連載小説 カンパニー・1985 第1回
タイガース
仕事帰りにサラリーマンが飲む酒なんて、なんだかみっともない。学生時代には
そう思っていた。でも、実際に自分がその身分になってみると、それはそれで楽しかったりもする。入社して間もない僕は、その夜、上司と一緒に「仕事帰りの一杯」をやっていた。
おりもおり、春先の「かっぱ亭」では、その夜1回目の乾杯が行われていた。
店中の視線が、年代もののテレビが映し出す野球中継に注がれている。1-3でリードされていた7回、2アウトランナー1塁2塁から、阪神ファン待望の一発がバックスクリーンに飛び込んでいた。その日、絶好調だった巨人の槙原が、思わずマウンドに膝をついている。その後方を、背番号44をつけた金髪の巨体が、ゆっくりとダイヤモンドを回っていた。
阪神ファンばかりが集まる店内はにわかに活気づいた。
「いきましょう日下さん、生ビールあと2つ」
勝手に注文して、僕は残り少なくなった自分のジョッキをいきおいよく空けた。
「君はよう飲むなあ。まあほかのことには役に立たんから、いいか」
日下さんは元気だけはいい新入社員をもてあまし気味だった。
「やっぱり頼れるのはバースですねえ」
僕は新しいビールを注ぎながらそういった。
「いや、阪神の4番は掛布だ」
日下さんが言ったそばから、テレビの中で新しい歓声があがった。掛布のホームランだった。周囲からも声が上がった。
「今度は掛布か。またバックスクリーンやで。槙原いよいよあかんな」
「これで5対3か、勝負あったな」
連続ホームランによって、その夜の勝利への期待は確信に変わりつつあった。店内の歓声はやや落ち着きを取り戻し始めた。それでも「かっぱ亭」で、その夜2回目の乾杯が行われたのはいうまでもないことである。
「ところでなあ、竹下。明日、お前を四谷重工に連れていくぞ」
「四谷といえば名門ですねえ。で、何しにいくんですか」
「新入社員の紹介にきまっとるじゃないか」
「なんか芸でも見せないといかんですか」
「あほぅ、四谷重工は固いカイシャなんだ。こないだ尼崎製鉄でやったみたいな変なあいさつ、するんじゃないぞ」
しかし、課長と新入社員の会話は、その夜3度目の興奮とともにかき消されてしまった。5番、岡田がまたまたバックスクリーンへのホームランを打ち込んだのである。
「やるのう、選手会長は」
日下さんがやっと阪神ファンらしくなっていた。
「めったにあることじゃないですよね。3人ともバックスクリーンですよ」
「うーん、これはひょっとすると、今年の阪神は優勝かもしれん」
「今のうちだけかもしれませんけどね」
「しかし、3人連続のバックスクリーンなんてのは本当に初めて見たぞ。しかも巨人戦というのがいいじゃないか。やっぱりな、今年のタイガースは何か違うぞ」
「監督が吉田になったのが、本当にいいんですかねえ」
阪神ファンの間で長く語り継がれる1985年4月17日、甲子園球場の奇跡の3連続アーチだった。そのとき僕は新入社員で、社内でも切れ者と評判の課長の下で、商社マンとしての修行を始めたところだった。