情報化社会のもたらす格差
源氏物語

瀬戸内寂聴

グーテンベルク聖書(英国図書館)

グーテンベルグ

印刷術

インターネット普及率

NUA資料(英文)


セクション 2
タイトル 1
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タイトル 3
タイトル 4

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タイトル 5

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タイトル 6

インターネットを初めとする情報通信社会が出現し始めて以来、「情報弱者」という言葉が使われだしてきました。すなわちコンピューターなどを操作できず情報の摂取と利用が困難なために社会的に落ちこぼれて行く人たちを意味する言葉です。「落ちこぼれ」という言葉は教育の場面ではつとによく知られた言葉であり、「弱者」という言葉も経済社会の中で身体的なハンデを負っている人たちや低所得の人たちを指す言葉として定着してきていますが、情報化社会の到来によって「情報弱者」という言葉が生み出されてきたわけです。インターネットを利用している人の割合と所得の構成を比較してみると、高所得者の方がインターネットの利用割合が低所得者に比べて高いというデータが出ています。私のような者がインターネットをやるなどとは身分不相応だと言われてしまいそうなデータですが、高額所得者の方が多くの情報にふれるチャンスがあり、またその情報を十分自分のために生かす機会が低所得者よりも高いとするなら、現在の社会の中に存在している格差は情報化社会の進展によってさらに大きくなってしまう事も十分に予測されます。それは一つの国の中の各個人間の出来事としてやあるいは一つの国の中にある都市と地方の格差と言う場面にも起きてくることでしょうし、広く世界的に考えれば南北問題にも関係してくるものなのかも知れません。二千年八月二十五日の読売新聞夕刊の『アフター5経済』には『ネット社会の落ちこぼれ』と『二千年版通信白書』から取ったアメリカと日本の所得階層別のインターネット利用率を比較した記事とグラフが掲載されています。それによればアメリカの最富裕階層と分類される年収七万五千ドル以上の階層のインターネット利用率は六十%ですが、日本の最富裕層として分類されている年収二千万円以上の階層のインターネット利用率は三十六%程度にとどまっています。ここに示されているアメリカの最富裕層の所得を一ドル=百十円で円に換算すれば八百二十五万円です。そしてアメリカと日本のもっとも所得の低い階層では、アメリカが年収五千ドル以下すなわち日本円で先のレートで計算した場合年収五十五万円未満の階層のインターネット利用率が九%程度であるのに比べ日本のもっとも年収が低い階層の年収四百万円未満の階層のインターネット利用率は五%程度となっています。この記事ではアメリカも日本も所得が高い階層の方がインターネット利用率が高いことがはっきりと示されてはいるのですが、日米を比較してみると必ずしも所得水準だけでインターネット利用率が全て決定されるものでは無いとも言えます。たとえば金額面でアメリカと日本でほぼ同じ所得階層を比べてみると、アメリカで二番目に高い所得階層である年収五万ドル〜七万四千九百九十九ドルすなわち日本円で六百五万円〜八百二十九万円の所得階層のインターネット利用率は四十五%なのに対し、それとほぼ同じ日本の最低所得階層のほうから三番目に分類される所得階層である年収六百万円〜八百万円の階層のインターネット利用率は二十%に過ぎません。額面だけからすればほぼ同じ所得階層でありながらアメリカのインターネット利用率は日本の二倍以上なのです。すなわち日本の方が所得だけからすればカネがさは多いにも関わらずインターネット利用率はアメリカに及ばないと言うことですし、同一の年収の場合にはインターネットの利用率はアメリカが日本の二倍以上になっているということです。日本は全ての物価水準がアメリカに比べて高いことも理由の一つでしょうが、所得の額面とインターネット利用率とを日米比較した場合には一口に「日本はインターネットの分野ではアメリカに大きく遅れをとっている」と言うことになると思います。インターネットの普及率で見れば北欧三国の方がアメリカよりも高い普及率を示しており、日本のインターネット普及率はシンガポールや香港以下という状態です。