つれずれのささめごと
 

プライベート・ライアン

東大全共闘とバブル以後の時代状況

日本人と個人主義

未来志向と復古主義

少年法改正論議

ボランテイア活動の義務化について

靖国神社の公式参拝について

映画:パール・ハーバー

IT技術インフォーメーションテクノロジーからインテリジェントテクノロジーへ

危険思想と安全思想


タイトル 2
タイトル 3

セクション 2
タイトル 1
タイトル 2
タイトル 3
タイトル 4

セクション 3
タイトル 1
タイトル 2
タイトル 3
タイトル 4
タイトル 5

セクション 4
タイトル 1
タイトル 2
タイトル 3
タイトル 4
タイトル 5

タイトル 6


写真のタイトル

 ここでは私の社会に対するその時々の感想や印象を書き連ねて行きたいと思います。エッセーとして読んでいただければ幸いです。日々暮らして行く中で私たちはいろいろなニュースに出くわします。それはマスコミなどが流すニュースばかりでなく、私たちが普通に生きているだけでも時々出会うような身近なものもあります。日々の暮らしにいつもドラマばかりがあるというわけではありませんが、時としてある個人にとっては大事件と思われるようなことも起きたりします。そんなことにも気を配りながら書いて行こうと思います。人一人が生きて一生を終えて行くまでには病気をしたり怪我をしたりいくつかの出会いと別離があったり時代の波に飲み込まれてもがいたりとさまざまなことがあるはずです。しかし少々の個人的な出来事ではマスコミがそれらを広く人々に伝えてくれるわけではありません。一人の人間にとっては重大な出来事であったとしても社会全体にとってはとるに足らないことにされてしまうことがほとんどです。芸能人の結婚や離婚の話は多くの人々の話題になっても巷の人が結婚しても離婚してもその親族や友人知人の間でしか問題にはされないわけです。多くの大衆という人々はそんな中で暮らしているわけですがインターネットという手段は幾分かそのようなこれまでの社会の有り様を変化させるものなのかも知れません。これまでの社会においてはある個人が自分の意見を広く人々に伝えたくとも、その手段がありませんでした。またあったとしてもそれは非常に高価な代償を必要とするものでした。すなわち新聞に意見広告を出すにしてもその費用は膨大なもので個人にとってはほとんど不可能に近いものでしかありませんでした。大企業が新聞に出す全面広告のようなものを個人が出そうとすれば並の個人ではたちまち破産してしまうからです。しかしインターネットのホームページと言う手段はそのような制約を取り払い人々にチャンスを与えるものであるようです。一般の個人でもこれまであまりにも費用がかかって望むべくもなかったメデイアというものを個人のレベルでも所有できる条件を与えたのです。日本には「一寸の虫にも五分の魂」と言うことわざがありますが、実際には一寸くらいの虫でしかないような個人にとっては五分の魂はほとんど表現の場すら与えられてはいなかったのが現実なわけです。このコーナーはそんな一寸の虫の五分の魂みたいなものを書き連ねて行こうと思います。これまでの日本の個人は組織には到底太刀打ちできないものでした。個人と組織とが対等の立場に立って話ができる条件が乏しく、社会の方も個人を尊重する風潮が強いというものでもありませんでした。すなわち日本の社会は個人主義が弱いものであったと思います。個人は組織の力で押しつぶされることの方が多かったのではないでしょうか。これまでの戦後の教育も個性の尊重が謳われてはいたものの日本の産業を支える為にかなり均一のレベルの人間を大量生産するマスプロ教育が実施されてきたのが現実でした。しかし日本の高度成長の時代にはそれが必要であったかも知れなくとも、これからの日本にとっては均一な個人ではなく自分一人でも仕事を作り出していけるような人あるいは小人数でも行動を起こせる人が必要とされてきていることです。実際は個人の意識の確立は組織の力で作り出せるものではありません。しかし2000年代以降の日本にとって必要とされてくるのはしっかりとした考えを持った個人であってこれまでの組織人タイプの人ではないようです。