過去の日記 インデックス
セックス・アンド・ザ・シティ(生後769日)
2004,9,30
台風一過で久しぶりに青空を見た。日中は少し暑かったけれども、夕方になってから涼しい風が吹くようになってきた。
それにしてもどうしてカンは、散歩の前になると、あんなに鳴くのだろうか。近所の人が聞いたら恥ずかしくなってしまうような大きな声だ。何しろ3度の飯より散歩が好きで、雨がかなり強く降っていても苦にしない。
妻に言わせると、ニューヨークかぶれだということになるのだが、最近、マンハッタンを舞台にした映画を借りてきてみることが多い。何しろ、行ったことがあるせいか、親近感を覚えるようになったのだ。
中でも、もっとも品がなくて笑えるのが「セックス・アンド・ザ・シティ」というテレビドラマだ。98年頃から制作されたようで、全部で6部作となっている。私は第2部(シーズン2)まで見た。主人公はコラムニストの女性キャリー。そして豪快なサマンサ。ギャラリーに勤めているシャーロット。弁護士のミランダ。このマンハッタンに住む4人の女性が繰り広げるラブコメディーだ。とにかく下ねたがストレートで、私もびっくりしてしまうくらいだ。妻は嫌悪感を抱いたくらいだ。シンガポールではあまりにも品がないためか放送禁止になったという。
もう一つの特徴は、白人の、それも成功して小金を持っている30代の独身女性の話であるという点だ。彼女らが通うスポットは、おしゃれで高級な場所である。また、つきあう男性も金持ちのハンサムボーイであることが多い。この番組は有料チャンネルで放映されたという。確かに品のない番組だから、子供には見せられないだろう。と同時に、中産階級以上の白人たち向けに作られた感じである。これを見てアメリカ人は、少しの羨望と少しの悲哀と、少しの笑いを得ることになっただろう。
同じようなテレビドラマに、ボストンを舞台にした「アリー・マクビール」(アリー・マイラブ)がある。こちらも品がないところが多々あるが、「セックスアンドザシティ」に比べればその比ではない。私はアリーの方が歌もあるし、法廷の面白さもあるし、登場人物たちが少し庶民的で、好感を持った。
でも、「セックスアンドザシティ」をついつい見てしまうのである。
マルホランド・ドライブ(生後768日)
2004,9,29
またまた雨だ。台風が近づいている。夕方のカンの散歩は、かなりの強い雨の中で、おまけに腰も痛いし、ちょこっと行って、帰ってきてしまった。まあ、カンもいつもそうするように、もうちょっと行かせてよ〜、とだだをこねることもしなかったんで、おしっこさえすれば満足だったみたい。
「マルホランド・ドライブ」。全く最初のうちは、というか、ほとんど残り15分くらいまで、何を描いているかわからんかった。昔、「ワイルド・アット・ハート」って映画を見たけど(ニコラス・ケイジがでていたのは記憶しているけど、内容はすっかり忘れた)、同じ映画監督のデビット・リンチという人が作ったやつだ。やっとラストまで見て、少し理解できた感じ。まあいずれにしても、監督自身が映画を辻褄が合うように作っているとは思えない。夢と現実が錯綜している。
煎じ詰めれば、映画界の悲哀を描いたものだってくらいはわかる。主人公のダイアン(ベティー)演ずるナオミ・ワッツはかわいかった。胸をさらして気迫の演技だった。彼女が演ずるところは、田舎からハリウッドに来た売れない女優。前半部(これがほとんどを占める)は、彼女の妄想。なんだか不気味で、見終わった後も気分が悪い。最後の方がどうやら現実を描いていて、彼女が女優の友人やら映画監督やらにひどい仕打ちを受けて、嫉妬のあまり友人を殺し屋に頼んで殺させてしまう。さらに彼女自身も拳銃自殺してしまう。はっきり言ってしまえば、この映画を解説しているサイトを探して読んでみなければ、理解できなかった。
監督の名前がど〜んと出る映画はスピルバーグとか宮崎駿などがいるけれども、私は学生時代からウッディー・アレンが好きだ。わかりやすいし、ちょっと悲しくて、なおかつ笑える。「ギター弾きの恋」に続いて「セレブリティー」を見たけれども、こちらもニューヨークで小説家を目指す雑誌記者である中年男の悲哀を描いていている。「マルホランド・ドライブ」と同じようなテーマだと思うのだけれども、笑いがあってとても良かった。手法は圧倒的にウッディー・アレン流だったんだけれどもね。
どっちが良いとも言えないけれども、デビット・リンチの方は140分もかかる長い映画で、ほとほと疲れちまったというのは、偽らざる事実なんだべさ。
画像はニューヨークを走る観光用の馬車。
アフターダーク (生後767日)
2004,9,28
村上春樹の新作を読んだ。「風の歌を聴け」以来25年の年月が経ったという。
今回の作品は「ねじ巻き鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」に比べれば短く、長編というよりも中編といったところだ。この作品では、ある夜の出来事を、東京という都市を舞台に、時間軸に沿って、都市に生きる人々の人間模様を描いている。
相変わらず村上春樹の文章は洗練され、過剰なまでの修飾語は、ある種無機質な感じである。一方で、いつもの寓話的な物語性が、今回は少し弱められているように感じる。それでも読み進めるにつれ、先への興味が尽きず、あっという間に読み終わってしまった。3時間弱で読了したと思う。
また、いつものように不可思議な事態が起こる。この超現実的な枠組みはそれこそ彼の初期の作品から見受けられる。彼は途中、河合隼雄氏を通じて、ユング心理学に出会い、その理論を作品の中に取り込んでいった。というよりもむしろ、元々ユング的な構造を彼の作品は内包していたといって良いかもしれない。また、彼は、出身地である神戸が震災に襲われて、それまでの「デタッチメント」・・・社会に関わらない・・から、「コミットメント」・・・社会参加する・・・と方向変換し、「アンダーグラウンド」を書いた。
私は彼の作品が流れていく方向に興味があった。今回の作品は、おおかた初期の作品からブレはない。彼の持ち味が発揮されていると言える。そして、今回の作品は、初期の作品と同様に、都市を舞台としている。というよりも、都市そのものを描きたかったのではないかと思う。その証として、小説の冒頭部分で都市について、細かい描写をしている。都市の病理そのものがテーマではないかと。少し引用してみる。