二千年九月二十一日の読売新聞朝刊にも[NUA調べ:二千年二月現在]として国別のインターネット普及率のグラフが掲載されています。それによると、アイスランド:四十五%、スウェーデン:四十四・三%、カナダ:四十二・三%、米国:三十九・四%、オーストラリア三十六・四%、オランダ:二十四%、イギリス:二十三%、台湾:二十一・七%、日本:二十一・四%、韓国:二十一・三%となっています。冬の季節が長く雪に閉ざされた生活時間が長い地域にとってはインターネットは非常にありがたい手段なので、北欧などの北国での普及率がインターネットの生みの親のアメリカよりも高いのは当然ともいえます。日本でも北海道のインターネット普及率は標準よりも高い割合です。このようなデータからすると各国の国内的な場面でみれば経済力=インターネット利用率と言う側面がある反面で、国際的に比較してみるとインターネット利用率≠経済力と言う部分も存在しているわけです。なぜなら、上の国別の数字からもわかるように、G7といわれる主要先進国が必ずしもインターネット普及率においてトップ7を形成しているというわけではないからです。世界第二位といわれる経済力の日本はそれに匹敵する地位をインターネット普及率では達成できていません。これは日本人が「所得の金額面で勝っているからすべての面で自分は相手よりも先行している」と考えることがいかに危険であるかということだと思います。そして格差は情報の量ばかりでなく情報を受け取っている人の知識の水準にも関係してきます。すなわち教育水準にも関係が大ありだと言うことです。一つの手がかりとなる情報に接してその情報から何を自分が読みとるかはその人の持っている知識に大きく依存せざるを得ないからです。ほとんどの人々が文盲である国からノーベル文学賞受賞者が生まれ出たとしても、その著書をその国の国民は読むことができないはずです。いかに優れた文学もその文学者を生み出した国の国民が文盲では国民にとって何の価値もないのと同じです。その価値を十分に認めることのできる能力の持ち主はその国の人ではないことになってしまうからです。平安朝の時代の日本の多くの庶民あるいは当時のほとんどの人がそうであったであろう農民にとって『源氏物語』がどれだけの重要性と価値があったというのでしょうか。しかしヨーロッパで日本人作家の作品で最初のベストセラーになったのは『源氏物語』だったのです。現在の日本では『源氏物語』は高校生の古文の問題にされたり、あるいは瀬戸内寂聴さんの現代語訳がベストセラーになったりと、多くの日本人が自分でふれてみる事が出来るほどに、あるいは平安朝の貴族の生活を自分なりに理解できるまでの生活水準になっていますが、平安朝時代の多くの日本人(農民)にとっては王朝貴族の生活などは遙かに縁遠いものであったことでしょう。また農民が達筆な筆使いの毛筆で書かれた『源氏物語』を見せられても識字率が当時は低かったために読むことさえできなかったことでしょう。そして現在多くの日本人が『源氏物語』に触れることが可能になったのにはグーテンベルグの印刷術の発明が大きく関係しているともいえますが、一つの発明によって多くの人々がそれまでふれることができなかったものの恩恵に浴することができるようになった事例です。しかしこれは文学を一つの例に挙げてみた話ですが、これから進展する情報化社会においても経済的な背景が大きく関わった格差の拡大が起きることは問題であろうと思います。パソコンの購入やインターネットの利用頻度にも経済的な格差が反映され、しかも教育水準が情報の利用の面においてやはり影響してくるものであるとするなら、現在存在している経済的な格差がこれから進展して行くと思われる情報化社会の進展によってさらにその格差が開いて行くというわけです。e-コマースと呼ばれるインターネットを利用した経済的な取引(インターネットの商業利用)などにおいてもコンピューターの操作技術と現在の手持ちの資金量の大きさの違いによる格差は下手をすればさらに拡大してしまいます。グーテンベルグの印刷術の発明によって、そして日本の義務教育による高水準の識字率の達成によって多くの人たちが『源氏物語』にふれることができるようになったのと同じように、インターネットなどの情報通信技術の発明が人々の格差を拡大するのではなくより多くの人々に大きな恩恵を与えてくれるものになるように方策を考えるべきかも知れません。

