経済学者は貧乏の法則

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 巷ではよく「経済学者がカネをもっている訳ではないから」とか「経済学者なのに貧乏なのはなんでなのか」とか言う言葉が聞かれます。またこれまで経済学者が書いた経済学関係の本が何百万部も売れて大ベストセラーになったという話も聞いたことがありません。私の経済学のゼミの教授も「一つ二つ売っても良い山を持っているというのでもないなら、経済学者になんかなるな。学者なんか割の合わない商売だ。」と学生達に言っていました。

 カール・マルクスの生活は惨憺たるものでした。貧困のために子供が病気になっても薬を買うお金もなくて二人の子供を亡くしましたし、その葬式の折りに棺を買うお金さえありませんでした。しかし経済学者の中にはお金持ちもいます。シュンペーターはヨーロッパ貴族の出身で大金持ちです。そのため自分の恋人に貴族としての教養を身につけさせるために学費を出資して学校へ行かせたのですが、その恋人は病にかかり死んでしまいました。シュンペーターはまた、つぶれかかっているオーストラリアの銀行の頭取になるように要請されたこともありましたが、その銀行がつぶれたときには預金者の損失を穴埋めするお金を自分の懐から出したりしています。まさにノーブレス・オブリージ(身分高き者はその責を負う)と言う言葉に当てはまる行為だと思いますが、日本の富裕層殊に戦後に生まれ出た富裕層の人にはなかなかできない芸当だと思います。ヨーロッパ貴族の財力とは、「バブル経済の様な経済状態が六十〜七十年続いたとき日本の平均的サラリーマンの生活水準は十七世紀の貴族の生活水準に達するだろう」と言われるほど巨大なもので、ヨーロッパ貴族とは日本のバブル経済全盛期に多くの日本人が味わっていた中流意識では到底太刀打ちのできない大きな資産の保持者を意味しています。

 近代経済学の父と言われるケインズはロシアのバレリーナであるリデイアを妻にしましたが、サミュエルソンの言葉を借りれば「大金持ちと文無しの間をさまよった人」です。小麦相場で一儲けしたりあるいは大損をしたりしていたからだろうと思います。ケインズがウェストミンスター寺院の鐘を荷車に乗せてその鐘の中に小麦を入れて運んだというのは有名な話です。そしてシュンペーターもケインズもマルクスが死んだ年の千八百八十三年ないしは千八百八十四年にこの世に生まれた人たちです。

 日本にも大金持ちになった経済学関係の人は存在しています。それは森ビルの創業者のすでに故人となられている森 泰吉郎さんです。商学関係の大学教授だった森さんは母親からの遺産を活用して貸しビル業を始め大成功し現在では東京都内にたくさんの森ビルが建っています。番号が付けられた森ビルだけで都内には四十五の森ビルがあると言われます。ライブドアや楽天などITビジネスの勝ち組と言われる企業が入っている六本木ヒルズと呼ばれるビルも森ビルの一つです。日本人の平均身長は欧米人に比べて小さいのでビルの天井を一般のビルよりも低くすることで、同じ高さのビルでも階数を多くし入居するテナントの数を増やしフロアー面積を多くしたことで成功の元を作りましたが、長生きをされた森さんは慶応大学の工学関係の教授にまでなった息子さんに先立たれると言う逆縁を経験しなければならないことにもなりました。バブル経済全盛期には森さんの総資産は一兆円と言われてもいました。

