北イタリア ヴェネツィアフィレンツェミラノ  表紙(地図)へ戻る  

1992年ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ を旅行した時の記録です。主にルネッサンス期のイタリアを紹介します。

ゴンドラの行きかうヴェネツィア(ベニス)

町の生い立ち
ローマ時代以前はこの付近の陸地部にはウェネティ族という非ローマ人が居住していたがアウグストス帝によりヴェネティア州としてローマーの属州の一つに編入された。しかしこの頃は、現在のヴェネツィアがある所は、干潟(ラグーナ)内の1つの島にすぎず、ほとんど人は居住していなかったようである。 476年西ローマ帝国の崩壊後、この地方はゲルマン人やフン族などの侵攻に遭い、多くの人々が現在のヴェネツィア島などのラグーナ内の島々に避難し住み始めた。そして、形式的には東ローマ・ビサンツ帝国の属州となり属州総督(ドージェ)が島を治めた。 ドージェはローマ共和政の伝統に従い世襲ではなく住民から推された有力な市民(実際には有力商人や軍人)が就任した。ビサンツ帝国の庇護のもと、強大な海軍を擁し、ヴェネツィア人は東地中海の制海権を手にし、東方貿易で巨万の富を築き、イタリアの他の地方がまだルネッサンスを迎える前に、イタリアで最も有力な都市国家の一つとして発展し、一時は、ビサンツ帝国の首都コンスタンチノープルの支配権を握るにいたった。その後、ビサンツ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国との攻防をくり返し徐々に衰退した。しかし、現在でも北イタリアの大観光都市として魅力を保っている。
 ヴェネツィアからはルネッサンス時代、ティツアーノ(1490-1567)、ヴェロネーゼ(1528-88)などのベネチア派の画家、ヴィヴァルディー(1678-1741)、マルチェッロ(1686-1739)、アルビノーニ(1671-1750)などのバロック時代の作曲家が輩出している。

サンマルコ広場


上空より見たサンマルコ広場付近。

着陸する飛行機から見たベニスの町並みは最も印象深いものの一つ。(
もう一つはニューヨーク・マンハッタン島)

中央の塔は鐘楼。
その左はサン・マルコ寺院。

その右はドゥカーレ宮
(総督の居城)

手前の広場はサンマルコ広場。すぐ右手に海が迫っており、最近よく冠水する。



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サンマルコ寺院
町の守護聖人サン・マルコを祀る寺院
ビサンツ風のエキゾチックな建物
9世紀にエジプトから掠め取って来た遺体がこの寺院に安置してあるという。

サンマルコ広場

寺院のバルコニーより

パラドーロ(サンマルコ寺院内)
10世紀にコンスタンチノープルで作られた祭壇画。無数の宝石をちりばめた豪華なもの

大運河(カナル・グランデ)

ヴェネツィア島内では自動車の使用は一切禁じられており、人や物の運搬は全て人力か舟で行なう。そのため縦横に運河が作られており、運河に面して商館や家々が立ち並ぶ。その中で最大の運河が島の中心を蛇行する大運河(カナル・グランデ)であり主な建造物は大運河に沿って点在する。これらの建造物は地盤が弱いため1m2当り数本の木柱を打ち込みその上に建てられている。

大運河には3つの橋が架かかっており、
左の写真はサンマルコ広場の近くにある木製のアカデミア橋。 



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リアルト橋
町の中心部にある屋根付の大理石製の橋で、
両脇には土産物店が並んでいる

トルコ商館跡

卸売市場

ゴンドラ
町のタクシー代わり

運河のほとりの
ホテル
(泊まった所)

花の都フィレンツェ

いうまでもなく、ルネッサンス期イタリアの中心都市。
ローマ時代以前はエトルリア人の町だったが、シーザーによってローマの属州に編入され、フローレンティアと名づけられた。西ローマ帝国崩壊後はゲルマン諸族の王たちによって支配されたが、トスカーナ地方の中心都市としての地位は揺るがずルネッサンス時代に向け徐々に発展し、15世紀メディチ家が支配権を握るととも経済・文化の隆盛は頂点に達した。ルネッサンス文化の華が凝縮した魅力的な町である。

