| 第四次世界大戦 | ![]() 写真のタイトル |
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| 「第四次世界大戦」というのは大分以前に書かれた漫画のことだそうです。私の大学時代のゼミの教授がよく話題に取り上げていた話で「第三次世界大戦は全面核戦争になるのでその核戦争の後の人間は目っかちやちんばばかりになっている。そのような人間ばかりが今度は石ころと棒きれで引き起こすのが第四次世界大戦だ」と言うものです。全面核戦争が起こった後の世界は天文学者のカール・セーガンが唱えた「核の冬」という状況が生まれて、地球は寒冷化し穀物も育たず、恐竜が隕石の落下による煤塵の舞い上がりに伴う地球の寒冷化で死に絶えたのと同じ状況が科学者からは想定されていることであり、これが現実なのかも知れません。そして漫画で表現されている「目っかち、ちんば」と言う言葉は現在では差別用語であるとしてこのような言葉を使うことには批判もあるでしょうが、二十年以上も前の時代状況のこととして理解していただきたいと思います。また、このような差別用語を使うと言うことよりも、実際に戦争が始まってそのような身体的な障害を多くの人々が経験しなければならないようにしてしまうことの方が遙かに罪の重いことであることを認めていただきたいとも思います。
さて、この第四次世界大戦の話を聞いてみれば、それが如何に滑稽なものなのかがお分かりいただけることでしょう。しかしこのような滑稽さが再び起こらないと言う保証は人間の社会からはなくなってはいないはずです。北朝鮮では二千三百万人の総人口の内の二百万から三百万人が餓死しています。北朝鮮政府が軍事国家を目指さんがために国費の大部分を軍事費に使ってしまっているので、気象異変が重なって引き起こされた飢饉を解決できなかったからです。すなわち国家の予算が軍事費に回されてしまっていて国民の食料を輸入するだけの余裕がなく国民の多くが餓死せざるを得ないわけです。 二千三年時点の北朝鮮の国家予算は一兆一千四百億円と言われますが軍事費は二十億ドルすなわちかれこれ二千三百四十億円で、国家予算の二割は軍事費に消えています。しかも北朝鮮は共産主義体制なので国家予算すなわち政府の経済活動が国内総生産の大きな部分を占める経済になっています。そのため軍事費は国内総生産の十一パーセント強という姿にもなります。またソ連邦の崩壊によって、それまでソ連から安い価格で供給されていた石油が国際価格でしか手に入れることができなくなったことも北朝鮮の苦境に追い打ちをかけたといえます。ソ連邦の石油供給は社会主義圏を維持するためのソ連の重要な政策の一つでしたが、それが崩壊した余波はキューバにも及びました。そして北朝鮮には餓死した人間の数よりも遙かに多くの慢性的栄養失調の人々が存在することは想像に難くありません。北朝鮮の農村部で生まれてくる赤ん坊の六割が未熟児で誕生しているとも報道されています。 しかしそのような国情の北朝鮮だからと言っても彼らが開発しているミサイルが日本にとって脅威ではないかと言うと十分脅威になり得ます。ヨーロッパのことわざには「本当に恐ろしいのは武器を持った飢えた隣人だ」というものもありますが、まさに飽食の日本の近くにも武器を持った飢えた隣人が存在するわけです。そして北朝鮮のミサイル発射に対して日本政府は激しい抗議の意思を表明しました。ですが私には何か滑稽な感じもするのです。これから先の二十年間に渡っても北朝鮮が反日感情を持ち日本への敵視政策を続け、それに対して日本政府もいきり立って対抗措置を執り両者が一戦を構えなければならなくなった日のことを思い描いてみてください。未熟児で生まれ栄養失調状態で育ってきた北朝鮮の二十歳代の若い兵隊と飽食のなかで高齢化社会に突入している日本の糖尿病気味の老人とが武器を持って向き合うのです。こんなに滑稽な戦争があるでしょうか。そのさなかにいる人間にとっては戦争は逃れようもないものとして自分の運命に降りかかってはきますが冷静になって客観的に見ればこれほどばかばかしく滑稽なものもないはずです。 漫画以上に滑稽で悲しい漫画ともいえます。 戦争が起きるときには、それなりの理由付けと大義名分が敵対する双方にそれぞれ存在しています。日本の第二次世界大戦においても欧米列強の植民地支配に日本が組み込まれる危険性をさけるためと欧米列強に植民地化されているアジア諸国を欧米の植民地支配から開放しアジア人の手になるアジア地域を形成するという日本側の大義名分が存在していました。それが「大東亜共栄圏」という思想でした。しかしその実体がいかなるものであったのかと言えば、もてるもの(欧米列強)の植民地支配がいいか持たざるもの(日本)の植民地支配がいいかだけの違いでした。支配される側の過酷さというものを考えるなら、貧乏人に半分恨みを込めて支配されるより裕福で温厚な人に支配されることの方が仕打ちのされ方も過酷さが違ってくると言えるものでしょう。そのような大義名分によって行った日本の第二次大戦への突入は多くの惨禍をアジア社会へ与え自らも大きく傷つく結果となりました。いかなる戦争も後から振り返ってみれば滑稽でばかばかしいものだとは言っても、その渦中にある人間にとっては命がけにもなることであるのは確かです。