広い視野の中では、都市は一つの巨大な生き物に見える。あるいはいくつもの生命体がからみあって作り上げた、ひとつの集合体のように見える。無数の血管が、とらえどころのない身体の末端まで伸び、血を循環させ、休みなく細胞を入れ替えている。新しい情報を送り、古い情報を回収する。新しい消費を送り、古い消費を回収する。新しい矛盾を送り、古い矛盾を回収する。身体は脈拍のリズムにあわせて、いたるところで点滅し、発熱し、うごめいている。時刻は真夜中に近く、活動のピークはさすがに越えてしまったものの、生命を維持するための基礎代謝はおとろえることなく続いている。都市の発するうなりは、通奏低温としてそこにある。起伏のない、単調な、しかし予感をはらんだうなりだ。
画像はニューヨークという都市の、サウスストリート・シーポートのあたり。
鉛色の空 (生後766日)
2004,9,27
ずいぶん長い間、雨が降り続いた。思い出すと、22日に激しい雷雨が降って以来、太陽が顔を出すことなく、空は雲に覆われている。そして昨日からは、低くたれ込めた鉛色の雲から、雨粒がひっきりなしに落ちてくる。昨日から我が家の周りの道も、あまり人通りがなく、静かな様子だった。
雨が降ると、どうもカンは家の中に入りたがるようだ。ガラス戸をばたばたと前足でたたいて、これが実にうるさい。「ロード・トゥ・パーディッション」という映画を見ている最中に、約1時間くらいガラスに向かって音を立てていた。仕方がなくてカンを中に入れると、和室に行って横になっている。しばらくするとぐったりと横になって、しまいには何か寝言を言っている。「うおーん」「はう〜」。
まさか死んでしまったのではと思い、ビデオを止めて見に行ってみると、なんてことはない、無事生きている。やれやれ。
最近は、階段を上って2階に上がることに慣れて、気が向くと二階に上がって、布団の上でごろりと丸くなっていることがある。下にいる我々夫婦は、あれ、カンがいなくなった、とあわてて探すと、2階で涼しい顔をして横になっている。階段を上がることに躊躇しなくなったのは、今年の7月頃の雷雨におびえて2階に駆け上がって以来だ。
ちなみに「ロード・トゥ・パーディッション」という映画は、アメリカ映画で、トムハンクス主演、ポール・ニューマン助演、「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデス監督作品の、1930年代のシカゴを舞台としたギャング映画だ。ギャングを題材にしながら、テーマは父と子の結びつきを描いている。そういう意味では、ゆがんだ家族を描いた「アメリカン・ビューティー」と共通している。ただし、私は、映画評論家の高評価と反して、少し退屈を感じたのは事実である。
今日の夕方になって雨がやんだ。しかし相変わらず低くたれ込めた雲は変わらない。ただ、カンの散歩は少し楽だ。カッパを着なくても良いし、散歩の後、濡れたカンを拭く必要もない。
早く、乾いた秋空を拝みたいものである。
メジャーリーグ (生後765日)
2004,9,26
1日中秋雨が降る、薄暗い1日で、なんだか気分も落ち込んでしまうような天候だった。どこにも行かず家の中でテレビを見て過ごした。
最近、BSでメジャーリーグの放送を見ることが増えてきた。その理由として、一つはニューヨークでヤンキースタジアムに行き、本物のメジャーリーグを見てきたからだ。ヤンキースタジアムでの試合の中継を見ていると、外野のフェンスの「読売新聞」という漢字で書かれた広告を時折目にする。アメリカで漢字の広告があるなんて、アメリカ人には読めないはずだから、日本の、しかもテレビを見ている人向けの広告だとわかる。そんなものを見ても、実際に現地で見たときの興奮を思い出す。今日はヤンキースとレッドソックスの試合を見た。松井が狭いファールゾーンでエラーをした(記録はヒットだったが)。観客席がグランドに近いのはボストンのスタジアムでも同じである。そういえばこのスタジアム、「アリー・マクビール」というテレビドラマにも登場していたことを思い出した。
そしてもう一つの理由はイチロー選手の記録更新への興味である。今日もレンジャース戦で1本ヒットを打った。本当にすごい選手である。ただ、アメリカでは圧倒的に高い評価がある一方で、イチロー選手に対する批判もあるという。その一つは、記録のみにこだわってゲームに出場していること。そしてチーム内で孤立していることだそうだ。今年マリナーズからヤンキースに移ったオルルッド選手は彼を擁護して、文化と言葉の壁があってなかなかとけ込めないのだと言っていた。また、彼がそう思われるのは、人種的偏見だとの説を否定していた。
しかし、オルルッドがいちいち人種偏見を否定しなければならないところに、アメリカで人種偏見が根強いということを思い知らされる。アメリカ生まれの黒人選手であるボンズ選手でさえ、いわれのない批判を受けているのだそうだ。そういう意味でイチロー選手には是非とも頑張って、記録を更新して欲しい。日本でも、大相撲では、最近とみに外国人選手が増えてきた。ここのところ横綱は外国人が占めている。いろいろな考え方があろうが、今や国際化が進むのは、洋の東西を問わないのだと感じる。
画像はブルーサルビア。秋になると青い色が一段と深く、美しくなります。
マイライフ・アズ・ア・ドッグ(生後764日)
2004,9,25
昨晩、ビデオ屋で借りてきた「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」というスエーデン映画を見た。不覚にも映画の終盤に涙がこぼれ落ちそうになった。とてもシンプルで、静かな映画であった。
この映画は1985年の制作で、私が高校を卒業したときに作られた古い映画だ。1度は見てみたいと熱望していた。というのはタイトルにドッグと出ているからである。犬が登場するものは、「南極物語」以来できるだけ欠かさず見てきたつもりだ。この映画のタイトルを直訳すれば、「1匹の犬としての、私の人生」ということになろう。実際にシッカンという名前の犬が登場する。この犬と主人公の少年イングマルは大の仲良しだ。ところが、イングマルの父親は不在で、彼のカメラマンだった母親は病魔に襲われてやがて死んでしまう。彼のお兄さんと彼はそれぞれ別の親戚の元に送られていく。シッカンは保護施設に送られてしまう。
時代は1950年代から60年代を舞台としている。まだ蒸気機関車が走っていたりする、スエーデンの田舎が舞台だ。彼が預けられた伯父の住む村は、まだ共同体としての村が機能していた。彼は、村の子として育っていく。サッカーをやったり、ボクシングをしたりと。
しかしイングマルは客観的に見て不幸である。親を亡くした孤児である。しかし彼は自分を不幸だと考えようとしない。彼は辛いとき、いつもこう自分に言い聞かせる。「宇宙に送られて餓死してしまったライカ犬よりは僕はずっと幸せだと。