ドゥオーモ サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂

13世紀末から建造が始まり、15世紀中期にブルネッレスキにより大円蓋が完成した。表面は大理石で覆われている。

右手の塔はジオットーの鐘楼(14世紀建立)

手前の8角形の建物はサン・ジョバンニ洗礼堂。フィレンツェで最も古い聖堂(11世紀頃建立)。4方の入り口には彫刻を施したブロンズ製の扉がありドゥオーモに面した東面の扉はギベルディー作『天国の扉』として有名。前の広場はサン・ジョバンニ広場

右手後方の白い教会はサンタ・クローチェ教会。
ガリレオ、ミケランジェロ、マキャベッリ、ロッシーニなどの墓がある。

その後ろを流れる川はアルノ川



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大円蓋

ジオットーの鐘楼
高さ85m階段で上がれる

天国の扉
(サン・ジョバンニ洗礼堂)
ギベルディー作

サン・ジョバンニ
広場

ガリレオの墓
(サンタ・クローチェ教会)

ヴェッキオ宮・ウフィツィ美術館

ジオットーの鐘楼の頂上から南方(ヴェッキオ宮方面)を望む。

尖塔のある建物がヴェッキオ宮。その後方に連なる細長い建物がウフィツィ美術館。



その向こうの谷間にアルノ川が流れている。



ヴェッキオ宮周辺点描
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ヴェッキオ宮

共和政期の政庁
現在は美術館となっており歴史的な絵画が多数展示されている



多くの政治犯がこの外壁に吊るされた。


ヴェッキオ宮の中庭にあるメディチ家の紋章

メディチ家は薬種商として富を築いた。紋章は丸薬をあらわす。

右:ウフィツィ美術館
最上級のルネッサンス絵画が収めてある

サン・ロレンツォ教会
君主の礼拝堂

色彩豊かな大理石をちりばめたメディチ家の君主のための豪華な礼拝堂


ウフィツィ美術館の名品 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


ボッティチェッリ
『春』(プリマヴェッラ)
約1.5x3mの大作
その左隣にある『ヴィーナスの誕生』とともに展示されており圧巻。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ
『ウルビーノ公爵夫妻』
左:バッティスタ・スフォルツァ
右:フェデリコ・モンテフェルトロ


小品ながらなぜかひどく印象的な肖像画である

ラッファエッロ
『ひわの聖母』
大変有名な作品だが余り印象に残っていない

ダヴィンチ
『受胎告知』



これも左に同じ
どうも宗教画は苦手

の発信地ミ ラ ノ

ミラノはかなり早く(紀元前3世紀)からローマの植民都市として発展し、中世、近世、現代を通し、北イタリア最大の都市であり続けた。その中心も、現在と同じ、ドゥオーモ付近であった。中世はヴィスコンティー家(有名な映画監督はその子孫という)が君主として君臨したがルネッサンス期に部下の将軍フランチェスコ・スフォルツァが乗っ取り(イタリア版下克上)ダヴィンチなどを招き北イタリアに勢力を拡大した。
現在のミラノ市は人口約170万、ローマに次ぐイタリア第二の都市。グッチ、プラダ、アルマーニなどの有名ブランドの発祥地。

ドゥオーモ

1386年ジャン・ガレアッツィ・ヴィスコンティーによって着工され1887年に尖塔が完成した。実に500年の歳月をかけ建設されたわけである。

尖塔の高さは108.5m、奥行き157mのゴシック様式の大聖堂



ドゥオーモ周辺点描  下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


ドゥオーモ

ドゥオーモ広場
バブル華やかしき頃、日本企業の広告が目立つ

ヴィットリオ・エマニュエル2世のガッレリア

スカラ座
いわずと知れたオペラの
殿堂