことが主ですが日本の教育分野は徐々に対外的に解放されて行く方向のようです。すなわち留学生の受け入れ体制が形成されつつあると言うことです。日本の学生のアメリカへの留学生数は少子化による学生数の低下を上回る低下傾向にありますが、日本の高校や大学はアジアを中心として海外の学生を受け入れ始めているという記事が二千十年一月六日の朝日新聞に載りました。日本の学生も日本国内にいながらもアジアを中心とした海外の留学生とも切磋琢磨せざるを得ない条件になってきたとも言えそうです。国内の学生が海外からの留学生と競うことで日本国内に活力を生み出すというのはアメリカ型との紹介がされていますが、ベトナム戦争の立役者だった故マクナマラ国防長官の『マクナマラ回顧録』にもマクナマラ氏の小学校時代の勉強面での競争相手はユダヤ系や日系そして中国系などの子供達だったとの記述があります。マクナマラ氏が存命であれば二千十年には九十四歳の高齢になっていたはずでしたが、そのような人の幼少期に於いてさえアメリカの学校はすでに多民族の状態になっていたことが伺えます。日本がアジアの優等生であった時代は徐々に終わりになろうとしていますしアジア諸国にも優秀な学生は大勢いるはずです。それらの学生達と日本の学生達とが日本国内で競い合う機会を持つのも悪くないはずです。またアジアからの留学生の中で日本が気に入って日本に定住したい人が出てくればなるたけそれらの人を日本は受け入れるべきですし帰国する人達には彼らの国と日本との架け橋になってもらうようにすべきでしょう。そのためには日本人が彼らに対して分け隔てなく接することが重要になりますし邪険な扱いだけはすべきではないでしょう。バブル経済近辺の時点ではアメリカの大学に渡っていたアジアの留学生の間には「アメリカで学んで日本で儲けろ」という雰囲気があったそうですが、現在の日本は経済面では余りぱっとしない状況なのでアジアの留学生達からすれば「日本で学んで中国で儲けろ」といったことになるのかも知れません。しかし教育の面でも中国の北京大学の評価はすでに日本の東京大学の上を行く存在になり、また論文の発表数でも中国は日本を圧倒しています。意気消沈してしまっている日本がもう一度盛り返すにはよほどの努力をしなければならないことでしょう。日本は否応なく教育分野もメガ・コンペテイション(国際的な大競争)の時代に入っていると言えます。それは学生同士が国際的に競争するというばかりでなく教育機関が如何に良質で高度な教育サービスを提供できるかの国際的な競争でもあります。日本はバブル経済の最中には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われて悦に入っていました。そしてバブル経済が崩壊しナンバーワンをあきらめざるを得なくなると「ナンバーワンにならなくていいもともと特別なオンリーワン」との歌『世界に一つだけの花』がはやりヒットチャートのトップになると言う歌の内容とは矛盾した現象が起きたりしました。しかし本当にオンリーワンになるのは非常に難しいことでもあります。どんな分野もやり尽くされてしまっていて本当に自分固有のもの、すなわち自分がオンリーワンだと言えるものを見つけ出すのは大変なことだからです。生物学的なDNAは自分固有のものだとしてもそれだけでは人間は社会の中で生きて行くことができません。歌の作詞者の槇原敬之氏自身、他の歌の歌詞「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」が松本零士氏の『銀河鉄道999』の台詞「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」の盗作ではないのかと言われたりもしています。裁判では類似していないとの判決が下っているようですが、似ていることは確かなようにも私には思えてきます。類似していないとの判決を下した裁判官の言語感覚の方がオンリーワンのようにも感じられるのです。著作権に触れない偶然による類似だとしたら似たことを考える人は他にもいると言うことで本当のオンリーワンとも言えないように思えます。他とは全く異なるオンリーワンの言葉を紡ぎ出すのも大変だと言うことの証拠とも言えます。子供の遊びの世界であっても私の子供時代にはすぐに他人のまねをする人は「まね乞食」と呼ばれて友達から馬鹿にされたものでした。個人でも企業でも自分の独自の能力を磨いたり独自ブランドや独自技術を生み出したりしてゆかなければ激しい時代の荒波を切り抜けてゆくことが難しくなります。個人でいえば個性や技能あるいは頭脳を磨くことですし企業でいえば様々な技術を組み合わせながらもその企業だけが持っているコア(核になる)技術を獲得しなければ強みが発揮できません。 このような中で日本では社会人向けの世界史や日本史あるいは数学などの高校の教科書をベースにして編集された書籍が発売され好評を博して売れ行きが伸びていると報じられています。二千十年三月二日のNHK首都圏ネットワークでは大人になっても学びたいと思っている人の割合は七十%に上っているそうです。社会人になっても学びたいあるいは学ばざるを得ない人が増えていると言えるのかも知れません。学校生活の中では中間テストや期末テストあるいはその先の入試というノルマに追われて学ばざるを得ないのですが、そのプレッシャーから解放されて再び教科書を読み返してみると意外な面白さもあることでしょう。歴史などはある程度の年齢になってからの方が自分の人生の中で起きていたことも話題にされていたり、また時間的な長さを推測するのにもある程度の年齢になってからの方が理解しやすいと思いますし、数学などは学生時代には分からなかったこともあとになってから「ああ、こういうことだったのか・・」と思えるようになっている部分もあるかも知れません。現役の学生時代の試験には手遅れだとはいってもそれはそれで楽しいことです。これはあくまで歴史は苦手で数学はもっと苦手科目であった私の経験から出た言葉です。あるいはまた大学時代の教科書をもう一度読み返してみるのもいいかもしれません。そしてたぶん学生時代に学んだだけでその後なにも知識を自分で自分に付け加えることなく生きていける人はそう多くいるわけではないと思います。大学では自分が卒業したあとでも新たな研究は行われているわけですし、企業は企業でどこも新たな財やサービスの開発生産がおこなわれているので社会の動きについて行くだけでもなにがしか新しいことを学んで行かなければ一生を過ごして行くことが難しいことになります。自分が仕事としている分野だけでも日々変化が起きていることでしょう。生涯学習という観点からは高齢者の学びも増えているようです。二千十年五月十一日の読売新聞朝刊には「論点」の記事として「団塊の世代を中心に社会での活動に終止符を打ち、退職する人の数が増え続けている。六十歳で退職するとして、平均寿命まで約二十年間を過ごさねばならない。この歳月をどう生き甲斐を持ち、有意義に過ごすかが問題となろう。趣味に生き甲斐を見いだす人も多いが、これだけでは物足りないと最近では学びを再開しようとする人も増えてきた。十代から九十代までが学ぶ放送大学でも、再度学び直そうという六十歳代の学生数が急増している。二千九年で25.7%も伸び、二千八年の10.9%、二千七年の15.8%と併せて、過去三年間、二桁の急増を示している。それ以前は、1%程度の伸びしかなかったのと好対照である。同時に、子育てが終わり自分の時間が利用できるようになった主婦、あるいは老親の介護と平行して時間を確保できる人など、やはり再び学習を始めるケースも多い。もとより自分のキャリア・アップ、学歴、資格取得、職場の知識の習得などを目指し、しかるべき教育機関に通い始める人も多くなった。まさに多くの人々が生涯学び続けたいという意欲の表れである。今後、このような生涯学習の傾向は、衰えることはないであろう。」となっていますが、これは石弘光氏の記事の冒頭部分をそのまま引用させていただきました。退職後にさらに新たな知識を自分に加えて新たなる道に踏み出して第二の人生を歩むことなどができたとしたら、それはすばらしい事ともいえるでしょう。そしてそれが退職した人たちということに関わりなく大学レベル以上の教育を受けたい人の数が増えているとするなら、それらの人々の教育に当たることのできる人材すなわち博士号を持った人たちに対する需要も増えてきてもいいと思われます。しかし二千十年五月十一日の読売新聞朝刊には東京大学の理学博士号を取得した七年後でも二割の人は任期付きの不安定な立場での博士研究員(ポスドク)になっているとあります。二千九年度の博士号を取得した人の大学・研究所の終身職の人は30%、ポスドクは24%、任期付き教員が9%と、社会全体に博士号取得者を受け入れるだけの体制が備わっていないようです。優秀な人材をどう社会の中で活用していけるのかはこれからの日本の課題でもあるでしょう。博士号を持っている人たちを生かす場が国内にないとしたら日本は寂しい限りの国だといえます。二千二年度から八年度までの博士号取得者千百八十二人のうち、二千八年度に博士号を取得した人で二千九年度でポスドクの人は50%、企業・公務員が25%、大学・研究所の終身職は5%とされ、博士号を取得したからといってもすぐに安定した身分が得られるという状況にないからです。一年間に日本では三百人にも満たない人数しか生み出せないような希少な人材を生かし切れない、あるいはよってたかってつぶしにかかったり疎外したりして喜んでいるだけだとしたら日本の未来にはもあまり希望がもてないように思えてきます。 日本では博士号取得者の就職もままならないとされる中で躍進著しい中国の学生たちは日本の学生とはかなり違っているようです。二千十年五月十二日の読売新聞朝刊には特集記事『メガチャイナ』と題する記事に全員が中国人留学生になった早稲田大学大学院北九州キャンパスの後藤ゼミでは「 重要なのは人材。国籍は関係ない。彼らは向上心が強く、英語も得意。日本人の学生とは全然違う」と後藤敏教授は紙面で述べるほどです。日本の政治家が教育を語るときには話が愛国心的なものになりがちですが、教育に携わる人にとっては愛国心は二の次あるいは三の次で自分の学問分野の発展に貢献してくれる人材こそが重要という評価になるのは当然のことでしょう。日本の大学に留学してくる中国人大学生は中国の名門大学出身者だとのことなのでそれだけでも粒よりの人たちだとはいっても、現在の日本人の大学生とはかなりの違いがあるのかもしれません。中国の英才達の獲得には欧米と同じく日本も力を入れ始め東大や北大が北京に事務所を置いているようですが、人気が高いのは国際化が進み奨学金制度も整っている欧米だそうです。日本を選ぶ人たちはその選別に落ちた人たちが多いとされますが「それでも日本に来た中国人の学生も十分に優秀。あらゆる事に積極的だ。日本人の学生はゆとり教育で学力が低下している」と北大の本道副学長は記事で述べています。このような傾向は高校でも同じく見られるようで暁星高校の寺井副校長の言葉として「日本人の生徒は[彼らは別格]といって、中国人留学生と競うことを最初からあきらめている。東大を目指そうとも思わない」とあります。日本は純血主義の色彩が濃い社会だと私は思いますが、日本人の純血主義だけでは日本は立ちゆかなくなる気配が感じられてきます。この記事は中国が主題とされているので中国人だけに焦点が当てられていますが、それ以外にもインドなどアジアの強豪達が存在していることを忘れるわけにはいかないといえます。そして日本に留学し日本の大学院で博士号まで取得した中国人の学生に日本国内ではそれ相応の職場を提供できず致し方なく彼らが本国へ帰国して中国で働くことになれば、勢いを増す中国と衰弱気味の日本との落差はさらに大きくなることだろうと思えます。同紙の記事にある関連グラフには高校生の数学オリンピックの順位が載っていますが、二千年から二千九年までの十年間で中国が一位なかったのは二千三年と二千七年だけです。中国が一位でなかった年の一位はブルガリアとロシアで日本は二千九年になって初めて二位になったところです。中国が一位でなかった二年も中国は二位につけていますし、ロシアは四回アメリカは三回二位になっています。アメリカが三位になったのは四回、ロシアが三位になったのは三回、韓国は二回三位になりベトナムが一回三位になっています。二千年から二千九年までの日本の順位は十五位、十三位、十六位、九位、八位、八位、七位、六位、十一位、そして二千九年になって初めて二位です。インドが上位にいないのを不思議に思って数学オリンピック財団に電話で問い合わせたところインドも参加しているとのことでここ十年では上位に入ってはいないもののかつて上位に入っていた記録もあるそうでした。確かに中国などは日本の十倍以上の人口の国なのでそれだけ優秀な学生の数も多いはずだとはいっても圧倒的な強さと言っていいでしょう。そして海外留学についての数字ですが、アメリカで博士号を取得した外国人は中国が第一位で4526人、率では29.9%、二位はインドで2316人、率で15.3%、三位は韓国で1440人、9.5%、以下台湾、トルコ、カナダ、タイと続き第八位に日本255人、率で1.7%、以下メキシコ、ドイツとなっています。アメリカへの日本人留学生の数はこの十三年で三十七%減少したといわれます。またアメリカの留学生に占める日本からの留学生の割合は 十三年前の10.1%から4.4%へと低下しているとされます。アメリカへ海外旅行する人は多くても留学する人は減っているわけで、たとえてみれば日本の大学のオープンキャンパスで大学を見て回るのとその大学で何年間かを過ごすこととでは経験する内容が全く異なることだとでもいえばいいでしょうか。日本が経済的な不振の状態にあるので四百万円から五百五十万円ほどといわれるアメリカ留学の費用を親が負担しきれないから留学する人が少なくなっているのかもしれませんが、もし日本が多くの分野でアメリカよりも先行しアメリカをしのぐ研究を行っている国であるというのであれば日本人は日本で教育を受け研究をすればいいわけです。しかしそれがそうでない場合には日本人の学生の多くが内向き志向になってアメリカへの留学生の数が減少することは日本としても問題としなければならないでしょう。そして各国の科学論文数はアメリカがずっとダントツでトップを維持していますがドイツと二位あるいは三位争いをしていた日本は二千六年に中国に抜かれ、その後はドイツと三位あるいは四位争いの状態に落ちています。確かに論文は数だけでなくその重要度の高さなども考慮しなければなりませんが、その論文の重要性は他の論文への引用の頻度によって現れてくるともいえます。二千十年七月七日の読売新聞朝刊には日本の科学研究論文の引用される割合が世界平均よりも低くこれまで首位だったアジアにおいてもシンガポールに抜かれて第二位になったと報じられています。シンガポールは海外から優秀な頭脳を受け入れる体制を国を挙げて行ってもいます。「引用回数が上位1%に入る重要論文も日本は0.7%しかなく、米国やイギリス1.8%)に比べて大きく下回った。」ともあります。これらの数字をみると日本は中国に追いつかれ追い抜かれそしてさらに水をあけられるで行くであろう事が予想されますし、インド、韓国、台湾などのアジア諸国にも国際社会での力関係を縮められると思われます。部分的にはすでに日本がそれらの国の後塵を拝している分野も出てきてもいます。日本の基礎研究の予算も国の財政難から二千四年の一兆二千四百十五億円から二千九年には一兆千六百九十五億円へと国立大学法人への交付金が減額されてきている様子が二千十年六月八日の読売新聞朝刊の紙面にグラフで示されています。同じく博士課程への進学者数のグラフも示されていますが、二千四年には九千九百十二人から二千九年には七千九百五十三人へと減少しています。数字から考えてこれは博士課程前期すなわち修士課程の人も含めてのものと思われますが、研究者になって行く可能性の高い人材が減少することはこれから先の日本にとっての懸念材料ともいえます。基礎研究はなぜ重要なのかについて記事には「リチウムイオン電池は福井謙一名誉教授の千九百六十年代の基礎研究が元になって、現在ようやく世界のトップランナーになった」「青色LEDは、基礎研究から現在まで三十九年間かかった」と、京都大学並びに名古屋大学学長の言葉が引用されています。現在ではリチウムイオン電池は携帯電話や電気自動車のバッテリー、そしてLEDは交通信号機やクリスマスのイルミネーションあるいは家庭用の電球や薄型テレビのバックライトなどとして我々の生活の中に入ってきています。基礎研究はその研究成果が出た後でその研究成果を利用した製品が我々の身近なものになって現れてくるまでに四十〜五十年がかかるというわけで、研究成果が出された段階ではそれが後々どのような社会的波及効果を生み出すのかまではにわかには判定できるというものでもないわけです。基礎研究は将来開化するかもしれない産業の種を用意するものです。今々の生活が苦しいからといって来年撒く種籾まで食べてしまえば翌年は作付けができず作物は得ることができなくなります。今々の生活は切り詰めても種籾だけは是が非でも残しておかなければならないはずの部分です。基礎研究や最先端の高度科学技術は日本にとっての種籾いってみれば将来の日本にとっての大切なメシの種になり得る部分だからです。二千十年七月に行われる参議院選挙を控えて政府は博士課程修了者の完全雇用を打ち出したりしていますが、少なくとも博士課程修了者が遊んでいなければならないような状況だけはなんとしてでも変えてゆかなければならないといえるでしょう。そして博士課程修了者にふさわしい職種がそれらの人たちに与えられればそれに越したことがないのはいうまでもないことです。そして博士課程修了者ばかりでなく大卒予定の人たちにも雇用機会が失われているのがこの時点での現実といえます。就職留年は七万九千人、大卒予定者の七人に一人が就職難の時期に就職がままならなかった人があえて留年をして再度翌年に新卒としての就活をしようとする動きをとっていると二千十年七月六日の読売新聞朝刊にあります。就職先が決まらずに卒業した人とあわせると約十一万人の就職浪人が存在していると記事にはありますが四年生の大学の授業料を払い込んでもほとんどの時間を就職活動にとられて授業は片手間となり、それでも就職がままならなければもう一年分の授業料を払って留年を選び就職活動をしなければならい現状は、学生はもとより学生の家族にとっても苦難の時代といえます。大学生の有効求人倍率が1を割り込んだ超氷河期といわれた二千年に並びそうな状況になっています。バブル経済崩壊の直前の千九百九十一年時点の有効求人倍率は2.8倍ほどであったことを考えればいかに経済変動の影響が大きいかがわかります。そして就職活動の失敗なども要因の一つと数えられているのが引きこもりといわれる人たちですが、二千十年七月二十四日の読売新聞朝刊には十五歳から三十九歳の男女を対象にした調査で内閣府の推計として引きこもり七十万人、予備軍は百五十五万人とされています。二十最上になってから引きこもるようになった人が六十三%を占めているとは二千十一年二月三日のNHKクローズアップ現代の”引きこもり七十万人の衝撃”で報じられたことです。この年齢層の人口は三千八百八十万人と推計されていますが、引きこもりになったきっかけは職場になじめなかったが23.7%、病気が23.7%、就職活動がうまく行かなかったが20.3%、小・中・高校で不登校が11.9%、人間関係が原因の人が11.9%、大学になじめなかった人が6.8%、高校・大学の入試の失敗が1.7%とされています。引きこもりから脱して再度就職したいと思っている三十代の人の数は二十一万人存在していると二千十年九月二十一日のNHK首都圏ネットワークで伝えられています。現在ではインターネットが普及しているので自宅に引きこもっているとしても自宅を半分ホームオフィスにでもして活動できれば引きこもりもそれほど問題とはいわれないかもしれません。オフィス労働の人は一日のほとんどをオフィスにこもっているのですから自宅にこもっていても仕事ができる態勢があれば別に問題もないはずです。事実、企業や公務員の世界ではテレワークという在宅での勤務形態もできはじめています。何処にもこもらずに屋外で活動しているのは農家の人と林業の人そして営業マンなどの外回りの人々と工事関係者くらいといえるでしょう。