しかしそんな彼も涙がこぼれてやまない事実を知らされたことがあった。私もこのとき涙が落ちそうになったのだ。皆さんは是非この映画をご覧いただきたい。そうすればあなたも涙を流すだろう。
この映画のタイトルは、少年イングマルを犬とたとえている。実際イングマルは映画の中で犬になってしまう場面がある。でも少し自虐的なのだ。
わたしも長い人生の道すがら、ふと自分は犬のようでもあるなあと思うことがある。そんなとき妻に向かってワンワンと吠えてみる。すると妻もカンの真似をしてふい〜んと鳴くのである。
「晩秋」コーヒー(生後763日)
2004,9,24
今日は1日どんよりとした曇り空だった。
涼しくなってくるとコーヒーを飲む回数が増えてくるのが毎年の私のパターンである。今は、家ではニューヨークのスーパーで買ったリトルイタリー・コーヒーの粉を使って飲んでいる。このコーヒーはやや苦い。粉はかなりの細引きである。
外では私の町で春先にオープンしたコーヒー専門店の「晩秋」という店に行く。といってもまだ開店以来5回しか行っていないのだが。最近では妻と連れだって一緒に行く。妻もこの店を気に入って、「晩秋」に行こうよと、声をかけてくれるようになった。
この店のマスターはコーヒー豆を扱う会社に勤めていて、脱サラして喫茶店を開いたとのことである。そのため、いい豆を安く提供できるのだそうだ。開店以来、店の前で無料の試飲コーナーを設置して、マスターが道行く人々に飲んでもらっている。犬の散歩中の女性や、近所の老人などが立ち止まって、おいしいコーヒーに舌鼓を打っている。
マスターの妹さんが店の切り盛りをしている。とにかくずっと立ちっぱなしでよく働いている。この兄弟はまだ若いのだが、コーヒーに対する思い入れは強そうで、また、二人とも品の良さそうな感じを受けるので、好感を持てるのだ。
出されたコーヒーは大変おいしい。先日妻とともに、さいたま市内のホテルにある喫茶コーナーのコーヒーと飲み比べてみたが、妻曰く、ホテルのコーヒーは1杯600円もするのだが(ただしおかわり可)、作ってからしばらく立っているのか、酸化して風味が消えてしまっているのだという。一方晩秋のコーヒーは、作りたてで持ってきてくれるし、作っている姿もよく観察できる。いちいちカップを温めたり、妹さんができばえをチェックするために飲んでみたり、懇切丁寧に作っている。だから風味が消えず、舌触りも良いようだ。そろえてあるコーヒー作りの器具もおしゃれに見える。
ブレンドは3種類あり、さらにフレンチ方式とネルドリップの2種類の入れ方を選択できる。これで400円でクッキーが付く。ほかにも平日のケーキセットや、グアテマラなどの単一の豆で作るコーヒーを頼むことが可能だ。少し高くなる。
喫煙できる席は奥の方に3席あるばかりで、健康にも気を遣っている。喫煙者の私にとっては少し心苦しいところもあるのだけれども。店内は落ち着いていて、ジャズが流されている。店の名前の由来は、聞いたことがないが、古い映画の「晩秋」から名付けられたのではないかと推測している。
これから秋から冬にかけてきっと「晩秋」に足が向くことになることが多くなるだろう。
画像は種から作ったペンタス。
ちょっと変わったギャング映画(生後762日)
2004,9,23
ギャング映画を2本見た。一つはブラジル映画の「シティー・オブ・ゴッド」。
リオデジャネイロ郊外にある「神の町」すなわちシティー・オブ・ゴッドは、流れ者が住み着くスラムである。ここでは麻薬や暴力などの犯罪が多発する。特に子供たちがこうした犯罪に取り込まれていくのだ。やがて若い連中はギャング団を形成していく。ひとつは黒人少年リトル・ゼの率いるグループ。彼は小さい頃から人を殺すことを何とも思わなかった。もう一つは白人の男が率いるグループ。彼らは麻薬を資金源に、拳銃で武装する。やがてこの二つのグループは抗争を繰り広げ、多くの少年少女が死んでいく。小学生くらいの小さな子供たちすらそれに加わっていく。
主人公はこの抗争を傍観するカメラマン志望の黒人少年だ。彼もまた、神の町の出身だ。彼はこの抗争の主役たちをカメラにとらえ、新聞社でカメラマンとしての第一歩を歩き始める。最後に、警察に泳がされて生き残ったリトル・ゼはリーダー失格として、中学生くらいの子供たちに殺される。
監督はこの悲劇の連鎖を冷静にカメラに納めている。
もう一つのギャング映画は「トラフィック」。これはスティーブン・ソバダーグ監督の作品である。アメリカとメキシコをまたがる麻薬組織と、それに癒着する警察を描いた作品だ。あえて言えば主人公は3人いる。メキシコのティファナの警官。そしてアメリカのサンディエゴの黒人警官。この二人は下級警官であるが正義感を持って麻薬組織に挑む。そしてもう一人はアメリカの麻薬対策本部長。これはマイケル・ダグラスが演じる。ところが彼の娘が父親の放任から麻薬中毒に陥る。彼は改心して自分の職務を放り出し、娘を懸命に助けようとする。結局娘は助け出され、麻薬組織の一つは壊滅するものの、もう一つの組織が温存されたところで映画が終わる。ソバダーグ監督は、メキシコでの場面をセピア色の映像で撮り、全体として淡々と描写をしていく。
二つの映画とも激しい暴力シーンが全編にわたって描き出される。今の私の生活環境では考えられない状況だが、世界のどこかには、このようなスラムやギャングが存在するのだ。日本でも私が知らないだけで、恐ろしい組織があるのかもしれない。
いずれの映画も、映画評論家の評価が高かった作品なので、一度ご覧あれ。
画像は、ギャングエイジの頃のカンとその兄弟。
スペイン映画〜ペドロ・アルモドバル監督(生後761日)
2004,9,22
猛烈な雷がさいたま地方を襲った。カンもびびって家の中に避難した。夕方の散歩の時には、ひどい土砂降りに途中から見舞われて、這々の体で家に帰り着いたのである。この雨によって本格的な秋が到来することを祈りたい。
先日見たスペイン映画を紹介したい。2本見たのだがどちらも同じ監督の作品だったことに気がついたのは、見終わった後だった。いずれもペドロ・アルモドバル監督の作品である。両方とも、どちらかといえば暗い作品だった。映像の美しさは確かにあった。また、現代スペインの抱える憂鬱が作品からにじみ出ていたのである。
まず、「トーク・トゥ・ハー」という映画。引きこもりの青年ベニグノが、彼の部屋から見えるダンス教室に通うアリシアに恋をする。しかし彼女は交通事故で昏睡状態となってしまう。ベニグノは看護師の資格を持つことから、アリシアの看護を担当する。彼女に語りかけながら、愛情あふれた介護を行う。病院でベニグノは旅行記事を書く記者と知り合う。記者は恋人である女闘牛士が事故で同じように昏睡状態である。この病院でベニグノと記者は仲良くなっていく。
