連載小説 カンパニー・1985 第3回
ファックス
言いにくいことを言わなければならないとき、どうしてもギリギリのタイミングになってしまうのはよくあることだと思う。時計の針が5時半近くなっているのを意識しながら、どう切り出せばいいかが分からない。今から考えるとばかばかしいことだが、周囲がすべて自分より先輩だった当時の僕は、いつもそんなことで悩んでいた。
「今日は急ぎのファックスがあるんじゃないの」
そういうとき彼女は、先に切り出してくれることが多かった。
「そうなんです」
「宛先はロスだけ?」
「ロスとデトロイト、それから大阪も」
「原稿、もうあるんでしょ。できているところまで先にワープロ打っておくから。急がないと9時までに間に合わないよ」
本名の秀子を略して通称デコさん。入社年度で3年、実年齢で1年上の彼女に対し、僕はまったく頭が上がらなかった。とくに問題の種だったのがファックスの件である。
NTTがまだ電電公社だったその頃、ファックスを送信するときは情報システム部を介さなければならなかった。というより、全社で1台しかなかったのである。専用回線で送れるテレックスに比べ、ファックスは割高だった。そこで社内で経費節減が問題になるたびに、「通信はできる限りテレックスを使うように」「テレックスは短めに」といったお達しが下りてきたものだ。しかし入札のスペックがどうのこうの、なんてややこしい書類はテレックスでは送れない。仕方がないから各課で付け替えてファックスを使う。
ところがファックスするインボイスを作るのが一騒動なのである。情報が入ってくるのは、社員が外から帰ってくる夕方になってから。ヨーイドンで作り始めても、ワープロは課に1台しかない。手際よくやらないと、あっという間に締め切りの午後9時になってしまう。かくして彼女の手を借りなければ、その日の仕事が終わらない。
「お前は恵まれているよなあ」
他の課の若手社員から、よくこんなことを言われたものだ。
「デコちゃんはOLのカガミだよ。残業頼んでも嫌な顔しないでやってくれるだろう。うちの課のオバサンだとああはいかないからね」
たしかにデコさんは信用できるパートナーだった。僕の知らないことは何でも知っているように思えた。日下さんまでがよく、「デコちゃんが言うなら間違いないだろう」と言っていた。
「今日は写楽でいい?」
「駄目、寿司清がいい」
「寿司清、この時間だともうネタがないかもしれないよ」
「だったらお茶漬け作ってもらうからいいよ」
デコさんは寿司が好き、とある人が教えてくれた。そこで残業が終わってから、お礼を兼ねて安めのすし屋に誘うという手を覚えた。当時の僕にとっては、これは結構大きな負担だった。とはいえ、それで毎日の仕事がスムーズに運ぶのなら安いものである。
「来年から、キントーホーができるんだって」
「なに、キントーホーって」
「雇用機会均等法。それが通ると、会社では男女差別をしてはいけなくなるんだって。そうなったら、デコさん、課長代理になってよ。僕、ずっと下働きするから」
「いやよ、あたしは腰掛けOLなんだから」
「へえ、デコさんは腰掛けなんだ。そのわりには・・・・」
「なによ、そのわりには、って」
せっかくのご機嫌取りが台無しになりそうだったので、僕はあわてて話題を変えた。そのとき初めて気がついたのだが、彼女が残業を嫌がらずにつきあってくれるのは、毎晩これという予定が入っていないからだった。
その理由を、当時の僕はまだ知らない。