科学技術立国日本と経済危機
日本はバブル経済崩壊以来、それまで戦後といわれる時代には経験したことのない経済的な危機の状態を経験しています。そして二千三年度予算では多くの分野の予算が削減されている中で科学技術振興費は幾分増額されて、産業の基盤となる科学技術の研究費を確保しています。しかしモノ作りに直結する科学技術だけで経済はうまく行くのでしょうか。
世界で最初に人工衛星を打ち上げ、世界で最初に人間をも宇宙に打ち上げた科学技術立国のソ連邦はすでに経済的に破綻して消滅してしまいました。北朝鮮はミサイル技術も核技術もあるいは細菌兵器技術も持ち合わせて日本にとっての脅威となってもいます。しかし日本の戦時中には軍部によって弾圧される側の思想で、また戦後は日本にとって対抗すべき思想、少なくとの戦時中を賛美する日本の右翼の人々にとっては憎しみ半分で目の敵にすべきと思われる共産主義を北朝鮮が標榜していても、北朝鮮の国の社会政治構造は戦時中の日本をモデルにしたようなもので一人の偶像とそれを支える軍部や一部の特権階級そして飢えに苦しむ多くの国民という状況です。北朝鮮は「なにもかにもが将軍様のおかげ」という金正日総書記をたたえる教育を施していますが、戦時中の日本の教育も歴代の天皇の名前をただ丸暗記させ「一木一草に至るまで天皇陛下の御威光が」といったような教育をしていたのも事実です。戦時中の日本は国家予算の多くを軍事に振り向け、零戦や戦艦大和など優れた兵器を生み出す技術はありましたが国民は食糧難とエネルギー不足の中で苦しい生活を強いられ、挙げ句の果てに敗戦という惨憺たる経験をさせられました。
現在の北朝鮮もかつての日本の状況もサミュエルソンの『経済学』で述べられている「大砲かバターか」という問題がはっきりと現れています。大砲のために国の富のほとんどを費やしてしまったために国民にとってのバターが極端に不足したと言うことです。北朝鮮は総人口が二千三百四十万人ほどですがこれまでに二百万人近くが餓死したと言われます。しかも二千二年十二月二十七日のNHKのニュースではこれから六百万人が飢えと栄養失調の状態に直面するだろうと伝えられます。国民の四人に一人が食料が十分ではない勘定になります。また二千三年二月二十日のNHKの昼のニュースでは国連機関の報告として六千人の北朝鮮の子供(0歳から六歳まで)の調査ではその四割が慢性的な栄養失調だということです。すでに北朝鮮国内の飢饉のため十万人が中国へと脱出し、母親の中には奴隷として売られる人も大勢い、その母親を追って子供達も北朝鮮を後にしたりしているとアメリカのABCニュースは伝えています。そして北朝鮮の拉致問題や核開発が明らかになる中で北朝鮮の封じ込め政策で経済制裁が行われようとしていますが、そのような北朝鮮への政策の中で最初にまた最も困窮するのは末端に置かれている国民という構造が北朝鮮国内に現存しています。北朝鮮への食料援助を打ち切ることでは、支配層の人々が困難に直面するのではなく末端の国家の支配に従属している人が飢えに苦しむというわけです。すなわち末端の人間は死に絶えても上層部は生き延びるのです。末端に置かれている人間達の力では国家の支配構造を転覆することは不可能な構造ができあがってしまっています。かつての日本においても政府による配給物資だけでは人々は暮らすことができない状態でした。そのため東京大学の法学部の先生で「法律は守らなければならない」と言って配給物資だけの生活を守ることで餓死した方も居ました。法律を守って生活しようにも法律をきちっと守っていたのでは一般の国民は現実的にはそれで生命を維持することすらできなかったのです。バターにありつけるのは一部の国の指導層の人々だけという構造であるのも現在の北朝鮮と戦時中の日本とは共通しています。
そのような日本の体制が終わり戦後モノ作りに成功して工業製品の品質の良さから輸出により多額の外貨を稼いだ日本経済は、バブル経済を生み出しそしてバブル経済の崩壊によって未曾有の経済危機に見舞われています。それは日本経済の科学技術の水準が低かったがために起きたことではなく、経済運営が大きな過ちを犯してしまったからだといえます。小泉構造改革の中の金融改革を急速に行えば大手銀行は生き延びることができても、中小企業などは銀行の貸し渋りや貸しはがしによって金融機関が倒れる以前に倒れて行く姿も何かしら経済構造としては上の社会的構図に似ているともいえます。