そのような状況になるのはどんな理由からどのような動きに社会がなってくるときなのかを注意深く見ていなければ、歴史は似たようなことを繰り返してしまいます。そして自然科学だけは着実に進歩を遂げている中で引き起こされてくる戦争は、過去を繰り返している戦争のように見えてもその被害の程度は過去のものとは比較にならない惨禍を生み出すとも考えられます。人間の社会意識は後戻りすることはあっても兵器の歴史は後戻りしていないからです。 幸いなことに二十一世紀を迎えようとしている日本は不況から脱しきってはいない大きな変動の中にあるとは言っても、現在の日本はこれまでの日本の歴史の中でどの時期よりも経済的には豊かな状態にあります。世界の植民地の歴史も香港やマカオの返還などに示されるようにすでに終焉の時期を迎え、アジア社会においては経済的な共存の時代を迎えようとしています。九十七年にタイから始まったアジア通貨危機もどうにか終わり再び経済は成長軌道に戻ろうとしています。アジア通貨危機の際に打ち出された宮沢ドクトリンはアジア諸国にとってはかつての日本にとってのアメリカの国務長官ダレスの鞄の中身のような意味合いがあったと思います。経済的な苦況にあえぐ諸国にとっては豊かな国からの支援を受けたいと望むのは同じだからです。そのような状況の中で「アジアの中の日本は二十一世紀にどう世界の中で生きて行くのか」と言う議論も盛んに行われ始めています。二十一世紀の日本の進路については小渕首相が「富国有徳の国作り」と言うスローガンを掲げています。この富国有徳という言葉は私のページにリンクされている川勝平太さんが『富国有徳論』という論文で最初に使った言葉です。中央公論社の中公文庫に収められましたので読んでいただければ内容がわかると思いますが、この本についてやあるいは小渕首相が使っている事実などについて賛否さまざまあることはインターネットでこの言葉を検索していただければわかると思います。『富国有徳論』の中ではこれまで軍事大国を目指した国々がいずれも経済的な破綻状態を招いてしまった事実が指摘されています。日本のバブル経済とその破綻が一つの戦争を遂行したのと同じ衝撃を日本経済にもたらしたと言うのが私の見方ですが、経済大国化の道を歩んでも経済運営を一つ間違えれば大きな痛手を被るにしても、だから軍事大国の道を選べばよいと言うものではないと思うのです。ただ私が述べたいのは、現在の日本は有徳かどうかはわからないにしても、少なくとも世界の中での富国であることは確かだと言うことです。大きな財政赤字をここに来て抱えてしまったとは言っても日本は債権国でアメリカのように債務超過の国ではありません。世界最大の債権国から世界最大の債務国へとアメリカが転落していったのは冷戦構造下の軍拡競争の時代においてのことでした。その間に世界最大の債権国へとのし上がったのが他ならぬ日本でした。その日本がこれから国際舞台でどのように振る舞うのかはアジア諸国のみならず世界の国々においても重要な関心事であり日本自身にとっても大事なテーマではあろうと思うのです。願わくば日本が世界の平和秩序を構築するために大きな影響力を発揮する役割が果たせるようになることを望む一人です。 北朝鮮の軍事力が日本にとっては脅威だと言っても、北朝鮮の国家予算は二千三年時点の数年前には多く見積もっても日本円で二百億円程度でしかないという数字も存在しています。先に挙げた数字とは大きな隔たりがありますが閉鎖的で内情がわかりにくい北朝鮮の実情は掴みづらいところでしょうか。そして、北朝鮮がいくらアメリカに軍事力で対抗しようとしたと しても、国家の規模がかくも違ってしまえば国費を全て軍事につぎ込んだとしてもそれはとうてい無理というものです。また世界の平和秩序は何も軍事力のみによって形成されるべきものでもないからです。当然の事ながらそれは金の力だけでも達成はでいないことでしょう。金だけではなく多くの知恵がいりますし、知恵が生み出す多くの価値が人々を魅了するほどの魅力のあるものでなければ人々はそれを自ら進んで受け入れようとはしないことでしょう。「その方がいいじゃあないか、そうした方がお互いの利益でもあるしましな社会と言えるのじゃあないか」と思える価値を生み出し続ける事こそがこれからの日本には求められてくることでしょう。それは自国の価値を他国へ強制的に押しつけると言うことではなく自分たちが理想とする社会を形成することに努力していたら他の諸国もそれを見習うようになり自国の価値観が国際的な標準にいつの間にかなっていたという事なのです。日本もこれまで他国の社会制度や文化を取り入れてきました。 モノ作りの方法だけでなくクリスマスや中華料理・フランス料理・マクドナルドやコーラなど、数え上げればきりがないほどのものをまるで昔から自分の国にあったもののようにした生活をするようになっています。個人の自由という考え方もその一つですし人権もそうです。また民主主義あるいは民主制度というものもそうです。では世界の人々が自ら進んで取り入れたがる価値をこれからの日本はどれだけたくさん作り出してゆけるのかと言うことなのです。それは日本人だけの独りよがりでは実現はできないことであることも確かだろうと思います。
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