テロリストへの制裁に疑念を呈する人々の頭の中には、以下のような想念があるものと思われます。
造反有理。
今回のテロリストの行動を招いた原因には、ユダヤとパレスチナの有史以来の抗争があり、イスラム教の宗教的特異性があり、また西洋文明に遅れをとったアラブの悲しみがある。こうした歴史のある深い原因を全く無視して、アメリカが軍事的な圧倒的優位を発揮しテロリストを粉砕するのは人道にもとる。
さらに、全く関係のないわれわれが巻き込まれるのはかなわないことだ。
たいへん慈悲深い考え方だと思います。
だが、このような考え方を振り回す人を、私はパートナーとして選びたくないと思います。なぜならどのような経緯があろうとも、現にわれわれの目の前にある脅威を排除をしなければならないというのは、現実的な要請だからです。このままでは、世界のどこにも安心して移動することができないことになってしまいます。民主主義国家であり、なおかつアメリカと軍事同盟さえも結んでいるわれわれは、どちらの味方であるのかをはっきりと宣言する必要があります。戦争において、態度をあいまいにしておくということ以上に、パートナーの不信の念をかきたてることはないでしょう。
ましてや日本経済は、現状では世界のお荷物でしかないのですから。いまや日本は、単なる粗大ゴミです。
そうした現実的な利害よりも、対象となっているテロリストの立場を深く考える姿勢は、日本の組織風土に深く根ざしている仲間主義に共通するものがあります。けっして自分の仲間ではない相手、むしろなんとかしてこちらから収奪しようとしている相手までも、温かい目で見て、理解し、迎え入れようとする態度は、私の理解をはるかに超えています。
おそらく、対象者と自分との間の距離の感覚に、決定的な欠陥があるからこのような判断ができるのだと思われます。
しかしこれは、日本企業の中で働く人たちに、多かれ少なかれ見受けられる思考傾向です。
日本企業の中では、「自分たちに与えられているミッションは何なのか」ということは、かなりあいまいにされています。本人に与えられている目標を達成することは、実はたいして重要なことではありません。なぜなら、目標を達成しようが、達成できまいが、本人は地位を剥奪されるわけでもなく、クビになるわけでもないからです。
最優先されるのは、毎日接触している人たちとの友好的な関係です。「同じ日本人なのだから、相手も大概無茶なことは言わないだろう、ぎりぎりのところに来たら加減してくるだろう」という暗黙の前提が、こうした気風の根底にあるのだと思います。まったく農村共同体的な発想法です。
社員たちにとっては、現在の組織を維持し、関係を保つことを最優先に考えるということは何ものにもかえがたい、自分たちの存在意義とすら言ってもよい価値観になっています。
それを否定し、組織の中に戦略的目標や、自由な競争と市場主義的な選択のシステムを導入し、これを達成することを組織目的にするなどということは、現在自分たちが信じている価値を否定することにつながります。
だから社員たちは、信念を持ってこうした新しい価値観、私が新日本人的と言っている価値観を駆逐するわけです。その狂信的で確信犯的な態度は、原理主義的なテロリストの姿勢と全く選ぶところがありません。
資本主義社会における資本家にとってみれば、自分たちの利益を無視した経営者や社員たちの横暴は、まさに暴力的なテロリズム以外の何物でもありません。こうした無自覚なテロリズムが、実は日本企業の中で日常的に行われているのが現状だと私は思います。バブル経済終息後の10年間で、日本企業に巣くったテロリストたちは、過去の蓄積をあらかた食べ尽くしてしまったわけです。
つまり私が言わんとしているのは、企業社会における緩やかな同時多発的経済テロリズムが、今日の日本経済の惨状を招いた元凶であるということです。
構造改革の議論は政策論を中心に行われていますが、私は本質的にはこうしたミクロレベルの経済テロリストたちを一掃し、思想教育を施して更正させることができなければ、日本経済の再浮上はあり得ないと考えているのです。
しかし、日本社会における経済テロの掃討作戦は非常に困難です。思想的には違っても、姿勢としてはなにがしか同じ基盤を共有しているアラブのテロリストたちについても深い共感を示している経済テロリストたちは、ブッシュがテロリストの殲滅におそらく手を焼くであろうように、容易に自分たちの陣地を明け渡そうとはしないのです。
私は、アメリカやイギリスを中心とした国際社会の共闘態勢に疑問を呈するテレビのコメンテーターの意見を聞くにつけ、日本で現在進行している同時多発経済テロに思いを致さずにはおられません。
まだアラブのテロリストのほうが、日本企業の社員たちよりも優れていると思います。少なくとも、アラブのテロリストたちは、だれが敵でだれが味方であるかを峻別し、断固とした行動力で敵に痛撃を与えることができるからです。それすらなく、何となく毎日を過ごしている日本人は、すでに死んでいるにも等しいと思えてなりません。