メトロポリタンオペラ便り

「ワルキューレ」3

 

手塚 代表取締役名誉相談役

 

  一方のジークリンデのダレイマンはこの場面、まだ若いせいか一貫してエンジン全開で歌い切っていた。それでも声が全く衰えず、最後までいくところもまた若い証拠なのだろう。
 ちなみにジークリンデの見せ場はこの第一幕ではなく、第三幕の第一場最後で救済の動機にのせて歌う「おお、天にものぼる心地!」の最高音Aのフォルテッシモでやってくるのだが、ダレイマンはここで会場を圧する声量で大見得を切ることができていたし、まだまだ声はでそうだった。

 つづく第二幕である。ここで初めて登場するウォータン役のミカエル・キットは、さほど声量のある歌手ではないが、柔らかく深いバスバリトンの声で、ウォータンの父性をよく表していた。
 ややもすると冗長な例のウォータンの語りの場面でも、語りかけるように静かに始まり、さまざまなライトモティーフを駆使しながら次第に盛り上がっていき、ついに「今の望みはただひとつ、わが世の終焉だ(Das Ende)!」の叫びで頂点を迎える。なかなか聞かせ上手である。

 一方同じくこの幕から登場したブリュンヒルデ役のオリガ・セルギーヴァもなかなか容姿端麗でスタイルもよく、見栄えがする。声のほうも若干明るめでブリュンヒルデにしてはやや軽めのかわいいイメージがするものの、芯は通っておりオーケストラに決して負けない。
 このブリュンヒルデが第4場で、静かな「運命の動機」+「死の告知の動機」に導かれながら、舞台右手の奥から青白い光とともにジークムントの前に姿を表すシーンは静寂を極めたオケの伴奏とあいまってなかなか印象的である。ここでブリュンヒルデとジークムントが静かに交わす駆け引きが、暗く厳かに始まり、次第に明るさを増しながら音高を上げていき、ダイナミックに展開していく様はドミンゴの上手さもあって非常に印象的であった。
 結局ブリュンヒルデはジークムントのジークリンデへの愛情に動かされ、父ウォータンの命令に背くことになりジークムントに加勢するのだが、ドミンゴのジークムントの悲劇的かつ崇高な説得力をもってすればブリュンヒルデでなくとも感動して納得せずにはいられないだろう。

 第5場でウォータンが登場しジークムントの剣ノートゥングを砕いて、ジークムントがフンディングの槍に倒れた後の場面は、無言のウォータンのしぐさの中に、期待の息子を死に追いやらねばならなかったウォータンの苦渋と悲しみが静かに表されて感動的なシーンである。
 ここでウォータンはフンディングに「行け!失せろ!」と吐き捨てるようにつぶやいてフンディングを葬るのだが、このセリフの表現法についてはは往年のウォータン歌手のハンス・ホッターの、深々としたしかもドスの効いた声の、いかにも魂を抜き取る呪文のような表現が印象に強く、キットの比較的真面目に歌った「Geh!」はちょっと軽いかなという印象であった。一方この第2幕の終結部についてはゲルギエフはオーケストラをパワー全開にして筆者の目の前のブラス群も全力で吹きまくったので相当な迫力で迫り、最後のウォータンの声が聞き取れないほどであった。

 このオケのパワーは第三幕の前奏曲として有名な「ワルキューレの騎行」にもそのまま引き継がれた。ホルンを中心に何度か「ワルキューレの動機」が繰り返された後、トロンボーンとチューバを中心とした全ブラスのフルパワーで例の付点音符によるワルキューレの主題が爆発的に演奏される様は、ゲルギエフ節そのものだった。
 この後、ブリュンヒルデがジークリンデを逃がすシーンとなるのだが、ここで印象的だったのは、一般的な期待とは裏腹にセルギーヴァのブリュンヒルデが比較的若作りの透明な声なのに対し、ダレイマンの歌うジークリンデが比較的太めで深い声だったことである。
 一般的な常識ではブリュンヒルデは典型的なドラマティック・ソプラノ(たとえばビルギット・ニルソン)が歌い、ジークリンデを一段軽めの声の歌手が歌うのであるが、本公演のキャストではそれが逆になっているのである。
 もっともブリュンヒルデの役に本当に鋼鉄のようなドラマティック・ソプラノが要求されるのは次の「ジークフリート」と「神々の黄昏」であり、「ワルキューレ」でのブリュンヒルデは、女としてはまだ思春期に入ったばかりの少女(実際「恋愛」の存在を第二幕でジークムントとジークリンデから教わったばかり)という設定なのである。
 一方のジークリンデはもう何年もフンディングの妻として生活し、さらに双子の兄ジークムントと出会って燃えるような禁断の愛の道に踏み込んだ立派な「女」である。考えてみればジークリンデの方が太目で深い声でもおかしくないどころか、むしろ自然なのかもしれない。

 今回のように「ワルキューレ」の単独上演が前提のキャストであって、四部作として後に続く「ジークフリート」と「神々の黄昏」をブリュンヒルデが歌わなくてよいのであれば、これはなかなか理にかなったバランスということができるかもしれない。考えてみればブリュンヒルデにとってジークリンデは将来の自分の夫となるジークフリートを生む、いわば義母なのである。母の方が深い経験をつんだ声質の歌手によって歌われても自然というものだろう。
 蛇足だがこの場面で興味深いのは、女の側から見たとき、ブリュンヒルデとジークフリートの関係は、光源氏と紫の上の関係と丁度反対の構図という意味で、理想的なパートナーを手に入れる構図となっているということである。ブリュンヒルデは将来自分の夫になる英雄ジークフリートがこの世に生まれてくることを保障するため、義母となるジークリンデを命がけで助け、しかも「私がその子を名づけましょう!ジークフリートです!勝利への願いを込めて!」と、生まれてくる夫の名付け親になるのである・・・。


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