科学技術の場面で技術者達や研究者達が過ちを犯したのだとしたなら、それは経済危機ではなくて事故や事故に伴う災害の形として日本を襲ってきたことでしょう。しかし経済危機の原因は科学技術そのものにあったというよりも経済の運用の仕方、すなわち経済学や経営学などに根拠を置く経済政策や企業の経営方針、また資金の運用方法に問題があったといわざるを得ません。バブル経済においては株と土地へ多くの資金が投じられましたが、株は生産活動にとって有利なものだったとしても、地価の上昇は生産手段である土地が値上がりするわけで企業経営にとっては危険信号である側面もあったのですが、企業経営者や銀行は全くその危険を警戒はしませんでした。
バブル崩壊後の日本において再び科学技術立国のための予算配分を行うのであれば、それと並行して経済学や経営学などの社会科学分野の研究にも力を入れるべきだといえます。なぜならバブル経済の発生においてもその後のバブル経済の崩壊以後の日本の状況においても、日本の社会科学分野の弱さが非常に顕著になってしまっているからです。
戦後といわれる時代はモノのない時代から出発したので、作りさえすれば売れる時代が長く続きました。人々の目には初めて見る品々が飛び込んできて、誰もがそれを欲しいと思うものばかりが次々と生み出されました。戦後の日本は軍事物資や兵器の生産から民需品中心の工業国家へと変身したからです。しかし時代はいつの間にか日本人に豊かさをもたらし、工夫しなければモノが売れない時代を迎えています。経済の運営もよっぽど頭を使わないとうまく行かなくなってきています。それは本当に社会科学分野の知識が重要度を増した社会になったことを意味しているのだと思います。日本の弱点である社会科学分野を強化しないことには、科学技術立国の水準をさらに高度化しても自らの経済運営の失敗から生まれる経済的な大きな危機を日本は何度も経験せざるを得ないのではないのでしょうか。戦時中の日本も兵器の性能はかなりの水準のものを作ることができていましたが、日本は判断を誤りました。そして戦後は品質のよい工業製品を作り出すことに成功しましたが、その挙げ句の果てにバブル経済を生み出すという経済的な判断の誤りを犯しました。平成不況以後の長引く不況をもし日本が克服して次なる成功を勝ち得ることが出きるようになれたとしても、社会科学の弱さが原因のあるいは社会科学的な知識に対する無知が原因の大失敗をまた起こさないかというと、その懸念は未だ残されたままだと思います。モノ作りは日本にとって必要条件ですが社会科学的な知識も加味しないと十分条件を満たすことができないと思います。社会科学的な分野を補強してもそれで完璧だなどとは人間の社会は言い切ることができないものですが、あまりに社会科学的な分野が脆弱であるよりもまだしもだろうということです。堺屋太一さんの経済テレビ番組などでは『論より実践』という言葉をキーワードにしたりしていますが、論も実践も両方が必要なのではないのでしょうか。日本ではこれまで経済面においては論があまりにも軽視されてきていたと思います。金と権限さえあれば経済は動かせると思われてもいましたが、論があまりにもなさすぎていたように私には思われるのです。 せっかく物作りで稼いだオカネでも社会的マネッジメントを間違えると結果的に大損にもなってしまうからです。また、二千年代に入ってからは日本は「技術で勝ってビジネスで負ける」といわれるようにもなってきています。技術分野ではトップクラスにある分野も世界への売り込みの場面では敗れる場合が多くなってきているからです。それは経営面での問題だともいえることでしょう。水ビジネスにしても日本は水の管理までをも含めた総合的なものをセットとして海外へ売る込むノウハウをまだ持ち合わせていなかったのですが、水の浄化の民間の技術とそれを管理する自治体のノウハウは世界でも高い技術水準にありながらそれをワンセットにしなければ海外へ日本の技術を売り込むことができない条件となったりしています。これも技術だけでなく経営的手法あるいは技術の成果を含めた全体の運営として考えなければならない問題の一例といえます。