 しかしシュンペーターにしても森さんにしても、経済学の論文や本を書き教育を行うだけでは決してそれほどのお金を手に入れることはできなかったことでしょう。映画化もされた『マデイソン郡の橋』の原作者も経済学関係の人ですが、中年の男女の恋あるいは不倫をテーマにした小説は世界で千七百万部も売れたと言われても彼が経済学関係の本を書いたからと言ってそれほどの大ベストセラーになるとは到底思えません。日本のバブル経済全盛時に「バブル経済は経済学的に見て非常に問題が多い」などという内容の本を経済学者が書いたとして、いったいそんな本を読もうとする人がいたでしょうか。貯蓄から生まれる投資の部分である財テクの本ばかりが売れて、経済学ことにマクロ経済学の本などは売れていなかったはずです。二千年時点で日本は大きな財政赤字を抱え込んでしまっていますが「財政学」の本が爆発的に売れているという話も全く聞きません。多くの人に読まれているのはE-コマースやネット銀行あるいはインターネット証券取引などの、やはり投資分野についてのものやビジネス関係の本などです。誰にとっても自分の貯めたお金が増えたり減ったりすることは自分の収入が増えたり減ったりすることと同様に重大な関心事です。当然、どのようにしたら自分の貯めたお金をさらに増やせるかとは誰しも関心が湧く事ですし目が向くこ事でもあるでしょうから投資関係の本は売れることでしょう。しかし経済学には投資理論しかないわけではないのです。すなわち投資理論は経済学の中で重要な一分野ではあっても、投資理論が経済学のすべてであるわけではないということです。経済学の分野には一般の人の関心はそれほど引かなくとも重要な分野もあるので、それらの分野で研究・教育を行い論文や本を書くことを生業としている経済学者の収入は経済学の本が売れているというわけではないので到底大きく増えるというものでもありません。だから「経済学者は貧乏の法則」が成り立つと思います。

 しかし、これは余談ですが経済学者にも取り柄はあります。先のカール・マルクスはイエニーという美人と結婚しました。村一番あるいは街で一番と言われる器量良しの娘が終生変わることなく彼との貧乏生活を共にしてくれたのです。今の日本の若い女性だったらさっさと離婚という結末になりそうな極貧の生活にも共に耐えてくれたわけです。マルクスに全く魅力がなかったらイエニーだって離婚の道を選んでいたかも知れません。貴族の出身であるシュンペーターの若い頃の夢は「最高の恋をして最高の経済論文を書くこと」だったそうですが、どちらが最高の経済論文を書いたかは別にしても、「最高の恋」の方はマルクスが実践してしまったようです。シュンペーターは自著の中で「教師マルクス」として自分がマルクスから多くを学んだことを認めていますが、またマルクスを乗り越えたとも思いますが、恋愛という場面ではマルクスにうち勝てなかったのではないでしょうか。

 私はここに有名な経済学者達の私生活を書きました。しかし私は経済学者達の経済学的な考え方は彼らの私生活の反映であるなどとは思っていません。どんな経済学者にもそれなりの私生活が存在するのは確かであっても経済学的な考え方はそれを述べた経済学者の私生活に還元しきれないものだと思っています。私小説作家の作品であればその作家の私生活の有り様が作品にも色濃く反映されるのでしょうが、経済学における著作においてはそのことは別次元のものと考えられると思います。たとえ私生活上での体験が幾分かは入り込んできたとしても、私生活の中から拾い上げた着想などを普遍化してからでないと経済学の論文も本も書きえないと思うからです。そして「マクロ経済学や財政学などの経済学関係の本を読んでも、自分が政府の役人や政治家になるという訳でもない人間にとっては何にも役に立たないじゃあないか」と言う意見もあると思います。しかし自分が政府の役人や政治家になるというわけではなくても、経済学の基本的な考え方を作った世界の優れた経済学者の本などを読めば政府の経済政策の是非を自分なりに判断する事ができるようになる上で非常に役に立つと思います。すなわち政府の経済政策的な行動のチェックに役立つのです。経済学的な知識が全く国民の側にない状態においては、政府が行う経済政策に対してその問題点を見つけだすこともできず、ただひたすら政府の言うことに追従して行くだけであり、政府が大きな政策的な判断の誤りを犯した場合にも、その判断のどこが誤りであったかを国民の側は見つけだすことができないのです。日経新聞は「犯意なき過ち」と題するバブル経済を問題にした連載記事を掲載していましたが、犯意がなくとも過ちを犯すことがあるとしたら、何が過ちであったかは自分たちで考えなければならないと思うのです。そのような意味でも経済学の基本的なセオリーは多くの人が知っておいて良いのではと思います。そうでもなければ、日々生活して行く上では経済学ことにマクロ経済学の知識などは家計簿ほどの実用性と利用価値もないものだろうと思います。