通いのサラリーマンのような勤労スタイルが標準的なもののように思われている社会なので自宅にこもっていることがおかしく見えるだけで自宅でもできる仕事が社会に増えてくればそれらの人には救われる部分も生まれるといえます。これは私の経験にも重なる実感でもあります。画家はアトリエにこもり漫画家は自室にこもりもするはずです。かつては人間界に疑問を持った人は山ごもりをしてもいたのです。優秀な研究者はある時期には昼夜を問わず徹底的に研究室にこもることで偉大な業績を生み出したりもするのでしょう。こもる場所が自宅であるというだけの違いとはいえ引きこもりは確かにハンデを背負う場合の方が多いことに変わりはないにしても、この時点では引きこもらざるをえないという条件が生まれでていることは確かです。また、若い人の引きこもりばかりが問題にされはしますが、会社生活を終えて定年を迎えてから自分が何をしたらよいのかわからず自宅にこもってしまう定年引きこもりも存在します。引きこもりが問題になるのは何も若い世代の人だけに限ったことではないわけです。定年引きこもりと言われる人は一通り社会を知った人たちだと言えるはずですが、その人達も会社を離れてから再び社会参加できるきっかけを失ってしまうと引きこもりになってしまいます。二千十年七月三十日の読売新聞夕刊には、十五歳から二十四歳までの若年層の失業率は10.7%と高く全体の失業率も5.3%と四ヶ月連続の悪化とされています。六月の有効求人倍率は0.52倍で五月よりも0.02ポイント改善したとはいっても正社員の有効求人倍率はこの記事にはありませんが0.28倍でしかないとされています。大学の新卒で正社員として採用される機会を逃すとその後正社員になることのできる可能性はきわめて難しくなるといってもよいでしょう。高卒の場合はもっと条件がきついかもしれません。ただ、いつまでもこのような雇用状態で日本がやってゆけるのかどうかを考えたとき、必ずしもそういいきれないデータが日本の高齢化です。予測では二千五十五年には六十五歳以上の高齢者の割合が全人口の四十%になるとされています。私はこの頃にはこの世にいなくなっていると思いはしますが、このような状況が現実になった社会においても若年層の失業率を現状のようなままにしておくことで社会をやってゆくことが可能でしょうか?高齢化社会においては健康な高齢者は現役で働いてもらいそうでない高齢者を支えるためにも若い世代にも大いに働いてもらう必要が生まれてくるはずです。私には自分では見届けることができない将来の出来事だったとしても気になるところです。 そしてこれは私が生存している現時点でのことですが、二千十年八月六日の読売新聞朝刊には二千十年春の大卒者五十四万一千人の二割に当たる十万六千三百九十七人ほどが就職も進学もしていない進路未定者になっていると報じられています。大学・短大への進学志望率は61.8%と過去最高に達し高校から大学また大学から大学院への進学率も上昇している中で起きている事態です。大学院等への進学率13.4%そして留年も十万人超と、不況の影響による雇用情勢の厳しさを反映して就職時期を先送りしていることのようです。進路未定者とされている十万人以上の人たちは引きこもりになる可能性が高い人たちともいえるでしょう。しかし二千十一年度の就職状況は十年度よりさらに厳しくなっているのでこのような選択をする人はさらに増えるのかもしれません。日本経済の雇用と賃金と需要とが相互に影響し合いながらこのような状況を生み出しているといえます。上の数字の大学院等への進学には留学も含まれるのかもしれませんが、二千十年八月二十二日の読売新聞朝刊の記事によれば日本からアメリカへの留学生数は二千二年頃の四万七千人ほどをピークにそれ後減少傾向をたどり二千八年には三万人ほどのレベルになっています。これに対し中国は千九百九十七年時点で日本と並び、以後急速にアメリカへの留学生の数を増やして二千八年時点では十万人にまで達しています。アメリカの大学院で博士号を取得した人の数が多い出身大学の順位は二千八年度ではトップが中国の精華大学で四百七十二人、二位が北京大学の四百六十六人、三位が地元アメリカのカリフォルニア大学バークレー校の四百四十一人、四位が中国の中国科技大学の三百四十四人、五位は米国のコーネル大学の三百三十一人、六位は韓国のソウル大学の三百二十八人、七位はアメリカのミシガン大学の三百十人と続き、日本はといえば日本ではトップの東京大学も四百二十五位の二十三人、慶応大学は五百五位の十九人、上智大学は七百六十六位の十一人でしかありません。アジアにおいても日本が見劣りしていることは明らかといえそうです。これは次の時点で日本の人材面での弱点として響いてくることでもあるでしょう。アメリカへの留学数が減ってもアジア経済が世界の中で台頭する中ではアジア諸国への留学生の数が増えることも考えられるかもしれません。二千十年度は日本経済はそれも原因の一つとなって苦境の中にあり留学費用を工面するのも一苦労するとはいえドルに対してもユーロに対しても十五年ぶりといわれる水準にまで円高が進んでいてまた中国の元にも韓国のウォンにも円高であるので留学するには条件がよいといえますが、果たして日本と日本の若い世代がどのような選択をしてゆくかにかかってくると言えます。私には留学する能力も機会もまた準備も条件もありませんでしたが、若い世代の人たちにはこの時点で自分に許される範囲での最良と思える選択をして欲しく思います。中国から日本の大学・大学院への留学生数は二千十年時点で一万七千人とされます。中国は優秀な人材が豊かだと言ってもよいでしょう。また中国には超一流の頭脳も存在しているといえるようです。二千十年十月一日の朝日新聞朝刊の「躍進中国 ノーベル賞熱望」との見出しの記事には二千八年時点で九十年代では同数だった研究者の数はこの時点では中国は日本の二倍と米国並みの水準になり、科学論文数は中国が十万四千件、日本のそれは六万九千件とされています。十年前には日本が中国の二倍近い数だったのが逆転して、論文の質の目安とされる引用件数でも上位十%に入る論文の割合は日本は六・四%なのに対し中国は八%とされています。論文の量においてもまた質においても日本は中国に圧倒され始めているといえるでしょう。 日本企業も国際展開ことにアジア市場に展開しようとする企業の場合には中国をはじめとするアジアからの留学生を採用し始めています。日本の大学の新卒者の就職希望企業は従業員数千人以上の大手企業に偏りがちで中小企業には目が向いていませんが、海外留学生の場合には中小企業にも雇用の場を求めようとする人も多くいるようです。そのため従業員数千人未満の中小企業の求人倍率は2.16倍で三百人以下の企業の場合は四倍を大きく上回って4.41倍であるにも関わらず大手企業の求人倍率は0.5倍台なので全体としては十年度の就職内定率は57.6%と就職氷河期と言われた九十年の60.2%をさらに下回る低水準になっています。それでなくても新人の求人は40%減となっているのですから雇用のミスマッチが重なってくれば就職浪人の数は増えて来ざるをえません。十年度の新卒者数は五十四万一千人とされ、そのうちの七万二千人が就職浪人と留年の道になるとされています。日本経済は厳しい環境の中にあるといえますが、その余波で若い世代にとっての条件はことさら厳しいといえそうです。大学進学率が五割を上回るようになっているのでかつての時代の大学卒の人のように誰もが大手企業に必ず就職できるというわけでもなくなるのは当然とはいえても各個人としてみればなかなか大企業志向を捨てきれないのかもしれません。このような日本国内の学生を取り巻く状況では海外留学は望むべきもないのかもしれませんが、だからこそ海外へ留学して活路を開くという選択肢もあっていいようにも思えます。就職難の日本で留年するくらいなら海外留学という考え方もあるからです。二千十年十二月六日の朝日新聞夕刊では二千九年から十年にかけてのアメリカへの日本人留学生の数は十五%減少したとされています。アメリカへの留学生数の一位は中国の十二万八千人、二位はインドで十万五千人、三位は韓国で七万二千人、四位はカナダで二万八千人、五位は台湾で二万七千人、六位が日本で二万五千人、七位はサウジアラビアの一万六千人、八位はメキシコで一万三千人、九位はベトナムの一万三千人、十位はトルコの一万二千人とされています。そして日本人の留学生は学部への留学が五十二・六%なのに対し中国人の留学生は大学院が五十二・一%と言う違いがあるようです。日本人のアメリカへの留学の最盛期は二千七年から八年にかけての時期の四万七千人でアメリカへの留学生の数が日本が世界一だったのは九十四年から九十八年にかけてのことだとされています。二千十年度のノーベル化学賞受賞者の三人のうちの二人は日本人でしたが、その鈴木章さんと根岸英一さんの二人ともがアメリカ留学組で根岸さんの場合はアメリカ在住です。ご両人がノーベル賞を受賞した研究自体は三十年以上前のものでしょうから、これからの日本の学生達が将来ノーベル賞クラスの研究成果を生み出せるかどうかが問題となってきます。すなわちこれから三十年後あるいは四十年後の日本の科学研究のレベルがどうなってくるのかの問題です。上のように日本人のアメリカ留学生が減少していることで懸念されるのは次の世代がどこまでのことができるのかに影響してくることだと思えます。リーマンショックなどでアメリカの世界への影響力が一時的に低下したとはいえ、アメリカの研究レベルはこの時点でも多くの分野で依然として世界最高水準を維持していると言えそうに思えるからです。このような状況の中で十五歳を対象とした国際学習調査で日本の学生の学力の低下傾向に歯止めがかかったような結果が二千十年十二月八日の朝日新聞朝刊に載りました。三年ごとに行われるこの調査で日本の学生の読解力は前回の二千六年には十五位だったものが二千九年度では八位に回復したことが注目されるところです。数学は九位、科学的リテラシーは五位となっていますが二千年時点では日本は数学的リテラシーで一位、科学的リテラシーで二位だったことからすれば順位を落としていることは確かといえます。二千九年度での国際上位は読解力・科学的リテラシー・数学的リテラシーすべてで初めて都市単位で参加した上海がトップで、読解力は二位が韓国、三位フィンランド、四位香港、五位シンガポール、科学的リテラシーでは二位フィンランド、三位香港、四位シンガポール、五位日本で、数学的リテラシでは二位シンガポール、三位香港、四位韓国、五位台湾とアジア勢が勢力を増しています。日本の順位が幾分回復したとは言っても日本国内で国際学習調査対策を施した上での結果でありしかも欧米はあまりこの調査には積極的ではないと言われますから世界の中で果たして日本は上位を維持しきっているのかには疑問の余地をおいておくべきでしょう。そして国際学力調査だけでなく各分野で各国の優秀な生徒達が競い合う国際科学オリンピックにおいてもアジア勢の対等が起きています。二千十一年一月四日の朝日新聞に載った一覧表に寄れば、二千八年度の数学オリンピックは第一位が中国、第二位がロシア、第三位がアメリカで日本は十一位。物理オリンピックでは一位中国、二位台湾、三位韓国で日本は十七位。生物学オリンピックでは一位韓国、二位台湾、三位アメリカで日本は十四位。二千九年度は数学で一位が中国、二位が日本、三位ロシア。物理が一位中国、二位韓国、三位インドで日本は十一位。生物学は一位中国、二位アメリカ、三位シンガポールで日本は六位。二千十年度で端数が婦オリンピックで一位中国、二位ロシア、三位アメリカ、物理は一位中国、二位タイ、三位台湾で日本は三十位。生物学では一位アメリカ、二位中国、三位台湾で日本は十位です。これだけからすれば世界の人たちから「日本の学生さん、しっかりせんかい」と言われてしまいそうですが、国際科学オリンピックを目指す国内の予選参加者の数は数学、物理、化学、生物学、情報を合わせた数が二千五年度は三千人弱だったものが二千九年度には八千人を上まっる状態になってきているので、より難易度の高い目標を目指す傾向は強まってきているともいえそうです。数学オリンピックで出題された問題などは大学の数学科の教養課程の学生向けの試験問題にされることもあるくらいのレベルのものです。同じ記事のところには日本の大学の博士課程進学率のグラフも載っていますが、九十八年以降一貫して下がり続けていた進学率が理学部と工学部においては下げ止まりの兆しが見えている反面農学は依然低下傾向で全体としては幾分横ばいという状態です。各分野で新たな突破口を開いてくれる可能性の最も高いのが博士課程の人たちだともいえるので博士課程まで進む人たちが増えてくれないとその可能性も低くなってしまうといえます。確かに大学への進学率が50%に増えているのでこれまでのように優秀な人たちだけが大学まで進んでいた時代とは状況が異なり、また少子化によって学生数はかつてよりも少なくなるともいえるのでこの博士課程への進学率の推移をどう見るかも色々な見方があるとは思いますが、各分野の専門知識の最上位を形成するはずの人たちの推移は重要なものだろうと思います。新成人の数は七十年の半数に減り大学・短大の入学者数も二千年は七十四万人だったものが二千十年度は六十九万人となり、受験生の総数は九十二年のピークから比べると六割減でその一方で大学の数は五割増加しているという日本の教育環境をめぐる状況の変化がある中での話しです。日本の大学入学者数は二千十年時点では六十万人ほどですが八十五年時点での四十万人からすれば少子化を加味して考えたとき大学入学率が五割を上回るようになった姿といえます。しかし中国の場合は二千年から二千十年にかけて大学生の数が百万人から六百万人へと急増しているとのことです。日本は単年度で六十万人なのでそれを四学年合わせたときには二百四十万人ということになり、中国は人口が日本の十倍強であることを考慮すればまだ中国に比べて日本は相対的には高学歴であるといえるのかもしれません。しかし中国の頭数の多さと、また頭脳の優秀な人たちの存在は忘れるべきではないでしょう。二千十年度に中国はGDPの規模で日本を抜き世界第二位の経済大国になりましたが、しかしその中国でも大学生は就職難だといわれます。単純労働の職場は数多くある一方で大学で習得した専門知識を生かせる職場がそれほど存在していない産業構造になっているからだといわれます。日本の大学生の就職内定率も二千十年度十二月時点での数字は68.8%と過去最低の超就職氷河期となりました。日本においても大学卒業という専門知識をそれほど必要としないサービス業の分野が肥大化していることも影響しているかもしれません。また専門的知識を必要とされるはずのサービス分野である小中学校の教員の世界も自治体の財政難などから七人に一人は非正規教員になっていると二千十年十月二十三日の朝日新聞夕刊にあります。二千九年度におけるその総数は十万五千人とされ全体の十五%までになっているそうです。しかも団塊の世代の教員の大量退職とストレスによる精神疾患などで休職する教員の増加などにより教員への需要は高まっているにもかかわらずの数字です。先生の産休や病欠の欠員が埋まらない状況の記事は二千十一年一月十日の朝日新聞朝刊にありますが、その数は全国で八百件超とされ、授業がなく試験が中止に追い込まれたり少人数授業が成り立たなかったりしているとあります。その記事に併記されているグラフでは教員免許授与件数は二千六年の九万人ほどをピークに二千七年度は七万人弱二千八年度は六万人を少し上回る程度へと減少傾向になっています。 この時点での日本の公教育は潤沢な資金があるわけではないところで行わざるを得ない状況といえるのかもしれません。家計の方も十分な教育資金を容易で来る家庭はむしろ少数ともいえることでしょう。そのため奨学金を受ける学生の割合は二千年代に入って順次増加傾向をたどっています。二千十年時点では奨学金を受けている大学生は三人に一人にまでなっているといわれます。無利子の第一種と呼ばれる奨学金は高校の成績が5段階評価で3.5以上で親の年収が九百六十六万円以下(私大・自宅通学、四人世帯の場合)という条件が必要とされますが、有利子の第二種では「成績が平均以上」「スポーツなどで秀でている」「学ぶ意欲がある」などのいずれかの条件を満たした場合月に最大で十二万円を借りられ年収の上限は千二百十八万円と緩いそうです。奨学金の貸与人数は二千一年度には八十万人ほどだったものが二千十年には百二十万に上ります。貸与している奨学金の総額も二千一年度では四千五百億円ほどだったものが二千十年度には一兆円に届く水準にまでなっています。これらのことは二千十年十月二十五日の朝日新聞朝刊に載っている記事ですが、かつては奨学金をもらう必要のない世帯所得の人でも「自分の子供は奨学金がもらえるほどに優秀なのだということを示すために奨学金を受ける」という親も存在していました。そのようなことが理由ではないのでしょうが、世帯年収を父母の合計にして奨学金の基準を厳格化する方針を文科省が打ち出したことが二千十一年一月八日の朝日新聞夕刊の記事にあります。共働き家庭が増えてきている中で父母のうち年収の低い方を「主たる家計支持者」と指定したりする例があるからだそうです。また三十四万九千人ほどが受けている第一種奨学金では貸与枠の制限があり成績や所得などの条件を満たしていながら奨学金が受けられないでいる人が二万六千人ほど存在しているとのことですが、文科省としては全員に貸与したいところではあっても政府予算で認められたのは九千人増だとのことです。財政に余裕があって潤沢な資金を用意できればいいのですが、それがそういかない日本の財政事情といえます。二千十年時点では父子家庭の世帯が七万世帯ありその四割は年収が三百万円以下といわれます。そのような家庭に生まれた子供で頭脳が優秀な学生がいたら奨学金にでも頼らなければとうていまともな教育を受けその人にふさわしい活路を開いてゆくことができないといえるでしょう。たとえ奨学金を受けてもやはり生活は楽ではないものといえます。しかしそれでも日本の教育事情はイタリアよりもましなのかも知れません。イタリアも日本も財政難ではありますが、緊縮財政のイタリアでは教育予算が削られた結果十分な教育環境を準備できなくなり公立小学校の備品を民間企業に提供してもらう代わりにそれを提供してくれた企業名のプレートを備品に貼ることを許可したりしていると二千十一年二月十日の朝日新聞朝刊の記事にあります。イタリアでは大学の場合も同様に予算が削減され研究者たちは非正規雇用が進んで大規模なリストラも計画されているため頭脳流出が加速するのではと懸念がもたれているそうです。日本も下手をするとイタリアのような状態になるかさらにひどい教育環境にもなりかねない財政状態といえます。優秀な頭脳が国内から逃げてゆき新規の知識を生み出したり既存の知識をさらに発展させることのできる人材がいないところでは産業の発展も望むべくもなくなってゆきます。各産業に人材を供給してもいる教育部門から国の内部が崩れていってしまうからです。そのような道だけは最大限避けなければなりません。二千十一年二月二十二日のNHK首都圏ネットワークでは日本の博士号取得者一万六千人のうち三年ほどの期限付きの研究職を含めて就職できているのはその六割の一万人といわれます。不利な期限付きの職場で働く博士達を含めてもその数字なのですから、日本の場合も頭脳流出する条件は十分に国内に存在しています。アメリカへの博士課程での留学者数は少なく国内で博士号をとっても就職先には恵まれていないという状況に博士達は置かれていると言っていいでしょう。研究者個人の利益だけで考えればむしろアメリカで博士号を取ってアメリカで就職する方が楽かもしれません。なぜなら競争は激しいにしてもアメリカの方が博士は博士なりの処遇が日本よりもなされているように感じられ、また博士号を持った人が活躍できる場が日本よりも多くありそうに思えるからです。二千十一年二月二十五日の朝日新聞朝刊のグラフでは文部省の科学研究費補助金の額は千九百九十四年頃は一千億円に届いていなかったものが二千十一年には二千億円を超えるまでに伸びてはいても博士研究員を大量に長期間雇っておくことには足りないということなのでしょう。大学の研究成果が民間企業に受け渡されたり民間企業の研究員を大学の研究室に受け入れたりあるいは大学の研究成果を元にして研究生がベンチャー企業を立ち上げたりと大学の研究室が果たす役割はそれなりに大きいといえます。