趣味としての経済学
ベンジャミン・フランクリンを題材にとって『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』を書いたドイツの社会学者マックス・ウェーバーは『職業としての学問』という本も書きました。学問を職業にしているのは現在では大学の教授など学者といわれる人々だろうと思います。また学問を職業にできるまでになるには優れた才能と大変な努力そして研鑽が必要であり、誰でもが学者になれるわけでもありません。
しかし読書を趣味にすることは誰にでもできます。また日本国内には趣味で俳句をやっていたり短歌を書いたりしている人は大勢います。俳人や歌人としてプロになりそれで生活をしてゆけるまでになるのは並大抵ではないでしょうが、趣味でやるならかなり誰にでもできることだろうと思います。「人は才能には頭を下げないが根気には頭を下げる」とは夏目漱石の言葉だそうです。才能は天性のものである部分もあるのでしかたないにしてもアマチュアは根気よく趣味で続けることでいいのではと思います。根気よく続けることは心がけ次第である程度誰にでもできることだと思うからです。
文学以外にも天文ファンや考古学ファンまた乗り物では鉄道ファンなどもいます。そして音楽にはアマチュアバンドやアマチュアオーケストラそして写真ならアマチュア写真家またビデオカメラが普及した今日ではアマチュアビデオカメラマンなども大勢います。碁にも将棋にもアマチュアの人々やそのファンたちがいますし、あるいはゴルフにもアマチュアゴルファーやプロゴルファーそして多くのゴルフファン達が存在しています。野球にも実業団野球などがありますし、サッカーもつい最近まではプロリーグがなく実業団のチームでしかありませんでした。実業団でプレーしていた選手がプロに移籍し、一般のプロ野球選手以上の活躍をし大リーグでも活躍している人もいます。アマチュアでありながらキューバの野球チームは世界のプロにも引けを取らない実績を残してもいます。しかしなぜか経済学ファンとかアマチュア・エコノミストという言葉は聞かれません。日本国内には大学の経済学や経営学あるいは商学など経済関係の学者がいるだけでなく、銀行や証券会社のシンクタンクには大勢の経済関係の研究者達がいます。政府の中にも官庁エコノミスト達がいます。あるいは街々には公認会計士や税理士の人たちがいますしファイナンシャルプランナーもいます。それらの人たちはすべてプロの人たちですが、趣味で経済学をやっている人にはほとんどお目にかかることができません。
日本では大学進学率がかつてないほど高くなり、経済関係の学部に進学する人も大勢存在していることでしょう。しかしその人達がすべて経済関係のプロになれるわけではありません。企業経営者にでもなれば一応の経営学の知識も必要になるのかもしれませんが、経営学を勉強して企業に就職したからと言ってその人達が全員企業経営者になれるわけでもありません。また経営学を勉強して企業に就職した人がその企業の社長の会社経営の仕方は経営学的に見ておかしいなどと言えば会社をクビになってしまうかもしれません。そんな場合には経済関係の学問を趣味にしてもいいのではないのでしょうか。経済学を趣味にすれば、ひょっとして趣味と実益が両立するかもしれません。またあくまで趣味ですから、それで必ずお金をもうけなければいけないと思う必要もありません。趣味はあくまで楽しむもので、自分の気の向いた時にすればよいものです。気楽に経済学を趣味にすればよいのです。カネ・カネと一年中考え詰めていると人間は息切れをしてしまいますが、人間にとってカネとは何かと考えれば気が楽になって良い考えも浮かんでくるのかもしれません。