大組織の力は当然これからの日本にとっても大きな力を持ち続けることでしょうが、そうでない部分の重要性が以前よりも大きく比重を増した社会になり始めているのではないでしょうか。組織人が下手をすれば組織というたこ壺の中に入り込んでしまう危険性があるのと同じように、個人が個人的なたこ壺に入り込んでしまうことも間違いでしょう。しかし社会や世界に開けた個人の確立というのは重要になってくることだろうと思います。確かに人間は社会を作らなければ生きて行くことはできません。モノを作るのにも分業で作った方が効率よく作れますし、家族の中でも役割の分担はあると思います。そうでなければロビンソン・クルーソーのように無人島でなにもかにも自分一人で作ったり用意したりしなければならなくなってしまいます。そのような意味では人間はチームを作って動いていると言ってもよいでしょう。原始生活に近い状態の人間を想定したとしても、野菜や主食となる作物を作り、そのための農機具も作り、魚も捕り、そのための釣り竿や釣り針も作り、煮炊きするための竈(かまど)などの家庭の日常必需品も、また竈にくべる薪を集めてくることも、水くみも全部自分一人で作ったり供給したりすることは不可能に近いことです。ましてや現在のように各産業分野のレベルが高度化してしまっていれば、すべての分野を自分一人でこなすことなどとうていできようもありません。日本には「海彦・山彦」という話があります。それぞれ海でとれるものと山でとれるものとを持ち寄って交換する話です。しかしその海の産物と山の産物の価値はどのように計ったらよいのでしょうか?物々交換の場合にはその産物同士の分量 や品質で交換するかどうかが決まってくるでしょう。お互いが「自分は得をした」と思えるうちに交換するのがもっとも二人にとっては幸福な関係といえます。しかし交換する産品が数多く存在してくるといちいちもの同士の交換比率を考えている時間的な余裕がなくなってきます。そのために人間は自分が生産するものと他の人が生産したものを交換するための媒体としてオカネすなわち貨幣というものを発明もしました。交換の範囲が拡大するとそれは交易や貿易という形にもなり、外貨とかドルのような機軸通貨なども重要なものになりました。しかし人類が交換の手段として発明したはずの貨幣すなわちオカネでしたが、それが社会全体を覆うようになると「オカネの奴隷」になってしまう人も出てきてしまっている部分があります。 生産手段としての機械は人間の生産性を高めるための手段として発明されるのですが、人間が「機械の奴隷」になってしまうこともあります。情報通信の社会が進展して行くに従って「情報の奴隷」もうまれ出るかもしれません。そのようなことがないようにするためにも個人はしっかりとしたものであった方がよいはずです。社会や組織や国あるいは国家の連合体と言ったレベルに至ってもそれらが一つのチームのように振る舞うものだとしても、チームプレーの場合にも個人技のレベルは重要でしょう。個人がしっかりした上でチームを作れば、チームに依存してばかりいる個人だけで作られているチームより強いはずです。誰でもが身に着けなければならない能力はすべての人に必要とされるのでしょうが、自分だけにしかできない能力は非常に大事なものだろうと思います。非常に優れた特定の個人の能力をより多くの人々の能力にしようとしてきたのが教育でした。学校教育の中で教材とされているものの多くはかつての天才達が生み出した知識などがたくさん含まれているはずです。世の中には確かに天才がいます。それは世界にも日本にもいるでしょう。そして天才ではないが天才の言葉や考え方を理解できる人もいます。その人達は天才の言葉や考え方を他の人に理解できるように説明することができる人達です。その人達の言葉を通して我々一般人は天才がなにを言ったのかどんなことを考えたのかを理解することができるというわけです。天才の言葉や考え方を解説してくれるのは現在では評論家やジャーナリストそしてマスコミかもしれません。あるいは専門分野に所属して一般向け解説書を書いている学者かもしれません。しかし私たちはすべての分野の専門家になどは現代社会の中ではなれるはずもないので、どこかの部分で自分の役割を果たさざるを得ないわけです。それがどんなに社会の片隅のものであっても、また少人数や個人で行っているものであっても、それらが尊重される社会であることを望みます。