この記事は大学の科研費の不正受給についてのものですが、税金から支給される科研費が正当に使われ我々の生活の質を向上させることにつながる研究成果を生み出してくれることを願わざるを得ません。大学の研究者にとっては研究費はいくらあってもいいものではあるのでしょうが限りある予算の中ででしか工面できない国の事情もまた存在しているのは確かだからです。経済的な制約が研究・教育の足かせになるのは何も博士達にばかりいえることではありません。日本の学生の高校進学率は全体で98%であるのに対し、生活保護世帯の子供達に限ってみれば高校進学率は87.5%とかなりの差ができてしまっています。家庭の経済が苦しいがために高校進学を断念せざるを得ない学生も確かに存在しているといえるでしょう。親が生活保護を受けなければならないようになってしまった原因には離婚や会社の倒産やリストラによる失業あるいは病気によって退職を余儀なくされたなど様々でしょうが、親が生活保護を受けざるを得なくなった理由とその家庭の子供の頭脳との間には必ずしも因果関係があるわけではありません。親が生活保護を受けていても頭脳は人並み以上の子供もいることでしょう。そのような学生から学ぶチャンスが奪われてしまうことは残念という以外他にありません。また塾に行くこともできないがために高校進学への準備に後れを取ってしまう場合もあることでしょう。経済的な条件だけがオールマイティーだとは思いませんが経済的な制約によって希望が叶えられない部分もあることだろうと思うのです。また二千十二年三月十七日の読売新聞朝刊には日本学生支援機構(旧日本育英会)や大学からから奨学金を受けている学生の割合が五割を超えているとされています。二千十年度末の時点における機構の奨学金貸出額は一兆百十八億円で受給者数は百二十三万千三百七十八人とされますが、返還滞納者の数も増えて三ヶ月以上の滞納額は二千六百六十億円に上ると記されています。人数にして滞納者は一万人を超えたとされます。そこに示されているグラフでは奨学金の受給者が増えたことによるものか、学部生の収入に占める家庭負担の割合は二千年時点では72.4%だったものが二千十年度には61.7%へと低下しています。学生たちの親に頼る割合が減って奨学金に比重が移ったと言えるでしょう。しかし奨学金によって無事大学は卒業できたとしても、日本の経済状態の不振によって就職がままならない状態の中で奨学金の返済を求められる時期を迎えてしまったりすると滞納者にならざるを得なくなってしまいます。滞納者は信用機関に登録されブラックリストに載ってクレジットカードや住宅ローンの利用が制限されるというハンデを負うことになるようです。日本の景気が悪く就職難であることは学生たちの責任だとは言えないのでちょっと酷な話しではあります。 一方、高校進学もままならない条件に置かれている学生にとっては留学などは夢のまた夢であるかも知れませんが、日本経済が沈滞傾向をたどるようになってからはアメリカへの留学生の数も大きく落ち込み始めていることが二千十一年十月十七日の朝日新聞朝刊にグラフと表として経済されています。グラフの方は日中のアメリカへの留学生の数の比較ですが、千九百九十七年頃に日中のその数は拮抗し、その後日本は低下傾向を強める一方で中国は急速にその数を伸ばしています。二千九年時点では米国への留学生数の国別順位は一位中国で十二万七千六百二十八人、二位インドで十万四千八百九十七人、三位韓国で七万二千百五十三人、四位カナダで二万八千百四十五人、五位台湾で二万六千六百八十五人、日本は第六位の二万四千八百四十二人の順と表で紹介されています。経済に勢いのある国ほど留学生数が多いと言えそうな数字です。受けた教育レベルの違いが次の時代を担う人たちの力の違いになってくるとしたら、日本にとってはこの数字は気にしなければならない指標と言ってもよいでしょう。日本国内では高校が半ば義務教育の状態となり大学入学割合なども増加しているのにも拘わらず海外留学の学生数だけが大きく落ち込むのは少子化の影響だけでなく日本の学生や家庭の考え方の影響もあると言ってよいのではないでしょうか。国際舞台で活躍する人、それらの人々が打ち出すアイデアを理解し実際に具現して実体化してゆける人、その実行に力となるメンバーになって行く人など、各々レベルは異なっていてもどのレベルの人もそれぞれに必要とされる人たちであることは確かです。すなわち総合力が試されてくると言うわけですが、日本の将来におけるその総合力に懸念がもたれるのが二千年代に入ってからの動きと言えそうです。全体の底上げをするにも底辺部分が上がるだけでなく最上位の部分も上昇しなければなりません。その意味で海外留学する学生数が落ちていること、また博士課程などでの大学院での留学が落ちることは懸念材料にもなると言えます。海外留学をする人が少なくなれば海外の人とのハイレベルでの人脈形成もそれだけ少なくなる可能性も出てきます。この傾向は二千十年にかけても続いており二千十二年一月二十九日の朝日新聞長官の記事では二千十年度のアメリカへの留学生の数はピーク時の千九百九十七年度より45%減となり二万一千二百九十人、前年と比べても14%の三千五百五十二人減とされています。日本は中国、インド、韓国、カナダ、台湾、サウジアラビアに次いで第七位で日本のすぐ後ろにはベトナム、メキシコ、トルコが続いています。一位の中国が十五万七千五百五十八人であるのに対し日本は二万一千二百九十人に過ぎません。アメリカだけでなく海外全体への日本の留学生数は二千四年の八万二千人ほどをピークに二千八年には六万三千人程へと低下していることがグラフで示されています。留学生数も上昇トレンドをとっている国と下降トレンドの中にある国との差が歴然のようです。日本企業は少子高齢化による国内マーケットの縮小をにらんで海外への展開を目指す中で国内の日本人よりも海外からの留学生の採用を強化しようとしている動きもあります。日本国内だけで暮らしてゆけると安閑としてはいられない状況が生まれている中で海外勤務になる可能性があると言うことをリスクと考えて海外留学を躊躇しているとするならそれも一つのリスクにはなり得ることでしょう。海外留学組を逆差別してきた日本の国内組のサラリーマンにとっても意識改革と考え方の変更が迫られる時代状況になってきていると言わざるを得ません。これまで内需型と見られていた企業までもが海外展開を強める傾向を取る中では日本国内だけでしか通用しない人間ではもはや評価されなくなるからです。企業としては収益を維持することは必須条件なのでたとえこれまでは内需型企業であったと言っても国際展開せざるを得ない国内状況だからです。中小企業でも、あるいはローカルな中小企業でさえも国際展開を図ろうとし始めています。また二千十二年の一月には東京大学が秋入学の方針を打ち出し他の国立大学などもそれに追随する動きが生まれていますが、これも人材の国際化を図り日本に多くの留学生を迎え入れることによって日本の大学の活性化とレベルアップを図る方策と言えます。日本国内にいても否応なく海外の留学生との競争に晒される環境へと国内の大学は変わってゆくことでしょう。また政府や自治体も留学生数の減少に対して留学する学生への奨学金などの対策を打ち出しています。それは大学生ばかりでなく高校生からも行われるとのことで若い頃から海外へのアレルギーを取り除いておく方策と言えるのかも知れません。これは日本の学校制度が幾分か国際標準に近づく動きとも言えます。少なくとも日本の学生達にとっては高い目標を自分自身に課さずに現状維持ばかりを望んでしまうと現状を維持することすらもがままならなくなりそうです。また博士号取得者や海外留学経験者が日本国内では冷や飯を食わされてしまうようなことにしてはならないとも言えるでしょう。二千十二年二月十八日の朝日新聞夕刊に載ったグラフでは日本の大学入学者数は千九百八十五年時点では四十万人ほどでその時点での大学進学率は二十五%程度でしたが、その後大学入学者数・大学進学率共に上昇し少子化の中でも大学進学者数は二千十年には六十万人ほどまでになり大学進学率は二千九年に千九百八十五年の倍の五十%を突破しています。大学進学者数と大学進学率が上昇するのに伴って大卒の就職内定率の方は下降を始め、千九百八十年代は八十%程であったものが二千四年頃には五十%台にまで落ちその後は七十%をピークに二千十年には再び六十%へと低落傾向をたどっています。かつてなら大学を卒業したら大企業や有名企業へ就職するのが当たり前と思えたかも知れませんが、それは同世代で大卒が3%か5%くらいしかいなかった時代の話しであり、大卒が同世代の50%にまで達してしまっている時代には通用する話しでもありません。全体の雇用人口に占める大企業の割合は数%にすぎないからです。確かに日本の経済変動によって大卒の就職率が変動することはあるわけですが、それ以外にも大卒の就職希望者の意識と現実のずれが生まれて就職内定率が上がらないというミスマッチは起こりえる話ではあります。実際に二千十二年度の大学の新卒採用においては大企業の求人倍率は0.65倍であるのに対し中・小企業の求人倍率は3.35倍であったことなどにそのことは如実に表れていると言えるでしょう。「今の大卒は一昔前の高卒と同じだ」と表現する人もいます。昔は大学生が機動隊に石を投げたりした時代もあったものですが、今は「石を投げれば大学生に当たる」と言ったところでしょうか。日本人の知的レベルが全体的に上昇することは悪いことではないにしても、全体が上昇してしまえばその全体に飲み込まれてしまうこともあるわけです。以上のような問題が指摘され始めてから少なくとも数年は経てしまったとはいえ二千十三年度の新卒者の志望企業が従業員千人未満の中小企業を志望する人の数が二十二万千七百人と、初めて千人以上の大企業を志望する人の二十万人を上回って逆転現象が起きたと二千十二年七月七日のテレビニュースの報道がありました。二千十年度では大企業志向の人の数が三十万人であったことからすれば大きな変化が起きてきていたことになります。そして教育分野でこれから望まれることは、これら大学進学率がかつてなく高い割合になっている中では小・中・高校の学校の教員に大学院卒の人の割合を増やしてゆくことだろうと思います。すなわち教育分野の層の厚みを増すことです。この時点でも院卒の人は博士課程前期(修士)のひとでも大学で教える場合が多く公立の小・中・高校の教員になる人は少ないと言えそうだからです。そして教育分野が魅力ある職業と思える社会環境を形成してゆくことも重要かと思います。ことに予算不足から非正規の教員の数が増加していることなどを考えればもう少し教育を重視した対応を取る必要があるように思います。また二千十二年二月二十七日の朝日新聞夕刊の記事では東大先端科学研究センターの話としてアメリカでは大学生数が約千九百万人、日本では大学・大学院・専門学校生が三百二十四万人とされています。アメリカは日本のほぼ六倍の大学生を抱えていると言ってよい状態で人口比からすれば日本よりも高い割合になるかも知れません。この記事は障害のある学生がどれくらいの割合で学生生活を送っているかに関するものですが、アメリカの場合は障害のある学生の割合が10%超であるのに対し日本のそれは0.27%と極めて低い状態になっているとされます。一口に障害者と言っても聴覚・視覚・身体・知的・精神障害・脳性麻痺など多岐にわたりますが、少なくとも大阪維新の会の橋下市長などは「国歌斉唱時に起立しない教員はクビ」と述べていて、教員には車いすの身体障害の人がいない、教育の場は全て健常者ばかりで構成されているという前提での話になるのでしょうか??教育を受ける側でも教育を授ける側でも障害者が排除されかねないような日本の教育現場の現状と言ってもいいような状態です。そもそも校舎の造りからして障害者、少なくとも背骨や腰椎そして下肢に障害のある人のことまで考えて作られている学校は希なことでしょう。そして最低限でも大学卒の学歴が求められる学校の教員資格取得者ですから、大学や大学院の学生に占める障害者の割合がかくも低い日本では障害者で教員になる人の割合も相応に低くなることは当然と言えます。私の経験でもこれまでの自分の学生生活の中やそれ以後の生活の中においても車いすの現役の教員という方に実際にお目にかかったことはありません。私は歩行はできるものの片足が幾分不自由な先生に英語を習ったことはあります。しかしその先生は自分で英語塾を開いている先生で公立学校の教員ではありませんでした。もし橋下市長が実際に車いすの教員から指導を受けた経験があったとしたら、恩師に対してこれほど歯切れよくまた何の感懐も交えずに「起立しない教員はクビ」とは言い切れなかったのではないでしょうか。橋下市長はこの時点で四十三歳ほどの年齢ですので橋下市長を教えたことのある先生達もまだ現役で教鞭を執っていられる方もいそうに思えます。しかし橋下市長も車いすの教員から指導を受けたというような経験はなくまたそのようなイマジネーションを働かせてみたこともないと言うことなのかも知れません。橋下市長は「起立することが条例で決められているのに従わないのは法治国家の中では通らない」と述べていますが、戦時中の日本も法治国家でしたしバブル経済の時の日本も法治国家でした。しかしそのどちらもが大失敗に終わってしまいました。そしてそのために日本人は何十年もの間苦しまざるを得ない結果になりました。戦時中の日本人は日本の法に従って戦地で死んでいったり国内で財産を喪失したりしてもいました。法治国家の下で「国のために死ぬのは当たり前だ」という価値観が形成されていたわけです。すなわち法治国家の社会は間違いを犯さないという保証があるものでもないわけです。確かに独裁者がその時々の気分にまかせて対応するよりも議会で承認され成文化された法に基づいて運用される社会の方がましではあるにしても法が支配する社会も過ちは犯すことがあるということです。なぜなら法もある方向へ社会を持って行こうとする目的で作られているからです。少なくとも大阪市の条例は障害者の教員などは想定もされることなく、また障害者も含まれる教育の場にして行こうという目的も考慮されることなく作成されてきていたのでしょう。障害者はそれだけでハンデがあるのに制度までもがそれらの人を除外してしまうようになってしまっていたのでは障害者の人にとってはどうにもなりません。これは教員の例ではありませんが作家の司馬遼太郎氏が文化勲章を受章するために宮中へ行ったときには天皇の前ですら車いすでした。起立することを義務づける条例を作りさえすれば車いすの人を立って歩けるようにすることもできると言うほど法は万能なものでもないはずです。橋下市長は学生時代ラグビーの選手だったとのことですし東京でばかり何度もオリンピックを開いてもおもしろくないのでパラリンピックでも大阪で開催してみればはっきりとわかることです。競輪選手よりもその確率は低いかも知れないにしてもラガーマンでもラグビーの試合中や練習中に脊椎を損傷して車いす生活になった選手も存在していることでしょう。二千十二年に開かれ初めて世界の全ての国が参加したと言われるロンドンオリンピックでは対戦する国の国歌が演奏されるときには何処の国の国歌であれスタンドで観戦している人達は起立するようにとの放送が会場に流れていました。自国の対戦だけではなく世界の全ての国々に敬意を払って起立するわけです。それが国際的なマナーというものなのでしょう。確かにイギリスの選手やチームが金メダルを取ればイギリス国民は沸いたのですが、そのような愛国的な面だけでなくコスモポリタンの側面もイギリス人は見せてくれたと言って良いでしょう。そして外から見ているともっぱら強い者勝ちの競争社会で現代資本主義の権化のように映り、また橋下市長も引き合いに出しているようにアメリカでは教育現場のみならず大リーグの試合などでも観客が起立しながら国歌が頻繁に歌われているとはいえ、その内部の教育の場は日本よりもハンデを持った人たちにも門戸が大きく開かれている社会と言えそうです。身体的・精神的状態の違いに拘わらず全ての人に教育への扉が開かれている社会の方が優れた社会といえることは明らかなことです。すなわち選挙権が与えられていると言うことは民主主義社会の基本ですが、選挙権が形式的に与えられているということだけではその社会が全ての人に対して民主的に運用されているかどうかまではわからないのです。どこの国でもどのような社会でも障害者は少数派であることでしょう。従って多数決で決められる選挙結果では障害者は主流派にはなり得ません。ですから選挙で多数の票を集めた健常者達がそれら少数派の障害者に配慮する気構えと度量があるかどうかにかかってくるのです。橋下市長は船中八策を用意していると伝えられます。明治維新の折に坂本龍馬が準備した船中八策を模したといえるのですが、坂本龍馬の船中八策は当時の時代の中では極めて民主的な考えだったとの評価が後の時代にされてもいるものです。はたして橋下市長が提示する船中八策はどれだけ今の社会の中でその時代を超えた民主的な考えを打ち出してくれるでしょうか。ハシズムとも呼ばれて一種独裁とも受け取られがちな橋下氏の手法にかかってくることでもあります。独裁者は自己に有利な法制度を用意しようとするものでもありますが、橋本市長はどのような条例や法を定めようとするのかと言うことにもなります。近代天皇制の成立と共に中央集権体制そして富国強兵の方針が決まった明治維新ですが、橋下市長はそのような過去の日本と違った地方分権の方向に舵を切ろうとしています。そこでは君が代斉唱の強化策と地方分権はどのような関係になるのかも関心を引きます。また日本の国歌「君が代」とアメリカの国歌である「星条旗よ永遠なれ」とでは歌詞の意味内容が全く異なるものであることは確かです。「君が代」の歌詞の中に登場する人物は「君」だけで複数形で表される「人々」を表す言葉などはどこにも登場してはきませんが「星条旗よ永遠なれ」の中には「人々」が出て来るところは大違いです。当然日本とアメリカとの歴史も違っているわけです。 日の丸・君が代の問題は別にしても、日本の教育現場も千九百八十年代から比べると大きく変化している部分があります。千九百八十三年に団塊ジュニアの世代が児童生徒であった頃は生徒数はピークの千七百五十万人ほどでしたが、その後順次減少して行き二千十一年時点では一千万人ほどになっています。大学受験の時期を迎えることにもなる日本の十八才人口は千九百九十年頃は二百万人超であったものが二千十一年には百二十万人にまで減少してきています。その減少幅は実に四割と言うことになります。これに対して小・中学校の教員の数は千九百九十年代がほぼ七十七万人ほどで二千十年においても七十万人ほどの水準を維持しています。児童生徒数が大きく減る中で教員の数がそれほど減っていないと言うことは児童生徒一人あたりの教員の数が増えたことを意味し、児童生徒に対して教師達の目が届きやすくなっていることにもなります。これは二千十二年三月二十五日の朝日新聞朝刊にグラフで示されています。団塊ジュニアの頃から比べれば遙かに手厚い教育が施されてもよい条件に学校現場が変わってきているといえるでしょう。団塊ジュニアの世代ですら現在から比べれば生徒一人あたりの教員数は少ないのですから、すでに現役の社会人としては第一線から身を引き始めている団塊の世代の頃はさらに教育面では手薄の状態だったといえるのは明らかです。児童生徒一人あたりの教員数が増えそれに情報機器が加わることで教員間で生徒達に関する情報共有が可能になれば教育現場における教育機能はより強化されると言えます。そして大学生の割合が同世代の50%に達している時点では更にその上の価値を自分に付け加えようと思う人が出てきても良いはずですが、海外留学を志す人の割合が減少している事への危機感から文部科学省は民間からの寄付を募って年間千人を留学させようという方針のようだと二千十二年六月一日の読売新聞朝刊にあります。海外留学をした場合日本の就活の時期と海外の大学の終了時期とのずれから自分の就職に不利という判断になり、それが日本の学生が海外へ留学することに二の足を踏む原因の一つと言われますが、東京大学の秋入学とも関連のあることとは言え民間企業などが資金を拠出して海外へ留学させるというのであれば企業は出資した金額に見合う利益を得ようとすることも考えられ、自ら資金を出した分海外へ留学した学生の採用に力を入れるようになることも考えられます。基金の額は二百億円を見込んでおり一人につき年間百万円を四〜六年間支給する制度にしたいようです。その記事には「日本人の海外留学は二千四年の八万二千九百四十五人をピークに減少に転じ、二千九年には六万人を割り込んだ。