経済学というと何かお金に直結しないといけない、あるいは会社の仕事に役立つものでなければならないと言うような先入観または固定観念が多くの人たちにあるのかもしれませんが、そうではない道もあっていいのではないのでしょうか。アマチュアのレベルが向上すればプロもうかうかしていられなくなり、プロの水準も上がるはずです。サッカーファンのサッカーの試合を見る目が肥えてくれば、プロのサッカー選手も下手なプレーばかりはしていられなくなるのと同じです。アマチュアの将棋指しでも自分ではそのような指し手を思いつけなかったとしても、プロの将棋のプレーヤーの打つ手のどこがすごいかまたどの手はそれほどではないのかの見分けは出来るはずです。経済学もそれと同じで、経済学ファンやアマチュア・エコノミストみたいな人たちが大勢生まれ出て、その人達のレベルがあがってくれば、プロのエコノミストや学者達もうかつに馬鹿なことはいえなくなるのです。「アマチュアだからといって見くびってばかりはいられない」とプロが感じるようなアマチュア・エコノミストが生まれ出れば、プロのエコノミスト達も気を引き締めて仕事をせざるを得なくなることでしょう。なぜなら日本のバブル経済全盛期にはプロだ何だという言葉が巷では頻繁に聞かれていたのに日本経済はバブル経済が原因で大失敗した経験があったからです。レベルの高いアマチュアが広範囲に存在している社会であればプロの技量もそれだけ高くなるでしょう。竹中平蔵経済財政・金融担当大臣は、「日本人は政策を評価する目をもっていない」と述べていました。これは日本国内に経済学ファンやアマチュア・エコノミスト達がきわめて少ないと言うことの結果なのではないのでしょうか。少なくとも竹中さんの立場で言ったことであれば、それは主にマクロ経済の分野のことを述べたといえるでしょう。マクロ経済学の分野は日々の生活などの家計部門やあるいはミクロ経済学の個々の企業経営の分野からすれば縁遠い天下国家を論じるものの分野といえても、それらの政策は日々の生活をしている人々にも影響してくるものですし、日々の生活の中で毎日のように働いたりお金を使ったりすることですべての人々は経済活動に何らかの形で関わっていながら、経済学ファンやアマチュア・エコノミストがいないのはどうしてなのだろうかと私には思われるのです。
大学の教授や官庁エコノミストあるいはシンクタンクのエコノミストそして公認会計士や税理士達またファイナンシャルプランナーの人たちは出版や新聞紙面またテレビ出演あるいは雑誌のインタビューなどで自分の考えを述べる場があります。しかしアマチュア・エコノミストにはそのような場がないにしても、それらの人はインターネットのホームページで活動できると思います。アマチュアはそれほどの費用をかけずに自分の経済的な見解や政府の経済政策への評価などをホームページで表明すればいいと思うのです。誰にでも関係してくる経済でありながら、それらをプロの人たちの考えだけが全てであるかのようにしてしまわなくてもいいと私は思うのです。プロの人たちの理論や考え方を参考にしながらでも、自分なりのあるいはアマチュアなりの見解は作り出せるとは思うのです。どんな趣味の領域においても、「趣味と言うにはあまりにも....」と思われる技量を持った趣味人はいるものです。いわゆるセミプロと呼ばれる人は生まれ出るわけですが、経済学ファンやアマチュア・エコノミストといわれる人の中からもセミプロといわれる人が大勢出てくればいいと思います。その中からプロになる人が出てもいいのだと思います。すそ野が広くならなければ頂点も高くはなりません。高い経済学の頂点を日本に生み出すには日本の経済学のすそ野を広げるようにする以外にないと思うのです。なにしろ日本は三十年以上も世界第二位の経済規模を誇ってきた国でありながら、ノーベル経済学賞受賞者を一人たりと生み出せていない国情の国だからです。性的欲求はどんな人間にも備わっていることでしょうが、性的欲望そのものの中へ浸かったままなら性文学や性科学は生まれでないことでしょう。性的欲望を性文学や性科学へと押し上げるには勉強したり調査したり考えたりしなければならないものです。性豪だからといっても必ずしも優れた性文学者だったり性科学者といえる訳ではありません。かつて芸術かワイセツ文学かで話題となった『チャタレイ夫人の恋人』を例にとるまでもなく、その小説の作者であるD・H・ローレンスは作品の登場人物が性交渉する場面を描いたとしても、少なくとも小説を書いている時間は執筆者自身は性行為はしていられなかったはずです。それと同じように、大なり小なり誰にでも備わっている金銭的欲望ではありますが、それを経済学にまで昇華してゆくにはそれなりに勉強したり研究したり分析して考えたりしなければなりません。