 経済学を表す英語のエコノミクスの語源はギリシャ語のオエコノミィだそうです。その意味は「共同体のあり方を考えるもの」とされています。ある経済学者の発案による方策を実施したら、その共同体の経済的な活力が以前よりも活発なものになったとするなら、その経済学者は重要な役割を社会の中で果たしたと言ってもいいはずです。金持ちがますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になって行くような社会の中で、金持ちから幾分かの金をもらいその金を貧乏人に与えたら、その社会の経済活動が以前よりも円滑で活力のあるものに変化したとするなら、金持ちから金をもらい貧乏人に渡した人の生活水準には全く変化がなかったとしも、すなわちその人は別に金持ちになったというわけではなくても、その人の行為は評価されてよいはずのものです。化学反応における触媒のような役割ですが、触媒によって化学反応が促進されているという事実を認めるのであれば、触媒は重要な役割を果たしていると言うべきです。化学反応を引き起こす触媒は、化学反応に於いてもその性質は変化するわけではありません。すなわち経済学者は金持ちになることがなくても、その社会を経済的に活力あるものにする方策を考えれば十分経済学者としての役割は果たしたことになります。このようなことを個人レベルで行えば、その人は「ええかっこし〜」と見られてしまうかもしれませんが、制度として富の再分配をすればよいわけです。そのような制度的な再分配の方策を考えた経済学者は、経済学者としての務めを果たしたといえると思うのです。また化学反応が激しすぎるものになってしまったら、触媒の量を調節して反応を抑制する役割を果たすことも重要な仕事です。

 そのような方策を施された社会の中で金を儲ける人は実業界の人であっていいわけです。産業界の人は金を儲けて見せなければ成功者とは呼ばれないのは確かなことです。しかし経済学者は、必ずしも金を儲けて見せなければ優秀な経済学者ではないのかといえば、決してそうともいえないことは上のことからわかってもらえることでしょう。経済学者は企業家と一緒になって金儲けを競ってみせる必要はないはずです。経済学者が必ずしも大きな金を持っていなければならない必要もないのです。経済学者には経済学者としての役割がほかにあるからです。経済学者が貧乏でなければならないということでもなく、経済学者が金持ちであるべきだということでもなく、優れた経済的なアイデアや理論を生み出したなら、そしてそのアイデアや理論を現実の経済社会が受け入れることでその社会が以前より経済的に活力のある社会になった、あるいは活発でしかも安定的な社会になったというのであれば、それで経済学者としての功績は残せたというべきでしょう。経済学者が経済学者としての成功の証として巨万の富を作ってみせる必要はないはずだからです。なぜなら経済学者は金の力で社会を動かしている人ではなく、知恵と理論で社会に貢献しうる部分の人だと思うからです。例えてみればサッカーの名選手が必ずしも名監督であるかどうかは別の話です。それと同じように、金儲けがうまい人が優れたマクロ経済政策を生み出せるかどうかは別次元のことです。金儲けや企業の経営がうまく社会的な評価を受けた人は政府の仕事を引き受けたりすることはよくあることですが、そのような人の頭の中から社会全体の経済を活性化させるうまいアイデアが生み出されるかどうかははっきりとはしていません。サッカーの名選手でありながら名監督になった例はないわけではありませんが、それは希有な例です。それと同じように成功した実業界の人の頭の中から優れたマクロ経済政策のアイデアが作り出せるかどうかは、確たる保証があるわけではないのです。なぜなら企業経営はミクロの経済の分野のことだからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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