政府は二年前に閣議決定した[新成長戦略]に[海外派遣三十万人]を明記。今年度予算に留学や短期滞在の奨学金として三十一億円を計上。年間九千人の送り出しを目指している。」とあります。費用をかけて育てられた人たちにはその分活躍してもらわなければなりませんし、その活躍の場も用意しておかねばなりません。日本の社会がそれらの人材を生かし切れるのかどうかにもかかってくる部分があります。この時点での日本の大学の新卒者数は五十五万人ほどと言われますから留学する人の数はまさに数%のエリートと言っても良いはずです。それだけ活躍して欲しいところです。同じ紙面にはスイスのビジネススクール国際経営開発研究所の二千十二年の世界競争力ランキングではエネルギー、通信、教育などの「インフラ」が昨年の十一位から十七位に、「ビジネスの効率性」が二十七位から三十三位にランクを落としたことが響き総合順位が前年より一つ下がって五十九カ国地域中二十七位となったとあります。東日本大震災による原発事故の影響でインフラ分野のうち「将来の電力供給」が五十五位、「産業顧客向けの電力コスト」が五十一位、「エネルギーインフラ」が五十位と評価されたとされますが、これは当然の評価として納得せざるを得ません。原発の是非に関連してエネルギー供給をどうするのかは国民的議論が必要となるでしょうしかなり長期にわたる対策も必要になる部分ですのでせめて教育分野だけでも充実させて行くべきなのかも知れません。しかし教育に対する施策を施してその花が咲くのもある程度先のことではあるのですが・・・。少なくともアジア各国の中ではシンガポール・台湾がベストテンに入りマレーシアは十四位、韓国二十二位、中国が二十三位とされているので日本としては巻き返しを図らざるを得ない局面にあると言えるでしょう。日本としてはこの時点が一番の底と思いたいところです。総合一位は前年と同じく香港で、二位がアメリカ、三位はスイスとありますが日本にとってそれらの国々は遠い目標となってしまっているのが現実のようです。日本のサッカーの場合と同じように海外留学組と日本の国内残留組とがうまくかみ合ってオールジャパンの体勢になって行かないことには日本が海外諸国との競争力を巻き返して行くことは難しくなりそうです。海外留学組を日本の残留組が浮いた存在にしてしまわないような気配りも必要になってくるでしょう。その時にこそそれらの人たちの上に立って両者をうまくミックスしながらコーディネートできるリーダーシップのある人が重要になってきます。この時点の日本は若い世代の人たちにとって夢の持ちづらい社会になってしまっていると言わざるを得ないところが多いのですが、そんな中からでも幾つかの芽が生えてくることを祈らざるを得ません。ただ昭和の戦後生まれの私の世代にとっては、物心つく頃とはいえ夢だけしかなかった時代がありました。今のようにパソコンや携帯あるいはスマートホンなどは言うに及ばず、固定電話さえもが多くの家庭の中にはなかった時代から日本は始まっていたからです。情報を得る手段が新聞や書籍に雑誌とラジオそしてたまに見に行く映画だけと言う時代もあったわけです。それらにテレビや衛星放送そしてファックスやインターネットが付け加わっただけでも大違いの時代になっていることは確かです。トランジスタ以前の方式の真空管ラジオすらもが高価な商品であった戦前生まれの人からすればその違いはもっと大きなものとして感じられることでしょう。しかし今の若い世代の人たちにとってはそれは当たり前のものになっていることも事実です。それらは在宅勤務や遠隔勤務も可能にしてくれるツールでもあからです。すなわちテレワークと呼ばれるように人の働き方までも変えてしまうからです。電話が一般化していなかった頃は親が危篤になったことを至急に知らせる必要が生まれた時には電しかありませんでした。親元を離れている子供に家族から「父危篤すぐ帰れ」などと言う電報も国内では多数発信されてきていたことでしょうが、今は電話一本であるいはメール一つで伝えることができるようになっています。それらいくつもの新技術から生まれた製品によって可能になった新しい働き方の部分は企業の制度も社会の制度もこれまでと違う形のものへ変更する必要が生まれてもいるところもあると言えるでしょう。そのためにはまず企業経営者や社会の指導的立場にある人に頭を切り換えてもらわなければならないのかも知れません。正社員ではあるが勤務時間はフルタイムではないパートといった勤務形態や雇用の形態そして就業年齢などをこれまでのように硬直的に考えずもっとフレキシブルにすべき所もあるかと思えるからです。 二千十二年六月五日には文科省が大学改革の方針を打ち出したとの記事が読売新聞夕刊などに載りました。国際的に競うことのできる人材の育成が主眼の改革で、大学入試などではこれまでアメリカへの留学生の選抜に課せられたりしてきたTOEFLなどが活用されるとのことです。大学改革では世界で戦える研究力の強化や大学が地域再生のためのセンターになること、そしてグローバル社会で活躍する人材を育成するために入試では意欲・能力・適正などを総合的に評価する方向へ舵を切るようです。世界を意識しないでは生きてゆけない日本になったと言うことでしょうか??その拠点となるのは全国四十大学を選定とのことですが、それ以外の大学にも否応なくそのような余波は及んでくるものと思えます。また国際社会に通用する人材の育成の一環として大学への進学を条件に優秀な生徒は高校を二年間で修了し卒業できる制度を導入するという方針を文科省が決めたと二千十二年六月二日の読売新聞夕刊にあります。これまで千九百九十七年から行われてきていた飛び入学では高校中退の形で大学へ入学するので、その後大学を中退してしまった場合などは最終学歴が中卒になってしまうなど学生にもまた大学側にもあまりメリットがなかったので飛び入学制度を利用した人は二千十二年度までに約百人ほどでしかないと記事にはあります。理科系の分野は殊に若い頭脳が画期的なアイデアを生み出す場合が多いので飛び入学なども是非とも必要と言える部分がありますが、これまでの飛び入学は千九百九十七年時点では一部の分野そして二千一年度からは全ての分野に広げられていたとされています。今回の改革によって二年半で卒業して秋入学の海外留学という選択肢も可能になると言われます。大学を含め日本の教育レベルの底上げと国際化が必須命題になってきたと言えるようです。国際化の面では外国人学生を採用している日本企業の割合は27.1%とされ、実際に企業に就職することも海外の学生と日本の学生との競争になり始めていると言って良いようです。雇用環境が悪化し多くの製造業をはじめとする日本企業が海外進出の趨勢を強めている中で、日本国内からどんな新たな産業を生み出して行くかはこれからの日本にとっての課題となります。若い世代は自分の就職先を探すことで手一杯とも言えるのかも知れませんが、自分で新たな仕事を創り出し起業してくれる人も登場してくれることを願わざるを得ません。バブル崩壊とその後のリーマンショックや極度の円高などを経験している日本では、大手家電が大規模なリストラなどに踏み切る中で中途退職をせざるを得なかった人の中から自ら起業してくれる人もいて欲しくもあります。大企業の硬直化した風土に飽き足らない若い世代の人たちが会社を飛び出して起業することも望ましいことです。老後を迎えても経済的に余裕のある人たちはそれらの若きベンチャー企業などに資金的な支援をしてもいいはずです。ただし詐欺まがいのファンドもあるので注意して投資しなければなりませんが、今は第一線を離れている大会社の元社長や役員経験者たちの人脈や経験を活かせる場面もあることでしょう。日本経済が活性化して行かない限り地方の財政も苦境に陥り教育現場では非正規の教員が増えて行かざるを得なくなります。公立学校の教員になるための競争倍率は八倍と言われ私立学校の場合はそれよりももっと倍率が高いと言われる中では、学校教育に十分な予算を割いて正規の教員を雇う余裕が地方行政にないと言うことの現れとも言えます。教育改革をいくら唱えて教育制度だけを手直ししてみても社会全体の経済状態が逼迫してしまえば教育へもそのしわ寄せはやってこざるを得なくなります。確かに二千十二年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥教授の言葉のように「研究費と研究成果は比例しない」のかも知れません。一人の准教授と三人の研究員しかいない年間の研究予算が三百万円程の小さな研究室からでもやりようによっては世界を驚かすような研究成果を生み出すことはできたわけですから、教育現場でも少ない予算でいかに効果の高い教育と質を維持できるのかを真剣に工夫はしなければならないでしょう。しかし教育現場の質を高める可能性のある教職大学院は採用面での優遇措置などがないという理由などから半数が定員割れだとの記事が二千十二年八月二十七日の読売新聞朝刊にあります。全国二十五校の総定員が八百十五人なのに対し入学者数は七百八十二人とのことです。学部の四年間にさらに二年をプラスして学費を払ってもそれに見合う見返りが期待できないので学生から敬遠されているとのことです。大学院の博士課程前期(修士課程)を終了していながら派遣教員にしかなれないという場合も考えられないわけではありません。教員の六年制への移行も夢のまた夢の観がなきにしもあらずです。それにしても月収が十七万円でしかない派遣教員では他の副業もしながらでないと教員自身が結婚し子供を持つことすらできないと言うことになります。教育分野では人間を再生産することすらできないことになってしまうのです。ですがこれは現在の日本の多くの産業でも起きてきていることで教育分野だけではないのも確かなことでしょう。結婚年齢にある男性は女性に対して「癒し」を求め、女性は男性に「収入」を求めるとの調査結果があるそうですが、女性が男性に求める理想とする年収は六百万円で二十代から三十代にかけての男性でそれだけの年収を得ている人の割合は四%でしかないとのことです。それらもあって日本の非婚率が上がる結果にもなってくるわけです。雇用のミスマッチばかりでなく婚姻のミスマッチも起きているというわけですが、子供を持つ場合には殊に女性に於いては年齢が上がれば卵子の老化によって子供が生まれにくくなる年齢的な制約があります。女性が二十五分の一という確率の低い高収入の結婚相手に巡り会うのを待っているうちにも年齢は上がってしまっていると言うことにもなりかねません。そして生涯非婚率も上昇してしまう可能性があります。二千十三年六月二十五日の読売新聞夕刊にもそのことは触れられています。政府の『少子化対策白書』では「子育て世代はこの十年で低所得層にシフトした」とし、二十歳代の所得分布は年収二百万円台前半の層が最多で、三十歳代も九十七年には年収五百万円〜六百間園の層が最多であったのに対し二千七年には三百万円台に落ち込んだとされます。それらが原因となって晩婚化と晩産化そして少子化に至っているとの分析です。女性がある程度の年収のある男性との婚姻を望む背景には日本の経済状態の先行きに懸念がある現れともいえ、また教育現場が厳しい状態になっているのは日本の社会全体が経済面で劣化していることの余波と言えるのかも知れません。給食費や学用品の支援を受けている児童生徒の数は百五十六万人で六人に一人の割合にまでなっていると二千十二年十月十九日のNHK特報首都圏の「チャイルド・プア」というタイトルの番組で紹介されていました。日本の貧困率は先進国の中ではアメリカ・スペイン・イタリアに次いで第四位だそうです。投資資産が百万ドル以上の人の数は日本はアメリカに次いで第二位だとも言われる中で、貧富の格差が大きくなってしまっているとも言える姿が存在します。親が経営していた会社が多額の負債を背負って倒産したり親が病死したり離婚したりと子供が貧困に落ちて行く理由は様々と言えるでしょうが、満足な教育も受けないまま子供が社会へ放り出されてしまうと言う条件が存在しているわけです。ある程度の教育が受けられさえすれば社会の中で十分活動できる人達も大勢いるであろうのにと言うわけです。 しかし教育を受けさえすればそれだけで何とかなると思うのは間違いかもしれません。お隣韓国では全ての成人の四十三%が大卒で占められているとのことですが、就業率は五十五%でしかないとのことです。日本の家電メーカーを凌駕する勢いの韓国企業が存在するとはいえ、韓国はEUとの貿易が盛んだったので欧州の債務危機のあおりを大きく受け経済的には大企業は別にして多くの韓国企業は苦境にあるとのことです。日本でも二千十二年度では大卒の二割は非正規社員となっているように一通りの教育を受けたとはいってもそれで安閑としていられる状況にはないのが事実です。韓国は日本よりもさらに高等教育が普及しているといえそうですが、日本も学生の半数が大学進学する時代となったこともあり大学生の八人に一人は大学を中退しているとのことです。誰でもが大学へ行くからという理由だけで進学を決めた人が多く自分なりの進学理由を持っていなかったことも理由の一つではないかと私は思います。しかし退学はせずに大学教育を終えさえすれば安泰だと思うのが間違いなのと同じように一流企業に就職しさえすれば安泰と思うのも間違いといえそうな状況も存在しています。日本経済が足元から崩れ始めるような様相にあるからです。それはこれまで自動車と並んで日本の輸出の花形であった大手家電メーカー各社が大幅な赤字を記録していることなどです。ソニー、シャープ、パナソニック、三菱電機、富士通、日立などすべてが苦境に立たされ大幅な人員整理を余儀なくされたりもしています。運よくそれら有名企業の正社員になれていた人であっても早期退職を余儀なくされる羽目にもなります。このような日本の経済状態では地方行政にも財政的な余裕がなくなり教育に支出できる予算にもそれだけ限りが出てきてしまい、その結果として先に示したような非正規の派遣教員が増加せざるを得ないような結果になるわけです。そのような状況の中では団塊の世代を中心としたシニア世代などがそれまでのたくわえを元にして小さいながらでも何かを始めてもらわなければならないのかもしれません。二千十二年十一月二日のNHKの特報首都圏の”老後は超面白い”によれば、若い世代を含めて日本で起業する人の四人に一人はシニア世代だとのことです。私はどちらかといえば高齢になった人間が若い世代の上に立っていつまでも采配を振っているのはいいことではないと思っている人間なのですが、年齢が上がった世代は世代なりに社会参加をしていたほうがいい部分はあるとも思います。それらの人たちが若い世代の手助けをしたり新しい事業やサービスを提供し始めたりと社会の中で貢献できる部分があるのなら、これまで仕事に追われて果たすことができずにいた自分なりの夢の実現を退職後の人生の中で実践してみてもよいからです。あるいはずっと主婦として過ごしてきていた人たちでも事業を始めても一向に問題はないといえます。「若い頃にこんなサービスがあったら自分はどんなに助かったことだろうか」などと思えることを事業化することもできるかもしれません。男性であれ女性であれそれまでの人生の中で培ってきた知識や技能・技術そして経験や人間関係は生きてくることもあろうかと思いうのです。そしてそれらのシニア世代が動くことによって社会の中でお金もまわり始めてくれればそれに越したことはありません。高齢者の割合が大きくなった社会では比重が増した高齢者が何もしないでいたのでは社会の重荷になってしまうからです。若い世代に負担だけをかけたりあるいは若い世代の邪魔をしたりせずに社会の中で活動ができたらそれはそれでいいことだと思います。日本経済が盛り返さないと教育分野もそれに足を引っ張られてしまいます。教育分野が低迷すると次の時点での優秀な人材が育たなくなって経済の復活にも支障を来すことになってきます。経済も教育も相互に絡んでいて日本にとっては重要なテーマです。経済と教育が相互に影響し合いながら下降線をたどるのかそれとも上昇軌道に戻れるのか予断を許さないところにきています。日本の社会は大学へ進学する割合が五割近くになって日本としてはかつてないほどの高学歴社会にはなりましたが、世界に目を向けたときにはそれでもまだ日本の大学への進学率ではOECDの平均以下とされています。二千十二年十一月十六日の朝日新聞朝刊の記事のOECDによる調査のグラフでは日本の大学型高等教育機関への進学率は四十九%であるのに対しOECDの平均は五十九%で、英国は六十二%程、韓国は七十%程、米国は七十五%程でオーストラリアに至っては九十七%程といずれも日本を上回っています。日本以下の主要国はドイツの四十一%程となっています。しかも日本の場合は大学へ進学した人の八人に一人すなわち十二%強は退学するとのことなので実際に大学を卒業する人の割合は四十一%程にしかならないということになります。全成人の場合ですら四十三%が大卒といわれる韓国のその数字と比べても低くこれは社会全体で見れば大きな開きです。日本は教育分野ではまだまだだ出遅れている状態といってよいでしょう。そんな中で日本に救いがあるとすれば日本人のノーベル賞受賞者は生まれているが日本よりも高学歴化している韓国にはノーベル賞受賞者が金大中大統領のノーベル平和賞だけで二千十九年度時点においては理科学分野では皆無といったことくらいでしょうか。それにしても学ぶことや考えることをおろそかにしたりないがしろにする社会あるいは学んだ人や考えた人をおろそかにしたりないがしろにする社会は後でそのツケを払わされることになるのでは・・などと思います。そして大学へ進学するにも経済的な理由でそれがかなわない人たちに対しては社会制度の中で最大限の配慮をすべきことのように思います。教育改革で教育委員会制度をいじったり教科書検定を見直したり保守派や右派の人の口から出てくるおきまりの日教組批判をしてみただけでは日本の教育現場や日本社会をもう一段上の教育レベルの社会へともってゆくことはできないことだろうと思われます。教育委員会や日教組が原因で日本人の大学進学率は低く押さえているという因果関係は認められないだろうと思うからです。すなわち「日教組をつぶし教育委員会を廃止すると日本人の大学進学率は社会人を含めて飛躍的に伸びる」ということをどうやって論証できるのかということなのです。因果関係のないものをたたいてみても何の改善にもならないないことでしょう。「医者を殴れば病気はよくなる」というわけではないのとおなじです。 「教え子を戦場へ送るな」を合い言葉に戦後に生まれた日教組を目の敵にする勢力は、では「それ行けドンドン」で自衛隊を海外展開させしかも武力行使もしやすいようにしさえすれば理想の教育が実現できた証だと言うことにでもなるのでしょうか?また「教員は視野が狭く国際性に欠ける」との指摘もあるようですが、ならば教員たちが海外研修を受けられるような予算措置がつけられるほど日本の財政事情は豊かなのかです。財政措置をつけることがかなわない財政事情だというのならその結果だけを教員の責任とされるのもおかしなものです。日本の民間企業では海外出張や海外赴任は当たり前のように行われていますが日本の教育現場ではそもそも海外と教員が直接触れる機会は殊に小・中学校の場合は非常に限られているのでそれらを可能にしてみてもいいはずです。外国人教師に協力をしてもらいそのつてをたどってでも海外と日本の一般教員との交流が校務の中でもっとあってもいいと思います。二千十二年からすればかれこれ半世紀近くも前の戦後の日本が渡航自由化された直後の時期の話であるとはいえ、私の高校時代の校長は何年も前にアメリカへ視察に行ったときのことを誇らしげに「私がアメリカに行った時には・・・」と何度も生徒の前で披露したのですが、卒業生で銀行の頭取になった方が学生に話をしに学校へ来られて「昨日アメリカから帰ってきたのですが・・」とのことでした。このような状態だったのでその校長は学生達からはあまり尊敬はされてはいなかったというのが事実です。しかしそれでもいわゆる物見遊山の海外旅行も解禁されるようになった千九百六十六年の渡航自由化以前の時期にアメリカに行ったことは校長先生としては自慢してみたいことであったろうとは思います。このように教育現場が実社会よりも国際化の点では大きく遅れをとっていたことは何も今に始まったことではなかったのです。そしてもし教員の国際性のなさを批判するのなら語学関係ばかりでなくそれ以外の分野の教員も国外と頻繁に接触できる機会を校務の一環として持てるような方向に教育の現場を変えればいいと思います。