アリシアが妊娠したことがわかる。犯人はベニグノだと疑われ、彼は逮捕される。刑務所で記者とベニグノが交流するのだが、ある時ベニグノが服毒自殺を図って死んでしまう。しかし、アリシアは奇跡的に意識を取り戻していたのだ。赤ん坊は死産だった。記者は彼女が復活できたのはベニグノのおかげだと思うのだが、そのことは誰もふれなかった。
次に「オール・アバウト・マイ・マザー」。臓器移植コーディネーターのマヌエラは、最愛の息子エステバンを交通事故で失ってしまう。作家を志す息子に、行方不明の父について話すと約束した直後のことだった。息子が残した父への想いを伝えるため、行方不明の夫を探そうと、かつて青春時代を過ごしたバルセロナへ向かう。そこで彼女は昔の仲間であるオカマと再会し、若い修道女と親交を深める。この修道女は実はエステバンの父であったオカマの男の子を妊娠したのであった。しかし彼女はエイズに冒され、オカマの父とともに程なく死んでしまう。死ぬ前に生まれた子をエステバンと名付け、この子をマヌエラが育てていくことになる。また、「欲望という名の電車」という演劇が全編の背景として登場し、女優とマヌエラの交流も描かれる。
ペドロ・アルモドバル監督が描く複雑な人間模様と深くて、ある種ゆがんだ愛情の世界がこの2本の映画にはあふれていた。ハリウッドの映画のような痛快さやおもしろさはないものの、たまにはこのような映画もよいものだと思った次第である。
画像は、先日行った森林公園でのカンの様子。
J.F.ケネディー空港 (生後760日)
2004,9,21
今日は30℃を超えて夏を思わせるような1日になった。私のニューヨーク紀行文も今日が最後である。天気予報によると明日から少し気温が下がってくるのだという。夏の終わりとともに、ニューヨークの想い出は終わりを迎えることとなる。
最終日の朝が来た。ニューヨークでのわずか3泊の滞在もこれで終わりである。朝早く目が覚めたので、セントラルパークまで行ってみた。ちょうど朝日が昇りつつある時間だった。早朝テニスをする人やランニングをする人、そして犬の散歩をする人たちが公園に集まりつつあった。私はぶらぶらと40分くらい歩きながらニューヨークの余韻を味わった。この公園の空気は中心部に比べてとてもおいしい。私はこういうところが好きなのだと再認識した。
帰りがけにスタバでサンドイッチとカフェラテを買ってホテルでゆっくりと食べた。9時15分に旅行業者が迎えにきてくれる。このあたりがツアーの良さである。タクシーだとマンハッタンからJ.F.ケネディー空港まで50$均一料金である。約5500円である。地下鉄とモノレールを乗り継ぐと、もう少し安いのだが、重い荷物を持って億劫である。定刻になってチェックアウトをすると、業者の日本人が待っていて、早速車に乗り込んだ。途中ヒルトンでもう一人の男性を乗せて、一路、J・F・ケネディー空港に向かう。共和党大会は今日がクライマックスのブッシュ大統領の演説の日であった。その割には静かだと日本人の運転手の人が言う。私はいろいろニューヨークのことを彼に聞きながら空港に向かった。
空港には10時半頃に着いてしまった。出発は30分遅れの2時になるという。約3時間ほどの時間ができてしまった。仕方がないのでお店をぐるぐる回ったり、空港を1周するモノレールに乗って、ほかのターミナルに足を伸ばした。そこでぬいぐるみを買っておみやげとした。12時頃になっておなかが減ったので、プレートランチを売っている中華の店でご飯を食べた。7$50セントだ。タバコは空港の施設外に出れば簡単に吸える。ほかの場所と同じように係員が結構吸っていた。
1時を過ぎたのでセキュリティーを受けて空港の内部に入った。ここからはもうタバコは吸えない。ほどなく搭乗開始となった。行きに比べるとすいている。私の隣の席は空いていたので、ゆったりと座ることができた。しかしそれにしても約14時間である。時計の短い針が1周してさらに少し経たないと成田に着かない。私は睡眠導入剤を飲んで寝ていくことにした。疲れているせいか、1時間おきに目を覚ます。ようやく成田に着く頃には飛行機はもう、うんざりだった。日本に着くと、ニューヨークに着いたときと同じように蒸し暑く感じた。成田から家までが遠い。上野までスカイライナーで行き、そこからホームライナーに乗った。家に着いたのは8時くらいだった。
実はその後何日か、時差ぼけなのか、興奮が冷めやらないのか寝付けなくて、夜ずっと起きていた。ようやくこのごろになって、余韻が薄れてきたところだ。しかしその想い出が薄れてくると、再びまたどこかに行ってみたいと、漂泊の想いが胸にこみ上げてくるのである。
42ND STREET (生後759日)
2004,9,20
私は結婚してからミュージカルを見る機会が増えた。妻が好きなので、付き合いで見ることが多くなったからである。しかし私は見に行くことが嫌ではない。なぜならそもそも演劇が好きなのである。学生時代以来、池袋のパルコ劇場でチェーホフを見たり、鈴木忠志の劇団を見たり、新宿梁山泊を見たりして楽しんでいた。ミュージカルは劇団四季のものを見ることが圧倒的に多い。今まで一番感動したのはライオンキングである。もちろんニューヨークでも元々の作品が演じられていた。今回42ND SREETを見ることにしたのは、マンマミーアやオペラ座の怪人など日本ですでに見たものをのぞいて、有名なものを選んだというわけだ。
ヒルトンからタイムズスクエアー間では徒歩で5分くらいである。このあたりには劇場が密集しており、俗に言うブロードウェイとはこのあたりである。母が昔80年代か90年代にニューヨークでミュージカルを見たことがあったそうである。話を聞くと、当時のタイムズスクエアーは何となく殺伐として怖かったとのことである。確かに観光ガイドブックなどを見ると、10年くらい前は治安が悪く、麻薬の密売人や売春婦などが路上にたむろしていたのだそうだ。今は大変安全である。おそらく渋谷などの方が危険なのではないか。共和党大会のためもあるのかもしれないが、警官やセキュリティーの人々が多く見受けられた。
劇場の中に入り、日本語ガイドのラジオを受け取って自分の席に向かう。係員に聞いてみるとなんと前から3列目の席である。舞台の前に沈んでいるオーケストラが、背伸びをすれば見えるほどだった。こんな前の席は当然高い。切符には101$と書かれていた。だいたい1万1千円である。ミュージカルはリピーターが多いので安い席から埋まっていくのは日本もブロードウェイも同じだろう。私の隣にはおばあさんとその孫らしき白人が座っていた。若い女性はやや退屈なのか、劇の途中にもかかわらず、携帯のメールを打っていた。四季の舞台ほどではないが全体に中年の女性が多かった。もちろん日本人観光客もぽつぽついた。
