自爆テロは対岸の火事ではない、
日本人も死んでいる

 

9月12日  ニューヨークの世界貿易センターへの自爆テロに対して、断固とした抗議を表明します。これは自由で民主主義的な社会、自由な言論に対する限りなく卑劣で野蛮な挑戦であり、絶対に許されることではありません。犯行に関わった勢力は、自分の行いを償う必要があります。私は、たとえ通常は使用されない強力な兵器が使用されたとしても、国際社会がその償いを当然受けるべき対象に強要することについては、これを支持します。

 ニューヨークのワールドトレードセンターと、ワシントンの国防総省に対する自爆テロについて、私は事件発生の6時間後には、このサイトに、この攻撃に抗議し、国際社会による犯人への制裁を支持するとの自分の態度を明らかにしました。私は、今後事態にどのような展開があっても、ここで書いた文言を翻すつもりはありません。

 このような事態は、絶対に許されるべきではないと思います。私は、ワールドトレードセンターが崩壊し、数千人規模の犠牲者が出たから、テロリズムを非難しているのではありません。「民間旅客機を乗っ取って、商用ビルデングに突っ込む」ということを企んだ時点で、それは社会のルールを無視した恣意的な暴力行為であり、最大の非難に値することなのです。これは犯罪以外の何ものでもありません。

 このような有無を言わせぬ暴力行為は、自由な言論によって成立している市民社会と、自由な態度の表明によって物事の価値を決定する市場主義に対する否定です。したがって、これを否定するということは、すなわちわれわれの社会や、われわれが属する文明に対する敵対であると私は思います。こうした暴力行為には、まったく何の正当性を見いだすこともできません。擁護するべき点がひとつも見つからない価値なのです。

 日本国憲法は、自衛を除いて戦争行為を否定しています。しかしすでに、われわれの文明に対する攻撃が、あまりにも明白で、耐え難い規模の犠牲を伴って行われているのです。今回はクウェート侵攻と違って日本人の犠牲者も出ています。さらに今後もテロは無差別に起こります。彼らは我が国に対する友好的態度を示したわけではありません。したがって見えない敵からの攻撃に対する自衛は、われわれの存在を守るために容認されるべきことだと思います。

 我が国が、どのような形で国際社会によるテロリズムの排除に参加するかについては、現行憲法の規定を逸脱しないように議論を尽くす必要があると思います。我が国が法治国家である以上、憲法を改正しなければ、その規定を逸脱することはできません。

 しかし、旗幟鮮明にしておく必要があると思います。われわれは、前向きな社会の建設と、価値の創造を否定するいかなる勢力をも容認することはできないはずです。彼らがわれわれに牙をむいてくる以上、彼らの存在自体を否定して、われわれ自身を守る権利があるはずです。

 事件の発生から週末を挟んで、アメリカ政府が犯人を特定し、彼らに対する国際的な制裁措置発動の準備を具体的に進行していることが伝えられると、日本のメディアの論調はガラリと、慎重論に取って代わりました。アメリカ政府がテロリストを攻撃しようとすることに対する懐疑があらわにされ、また我が国が何らかの形でかかわり合うことについてのネガティブな姿勢、報復が報復を呼ぶ状況よりも平和を尊ぶ態度の方が賢いとする逃避的な態度が言論を支配しています。

 うんざりします。何がって、これを対岸の火事ととらえ、自分たちに累が及ぶことをひたすら恐れる惰弱な姿勢に対してです。私は非常な嫌悪感を覚えます。

 テロリストは、民主主義を否定しているのです。われわれの社会の根幹も否定しているわけであって、ワールドトレードセンターの崩壊は対岸の火事ではないのです。それがどうして理解できないのか、私には全く分かりません。おそらくコメンテーターたちは、もし日本国内でテロによる被害が発生すれば、手のひらを返すようにして、本日の論調から、私よりも過激な攻撃論に走るに違いありません。いやもう既にして予言できます。日本人の遺体(の一部)が帰国する時、今日の言を翻す奴がいるはずです。

 彼等が依拠しているのは、現在の自分の利害を踏まえた浅はかな感情論にしか思えません。よく考えれば、テロリストを擁護することは、言論を否定することであって、メディアの存立意義にかかわってくる重大な問題であることにすぐ気がつくはずです。われわれの存立基盤を揺るがすがゆえに、テロリズムはどのような巨額のコストがかかったとしても、根絶やしにする必要があるのです。

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