政治家も国会議員などになれば国際会議などへ赴くわけですし市区町村の議員でも海外視察をしたりビジネスマンは海外出張したりするのですから学校のマネッジメントに携わる管理職だけでなく一般の教員にも公費での海外視察あるいは研修や海外留学などのチャンスが与えられていてもよいはずです。国旗掲揚・国家斉唱を職務命令で義務化し卒業式で君が代を歌っているかどうかを教育委員会の人間が唇の動きを観察するなどという聾学校の口話による読唇(現在はテレビなどでは手話が広く行われていますが、聴覚に障害がある人などが相手の唇の動きを見て話の内容を読み取ることを指します)の授業のようなチマチマしたことばかりしているのではなく、もっと大胆に教員の海外派遣こそを職務命令で行えばよいと思うのです。また海外の学校と姉妹校提携をしてインターネットを介してでも交流したりする授業を学校単位で選択でき正規の授業として認める自由度を与えていいとも思います。これは一つの例えですが小学校でそのような授業をすれば世界の国々と日本との間には時差があること、また北半球と南半球では季節が逆であることをまず生徒達は自然に覚えてゆくことでしょう。地理と理科の科目を教科書で教えるよりももっと具体的にまた現実のものとして理解できるようになるだろうとも思います。高校などでは国際高校と銘打った学校もでき一般の高校では福祉科もできているなら国際科のコースを一般の高校にも用意してもいいかもしれません。小・中学校でも日本の教室には海外出身の人の子供が大勢いるというアメリカのような多民族国家の教育現場とは違っています。それだけでも日本の学校現場広くいえば日本社会の国際化の度合いは低いと言えます。政治家は教員批判をする前に海外と接触する多くの機会を学校が得られるような施策を用意したりそのことの政策的後押しなどをすればいいのだと思うのです。教員の問題点を批判するばかりでなくその問題を解決する手立てを用意するのが政治家の役目と言えると思うからです。学生を教えるのは政治家ではなく現場の教師達です。政治家に一人一人の生徒の顔が見えているわけではありません。でなければ政治家が政治家を辞めて現場の教師となって教壇に立ち直接生徒を指導すればいいだけですから・・・。それでもやはり政治家をやっている方が教育に行使できる影響力が大きいから政治家のままでいたいというなら政治家としてできる教育政策でも立ててもらえばいいだけです。少なくとも日本の教育の現状を見れば二十年も三十年も行われてきた日教組・反日教組の不毛な議論にいつまでも明け暮れしている時間的余裕はもはやないと思うのです。そして私の母校の高校もノーベル賞受賞者が卒業生の中から生まれ出たりしたことなどもあって国際化を目指し始め二千十三年にはアメリカ東海岸(ニューヨーク・ボストン・ワシントンDC)への十日間ほどの学生達の現地研修プログラムが企画されています。卒業生達が支援しての企画ですがマサチューセッツ工科大学やハーバード大学の授業を見学したりするとのことで募集人員は四十名で費用は一人あたり約四十万円ほどかかるのですが募集人員の二倍以上の応募があるそうです。ノーベル賞を受賞した卒業生は根岸英一さんですが彼の家庭は決して裕福なわけではなかったと新聞紙面で紹介されていました。しかし小学校の恩師がお母さんに根岸さんが優秀であるので一生懸命育ててほしいと願ったそうです。それに比べれば高校生時代にアメリカの大学の講義を参観しにゆける高校生は幸せな境遇といわなければならないでしょう。また現在では高校の修学旅行の行き先が海外という例は多数ありそれなりに国際化はされつつあると言えますが、アメリカのノーベル経済学賞受賞者のクルーグマン教授の言葉のように「日本の製造業は生産性が高く雇用の受け皿になることはあまり期待できないので、サービス業や教育分野に重点を置くべき」との言葉は妥当と言えるのではないかと思います。殊に諸外国と比べて立ち後れが目立つ教育分野を充実させることは日本の課題といってよいでしょう。日本の製造業の雇用人数は二千十二年十二月三十一日の朝日新聞朝刊の記事に載ったグラフでは二千九百九十二年の千六百万人ほどをピークとして減少に転じ二千十二年には千百万人程までと二十年で五百万人近く減少しています。製造現場の生産性が向上したという理由だけでなく企業が生産拠点を海外へ移転したことにもよるのでしょうが製造業にこれまでのように雇用を期待することができなくなりつつあるのは確かなようです。そのため教育分野などへ重点を移すべき時期ではないかと言うことになるのですが、十分すぎるほどの予算を割いているにもかかわらず教員がそれに応えようとしていないというなら教員を批判するのもいいのです。しかし教育分野へそれだけの予算を割けるほど財政にはゆとりがないというのなら教員の国際性のなさの批判をする前にそれだけのことができない状態であることを政治家や行政が自ら恥じるべきだろうと思います。非正規の教員や派遣の教員に頼らざるを得ない教育現場であるというのが現実だからです。事実公立の小・中・高校の教員で休職する人の数は八千五百四十四人と十九年ぶりに減少したもののそのうちの六十一%強は鬱病などの精神疾患で三年連続で五千人を超えておりこれは二千十二年からすると十年前の二倍の数だとされています。教員個人が一人で問題を抱え込んでしまう傾向が強いことと教育予算との関係で人員の面でも時間の面でも教育現場が疲弊しきってしまっているというのが実情と言えるでしょう。全国の教員の数は二千十三年時点でおよそ七十万人とされていますがその中の六万三千人は臨時採用すなわち非正規の教員だとされます。これは将来的に生徒数の減少が見込まれるために正規の教員の採用を行政が絞っているためだとされます。また公立の小・中・高校の教員の残業時間は十年前に比べて一ヶ月あたりで二十時間増えているとのことです。これは個人情報の管理が厳しくなったためにそれまで自宅へ持ち帰っていた仕事を校内で終わらせるようになったためだとのことです。しかもこれらに加えて教員に国際性まで求められるとするなら何らかの新たな対策を準備しない限り現場の教員への負荷が大きくなりすぎてパンクしてしまうことになります。すなわち教員に国際性を持たせるための予算とそれに伴う人員と時間を教育現場に確保すべきことになります。学齢期の人への学習分野での対策を手厚くすることはその親への経済面での間接的な支援にもなり世代間の格差があるというならその是正にもなることでしょうし、社会人への高等教育も充実させなければならない分野だといえるでしょう。二千十二年十二月十日の朝日新聞夕刊にはあしなが育英会の調査結果として遺児の教育費が足りない家庭が八割近いとの記事があります。二千九年までは三割台で推移していたものが不況による収入減や働き過ぎによって体調を壊す母親の増加などで二千十年には四割、二千十一年には六割半へと悪化してきていたとされます。学びの場を確保するだけでも何らかの措置をしなければならない状況になっていると言えるでしょう。また日本の場合学齢期を過ぎてから再び大学などで学ぶということはこれまであまり一般的ではなかったと言えますが、アメリカなどでは社会人になってからあるいは企業を定年退職してからでも大学で学ぼうとする人たちはかなり存在するようです。学び直しでも、また自分の人生の終盤を充実したものにするためでもいいでしょうが、ある程度の年齢になってからでも大学で再び学ぶ機会を持っても悪くないだろうとは思います。それこそ「ゆとりのある教育」というものだろうということです。学ぶことで学位を得てそれで出世しようとか仕事の役に立てようとかするわけでもなく、学ぶことを手段とせずにそれ自体を楽しむことが目的である学びこそ贅沢この上ないといえるものではないかと思うからです。その中で新たな知的ひらめきでも生まれたりしたらそれはそれで素晴らしいことと言えるでしょう。現実に図書館の書籍の貸し出し数が上がっているようで、本格的にリタイアが始まった団塊の世代の人たちが書籍を借りて読書に時間を割けるようになったことも影響しているからではないかといわれています。もし近くに子供達が住んでいるなら教養のあるおじいさんおばあさんが孫の面倒をみるのも理想といえるかもしれません。孫の勉強を手伝ったりあるいは孫と一緒に研鑽を積むというわけです。 教育分野での政策がどのように変わるのかとは別に日本の少子化の進み具合は社会にも大きな影響を与えるものになってくることでしょう。二千十二年十二月二十五日の朝日新聞朝刊に載ったグラフでは日本の十八歳人口は千九百九十二年時点では二百万人超だったものがその二十年後の二千十二年には百二十万人強へと減少してきています。これに対し国立の大学・大学院生の定員は九十二年度が十三万五千人程から二千十二年には十五万五千人へと増加しています。日本の大学数は十八歳人口が減る方向に向かっている中で増加してきていたので全入時代を迎えましたがそれに伴う受験生の学力不足も問題化してきました。受験競争が緩和されるに従って勉強をさしてしなくても大学へ入ることができるという条件ができてしまったのかもしれません。そのためそのグラフの載った記事では国立大学などは定員の枠を減らす動きに転じたと記されています。枠を狭めることで質を維持しようというわけですが大学としては苦しい選択とも言えます。ことに私立大学の場合には大学の経営にも直に影響してくることにもなるので決断にはそれなりの覚悟が必要となってくることでしょう。そして十八歳人口が二十年で四割も減少することによって六割になった人たちが少数になった分だけ精鋭になれているかどうかということは、それらの人たちが社会人となって日本の社会の中核あるいは中枢を占めるようになったときに日本がどのような国際的地位を保てているのかにも関わってくることです。団塊の世代が十八歳人口であった千九百六十六年から六十八年頃は多い年で二百四十九万人少ない年でも二百三十六万人だったのですから、それからすれば日本の十八歳人口は二千十二年にはかれこれ半減ということになります。団塊の世代が成長し社会人となっていった時期の日本経済は右肩上がりであったとはいえ、その頭数の多さのために受験競争も含めて競争などとの言葉は使わなくても実際に競争の激しさもまた時には協力し合うことの大切さも身をもって経験してきた世代でもありました。少なくとも”仲良しクラブ”だけで済んでいた世代ではないことは明らかです。以前テレビに出ていた団塊の世代の女性は「私たちは人数が多かったから一生懸命手を挙げて声を上げないと先生に指してもらえないので自分の意見を言うにも競争だった」と述べていましたが、それはその年代の人にとってはどこの小学校でも同じようだったと言えるでしょう。まるで巣の中にいるまだ目も見えていないようなたくさんのひな鳥達が親に餌をねだって競うように大きな口を一生懸命開いている姿にもにています。それに引き替え二千年代になると十八歳人口は上述のように減少し競争が緩和されて、「小学校の運動会でも差が出ないように競技をさせようとする」と日教組に絡めながらの批判が出るような時代にもなっています。その対極にあったのが二千十三年に起きた大阪市立桜宮高校におけるバスケット部の顧問による体罰事件とも言えるかもしれません。大会で優勝を目指さんがために体罰を行いバスケット部のキャプテンが自殺した事件です。戦前の鍛錬棒でたたいて精神力を養うと言う姿にも似ていて体罰は問題であるとは言っても、運動競技で優勝を目指すこと自体は間違いだとは言えないと思います。また競争という言葉に抵抗感がある人がいるのならば切磋琢磨でもいいでしょうが、人間が社会の中で向上してゆく努力はどんな社会になっても必要とされることでしょう。社会が変われば価値観も変わりはしますが、変わった価値観の中でも切磋琢磨すること自体は変わらないだろうと思うのです。また人数が少なくなった社会ではお互いが助け合ったり協力し合う必要性はそれだけさらに重要になることでもあるでしょう。そして時代が変わっても変わることのない普遍的な価値というものにたどり着けた人あるいはそのような価値の形成者になり得た人は成功者と言えるのかもしれません。大学間でも少子化の時代を迎えて競争は起きてきています。二千十二年までの十年間で十二校の大学が閉校に追い込まれています。学生を集めることができずに経営難からの閉校という道をたどったことが主な理由です。有名大学や名門大学ではない大学にとっては自校の特色や独自色をどのように出してゆけば学生を集められるのかの競争にもなることでしょう。大都市に集中している有名大学間でもこれからは学生の奪い合いになるかもしれません。楽に学生を集められる条件ではなくなってきているからです。大学としては何とか学生に来てもらおうと努力するわけなので、その分受験生の方は楽ができるのかもしれません。バブル経済華やかなりし頃は「働いてやろうか」と学生の売り手市場で就職するのは楽だったはずでした。しかし二千十年代にはバブル経済の時に就職した人たちも四十代となって大変な苦労をせざるをえない経済状態の中を生きています。また現役の学生も入試では楽ができても就活では苦労する時代になってしまっています。そして第二次安倍内閣は教育改革で「道徳教育の教科化と規範意識」を前面に出し「日本に生まれてよかったと思える誇りを取り戻せるように・・」と述べていますが、その時点では日本に生まれた赤ん坊はオギャーと産声を上げた瞬間にすでに八百万円もの借金を背負わされてしまうのです。多額の財政赤字を抱えて自分のせいでもない借金を背負わされていながら誇りだけ持てと言われても子供が物心つくような歳になれば割り切れない気持ちになるのではないのでしょうか。それほどの借金を負わせておきながら誇りを持てと要求されることは理不尽だとも言えます。国を愛せといっても、では現実に多額の借金を抱えていることが分かってしまっている人の恋人にあえてなってくれる人はいるのでしょうか?そして規範意識というのであれば、子孫に美田を残さないまでも多額の借金も残すべきではないはずです。しまりのない財政運営に対して政治家や官僚達自身も自分の身を切るくらいの規範意識は持つべきだろうと思うのです。規範意識を唱えていた人たち自身が憲法違反と判断される可能性が極めて高いことが予想されていた国会議員の定数の状況の下でも自分たちの政権取りのために民主党政権にしゃにむに解散を迫ったのも事実でした。一票の格差を是正した上で憲法上の問題をクリアしてから選挙に臨むことを求めることより、自党に有利な雰囲気ができあがったので何が何でも選挙に持ち込んだという姿がそこにはありました。解散権を持っていたのは当時の民主党の野田総理で彼が憲法違反をしたと言うことにはなりますが、解散に持ち込んだのは自民党なので自民党は憲法への違反行為をそそのかし違法行為をせざるを得ないように仕向けた教唆の罪に当たるのではと思います。野田首相が正犯ならばその後の安倍首相はそれに準ずる者と言うことにもなります。では政治家に課せられた規範とは何なのでしょうか??規範意識を声高に唱えていた人自身がいざ自分のこととなると全てをかなぐり捨てるという行動をとったともいえます。規範意識は他人に求めるばかりでなく政治家自身も持つべきだと思うのです。自分たちが政権に返り咲くためならどんな手段でも執るというのは庶民がカネのためなら善悪の見境もなく行動するのと同じことです。そういう政治家を生み出してしまったのは日本のこれまでの教育に欠陥があったからだと言われれば確かにそうなのですが、ではどのように教育すればそのような人たちの考えを変えてもらえるのでしょうか??それは道徳教育で実現できるのでしょうか??あるいは政治家達のそのような行動自体を道徳の授業で取り上げて生徒達に考えてもらう題材にすべきでしょうか??それとも「選挙をすれば自分たちが勝てるところにいるがそうすれば憲法違反になる。しかし違憲判決が出ても選挙無効の判決は影響が大きいので裁判所もそこまでは踏み込まないだろうから選挙には勝利できる。だが与党に返り咲いても野党からは批判の声は出るだろうし国民には新たな政府の正統性が疑われるかもしれない」という「政治家のジレンマ」と題したゲーム理論の問題として政治学分野のゲーム理論の研究者達に大学の講義で扱ってもらうべきでしょうか??日本の大学が国際的レベルを目指すというのであればそのくらいの水準の講義をする大学が国内に一つ二つあってもいいように思えてきます。一般市民は交通違反などの法律違反を犯しただけでも罰金を取られますが、憲法違反の判決が出ても罰金を払わずに済むのは政治家だけのようです。自分の欲望や欲求を自分で抑制できる人間になるのは私は自分自身を省みても難しいことだと思います。当然政治家達にも欲求や欲望そして思惑はあることでしょう。それらは教育で解決できる範囲の問題なのかどうかです。 そのような日本のこれまでの教育ではありましたが、戦後教育が問題とされはしても戦後教育を受けた人たちの中からもノーベル賞受賞者もフィールズ賞受賞者も生まれてきているのも事実です。また戦前生まれの安部公房氏はノーベル文学賞の候補とされていましたが、戦後の民主主義教育を受けた第一世代と言ってもいい団塊の世代に含まれる村上春樹氏なども毎年のようにノーベル文学賞の候補者として取りざたされてもいます。戦前や戦中の教育を受けた人でも戦後教育の中で育った人でも優秀な人は優秀なのです。ただ、日本人がノーベル賞を受賞し始めたのは湯川秀樹博士を筆頭に全て戦後になってからのできごとでした。そして教育への公的支出が少ないと言われる日本も幾分かは改善されそうな話が出始めてきています。二千十三年四月二十六日の読売新聞朝刊の記事では中央教育審議会の答申として、将来的に国と地方が支出する教育費の割合を現在のGDP比で3.6%からOECDの平均である5.4%にまで引き上げるとしているそうです。現在の文科省予算は五兆円なのがそれにさらに十兆円を上積みすることになるとのことです。また国際調査ランキングで百位以内に日本の大学が十校入るようにし、二千三十年をめどに留学生数を倍増させ、情報通信技術を使った授業を促進させるといった目標が盛り込まれているようです。私は日本の教育分野が早くこのように充実されることを願う者ですが、日本の国・地方の財政状態を考えた時、どこまでそれを現実のものにできるか一抹の不安も抱かざるを得ません。ただ、教育を受けた人たちの中から画期的なアイデアを生み出す人が登場して結果的に日本の経済に大きな利益をもたらしてくれることによって教育へ投資した分を社会が回収できるようにしてくれることを願うのみです。しかしその雲行きも怪しくなりそうな気配があります。二千十三年六月二十六日の読売新聞朝刊の記事では日本の研究力の世界の中での位置づけが質量ともに低下していると報じられています。二千十三年版の科学技術白書で二千九年〜十一年にかけての論文数は十年前の世界第二位から五位に低下、他の論文に引用された回数が上位10%に入る「影響力の大きい論文」の数は四位から七位へと落ちたとされます。日本の科学研究力が下降し始めているという指摘ですが、優れた研究が生まれないと技術革新や社会制度の刷新などに影響が出てきてしまいます。すなわち産業や社会の停滞に結びついてしまうのです。そのため若手が研究しやすい環境作りや国際共同研究の戦略的な推進、そして研究成果の事業化への支援が急務との結論だそうですが、いずれにしろ学生達の学力の向上とその学生達の中から優秀な研究者達が生まれて優れた研究成果をあげてくれることを待たねばなりません。先にも述べたように日本の学生数は減少傾向をたどります。頭数が非常に多かった団塊の世代もこの時点では大学の教授・准教授職からは本格的に退官あるいは退任してゆく時期を迎えてます。その分若い世代の研究者達には教授職や准教授職のポストに空きが生まれ活躍の場ができてくることになるのかもしれません。あとは若い世代に大いに活躍してもらわなければなりません。第二次安倍内閣が打ち出したアベノミクスと言われる経済政策の三本の矢の最後の第三の矢である成長戦略の中には教育分野も含まれています。それには早期の英語教育や金銭的な余裕がない家庭の子供でも能力があれば全員留学できるように国が支援すること、大学教育のレベルを上げるために「論文引用などの指標で世界トップ百に入る大学を今後十年で二校から十校に増やす」などの目標が掲げられています。日本のこの時点での国や地方自治体の財政状態を考えるなら、限りある予算の中でこれらを実現することは容易ではないことでしょうが夢のある目標であることは確かです。