舞台が始まった。内容はブロードウェイにきた田舎娘が成功していく舞台裏を描いたものだ。主役を張っていたベテラン女優がけがをして、その座を奪っていく話である。それにプラスして脇役がギャグを言ったり、恋愛があったりする。しかしこの舞台のもっとも注目されるのはタップダンスである。主役の若い女性はタップがうまかった。みんなが勢揃いで踊る場面も迫力があった。また、素早く着替える場面も見事だった。舞台装置もさすがブロードウェイと思わせる立派なものだった。
途中15分くらい休憩があった。すると日本と同じように、劇場の外に出てタバコを吸う人たちがいた。私もちょっと出て吸った。また劇場内が乾燥していて、のどが渇いたので、4$の水を買った。
後半もタップの踊りは見事だった。あっという間に上演時間の2時間半が終わった。最後はスタンディングオベーションで役者たちを讃えた。しかしそれ以上のカーテンコールはなかった。終わりは案外あっさりしたものだった。全体としてやはりよくできていると思ったし、役者もよく訓練されていると感じた。また女性の役者はみんな美人で、少しどきどきした。英語がもう少しわかれば細かいギャグなどがわかったと思うが、それは仕方ないだろう。踊りや歌は十分堪能できた。ただ、日本の劇団四季も十分い対抗できる力を持っているとも感じた。
私は日本語ガイドを返して劇場を出て、地下鉄に乗った。ホテルに戻ったのは11時くらいだった。
チャイナタウン (生後758日)
2004,9,19
またニューヨークの話に戻りたい。
コロンビア大学周辺を散策し、地下鉄に乗ってホテルに戻った。小1時間ほど、備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーを入れて飲みながら休んだ後、再びロウアー・マンハッタンへと向かった。まずチャイナタウン(画像)。ここはマンハッタンで一番物価が安いようだ。様々な店が所狭しと建ち並ぶ。観光客だけでなく、ニューヨーカーもここを訪れているようだ。ただ、ブランド物などの偽物が売られていることも多いという。
続いてリトル・イタリー。かつては多くのイタリア移民が住んでいた地区なのだが、チャイナタウンなどの拡張に押されて、今やせまい一角を占めるのみとなった。イタリア料理店が建ち並んでいた。
さらにソーホーへと向かう。ここは前衛的な服を売るショップやギャラリーなどが多い地区で、文化的な香りが漂う。私の好きなヨージ・ヤマモトのショップもあった。パリにもヨージの店があったのを思い出す。
こうしてぶらぶらしているうちにだんだん日が西に傾いてきた。そろそろ夜のミュージカルの場所へ移動する必要が出てきた。その前に1回ヒルトンに戻ってパソコンを借り、妻にメールをして、近くのラーメン屋に足を向けた。そこでチャーハンとシュウマイを食べた。チップを入れて1400円くらいだった。
選手会のストを支持します。(生後757日)
2004,9,18
プロ野球でスト突入が決まった。今日から3連休で、プロ野球もかき入れ時だというにもかかわらず、経営者と選手会の意見が折り合わなかった。今日試合が行われる各球場は不気味な静けさに包まれていることだろう。
思うに今回の騒動の責任のほぼ100%の責任は経営者側にある。読売の渡辺前オーナーと西武の堤オーナーがもくろむプロ野球1リーグ制構想が、昨日の段階でも見え隠れする。経営者側が1リーグにこだわらなければ、ライブドアや楽天の参入に門戸を開くことに躊躇しないだろう。かつて球団経営をしていた坂井氏によれば、新球団の承認立ち上げに長くても2ヶ月あれば十分だという。経営がうまくいかなければ新しい血を入れて新陳代謝をしていくことが、国民の財産であるプロ野球を守ることにつながると考える。
さらにプロ野球の構造改革も必要だ。私は、2リーグ制を維持し、交流戦を行い、ドラフトは下位球団から優先的に指名できる完全ウエーバー制にするべきと考えている。またテレビの放映権料はリーグが一括して管理し各球団に平等に分配されるべきだろう。また、チーム名から企業名をはずし、都市名を球団名にすることを義務づけるべきだ。これらの改革は絵に描いた餅と言われるかもしれないが、やろうとしてできないことはない。
しかしIT企業は金を持っている。楽天はJリーグの神戸も所有している。この2社は私がパソコンを持ってから急速に私の生活に強く関わってきている。ここ3年くらい楽天を通して物を買うことが増えた。また、このホームページの掲示板を運営していた会社は、いつの間にかライブドアグループに入っていた。
私はストを支持する。それは合理的な理由だけでなく、私の反骨精神を刺激したからに他ならない。私も雇われる身だ。でもストなんかできようもない。組合にも入っていない。常日頃、何となく上から言われたことに、面従腹背するような気分なのだ。表だって反発することがいかに勇気があることか、昨晩フジテレビの番組で涙を流していた古田選手の姿を見ればよくわかる。つまり、現代社会の中で、日々ベルトコンベアーにのせられて、嫌なことを嫌とも言えずに、家族のために我慢しながら、はいはいと服従している全国の多くのサラリーマンの、ある種の願望が叶えられたのが今回のストなのである。
後は経営者側が発想を大胆に変えて、1リーグ制を捨て、上記のような新たなグランドデザインを作り上げて、選手会と妥協する以外、この混乱を収拾する道はないだろう。
画像はヤンキースタジアムでの松井選手。
ムーンパレス (生後756日)
2004,9,17
メトロポリタンを出て、再びセントラルパークを横切り、地下鉄の駅に着いた。ここからモーニングサイド・ハイツに向かうことにした。そこには別段観光スポットはないのだが、コロンビア大学がある。
私が以前読んだ小説に「ムーンパレス」というのがある。作者はアメリカの小説家、ポール・オースターである。実は「ムーンパレス」とは、コロンビア大学のそばにあった中華料理屋のことなのだ。残念ながら現在「ムーンパレス」はなくなってしまったそうである。
オースター自身もコロンビア大学出身だ。この小説は自伝的な感じだが、物語性もある。父母と死別した主人公が、唯一の身寄りである伯父もなくし、絶望のあまり人生を放棄する。友人に助けられた主人公はやがて美しく聡明な中国人キティー・ウーと出会い、奇妙な老人の家で住み込みで働くようになり、太った歴史学者と知り合いになる。文体はキッチュで、日本の作家で言えば村上春樹といえるだろう。すごく感動したわけではないが、今のアメリカ文学の象徴的な作品だといえるし、それは世界の文学の潮流でもあると思う。この作品は1989年に書かれているのだが、日本では村上春樹が爆発的に売れていた時期でもあるのだ。