しかしこのような懸念がある反面で、インターネットなどの情報通信分野には資本金が二百万円程度で始められる多くのベンチャー企業が生まれ出ているのも確かですし、そのような企業の中から大きな飛躍を遂げる企業が生み出されてきたのも事実です。検索ページのヤフーに代表されるような、台湾出身のアメリカへの留学生が学生時代のアイデアを元にして成功した企業も存在しています。コンピューターソフトの開発などはアイデアとそれを生み出す頭脳が最も重要なものであり、必ずしも巨大な資本を前提にしなくても企業を立ち上げて行くことが可能な分野であるとも言えます。またインターネットを利用したe-コマースやe-ビジネスも、SOHO(Small Office Home Office)といわれる小規模資本から始めるビジネス形態が生まれ出て、個人や小人数の人々でも新たなるビジネスチャンスを得ることが可能になり始めています。このようなものが数多く生まれ出てくるときにはその中からは大成功を収める企業もいずれ出てくると言えます。インターネットなどの情報通信社会がこれまでに存在していた経済的な格差の上にさらなる格差を助長して行くのか、それともベンチャー企業の台頭などによって下克上の世の中になるのか予断を許さないと言ったところですが、少なくともしばらくの間は情報通信分野は日本では高い成長を示すことでしょう。そのダイナミズムを如何に自分のものにするのかは各個人の才覚によるわけですが、少なくとも情報通信社会におけるスタートラインは人々にとって公平なものにしておくべきであると思います。経済的な格差が存在しているが故にスタートラインが初めから不公平にできてしまっているというのでは社会的にも問題だからです。走った結果は同じである必要はないのですが走り出すスタートラインの位置は全ての人々にとって公平であった方が良いというわけです。すなわちチャンスだけは全ての人々に公平に与えられていることの方が望ましいのです。そのためにも経済的な格差があるが故にインターネットの利用に格差が生じてしうような条件はなるたけ小さなものに是正する必要があります。その代表的なものが電話(接続)料金とプロバイダーの費用そしてパソコンならびにアプリケーションソフトの価格だともいえます。また教育の面で言えば現在の日本では義務教育年齢は公式には中学校までですが、実体は高校までであるといえる状況が存在しています。バブル経済の崩壊以後の不況の影響によって高校の授業料が払えずやむなく退学せざるを得なかった学生も生まれているようですが、これからの社会ではインターネットを利用して高校や大学の単位を自宅にいながら取得できる技術的な条件は生まれたと言えます。これまでの日本の社会では「敗者復活」のチャンスは非常に限られたものでしかありませんでしたが、これからの日本においては敗者復活のチャンスが豊富に存在する社会にして行くべきでしょう。犯罪行為を犯したというわけでもないのに一度の失敗やつまずきが永遠に取り戻せないものであるなどという運命論的な社会は余り望ましいものではありません。そして経済的な苦況が理由で退学に追い込まれた人たちがしばらく後になって経済的に可能な条件が生まれたらそれらのハンデを自分で回復したいときにはそのチャンスが与えられているべきでしょう。スポーツにおいても敗者の復活には順当に勝ち進んだ人よりも厳しい試練が待ち受けてはいますが、チャンスが全くないよりも厳しくてもチャンスがあった方がまだよいと思います。アメリカ以上にカネがある日本の高額所得階層の方がインターネット利用率は低いとするなら、インターネットに代表される情報化社会は必ずしもカネだけで全てが決定されてしまうわけでもないと言うことですから、現在存在している経済格差を低所得とされる人々が巻き返して行くことも可能になるはずです。シンガポールや香港のように日本よりも経済的には小さなアジアの国や地域の方がインターネットの世界では日本よりも進んでいると言ったようにです。そして野口悠紀夫さんが著書の中で述べているように、これからは自分の名刺に自分のホームページのアドレスが記載されていることがステータスシンボルになるのかもしれません。これまでは名刺に記載されている企業名や役職名がステータスシンボルだったり乗っている車が高級車であることがステータスシンボルでしたが、自分が勤めている会社のホームページではなく自分自身のホームページを持っているということがその人の価値や評価を高める効果があるのかもしれません。自分がどんな組織に所属しているかとか、あるいはその組織の中で自分が何であるのかということではなく、あるいはまた所得がどれだけ高いかではなく、まさしくその人自身がどんな人間なのか、すなわち「個」が評価される時代だというわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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