また二千十三年七月十二日の読売新聞朝刊の社説には「自民、公明両党は三歳から小学校入学までの幼児教育の無償化に取り組むことを公約に盛り込んだ。実施するには、年約七千九百億円もの予算が必要だと見込まれている。」ともあります。日本が経済面で世界を意識しなければとうていやってゆけなくなった状況の中で教育分野でも世界を意識する必要性が一段と強まったと言えるのでしょう。そのような中で以上のような目標はどのようにすれば実現が可能なのかを考えなければならなくなってきます。幼児教育や中等教育の場合であるなら予算をつけて人員を確保することである程度目標を実現できるという部分もあると思えますが、では大学のレベルアップをすることなどはどのようにすればそれが可能になるのでしょうか。国民が政治家に「もっと頭がよくなって欲しい。」と要求したとしてもそれだけで政治家の頭がよくなるわけでもありません。それと同じように大学の研究者たちに「もっと優れた研究成果を出してくれ」と政治家が望んだとしてもそれだけで大学の研究レベルが上がるわけでもないのです。しかも日本には潤沢な予算があると言うわけでもないので大学の研究環境を改善し研究者たちに研究しやすい条件を整えるといってもおのずと限界があります。二千十三年七月二十九日の読売新聞朝刊には二千十二年時点では大学の国際ランキング上位百校で二十七位の東京大学と五十四位の京都大学の二校だけであるのを今後十年間で十校以上を日本の大学が占めることを目指すという目標に対して文科省は年間百億円の補助をすることを二千十四年度の概算要求に盛り込む方針だそうです。海外の著名な研究者やチームの招請あるいは海外の大学との研究拠点を国内に設けることなどの為の費用とされるとのことですが、日本としては財政面のことを考えれば精一杯の対策とも言えるでしょう。ただ予算措置は研究者の助けにはなっても研究レベルを上げることは研究者達自身の能力に関わることでしょうからそれはそれで難しさはあると思えます。すでに触れてきたように日本の教育現場は派遣教員や博士号取得者の就職難などの大きな問題が存在しています。「良質な教育をより多くの人々に」と言っても現実はかなり厳しい状況だとも言えます。知識を習得した者あるいは少なくとも新たな知識を作り出した者は社会の中でそれなりの処遇を得られるのだと多くの人が認めるような社会に日本がならなければ大学のレベルアップと言ってもその実現は困難になってしまうことでしょう。学士号や修士号ならともかく博士号を取得するにはいずれの分野であったとしても沢山の本を読んでその分野の一通りの知識を習得したただけではだめで、それまでになかったその人独自の知見や発見を生み出しその分野に付け加えたり新たな分野を切り開いたりすることが求められ、単にそれまでの知識の前例を踏襲し物知りになったというだけでは可能とならないのです。少なくとも読んだ本を超えるところまで行かなければ博士号にはたどり着けないというわけです。すなわち自分の頭にインプットした知識よりも高度な知識を自分の頭脳からアウトプットできた人しか博士号はもらえないのです。アウトプットされるものがインプットされた知識と同じものでしかないとしたなら知的生産としては何もしていないのと同じだからです。そのように知識のレベルで高度な要求を満たした博士号取得者が不遇な境遇に置かれてしまうような社会では大学のレベル向上と言っても疑問が生まれてしまい下手をするとかけ声倒れになりかねないのです。より多くの人が博士号取得を目指し、少数ではあるでしょうがその中からノーベル賞クラスのような世界を驚かす非常に画期的なアイデアを創り出したり発見したりする人が生まれ、その結果として日本の大学のレベルが国際的に上昇するようにしなければなりません。そのため「博士号を取得してもあまりいいことはなさそうだ」と思われてしまうような社会であっては大学のレベル向上と言っても研究者になろうというモチベーションは上がらず目標達成もおぼつかなくなってしまうのです。経済犯罪を犯した人に高額な罰則金を科すことで「経済犯罪は割に合わない」と多くの人々に思わせることは社会的に望ましいことですが、「高学歴者になって博士号を取得することなどは割が合わないことだ」と人々が思うようになってしまうことは決して社会にとって望ましいことではないはずです。すなわち日本国内にどのようにして博士号取得者達の雇用の受け皿を創り彼らに活躍できる場を用意することができるのかと言うことです。そのためには大学に眠る知識や技術が産業として生かされるように実用化される道を作り出し、その分野の博士号取得者が優先的に企業に採用される道を作り出す必要があるのかもしれません。博士号を取得した人たちには活躍の場が日本国内にそれほどないようでは日本の未来は暗いと言わざるを得ないでしょう。「論文引用などの指標で世界トップ百に入る大学を今後十年で二校から十校に増やす」という目標を掲げるだけでなく現在日本が抱えている教育分野の問題点の解決も図らなければならない状態です。華々しい目標を掲げることでそこにある問題点が覆い隠されてしまったりしないことを願いたいところです。問題点を解決しなければ目標の実現も遠ざかってしまうことになるだろうからです。二千十三年七月三日の読売新聞朝刊にも「高学歴ワーキングプアー」という記事が出ています。この場合の高学歴者とは大学院修士課程(博士課程前期)と博士課程(博士課程後期)の両方を含むと思われますが、大学を掛け持ちで専任以外の働き方をしている高学歴者の年収は四十代にまでもなっていながら三百万円台の人も多いとされ、二千十一年の博士課程進学率は16.5%と6.7ポイント低下したとされています。大学院在籍者数は千九百四十八年頃は数千人のレベルでしたが三年ほど大学院の修士課程にいて中退した私が大学院へ残った七十二年頃には五万人弱ほどになり九十年代に急増して二千十年時点では三十万人近くに増えてきている様子がグラフで示されています。しかし記事の表題通り高学歴の人たちの雇用の受け皿が企業内部にはあまりないために、もっぱら大学院進学者達は教育分野で仕事を見つけることが主流となっていて低所得の境遇に置かれる場合が多いようです。二千十三年八月五日の読売新聞夕刊には「高度外国人材ポイント制度」の優秀外国人認定のポイント(ポイントの合計が70ポイント以上の人を「高度人材」として永住権などいろいろな優遇策を与えるとのことです。二千人の目標に対して実際に認定されたのは二千十二年度では十七人と報じられています。)の具体例が載っていますが、研究者では学歴で博士号は30ポイントとされ年収は四百万円〜一千万円について年齢に応じて10〜40ポイント、企業経営者で30ポイントに相当する評価をもらえるのは年収が二千万円以上二千五百万円未満とされています。しかしポイントとしての評価では同じ30ポイントでも年収面では研究者と実業家では開きが非常に大きく、日本の博士号取得者に対する年収面での評価と比べてみてもあまりにも大きな隔たりがあると言わざるを得ないでしょう。修士号ですら20ポイントで企業経営者であれば20ポイントに評価されるのは年収千五百万円以上二千万円未満に相当するものとされているのです。これは日本の高学歴者達が置かれている条件からすれば年収面ではとうてい及ばないのが現実と言えるでしょう。研究教育の分野と実業の分野との給与の差があまりにも開いてしまうと、よほどでない限り研究職などを志そうという人はいなくなってしまうことでしょう。給与の差が大きい原因としては大学と企業との連携がうまくできていないからなのか企業内部の主要ポストの人のほとんどが学部卒であるがために大学院卒の高学歴の人間に対する偏見や抵抗感があるからなのか、あるいは学士卒の管理職には博士号を持っている人の研究内容が理解できなかったりそのような人にどんな仕事を任せたらよいのかがわからないことが理由なのかは分かりませんが、高学歴であるが故の不遇が生まれているとも言えそうです。それとも多くの会社には博士号を持っているような人が仕事をするセクションがそもそも存在していないと言うことなのでしょうか?もしそうなら「そんな会社は大したレベルの会社じゃない」という社会的評価が下されてもよいように思えても来ます。二千十三年七月五日の読売新聞朝刊にも五神真東大副学長が「二千十一年度の東大大学院生の博士課程進学率は25.8%と、この十年間で16ポイントも落ち込んだ。(この十年間と言うことは民主党が政権の座にあった三年半とそれ以前の自公政権の時代にまたがる期間です。)研究人材は科学技術立国・日本の国力の土台だ。厳しい基礎訓練と海外での武者修行を武器に、世界を相手に勝負を続ける[研究人生]は魅力あるキャリアであるはずだ。しかし今、[研究人生]が若者にとって、不安定で労苦に見合わない選択肢と映っている。」と述べています。第一次安倍内閣の時に安倍首相は「努力が報われる社会」を唱えていましたが、博士号を取得するために努力を払ってもあまり報われないという結果になってしまっています。それは高学歴者に対する制度的な要因によると言うことのようですが、そのような影響もあってか日本の「技術革新力」は世界の中でまだまだの位置でしかありません。高学歴ワーキングプアーの記事が載った二千十三年七月三日の読売新聞朝刊の同じ紙面には日本の「技術革新力」は世界で第二十二位と前年から三つ順位を上げたとはいえそれでもアジアでも七位の香港、八位のシンガポール、十八位の韓国以下のところにいます。十位までが一覧表になっていますが、一位はスイス、二位スウェーデン、三位英国、四位オランダ、五位米国、六位フィンランド、七位香港、八位シンガポール、九位デンマーク、十位アイスランドとされています。産業分野が高学歴者ことに若い高学歴者の知識や研究能力をうまく活用し引き出せない、すなわち民間企業が高学歴者を生かし切れない状態のままでいると日本の技術革新力も伸びず産業の競争力も低下することになりかねません。新しい考えや発見を生み出せる頭脳がなければ技術革新を作り出せるはずもないからです。ましてや管理と統制が行き届いているだけのような組織の中からは画期的で自由な発想の革新的技術が生み出されてくるともいえません。二千十三年七月六日の読売新聞朝刊には第一生命保険の調査結果として「大人になったらなりたい職業」の幼稚園児と小学生に対するアンケートの結果が載っていますが、男子の一位はサッカー選手、女子の一位は食べ物屋さんと前年と同じですが、男子の二位には警察官・刑事と並んで学者・博士が顔を出しています。頭脳で社会に貢献する職業は子供達のあこがれでもあるようです。子供達の夢が大人になったときに現実の前で幻滅に変わってしまうような社会にならないことを願わざるを得ません。これは公的部門しかも文系の経済分野での話ですがアメリカの中央銀行総裁であるバーナンキ議長の任期切れが近くなってその後任人事がマスコミなどで取りざたされる中で、後任の最有力候補とされる女性のジャネット・イエレンさんはイェール大学で博士号を取得、また同じく男性の候補者であるローレンス・サマーズ氏はハーバード大学で博士号を取得と博士号取得者がぞろ目でいます。他の候補であるティモシー・フランツ・ガイトナー氏はジョンズ・ホプキンス大学の修士号を持っています。バーナンキ議長の前任のグリーン・スパン氏はニューヨーク大学の博士号取得者ですしバーナンキ議長もマサチューセッツ工科大学の博士号取得者です。アメリカの人材の層の厚さとそれらの人たちの活躍の場の多さが目を引くのです。日本の第二次安倍内閣で注目を集めた黒田東彦氏はオックスフォード大学の修士号取得者、その前任者の白川方明日銀総裁はシカゴ大学修士号取得者です。バブル退治で「鬼平」と呼ばれた三重野康元日銀総裁は東京大学学士号が最終学歴のようです。三重野氏の後任の松下康夫日銀総裁はフルブライト留学生の一期生でシラキューズ大学卒です。学歴だけで比べるならアメリカは日本より一段上のレベルにあると言えそうです。ただ黒田氏も白川氏も国費留学で海外の大学へ行っていたのだとしたら、博士号を取得するだけの能力がなかったというのではなく「国費留学の場合は修士号まで」という制限条項があったからなのかもしれません。日本の学者以外で経済分野で博士号を持っていたのはミシガン大学で博士号を取得している「ミスター円」と呼ばれた榊原英資氏くらいです。しかしこれまでの歴代の日銀総裁の最終学歴を追ってみると大半が国内の大学の学士号であったところから海外留学組へ、そして海外留学組でも修士号へとアップしてきているので、そのうち日銀総裁にも留学組でしかも博士号取得者が就任する日も来るのかもしれません。そして理系の分野に関しては二千十三年七月の参議院選挙の自民党の公約で「世界で勝てる人材の育成」が掲げられ、英語教育と理数教育の充実が目標とされているようです。二千十三年七月十二日の読売新聞朝刊の社説には「国際社会で活躍したり、新たな科学技術を創造したりする力をはぐくむことが、成長戦略を下支えするという考えが背景にある。」と記されていますが、日本では理数系でも理数系に広範囲に大きな影響力を発揮するどちらかといえば基礎科学の理学部よりも物作りに直結する工学部の学生の方が企業への就職率は高い傾向にあります。そのため理学部の学生は聞くところによれば冗談交じりに「就職無理学部」と呼ばれたりもしているようですが、そのような学生は大学や政府系の研究機関へでも入らないと研究を続けたり研究成果を生かす道がないところに置かれようです。薬学にも大きく関連しているであろう化学は理学部ですが就職率百パーセントといわれる薬科大や薬学部の薬剤師よりも就職率は低いのかもしれません。民間企業には基礎研究を存分にさせてくれるようなところはなかなかないからです。数学科も理学部に属しているとはいえその中でも基礎数学の研究より応用数学の方が民間企業への就職には向いているとでもいえばよいのでしょうか?宇宙物理学者のイギリスのホーキング博士が所属しているのも応用数学科とされています。基礎的研究であればあるほど報われるまでに時間がかかることがしばしばのようです。なぜなら基礎的研究を応用した成果が数多く出てこないとその基礎研究の真価はなかなか評価されないからです。アメリカの場合などはノーベル経済学賞を受賞した人の理論などはその人が政権のスタッフに登用され直接政策立案にタッチするわけではなくとも行政がその理論をすぐに政策に取り入れて実施に移す場合が少なくないようです。日本の場合はこと社会科学あるいは経済学に於いては長らくイデオロギーの色眼鏡でしか経済理論も考えられてきていなかったのでそのような動きにはなってきていませんでした。日本ではシュンペーターが唱えた「イノベーション」という言葉は人々の口から出てもマルクスは毛嫌いされて読まれることなく否定されたりしますが、シュンペーター自身はマルクスを読んだ上でマルクスの問題提起に答える形でイノベーションという言葉を引き出していました。また日本からはノーベル経済学賞受賞者も生まれ出てきてはいなかったのも事実と言えます。四十年ほどもの間世界第二位の経済大国であった日本から一人たりとノーベル経済学賞受賞者が生まれ出てきていなかったというのはまさに「不思議の国・日本」と言ったところです。経済を学問としてとらえることよりもお金を儲ける方が大方の日本人には楽しかったのかもしれません。経済学の博士号を取得するよりビジネスで実際にオカネを儲ける方が魅力があることだと言えるのでしょう。金融論や投資理論などは別にして自分の個人的な金儲けに直接役立つというわけではないマクロ経済の分野の経済学博士号を取得することなどは割の合わないものにも映るということになるのでしょう。 さてこの時点で日本生まれの画期的なイノベーションとなりそうなニュースが一つ報じられました。それはNHKのニュースでも流れ二千十四年一月三日の朝日新聞朝刊にも載った人工知能を東大入試に合格させるというものです。このプロジェクトは国立情報学研究所教授の新井紀子さんがリーダーとなって行っているようですが、研究が始まってから二年で私立大学五百七十九校のうち四百三校で合格可能性80%というレベルまで実現できているとのことです。またその一年後の二千十四年十一月二日には「東ロボ」と呼ばれる改良されたその人工知能が私立大学なら全国五百八十一校のうち八割に当たる四百七十二大学への合格可能性が80%のA判定となり偏差値は前回よりも2.2上がって47.3となったとされます。東大へ合格するのにはまだほど遠いとされてはいますが東大に合格できるまでの実力を人工知能が身につけてくると事務職の仕事の一割程は人工知能が取って代わる部分ができてくるとのことです。パソコンが普及してOA(オフィス・オートメ)が進んだだけでもかなりの数のホワイトカラーの削減になってきていたはずですが、その流れがさらに進むと思われる技術革新といえそうです。製造業の工場には多くの作業用ロボットが導入され省力化が図られてきていたわけですが、次はオフィスの省力化が今一段進むのかもしれません。生産性が低いと言われている日本のホワイトカラーの職場あるいは役所や官庁の仕事のあり方などにも風穴を開けホワイトカラーの人達にとっては脅威になってくる革新技術でもあることでしょう。受験生にとって強敵である人工知能は実社会で働いている人間にも能力面で強敵になってくると思われるからです。受験生にとって脅威であるなら当然塾の教師や予備校の講師の人達の働き方も変えてしまうかもしれません。朝早くから起きて竈にお釜を乗せて火を入れ火加減を見ながら火吹き竹で吹いて毎日ごはんを炊いていた昔の女の人が「それまでの自分の人生はいったい何だったのか?」と考えさせられてしまったのが電気釜の発明でした。あるいはまた、四年間研究室に休みの日もなく通い詰めて手回し式のパスカル式計算機を回し続けて計算をして後にその計算を再度行う人が世界から出てこないほど完璧な結果を導いた東大地震研の故竹内均教授は「プログラムが間違いなく作られていれば私が四年かかった計算をコンピュータは数秒で出してしまう。自分は何をすべきなのかを考えさせられたのがまさにコンピュータの出現だった。」との趣旨の言葉を残しています。人工知能が東大入試に合格できたとしたなら、受験生は機械に取って代わられてもおかしくないことをしているだけのことになります。「今までの受験勉強は何だったのか・・?それは機械でもできることなのだ!」ということでもあるのです。また「受験勉強くらいは機械がやるから学生は勉強しなくてもよい」ということになるのかどうかでもあるのです。人工知能を開発している人達の頭脳はますます高度化する一方なのに他の人達はますます馬鹿になると言うことも起こりかねません。あるいは塾の先生や予備校の講師も失業するかもしれません。機械に取って代わられることのない人間にだけできる仕事、あるいは人間だけにしかできない仕事とはいったい何なのでしょう?様々な家電製品は家事の負担を楽にしてくれ近年ではお掃除ロボットまでできてきています。そのために女性は時間を手に入れることができるようになって女性の社会進出を後押ししてくれることにもなりましたが、職場の仕事が機械に置き換えられてしまうと仕事が楽になるだけならいいのですが、その分働く場が減ってしまうことにもなりかねません。会社へ行っても何もすることがない人間には会社もお金は払ってくれないからです。しかし考えようによっては、少子高齢化で人口減少がこれから本格化する日本においては不足する労働力を補完する役目を果たしてくれるものになるのかもしれません。そしてこれは人工知能の価格にもよりますが、ひょっとしたらそれまでは有能な秘書などを雇うことなど夢のまた夢だった中小企業の社長のアシスタントの役割も人工知能が担う時代も来るのかもしれないと言うことです。翻訳ソフトや通訳ソフトなどと組合わせれば、中小企業が国際化してゆくときにも有能な右腕になってくれる場合もあるでしょう。各家庭においても毎日のスケジュールなどを管理してくれる人工知能があれば結構便利に使う世の中も考えられそうです。ビジネスでも相手がどんな人間かを読み取ったりどう対応して決断するのかを決めるのは人間でも、日常の決まり切ったルーテインワークは機械でもできるはずですし、むしろそのようなことは機械の方が得意かもしれません。以上は教育分野にも影響してくるであろうイノベーションでしたが、イノベーションは様々な分野において生まれ出て影響力をふるうものです。