私はコロンビア大学前の駅で降り、1万人も収容できるというセント・ジョン・デバイン大聖堂(現在修復中)をちらと横目で見ながら、さらに進んで、大学構内に侵入した。あたりは学生が多く、私の出たW大の門前の風景を彷彿とさせた。確かに中国系と思われる女性を何人か見かけた。構内はなんと言うことはない。上半身裸の男子大学生が芝生に寝ころんで本を読んでいたり、フリスビーで遊んでいるものもいた。どこも変わらぬ光景である。私はぶらぶらと構内を歩いて、しばらくして大学を後にした。そして、南北戦争の英雄であるグラント将軍の墓(博物館も兼ねている)を、中に入らずに見た。観光客はほとんどいなくて、その前のスペースでは黒人の少年がスケボーに興じていた。
私は地下鉄に乗っていったんホテルに戻ることにした。
画像はコロンビア大学構内。
メトロポリタン・ミューゼアム (生後755日)
2004,9,16
セントラルパークをようやく横切ると、メトロポリタン美術館が姿を現した。大きな垂れ幕が掲げられているのですぐわかった。中に入り、12$払って切符を買うと、青いバッジをもらった。これを付けておけば、当日出入り自由だそうだ。
さらに案内所を見ると日本人のガイドがいた。私は早速行ってどこをどう見ればよいのか聞いてみたところ、懇切丁寧に教えてくれた。メトロポリタンは、広大である。1870年に発足以来拡張に次ぐ拡張で現在に至っている。ここを見学するのには二つの方法があるだろう。1つは、見たいものを絞ってそこをじっくり見て、そのほかのところを捨てる見方。もう一つは一応全てのところに足を運んで流しながら全体を見る見方。私は後者を選んだ。それにしても迷路のようだった。まずわかりやすく、有名なエジプトの展示を見た。ここにはデンドゥール神殿が飾られていた。紀元前15年頃のものだという。ここで私は記念撮影をした。シャッターを押して欲しくて頼んだ東洋人は台湾からの観光客の青年だった。とても親切な人だった。
思えば私が17年前にヨーロッパを1ヶ月弱歩いたときに、東洋系の観光客はまず日本人だった。しかし、昨年パリに、そして今年ニューヨークに行って、東洋系の観光客の姿を見ると、日本人ばかりでなく、韓国、中国、台湾の人たちに多く出会った。これはそれらの国が経済的に強くなってきたとことを如実に表しているのだと思う。
エジプトの次に、古代ギリシャ、ローマの展示を見て、その後近代ヨーロッパ絵画を見た。マネ、モネ、ルノワール、ピカソなどおなじみの顔ぶれだ。その他、アジア諸国の展示も見た。もちろん日本展も見たが、客は誰一人いなかった。何しろ見つかりにくいところにある。日本展にたどり着くまでどれほど苦労をしたか。まるで迷路だった。
途中、昨晩野球を一緒に見た日本人の女性のグループに会った。日本人ガイドのことを教えた。
また、メトロポリタンの屋上にちょっとした庭園がある。そこは「ルーフ」と呼ばれていた。ガイドさんに勧められたので行ってみると、とても見晴らしがよく、セントラルパークやマンハッタンの摩天楼が一望できた(画像)。そして、喫煙コーナーが設けられていた。私はここを2回訪れて、タバコを吸った。
旅行前、アメリカは喫煙に対して厳しいところだと聞かされていて、吸えないことを覚悟していたのだが、案外困ることはなかった。確かにレストランなどでは喫煙できないが、路上や公園ではまだ許されている(ただし、今後禁止される可能性があるのだと現地の日本人が言っていた)。現地のスモーキング・ニューヨーカーも場所を見つけてすっていた。ここ、メトロポリタンのルーフでも、係員が来てタバコを吸っていた。一言付け加えれば、アメリカではタバコは大変高価である。日本円で7〜800円する。
メトロポリタンの地下のカフェテリアで8$のパスタのランチを取って、私はここを後にすることにした。ちょうど12時半頃だったと思う。
セントラルパーク (生後754日)
2004,9,15
今日は初秋のすがすがしい1日だった。乾燥して雲一つない青空が顔を出した。
実はニューヨーク滞在3日目にして、やっと乾いた今日のさいたま地方のような日和となった。この日は夜にミュージカルをブロードウェイで見る以外は予定がなかったので、ホテルから歩いて300mのセントラルパークを散歩しながら、メトロポリタン美術館を見てみようと考えた。
朝8時頃に目を覚ますと、ホテルからすぐにあるスターバックスに行って、カフェラテとサンドイッチを買い、またホテルに戻ってそれを食べた。ニューヨークにはスターバックスがいたるところにある。これなら慣れているので、私は短い滞在中に4回くらい使った。
ナップサックをしょってセントラルパークに行くと、早速有名スポーツウエアー会社の商品を身にまとったニューヨーカーが、時計を見ながらジョギングコースを走っている。しかもかなりのスピードだ。歩いている私を次々と追い越していく。女性が8割方で、白人が多い。どうやらこのあたりの高級アパートに住んでいるリッチな連中らしい。ジョン・レノンが住んでいたという高級アパートのダコタ・ハウスもそう遠くない位置にある。彼らは貯水池の周りを走っている。この池は「ジャクリーン・ケネディー・オナシス・レザボア」と名付けられている。もうこの世にいない彼女がよくマラソンをしていたのだそうだ。
当然犬も数多かった。中には数頭の犬を引いている人もいた。このあたりのアパートでは犬を飼ってのよいらしいのだ。そういえば「ニューヨークの恋人」で、メグ・ライアンの元彼氏の青年がアパートで犬を飼っていた。レドリバー系の犬が多かったように感じる。
さて、オナシス池に沿って歩き続けたが、行けども行けどもメトロポリタンが見えてこない。途中、飼い主に内緒でこっそり犬の写真や、公園内にいるリスをデジカメで撮らせてもらったりしながら歩き続けた。
後でメトロポリタンを見た後再びセントラルパークを横切ったときに、警官たちが馬を引き連れているのを見たり、出店が立ってジュースやアイスクリームを売っていたのを見た。オナシス池とは別の小さな池ではボートを浮かべている人たちもいた。絵を描いている人たちもいた。
何となく、滑川町の森林公園に似ていないでもない。ただ森林公園の方が広いし有料だ。セントラルパークは、マンハッタンのど真ん中にある都会のオアシスである。実はこの公園100%人造である。1857年にデザインコンペで優勝した二人の建築家のアイデアに沿って、荒れ果てた土地に土を運び、水道管や下水管を埋め込み、50万本以上の木々を植えた。マンハッタンは強固な岩盤に覆われている。だからあんな摩天楼を多く建てることができるのだ。