経済学者にも金銭的欲望がないことはないにしても、カネのやりとりばかりして経済論文を書く時間をさかなければ経済学者としてはやって行かれないわけです。日本の場合は経済的な欲望そのものの中に溺れてしまっていて経済学の形にまで昇華されていないのだと思います。ですからアマチュアだからといってただの遊びのつもりでやっているのではないアマチュア・エコノミストが増え 、経済的な欲求だけでなくそれらを理論立てて考えることのできる人たちがたくさん生まれ出ればいいのだと思います。「俺はこれほどもうけた」と得意げに話す人は日本の社会にも大勢います。確かにもうけるにもその人なりの工夫はあったはずです。しかしなぜ自分はもうけることができたかを分析しようとすれば、時代背景やその人が持っていた知識そして自分がもうけることができた産業分野などの様々な要素を分析しそれらの関連を明らかにしてゆかなければならないはずです。現在は飽食の時代でメタボリック症候群を減らそうと日本では国レベルでの対策などが採られようとしていてダイエット食品や体脂肪を燃焼させる器具あるいはエクササイズDVDなどが売れる時代ですが、戦後すぐの日本が食糧難だった時代にはどんなに優れた効果のあるダイエット食品や体脂肪燃焼器具そしてDVDがあったとしてもそのようなものが売れる条件は到底なかったと言えるでしょう。日本人は食べるものが不足していて国民全員が嫌でもダイエットすることを強いられざるを得ないような状態だったからです。戦後すぐの時代にはどちらかというと太めの子供の方が健康優良児として小学校で表彰されたりしていたのです。同じように食糧危機で多くの国民が飢餓に瀕している北朝鮮の一般国民に果たしてダイエット食品を売りつけることは可能と考えられるかどうかと言うことにもなります。美食ができ糖尿病が心配されるような北朝鮮のほんの極一部の特権階級の人ならいざ知らず、食糧不足にあえぐ一般国民にはダイエットなどは無縁のことでしょう。これらからも分かるようになぜもうけることができたかを説明してみせるだけでも多大な労力が必要となることは明らかです。ただ時流にたまたま合ったがためにお金が手に入ったと言うだけでは経済学にまではなり得ないところがあります。ましてやそれらを総合し抽象化して一つの普遍性のある理論を作るまでにはもっと多くの労力がかかってくることでしょう。ある領域の専門家も他の分野では素人です。ですが他の分野で素人だからといってもその人は馬鹿ではありません。なぜならある分野の専門家だからです。だとしたら、どんな他分野の人も、アマチュア・エコノミストになれるのではないでしょうか。日本の民間企業の研究員の人がノーベル化学賞を受賞したりもしているのですから、必ずしも大学の先生ばかりでなく民間のシンクタンクの研究者の中からノーベル経済学賞受賞者が出てもおかしくはありません。経済大国なのにノーベル経済学賞受賞者が皆無なのは、カネはあっても教養はないに等しいようなものです。経済学なき経済大国の時代をいつになったら日本は脱却できるでしょうか??
これはアメリカで売り出されたノーベル賞百周年を記念した切手です。多くのノーベル賞受賞者を生み出しているアメリカならではのデザインの切手といえるかもしれません。アメリカはポール・A・サミュエルソンがアメリカ人として最初にノーベル経済学賞を受賞して以来、経済学賞の分野では圧倒的な強さを世界に示しています。
サミュエルソンがノーベル賞を受賞するにあたってベトナム戦争の種をまいたケネデイ政権の経済顧問を務めたために受賞に反対する批判的な意見も出たりしました。しかし対外的には戦後一度も戦争をしてこなかったアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国であった日本から一人もノーベル経済学賞受賞者が出ていないことをどう考えたらよいのでしょうか。
そして日本政府は日本人のノーベル賞受賞者を何人生み出すなどと言う政府目標を立てたりしていますが、ノーベル賞が百年を迎えたことに祝意を述べようなどと言う気持ちを持とうともしませんでした。世界的な視野と心の広さも日本人には必要かもしれません。
さもしい意識からは優れた業績は生まれでないでしょうから・・・。