3Dプリンターの出現で鋳型や金型の作成もそれまでの職人に代わってIT技術者がその役割を担い始めているそうです。鋳型を使った鋳造技術は六千年前に発明されたとのことなのですが現在では様々な工業製品の製造に使われています。イノベーションによって様々な新しい製品が生まれ、それに伴って人の考え方や生活スタイルも変化し、ひいては社会制度などまでが変更されることもあり得ます。イノベーションの早さに社会制度が追いついてゆかないと制度的な犠牲者が出てくることもあります。あるいはせっかくの日本初の革新的技術の産物も日本の制度が足かせとなって日本国内での普及が進まない場合もあります。技術の進歩に社会の方も柔軟に対応してゆかなければならないのです。また新しく生まれたイノベーションによって取って代わられた職種の人を再教育し新たな仕事に就かせるための方策なども必要になってくるでしょう。でなければイノベーションによって失業者が生み出されてしまう場合もあるからです。すなわち勤労者の配置換えの問題です。イノベーションによって生み出された産物によって新たな雇用の場も作られる部分があるとしても、新規産業にとって必要となってくる人材の育成には教育が関わることになってくることでしょう。それを企業が担えるのかそれとも公教育分野が担うのかはその時々の時代状況にもよるのでしょうが、新規産業分野への人間の移動を速やかに行うための方策も賃金体系の変更なども含めて必要となってくるでしょう。 先の話は人工知能に東京大学の入試を受けさせるというものでしたが、日本では最高峰の大学である東京大学も世界の中では二十三位でしかないことはこれまでに触れてきました。果たして日本の人工知能は先々世界のトップランキングの大学入試に合格できる水準にまでなれるかどうかは興味のわくところですが、二千十四年一月十九日の朝日新聞”The Globe"の「大学ってなんだ?」という特集記事の中には、二千十三年〜十四年の大学の世界ランキングがかなり詳しく載っています。それによれば、一位アメリカカリフォルニア工科大学、二位イギリスオックスフォード大学、同二位アメリカハーバード大学、四位アメリカスタンフォード大学、五位アメリカマサチューセッツ工科大学、六位アメリカプリンストン大学、七位イギリスケンブリッジ大学、八位アメリカカリフォルニア大学バークレイ校、九位アメリカシカゴ大学、十位イギリスインペリアルカレッジ・ロンドン、十一位アメリカイェール大学、十二位アメリカカリフォルニア大学ロサンゼルス校、十三位アメリカコロンビア大学、十四位スイス工科大チューリッヒ校、十五位アメリカジョンズ・ホプキンス大、十六位アメリカペンシルベニア大、十七位アメリカデユーク大、十八位アメリカミシガン大、十九位アメリカコーネル大、二十位カナダ・トロント大と、トップ二十位はそのほとんどを英米や英語圏の大学が占めています。そして東大が二十三位ですが、二十六位シンガポール大、四十三位香港大、四十四位ソウル大、四十五位北京大、五十位精華大、五十二位京都大とアジア勢が顔を出して来ます。大学評価が英語圏に偏りすぎているという批判はあったとしても、それだけで世界ランキング上位に居並ぶ大学を見くびることは到底できないことだろうと私は感じています。知的な分野ではアメリカやイギリスは強いと痛感させられる場合が多いからです。少なくとも私が専攻した経済学の分野ではアメリカは圧倒的と言ってよいほどです。日本からはノーベル賞受賞者は皆無の状態であるのにアメリカは毎年のようにノーベル経済学賞受賞者を輩出もしています。ただ、理系の分野では日本もかなりの成績を収めているとはいえるのでしょう。二千十四年一月三十日には日本の理化学研究所のユニットリーダーである小保方晴子さんが新しい万能細胞であるSTAP細胞の作成に成功したというニュースが各マスコミに大々的に載りました。まだ三十歳と若い女性研究者による画期的な業績といえます。彼女は早稲田大学理工学部に進学し化学を専攻していたようですが、その後方針転換して再生医療の道に進んだと紹介されていました。このコーナーで以前私は、二千五年頃の早稲田大学では全学部において首席で卒業したのは全て女性だったとの話(未確認情報)を紹介しましたが、小保方さんは二千六年卒でちょうどその頃の年代に属する女性の一人といえます。私はこれから女性がさらに力を発揮するようになるだろうとそのとき書き込みましたが、それらの女性たちの努力の花がまさに一つ咲き始めたといえそうです。少なくとも大きな蕾をつけたと言ってよいでしょう。ほ乳類の細胞が持つメカニズムの解明という基礎的な研究はもとより、もし将来的にこの細胞の有効性が広く認められて臨床応用の道が開けるようになり医学に大きな貢献をするようなことにでもなれば、当然のことながらノーベル医学生理学賞の対象になり得るのかもしれません。そしてもし小保方さんがノーベル賞を受賞することがあるとしたら、日本人初の女性のノーベル賞受賞者と言うことになります。日本人に最も広く読まれた伝記は”キューリー夫人”の伝記だと言われます。女性でも優れた業績を上げた人に対しては日本の男性でも評価する、あるいは評価せざるを得ないのではないでしょうか。そしてこの研究結果が追試されて再現実験が他の研究機関でも成功し事実として世界で確認されれば、それはこの時点の国際関係でぎくしゃくしている韓国や中国の研究者でも小保方さんの業績は認めてくれることでしょう。それが理系の分野の持っている良さ、あるいは社会科学を専攻した者の目から見た時の一種のうらやましさだともいえるように私には思えてきます。たとえば数学の定理を考え出した人が敵対する国の人だったとしても、その定理の正しさは認めざるを得ないという風にです。真理には国境はないからですしそれは人類共通の知的財産が増えることにもつながるからです。たとえそれが戦争に使われてしまうような運命をたどった知識であったとしてもです。戦争は人間の力で止めることもできます。しかし残された知識は知識として人類のものになるのです。古代ギリシャのアルキメデスはローマ軍の兵士に殺されはしましたが、彼が作り上げた知識は時代を経ても世界の人々のものになってもいます。研究者として無駄にできる時間はないであろうとはいえ小保方さんはまだ若く、これから結婚や出産あるいは子育てなども経験するかもしれないにしても研究に費やせる時間はまだまだ十分に残っていると思います。そして小保方さんの業績は医学界あるいは生物学会に大きな衝撃を与えたと言うだけでなく日本のリケジョ(理系女子)を含め同年代やさらにはもっと若い世代の女性達そして子供達への大きな励ましにもなるだろうと思います。また日本の再生医療を世界に示す先駆けとなった山中信弥教授と共通するのはどちらも初期の自分の専門分野とは異なる再生医療の分野に途中から参入してきたと言うだけでなく、短期ではあってもアメリカでの研究生活の経験があるという点です。ご両人ともが基礎的な知識や着想をアメリカで受けてきているのです。アメリカの研究機関の土壌の豊かさは認めてもよいように思います。また小保方さんのように、女性でも条件を与えられさえすれば非常に高い能力を発揮できる女性は日本にも存在するわけですが、まだまだ日本の女性を取り巻く環境は男性に比べて厳しいところがありそうです。二千十四年一月二十七日のNHK”クローズアップ現代”では「明日が見えない〜深刻化する”ガールズプアー”」と題して女性の貧困問題が取り上げられていました。年収百十四万円未満を「貧困」と定義するようですが、二千十二年度では派遣労働者が百三十五万人、その六割は正社員を希望しており貧困とされる人数は百十万人。そのうちの57%は非正規と女性が占めているとのことです。十代と二十代の働く女性は五百三万人で高卒の女性の場合正社員は48%程。二十代のシングルマザーの貧困率は実に80%に上るとのことです。そのためやむなく風俗店で働く女性が増えており、風俗店の方も従業員の子供の保育なども充実させて従業員の確保に備えているとのことで、番組では「日本の公的社会保障の敗北ではないか」とのコメントがありました。この時点で東京都などで深刻化している待機児童の問題に関連して日本の保育士の不足が指摘されていますが保育士の資格があっても全産業分野の平均賃金に比べて月当りの賃金が十万円近く安いために人が集まらないとされてはいるものの、それでも月収二十一万円にはなるようです。責任に比べて報酬が安いとは言っても貧困からは脱っすることのできる水準の給与です。保育士の資格を取るにはそれなりの費用がかかることにはなりますが、貧困とされる境遇の人へ公的な支援をすることで保育士の資格取得の支援などはできるのではないかと思います。そうすれば貧困の中でもがき苦しんでいる女性が再度社会に参加し自分のキャリアをあげてゆくことのできる道を用意できると思うのです。またその道は一つだけでなくてもよいのは当然です。やはり人手不足の介護などの分野も考えられるからです。またこの時点で勤労者の四割近くを占め千九百万人ほどのなっている非正規社員でも平均月収は十九万五千三百円と言われ正社員よりも十万円ほど安いそうではあっても上に述べたような貧困状態にはありません。これまでも述べてきているように若手研究者などはさして高額の報酬を得ることのできる職種ではないであろうにしても、小保方さんとここで触れた貧困にあえぐ女性との間にはそれでもかなりの落差があるように私には思えてきます。貧困とされる女性達の中にもほんのちょっとの条件と機会が与えられさえすればもっともっと社会の中で活躍できるであろう人は大勢いそうに私には思えます。二千十四年にロシアで開かれたソチ冬季オリンピックの男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生弓弦選手は十六歳の時に東日本大震災で被災しスケートの道を断念しかけたと言われます。しかし周囲の支援でスケートを再開し十九才の若さでこの種目の日本人初の金メダリストにまでなれました。能力のある人も条件が奪われてしまうとその能力も発揮できないのです。逆に言えば条件を与えさえすれば能力を十分発揮できる人もいると言うことです。条件がなければ才能は埋もれたままになっていたかもしれないのです。ご本人も「支援がなかったら今頃は何もしていなかっただろう。」と述べています。世界で大活躍するほどではないにしても、女性達にもいくらかの支援と機会が与えられさえすれば社会の中で大きく羽ばたくことができるようになる人もいるのではと思います。少子高齢化と人口減少のこれからの日本では少数精鋭でなければ日本の国も産業も社会もやって行くことはできません。日本の社会は少数になって行く若い世代を精鋭に育てて行かなければならないはずです。若年労働力や女性の労働力をただの安い労働力として使い捨てにしているようでは先々の日本は対外的にも競争力のある社会を成り立たせてゆくことができなくなることでしょう。このように書いてきて二千十四年三月十日にはSTAP細胞の共同研究者の一人である若山照彦氏が論文の取り下げを働きかけているというニュースがNHKの午後七時に流れました。STAP細胞の論文が雑誌ネイチャーに掲載されて以来、いくつもの疑問が論文に対して生まれ、何よりも世界の研究室が追試を行っても再現ができていないことなどが大きな問題であるようで、論文を一度取り下げて最初から実験を行って行くべきこととの指摘が出てきたと言うことのようです。細胞の初期化はリプログラミングと呼ばれるようですがこの場合は実験のリスタートになるのかもしれません。ともかく事実がどちらに落ち着くのかはもうしばらくのあいだは研究者達の努力を見守る以外になさそうです。実際にSTAP細胞なるものが実在するのならそれこそ大発見ですしそうでなければ落胆に終わりはしますが、それまでに細胞に起きていたいくつかの現象は果たして何に由来するものなのかの疑問は残るのでしょう。全く何も起きていない所から騒ぎが始まったようでもないと素人目には映るからです。STAP細胞についての情報を聞いていると私には韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)のことが頭をよぎったりします。ヒトES細胞の作成で論文をねつ造し信用が地に落ちた事件です。黄禹錫の述べる手順で他の研究機関では再現できなかったのですが、「黄禹錫にしかできない技術だから」とのことで済まされていました。科学の場合には誰か特定の個人の特殊能力ではなく、「誰がやっても手順通りに実験を行えばその現象が再現できる」というものでなければなりません。STAP細胞がヒトES細胞のような最悪の事態に至らないことを願わざるを得ません。結果次第では研究者にとっては天国と地獄の違いになってきます。研究者も人間なので野心や功名心あるいは名誉心や対抗心はあるでしょうが、それが画期的な研究成果を生み出す作業の方に向かわずに不正を行う方向へと向いたりすると多くの悪い余波を生んでしまいます。研究者の信用が地に落ちるだけでなく所属する研究所の信用も損なわれかねないことにもなってもきます。STAP細胞なるものが「真から出た嘘」なのか「嘘から出た真」になるのかあるいは「全くの嘘」なのか、しばらくの間は専門の研究者達に確かめてもらうための時間そして真偽がわからない空白の時間が必要になりそうです。少なくとも実験科学は単なる作文では済まないところがあるからです。科学誌”ネイチャー”に発表した論文には致命的な欠陥があったと言うこととは事実のようではあるにせよ、それとは別にSTAP細胞なるものが実在するのかしないのかは未だミステリーの状態といえるようです。小保方さんの評価がどうなるかは結果次第では日本の女性の地位の向上に資するかそれとも「やっぱり今時の若い娘のやることは・・」と言うことで終わってしまうのか、それとも大発見の波乱の幕開けなのかの違いでその後のリケジョへの評価にも幾分影響してくるところが出てくるかもしれません。STAP細胞の場合は研究の内容があまりにも画期的な事象を指摘してみせたが故に多くの注目を集め、そのためそのチェックにもことさらの厳格さが求められてくると言うことは事実といえるでしょう。STAP細胞がもし実在するなら小保方さんとしては自分の一生をかけて研究に取り組んでもよいといえるほどのこれまでには前例のなかった大きなテーマを発見したことになるのだろうと私などは考えてしまいます。二千十四年四月一日には小保方さんの論文に捏造と改竄の不正があったと理研から発表がなされましたが、異端審問にかけられた十七世紀のガリレオではありませんが「それでもSTAP細胞は存在する」と小保方さんがつぶやけばよいのですから。これは二千十四年五月八日に論文の再調査はしないとの理研の発表によって小保方さんの論文は捏造と改竄であるという判断が確定しましたが、もしその後にSTAP細胞の実在が確認されるようなことがあったときには「STAP細胞を指摘した論文は捏造だったがSTAP細胞は実在する」という奇妙なことにもなるのかもしれません。そして社会の中で女性が活躍してくれることが期待される社会になりつつある時期だとはいっても「だから女性は何をしても許される・・」と言うことにはならないでしょう。女性の社会の中での影響力が大きくなればなるほどそれだけ責任も問われるようになり批判に耐えなければならなくなるときもでてくるだろうからです。女性が果たしている役割の重要さは子供の教育においても文部科学省の学力調査の一端から伺えます。だからこそ女性の責任もそれだけ大きいといえるのですが、二千十四年三月二十八日の朝日新聞夕刊の「学力調査:年収多いほど好成績」との見出しの記事には、子供の学力は親の年収のとの相関関係があるだけでなく母親の学歴との相関が強いと記されています。その記事では小六と中三の学力調査とアンケート調査との分析から小六の国語A(知識中心)では家庭の年収二百万円未満の平均正答率は53%、年収一千五百万円以上は75.5%、算数B(知識の活用)では二百万円未満が45.7%、千五百万円以上が71.5%と年収が上がるのに比例して高く中学生の場合も同様だったとされます。塾などの学校外教育との関係では、小六の算数Bでは支出なしの家庭の子供が48%、五万円以上の家庭の子供は76.2%と他の学年・教科でも支出が多いほどおおむね正答率が高かったとされています。そして親の学歴と子供の学力との関係ですが中三数学Bでは父親が高卒の子供の平均正答率は37.6%、大卒は51.4%、母親が高卒の場合は36.6%、大卒の場合は58.1%だったそうです。親の年収や学歴が子供の学力に影響していることは明らかなようです。ただ同じこの調査結果に対してのNHKのニュースでは、低所得の家庭の子供でも成績が上位四分の一に含まれている子供の家庭では、子供への本の読み聞かせや新聞や書籍など活字を読むように子供に働きかけているとのことでした。中山元文科相は「日教組の影響力の強い地域の子供の学力は低いことを確かめるために学力調査を行った」との趣旨の発言を以前述べていましたが、日教組との関連の話はこの記事には触れられていませんし、果たしてそのような関連が実際にあるのかどうなのかも疑問です。そして先に述べたような女性の貧困問題などは子供の学力の低下にも関連してくるであろうことが懸念されます。そしてその子供達はまた学業が振るわないために貧困を味わうという貧困の連鎖に陥る可能性が高くなります。社会の中での貧困問題をどう解決し貧困の連鎖をどのように断つのかによって何年後かには社会人として社会に参入してくるはずの子供達のレベルも違ってくるはずです。教育問題の経済的な側面からの改善はなされなければならないでしょう。子供達を競争させるにしても「競争だから結果に差が出るのは致し方ない」とはいっても、そもそもスタートラインの位置が大きく違ってしまっていたのではその競争は本当に公平な競争だとはいえないからです。また派遣労働などの非正規労働者の割合が増して低所得層の数が増加することは結果的に日本の社会の劣化が長期化することにもつながってくることでしょう。これは女性だけでなく男性も考えなければならない問題でもあるでしょう。日本が激しい国際競争に耐えなければならないとするなら、その競争に耐えられるだけの準備期間を若い世代に十分に与えておかなければなりません。すなわち若い世代の貧困やその貧困が子供の教育に連鎖してゆくことは日本が国際的に競争していく上でもマイナスになることだからです。 このように日本社会も女性の力に期待する状況になってきてはいますが、先の小保方さんのような女性研究者の割合はまだまだ諸外国と比較したときに日本は低水準にあるようです。二千十四年四月十四日に読売新聞朝刊に載った記事では各国の女性研究者の割合は二千十三年度ではロシア41.2%、英国37.7%、イタリア34.9%、米国33.6%、ドイツ26.7%、フランス25.6%、韓国17.3%、日本14.4%となっています。これには理系だけでなく社会科学などの人文系の研究者も含まれた数字だそうです。他のマスメディアの記事では出産や育児を機に研究職から離れてしまう女性も多いとのことでしたが、研究職のみならず他の職業分野でも女性が出産や育児を理由に離職しなければならないような現行の社会制度や企業の風土の変更は必要になるといえそうです。研究者などに一番近い博士号取得者のポストドクターの問題に関しても国が就業支援に踏み切る模様です。二千十四年五月二十七日の読売新聞朝刊にはポスドク対策の実績に応じて大学に配分する予算に差をつけまた企業との連携もはかるそうです。博士号取得者レベルの人に安定した職場が提供されないと日本のイノベーションにも影響が出かねないことを懸念してのこととも言われますが、独自の発想やアイデアを生み出せる人に活躍の場がないようでは社会が沈滞してゆくのは明らかといえるでしょう。また日本の国土全体の産業の配置で言えば、高等教育を受けた人が自分が受けた教育の知識や技能そして技術を生かしながら働ける場は都市部に集中していて地方にはそれほど存在していないことも問題だといえるでしょう。すなわち「街へ出て行った人間は戻ってこない」という地方の嘆きにもつながってくるのです。都市部の大学で社会科学を専攻した地方出身者なら「なぜ自分の故郷には自分にふさわしいと思える職場がないのか?」というテーマで大学の卒業論文を書くこともアリかもしれません。現在ではインターネットが普及しているので全ての職種や部門がそうだとはいえないまでも在宅ワークという選択肢もとれる訳ですしテレワークで可能になる部分も多くあるはずです。