そろそろ歩き疲れた頃、美術館が姿を現した。
画像はセントラルパークでの一コマ。
ヤンキース記録的大敗を目撃(生後753日)
2004,9,14
今日は33℃を超え真夏を思わせる暑さとなった。
さて話は戻ってニューヨーク紀行だが、今日はヤンキースタジアムに松井選手を見に行ったことを書きたい。
ホテルからまたヒルトンに戻って17時半過ぎにバスでスタジアムに向かった。その前に私はナップサックが持ち込めないということを知らされ、荷物を業者に預けた。結局試合後に一度ヒルトンまでもどらざろう得なくなってしまった。バスはハーレムを通って橋を渡り、ブロンクスに向かう。渋滞して予定よりずいぶん到着が遅れた。球場周辺は大混雑である。ガイドの後を追ってスタジアムに入場した。ただ、雰囲気は日本の野球場とさして代わりはなかった。中にはいるとちょうど試合前のアメリカ国歌が演奏されていた。私の席はチケットに記載されているところに寄ると40$である。だいたい4千4百円と言ったところか。場所はライト側の外野席に近い1階席である。ホームベースはかなり遠い。この席なら西武ドームなら1600円である。さすが人気球団ヤンキースの試合はチケットも高いと感じた。もちろん私はツアーなのでさらにバス代やガイドの料金も払っているのでもっと高かったわけである。
私の席からちょうど55番の背番号がよく見えた。松井も海を渡ってこんなところで孤独に戦っているのだなあと思うと感激した。隣の日本からのツアーに参加した女性たちが、「MATUI」と書かれた大きな紙を、松井が打席に入るたびに掲げていた。テレビには映らなかったみたいであるが。
さて、試合の方は実は一方的に相手のクリーブランド・インディアンスが打ちまくった。ヤンキースの繰り出す投手陣はことごとく打たれたのである。一方松井は1本2塁打を打ったがその後走塁ミスでアウトになり、早々と5回で交代してしまった。楽しみが半減してしまったが、ジーターとかシェフィールドとか、アレックス・ロドリゲスといった選手はもう少し打席に入った。しかしどんどん点差がついていく。私は途中ホットドッグとコーラを買って食べた。ピーナッツを売る物売りが皆男性ばかりで大変うるさかった。日本では女の子のバイトが売ることが多いので意外だった。
あと、よく言われるのだがグラウンドと客席の壁が低い。ファールボールがものすごい勢いで飛んでくる。また、ファールボールを取ろうとする人たちを見ているのがおもしろい。日本ではファールが来ると笛を鳴らして警告したり、場内アナウンスが流れたりするのだが、そういうことはなかった。自己責任ということなのだろう。私は少し球場内を歩き回ってみた。ちょうど7回で、「ゴッド・ブレス・アメリカ」が流されてみな立ち上がっていた。内野の近くまで行ってみると、緑の芝生が美しい。また、回と回の間にはちょっとしたクイズが行われて、人々を楽しませていた。
しかし大差がつくと帰ってしまうのはヤンキースファンとて同じのようだ。どんどん客が帰っていく。我々はツアーなので最後までいる約束になっている。一部の日本人客は憤懣やる方なさそうにしていた。またヤンキースファンは9回に6点を入れられたときには、やけっぱちなのか、脱帽ということなのか、敵にスタンディングオベーションを送っていた。
結局終わってみれば、なんと22対0。私はこの記録的な大敗のスコアボードをデジカメに納めた(画像)。後で聞いてみるとこの点差か、または失点が、ヤンキースのチーム記録だったそうである。
地下鉄で帰路につき、ホテルに戻るとニュースで今日の試合をやっていた。キャスターが首をひねっている様子がよくわかった。ちなみにニューヨークでは、スポーツは主にニューヨークのチームのことばかり扱う。みな地方局ばかりで、全国ネットの番組はあまりないようだ。
ちょうど8月27日に西武がダイエーに20対6で負けた試合を西武ドームに見に行ったばかりだったので、私が行くと何でこうなるのと、不思議な気持ちになった。近くの雑貨店でマフィンとソーダ水を買って食べた後、シャワーを浴びて眠りについた。
裁判を傍聴 (生後752日)
2004,9,13
今日は休みを取って午前中は病院に。午後は裁判所に行って裁判を傍聴しに行った。
私にとって裁判所は生まれて初めての経験である。なぜ裁判所を見学しようかと思ったのかであるが、一つは向学のため。もう一つは好奇心からであった。さいたま地方裁判所に着いたのは午後12時半過ぎ。案内所の方に事情を話すと、自由に見ていってくれという。公開裁判なのだから、何の制約も、手続きもいらないという。確かに荷物検査さえしなかった。アメリカで厳しいセキュリティーチェックを経験した私は、少し拍子抜けした。逆にもう少し警備を厳しくしてもよいのではないかと思ったくらいだ。何の裁判を見ようかと考えていると、その案内の男性が、整理券が必要な裁判が一つだけ行われるという。それは社会的に関心が持たれている裁判で、傍聴者が多いと予想されるのだという。早速その裁判の傍聴券を求めて並んだが、定員の20名に満たない人数しか並ばず、簡単に傍聴券を手にすることができた。
法廷に入ると案外狭く感じた。しばらくして全員起立して裁判が始まる。その前にテレビの撮影があった。新聞記者も各社訪れていた。記者は男女いて皆若い。私から見て左手にいた若い美人の女性が、実は検事であるとすぐにわかった。右手側には弁護士が二人。程なく被告人が入廷してきた。二人とも巨漢で坊主頭であった。警察官がそれぞれに二人ずつ付き、腰縄に手錠をかけられていたが、裁判が始まるとはずされた。詐欺と死体遺棄容疑だという。実は主犯が別にいて、この若い二人の男性はその手伝いをした罪に問われたのである。どちらかの被告の母親と思われる女性が泣き出した。裁判官が静かにするように係員を使って指示をした。このあと約1時間裁判が続いた。若い美人の検察官が冒頭陳述を行い、事件の概要と証拠書類を裁判官に指し示した。これが実にくどくどと長く、しかも早口で声が小さい。こうでもしないと時間内に終わらないのか、それとも関係者はすでに文書でこれらのことを事前に知らされていたのかはわからないが、ともかく儀式的な感が否めなかった。その中では被害者の家族が、犯人に極刑を望むということを、検察はアピールしていた。
今日はどうやらここまでで、次回の審理で被告自らの証人尋問と、被告の母親たちの尋問が行われることが決まった。情状酌量のためのようだ。検察側は被害者の奥さんを証人として出廷させるということが決まって、後はその日時が定められた。日時は弁護士たちの都合で決められた。
裁判官は終始被告人たちに暖かい構えで接していた。黙秘権のことなどを優しく語りかけていた。