社会を構成する技術基盤が大きく変更される中で働き方だけは変えずにいると言うことはむしろ不合理ともいえます。高い専門性や能力を身につけた女性も現在では多数います。それらの人達が結婚や出産を機にそれまでのキャリアを社会的にゼロにしてしまう必要もないはずです。これは会社経営の意志決定を握る人達が考えなければならない重要なテーマだろうと思います。また都市を捨て故郷に帰ったり地方に居住するようになっても都市部で受けた教育や知識が都市とのネットワークの中で生かせるようになってもよいはずです。インターネットは距離の制約を取り払ってもくれるからです。都市と地方との開きがあまり大きなものにならない方策は採っておくべきでしょう。 そして日本の勤労者の長時間労働によって日本の一人あたりの生産性は国際比較でどうにかそれほど見劣りのないところにはなってはいますが時間あたりの生産性はきわめて低いとされています。それによく似た傾向は日本の中学校教員の勤務時間の長さといえるのかも知れません。OECDの調査結果が二千十四年六月二十六日の読売新聞朝刊に載りましたが、日本の教員の仕事時間はOECD加盟三十三カ国・地域の中で最長とされます。生産性などを示したリンクページには北陸三県が共働き家庭の割合で上位を占めていることが示されています。では、共働きであるために子供の勉強を十分親が見てやる時間がないからという理由で子供の学力が低いのかというと、共働き世帯の割合が全国トップの福井県は子供の学力調査の結果も全国の中で最上位のクラスにあります。必ずしも共働きで子供に親の目が十分届かないからという理由で子供の学力が下がるというわけではないようです。しかしこれは小中学生の全国学力調査の結果ですが、それが大学進学率にまでつながるのかどうかも問題になってきます。二千十四年十月十五日の朝日新聞朝刊には文科省が行った地域別大学進学率の結果が掲載されいますが、福井県などは大学進学率が六十%以上の最上位クラスに位置しています。都道府県別大学進学率のトップは東京が72.5%、京都65.4%、神奈川64.3%であり、最低は鹿児島32.1%、岩手38.4%、青森38.6%であり進学率の平均は53.9%と二十年前の32.8%から21.1ポイント伸びたとされますが、都道府県別のトップと最下位との差は二十年前の東京40.8%と沖縄21.4%の約二倍にまで拡大したとされます。都道府県別に見たときの経済力の違い、すなわちその地域における家計の経済力の違いが大学進学率の違いにも影響を及ぼしているといえそうなデータです。日本のどこにいても学べる機会を用意すべき事のようにも思われますが、NHKの放送大学だけでなくこれからはネットによる大学教育ももっと普及させてゆくべきかも知れません。日本の人材が大都市部からしか供給されてこないようなことでは日本の多様な人材が育たないからです。二千十四年度に青色ダイオードでノーベル物理学賞を獲得した三人の日本人のうちの一人である中村修二さんは愛媛県生まれの徳島大学卒業生しかも就職した日亜化学工業も徳島にある会社で、ご本人の述べているところでは「徳島から外へ出たことがなかった」とのことです。愛媛県も徳島県も先の大学進学率のデータでは大学進学率が四十%以上五十%未満に含まれている地域で進学率の高い地域とは言えません。ですが日本の地方には優秀な人材はいないのかと言えば、条件さえ与えられれば大きな業績を残すことが出来る人材も存在している場合があることの証明ともいえます。もっと以前の千九百九十四年にノーベル文学賞を受賞していた大江健三郎さんも愛媛県の出身です。また二千十四年時点の日本には六人に一人の割合で三百万人に上る子供の貧困も存在しています。殊に一人親家庭の場合では二世帯に一世帯が貧困家庭と言われます。地域格差や各家庭の経済条件の格差を是正しなければ十分な教育機会を得られない人が出てきてしまいます。以前にも指摘したように教育費は企業で言えば研究開発費に対応するもので、先行投資の意味合いが強いものです。教育費が削られて教育が十分行き渡らない社会はその時は経費が少なくて済み経済的には楽かも知れませんが、その次の時点では競争力のない社会になってしまいます。最底辺から社会が底抜けになってしまわないように注意すべき時代に入っているといえるでしょう。これは戦後すぐのドサクサの間の状況に近いとも言えるものなのかも知れませんが、バブル経済崩壊による経済戦争での第二の敗戦と言われるドサクサが依然色濃く影を落としている姿とも言えます。少なくとも戦後復興が終わった時点以後にはなかった出来事であると言えるでしょう。少子高齢化で日本の若年層の数が減少していることに加えてその層に十分な教育を受けられない人の割合が増えれば日本の将来の技術革新力や社会制度を刷新するアイデアを生み出せる人の割合が減り当然人数は激減し社会は旧態依然のままで国際的な競争力が落ちることにもつながってきます。貧乏人を貧乏人のままにしておくと社会が発展する余地がそれだけ狭まると言うことにもなってくるわけです。ましてやそれが大学全入時代になった時点以降での状況だと言うことは非常に皮肉なことだとも言えます。そして国立大学もこの時点で改革が起ころうとしています。「経営力戦略」と呼ばれるその改革は、全国八十六の国立大学を「世界と戦う」「特定分野で差別化」「地域貢献」の三分野から各大学が選ぶというものです。世界の主要大学のランキングで日本の大学が低迷していることも一因かも知れませんが「世界と戦う」すなわち世界の主要大学と競い合えるレベルの大学としては東大などの旧帝国大学が考えられるのは当然と言えるでしょうが、世界トップ百校の中には日本の大学は東京大学と京都大学の二校しか含まれていません。日本の経済規模が世界の一割弱を占める国であることと考え合わせるならトップ百校のうちに日本の大学が五〜六校くらいはあって良いはずのものだとも言えます。すなわち知的レベルが経済規模に見合っているとは言えないからです。言ってみれば「金持ちなのに頭はあんまり良くない」みたいなものです。逆に言えば「お金はそれほどなくても頭はいい」と言う場合も当然あるであろうことになってきます。「特定分野で差別化」の場合は大学が重点分野に特化することになるのでしょう。総合大学としてではない専門分野だけに主眼を置くことになるのだろうと思われます。「地域貢献」などは地域医療や福祉あるいは地場産業などとの連携を強化した大学の形が予想されます。このことを報じた二千十五年四月十四日の読売新聞夕刊の記事には国立大学への国の運営費交付金の総額は一兆一千億円との記載があります。限られた予算でどれだけの効果や成果を生み出せるのかの工夫が大学にも求められることになるわけですが、バブル経済の崩壊にともなって痛んでしまった日本の財政の中で幼児保育や初等・中等教育から高等教育にいたるまでの日本の教育分野をどう再構築しこれからの社会を作ってゆけるかが問われてきます。科学技術の国際競争力に大きな影響を及ぼすような基礎研究分野などはどうしても国の予算が投下された大学で行わざるを得ない分野でもあります。基礎的なものであればあるほどその波及効果は大きなものにもなってくると言えるでしょう。それは日本という枠をも超えた広がりにもなるものです。それこそが本当の日本の国際競争力と言って良いものでもあることでしょう。そして国の財源不足の影響が教育に及び出し始めそうな様相にもなってきています。国立大学の人文社会科学系学部の再編問題がそれです。日本のノーベル賞受賞者は佐藤栄作氏の平和賞、川端康成、大江健三郎両氏の文学賞以外はすべて理科系の分野の人の受賞であり、日本は世界の経済大国の中の一つでありながら経済学賞は一人として受賞者を生み出せてはいませんでした。 しかしこれらは大学の問題、あるいは贅沢な問題とも言えるのかも知れません。日本の大学の国際競争力が相対的に低下していることも問題ではあっても、それ以外にも二千十五年時点では日本の子供の貧困率は六人に一人と言われ、それらの子供達は大学教育を望んだとしてもそこまでたどり着くことがかなわない可能性が高いと言えます。子供の貧困は子供本人の人生にとってマイナスになると言うだけでなく社会にとっても望ましくないことのシミュレーションの結果が二千十五年十二月三日の朝日新聞夕刊に載りました。日本財団が行ったその推計では子供の貧困への対策を行わなかった場合には二千十三年時点で十五歳の子供の生涯所得は2.9兆円少なくなるとのことで、政府の将来の税収も1.1兆円減収になるというものです。その記事の一部をそのまま引用すると「現状のままでは正社員になれるのが八万一千人で、無職は四万八千人。改善すると正社員は九千人増え、無職は四千人減る。この条件で六十四歳までの生涯所得の合計を試算すると、現状が二十二兆六千億円で、改善すると二十五兆五千億円になる。所得に応じて増える所得税や社会保険料から生活保護費などの給与額を引いた政府の収入額は、現状が五兆七千億円で、改善すると六兆八千億円になるとしている。」となったいます。またその記事の所に掲載されているグラフでは、十五歳人口十八万の内現状のままだと大卒になれるのは三万四千人、短大・高専・専門学校卒が二万一千人、高卒が九万三千人、中卒が三万二千人で、正社員になれるであろうとされる人数は八万一千人、非正規が三万六千人、自営業が一万五千人、無職が四万八千人ですが、改善された場合には大卒は六万二千人、短大・高専・専門学校卒が三万七千人、高卒が七万四千人、中卒は八千人になり、正社員は九万人、非正規は三万三千人、自営業は一万三千人で無職は四万四千人と推計されています。現状のままと改善策が施された場合とで比べれば改善策が施されれば全体として高学歴化して就職もまた賃金も上昇することの様子に描かれていますし、ある程度それは事実であろうとは思われます。貧困なるが故に心身の発達が阻害されたり教育が行き届かなかったりすればそれらの人が社会へ出て働くようになっても一人当たりの生産性はなかなか上昇しないことにもなります。一人当たり生産性の低い人の割合が上昇してしまえば社会全体の生産性も上昇を期待できなくなるのは当然の結果とも言えるでしょう。少なくとも貧困が次世代の貧困をも生むという貧困の連鎖は食い止めるべきと言えるでしょう。子供の貧困の問題は各国別に見た場合にはその国の政策的なものによって大きくその割合が異なってもいるようです。社会保障が手厚い国々などではその割合は低く、市場競争だけに任せた強いものがちの社会では子供の貧困率は高いという国際比較の結果が二千十五年十一月二日の朝日新聞朝刊に一覧のグラフとして示されています。そのグラフの一覧ではOECD加盟三十四カ国中貧困率がもっとも小さな国から順に並べるとデンマークの3.8%を筆頭に、フィンランド、ノルウェー、アイスランド、スロベニア、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、チェコ、英国、韓国、アイルランド、スイス、オランダ、フランス、エストニア、ルクセンブルク、ベルギー、スロベニア、オーストラリア、ポーランド、OECD平均13.7%、次がニュージーランド、カナダ、日本15.7%、ハンガリー、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、米国20.5%、スペイン、チリ、メキシコ、トルコ、イスラエル28.5%となっています。これは二千十一年度近辺の数字と言うことで全ての国々の貧困率の数字が示されていますが割愛しました。これらから言えることは社会保障制度が充実している北欧の国々やヨーロッパ諸国は比較的に貧困率が低く、北米や南米が貧困率が高いと言えるように思えます。技術的な革新力が強く社会がダイナミックに動く米国は残念ながら貧困率が高いことが示されています。そして日本の貧困率はOECDの平均以下の位置にいます。貧困なるが故に子供に十分な教育や技術的な訓練が行われていない場合にはその子供達が不利益を被ると言うだけでなく社会としても望ましい結果が得られないと言うことは先に引用した記事からも伺えることです。確かに貧困家庭の子供と言っても生まれつき頭のいい子もそうでない子もいることでしょう。すなわち玉石混淆ではあるのでしょうが、その中の玉である人の場合は「玉も磨かざれば」で貧困なるが故に自分の才能を磨く機会を奪われてしまうとそれは社会としても損失になるわけです。それら子供の貧困は学校外教育すなわち塾や習い事などへ通えるかどうかにも関係してくる問題でもあるので、学校外教育を受けられない家庭の生徒への資金援助を行うNPOチャンス・フォー・チルドレン(CFC)なども立ち上げられているようです。自由主義市場経済社会の赴くままにしておくと生まれ出てくる問題に対する是正策は社会の中に組み込んでおかなければならないものです。そうでなければ革新的なアイデアや技術を生み出せる人材が減るだけでなく社会全体の労働生産性なども低下しかねない問題にもなってきます。二千十六年二月十九日の朝日新聞朝刊には各都道府県別で見た子育て世帯の貧困率の一覧が載りましたが、子育て世帯の中で収入が生活保護以下の水準の割合は二千十二年には百四十六万世帯(13.8%)で千九百九十二年の時点の約七十万世帯(5.4%)の2.5倍となり二十年の間に子供の貧困の問題は深刻さを増したと記されています。貧困なるが故にスマホ・ゲームなども出来ず友達達との共通の話の輪の中に溶け込めずに孤立する、孤立するだけならまだしもそれが理由でいじめの標的になったりもします。いじめによって不登校になりそれをカバーするための小・中・高校生を対象とした民間のサポート校なども出来ていて学校外での義務教育を認める方向になりつつあることは二千十五年十一月十三日の朝日新聞朝刊でも報じられてはいますが、その場合でも費用は公立校に通わせるより高くなってしまうことになり貧困世帯にはその道を選ぶことも出来ないことでしょう。貧困は幾重にも不利な社会的条件を作り出してしまうと言うことでもあります。子供の貧困をこのまま放置した場合に日本経済が被る将来的な損害は四十二兆九千億円になるとの話が二千十七年二月十二日のNHKスペシャルで紹介されました。貧困なるが故に十分な教育機会に恵まれずに育った子供達が社会人となった場合などに生まれてくる問題であり、各家庭に任せていただけでは後々大きな経済的影響が社会全体に及んでくると言うことです。表向きにはスマホなどは人並みの持ってはいても自宅での食事は十分取れていないために身体的な成長が劣る貧困世帯の子供も当然いることでしょう。日本の子供の出生数は千九百十六年には九十七万六千九百七十九人と統計を取り始めてから始めて百万人を下回ったと二千十七年九月八日の読売新聞夕刊にグラフとともに記事が載っています。第一次ベビーブームの頃には二百六十九万人以上もの子供達が一年間に生まれていたことからすれば生まれてくる子供の数は2/5に低下したと言うことです。そのことは経済を含めてこれからの日本の国力にも当然のことながら影響してくることであろうと思われます。各分野に十分な人材を確保できなくなったり先駆的な知識や技術を生み出せる人が不足したり様々なマイナスの要素を伴うことだろうと思います。頭数が多すぎて個々に十分な指導が行ってもらえなかったという団塊の世代とは逆に、十分な指導がなされたとしても元となる生徒数が少なくなってしまうという問題の中で、貧困なるが故に学校生活あるいは学業から脱落せざるを得ない人が増えてしまったのでは人材不足は更に加速してしまうことでしょう。そのうえ各学校では地方自治体の財政の悪化で学校の教員には非正規が増え、しかも保守派の政治家達が教員組合の日教組批判に明け暮れしているうちに小・中学校の教育現場では教員の勤務時間は過労死ラインを超える長時間労働を強いられるような状況になってしまってもいました。二千十七年四月二十八日の読売新聞夕刊では小学校教諭の34%、中学校教諭の58%が厚生労働省の過労死基準を超える勤務時間を強いられているとされています。安倍首相は「政治は結果が全てだ」としばしば口にしてきていましたが、教育現場がかくなる事態にまでなってしまっていたという結果をどのように考えるのでしょう?保守的な考えが強い人ほど組合嫌いであり、組合つぶしや日教組批判などの動きの結果組合の組織率は低下し、組合の弱体化で何が起こったかと言えば産業界でも過労死が頻繁に起こる様になってきていたということです。組合に力があるなら本来なら労組が経営側に対して異議を申し立てて勤労者の権利を守ることができたはずでしたが、組合の力はこれまで様々な形でそがれてきていたのが現実です。そのため本来なら労働組合が交渉によって経営側に賃上げを求めるべきであるのに、消費が思うように伸びない中で物価目標を達成する必要に迫られた政府は企業に3%の賃上げを要求するような様相にもなりました。労働組合の役回りを政府が肩代わりせざるを得ないようになった姿です。また二千十七年十月の衆議院選挙に当たって安倍首相率いる自民党は消費税を10%に引き上げる際に引き上げる2%分の中の半分を幼児教育の無償化と高等教育における給付型奨学金や授業料の減免の拡充に充てるという政策のを打ち出しました。財政再建がそのことによって遅れるという懸念はあるにしても教育に予算を割くことには私は反対しません。ただ、その一方で学校の教員の勤務時間が過労死ラインを超えていたり大学の研究者達が任期付きで研究をせざるを得ずじっくり腰を据えた基礎研究に取り組めない環境におかれてしまっている現状では、十分な教育・研究ができない状態になってしまっているとも言えます。教員達は疲弊し研究者達は自分の身分が不安定という中では十分な教育や研究を期待することもできなくなります。教育や研究は未来への投資です。教員組織をただいたずらに批判したり日本人のノーベル賞受賞者がこのところ増えてきていることだけで喜んでいられるかという問題でもあるのです。過去の投資が今実を結んでいるからと言ってこれからもずっとそうだとは言い切れないのです。その一例は地方の国立大学の研究室予算が落ち込んでいたりすることです。二千十八年二月五日号の『週刊東洋経済』では、所属機関から支給される個人研究費が年間50万円未満の教員が六割を占めるとのことです。50万円が年間研究費というのは少ないといえるばかりでなく、それが理系の場合には殊に研究費が不足してしまうことになるでしょう。このような状態はゆくゆくは日本の社会にも響いてくることにならざるを得ないのではないでしょうか?日本の国立大学の科学研究論文数は十年前に比べて2620本減って8%減だとのことです。このような状況では安倍内閣の唱える「人づくり革命」で高等教育の無償化がたとえ実現したとしても、入学した大学では予算不足によって十分な研究教育が行えないという結果にもなりかねません。二千十八年八月二十八日の読売新聞朝刊には文科省が若手研究者の育成強化を行うために若手研究者の研究費や海外の大学への派遣者数を増加させるなどの方針が記事になりました。そこに示されているグラフでは人口百万人当たりの博士号取得者の数の国別比較では、イギリスは二千四年度は三百人弱、二千十四年は三百二十人ほど、アメリカは二千四年が二百人ちょっと、二千十四年が二百五十人ほどといずれも増加傾向であるのに対し日本は二千八年が百二十人ほどから二千十四年には百人ほどへと減少しているようです。そこには中国のグラフも示されていますが、百万人当たりで二十〜二十五人ほどで二千十四年度では二千八年度から微増ではあったとしても、中国の総人口は日本のかれこれ十倍であることを考えれば、中国の博士号取得者の人数は日本を大きく上回っているといってもよいでしょう。少子高齢化で人口減少社会を迎えている日本の全体的な知的レベルを上げてゆくことは底辺を底上げしてゆくことと同時に必要なことだろうと思います。ノーベル賞を受賞するような人も必要でしょうしそれらの人の発想をわれわれの社会の中に取り入れてゆくことのできる人たちも必要だろうからです。そして二千二十二年八月末に発表された二千二十一年の日本の高被引用論文数の分析では、中国・韓国以下の世界の中で第十二位となり、それまでの十位以内を維持できなくなりました。これは自然科学分野の論文の話ですが、社会科学を含めて大学院の博士課程に進む人の数が減り、論文の質と量が低下してゆくとしたら、日本社会は長期低迷に陥らざるを得なくなることでしょう。 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