さてこの裁判が終わり、次に何を見ようかとうろうろしているうちにまたこの法廷に戻ると、先ほどの美人検察官と穏やかな裁判官が別の事件の審理をしていた。後で先ほどの案内の方に聞くと、ベルトコンベアーのように次々と裁判が行われていくのだという。こうした状況は東京地方裁判所ではもっと著しいのだという。ちなみにこの裁判は交通事故で人を死なせてしまった件であった。
さて私は民事裁判も見に行った。傍聴者など誰一人いない。私が入っていったらみんなの注目を浴びてしまった。この法廷では丁々発止議論がなされていた。ただ、裁判官は眠そうに見えた。ここも5分くらいで出た後、判決が言い渡される法廷に行ってみた。ちなみに法廷は10個くらいはあった。少年事件のものや簡易裁判所のものを加えるともう少し多いのだろう。判決が若い男に言い渡されていた。懲役10ヶ月の実刑である。その男の家族が3人見守っていた。それ以外の傍聴者は私一人である。司法修習生が法廷の中で勉強をしていたのも目についた。ここでも先ほどの裁判官とは別の裁判官が被告に優しく語りかけていた。
私は3時を回ったので帰ることにした。途中暑かったので160円のコーヒーショップに立ち寄ってのどを潤した。
初めての裁判所経験はなかなかよいものだった。今の社会の縮図のようなものがかいま見れる。一つだけ希望することがあるとすれば、日の丸を法廷に掲げて欲しかった。なぜなら人が人を裁くとき、なにがしかの共通した権威があってもよいと思ったからである。後ろに何もないとき、裁判官は神にでもなってしまうか、または裸の王様として喜劇役者のように見られてしまうかもしれないからだ。
皆さんも一度裁判所を訪れてみてはいかがでしょうか。
画像は2年前の今頃父に抱かれるカン。
9.12 (生後751日)
2004,9,12
9.11ならぬ9.12とは私たちファミリーにとって実は大切な日であった。というのは、病魔に倒れている私の父の誕生日であり、元気で今年古希を迎える私の義父、すなわち妻の父の誕生日でもあるのだ。この偶然の一致は、結婚するまで知らなかった。
ということで今日、私は父の見舞いに静岡まで日帰りの旅に出た。よく晴れた初秋の好日だったが、静岡に着くと少し蒸し暑い。まだまだ南国静岡は暑いなあと思いながら、母の車でとりあえず実家に行き、昼食を食べてから父の入院している病院に行った。
父の姿は相変わらずであった。ぼけたような感じである。私は父を刺激するためにニューヨークで買ってきた5$の犬のぬいぐるみを差し出した。すると気に入ってくれたようで、私が滞在した1時間あまり、そのぬいぐるみをずっと手放さなかった。父に、誕生日であることを告げると、うれしそうににやっと笑った(ように見える)。そして父がもう一つ笑った場面があった。私がニューヨークツアーでもらった、ヤンキース松井のTシャツを見せたときだった。わずかに動く左手で私が着ていたユニホームのようなTシャツを文字に沿ってなぞった。
父は無類の犬好きであると同時に、無類の野球好きでもあったのだ。私はカンが来る前によく西武ドームに父と連れ立っていくことが多かった。日本シリーズのヤクルト戦も一緒に見に行ったこともある。だからヤンキースのユニホームTシャツにこれだけ反応したのだろう。ストライキのことも母から聞いて知っているだろうが、どれだけ理解しているかはわからない。
私は小1時間病院にいた後、帰路についた。隣に座っていた20歳そこそこの男性二人組が私に聞いてきた。「この列車新横浜に停まります?」私は「いやいやこの列車は品川まで行ってしまいますよ。」と答えると、彼らは「やべ〜。」と言い、品川駅で降りていった。その際彼らは私に「どうもありがとうございました。」とちゃんと礼を言った。今時の若い人は礼儀正しいものだと感心した。
帰宅してしばらくしてカンの散歩に出かけた。今年の9.12はこうして過ぎていった。
画像は2年前に父がブリーダーさんのところにカンに会いに行ったときの画像。
華氏911 (生後750日)
2004,9,11
今日で9.11テロ事件から3年が経過した日となった。私も現場のニューヨークに行って、ツインタワーの崩壊現場に足を運んだので、その悲劇を身をもって少しだけ感じることができた。ニューヨークでは24人の日本人が亡くなり、飛行機の中にも日本人がいたとのことである。テレビを見ていたら、アメリカの郊外に墜落した飛行機は、乗客が落としたのではなく、米軍の戦闘機が落としたという可能性が強いのだという。確かに都市部やホワイトハウスに落ちるよりは、田舎に落としておいた方が2次被害は少なくてよりベターな選択だと思う。ただ、その事実は明らかにするべきだと思うのだ。
映画「華氏911」を先日見た。マイケル・ムーア監督の作品である。このテロが戦争へ導き、そしてアフガンとイラクの戦争によって一番利益があるものがブッシュ氏一族だという。推理小説の殺人事件では、被害者の死によってもっとも利益を受ける人を探すのが常套手段である。そういった視点から作られたのがこの映画のポイントである。
この映画は、2ヶ月先に行われる大統領選挙で、民主党のケリー候補を勝たせ、ブッシュ氏を落選させるために作られたプロパガンダ映画である。だから、ブッシュ氏について都合の悪い事実をコラージュして、全体として一つの物語を構成している。この映画で描かれたことが事実かどうかはわからない。ただありそうな話だと思う。
ただこの映画はともかく、アメリカ人たちはブッシュ氏を大統領に選ぶだろうことはかなりの確率で予想できるのである。
画像はマンハッタン南部の海から見たマンハッタン島。
マディソン・スクエアー・ガーデン(生後749日)
2004,9,10
グランド・ゼロを出た私たちはサウス・ストリート・シーポートで昼食を取ることとなった。私は半日観光だったので、ここが終点ということになった。中華のプレートランチの5$のものを食べたが、ちょうどよい分量だった。こういうランチはチップがいらないので気が楽である。アメリカも早くチップという制度を廃止してもらいたいものである。ヨーロッパでは、特に昨年旅行したパリでは、しっかりしたウエイターがいる店でも、チップ込みの値段であった。サウス・ストリート・シーポートでは、平日にもかかわらずイベントが行われていた。ブルースのバンドが演奏していたり、ちょうど行われていた(今現在もニューヨークで行われている)USオープンテニスにあやかって、サーブの速さを測るマシーンが用意され、いろいろな人種・民族の人々が挑戦していた。
さて食事をした後、近くのウォールストリートを目指して歩いているうちに再びグランド・ゼロに来てしまった。でもなんとかウォール・ストリートにたどり着いて、世界の金融街だと感心したかったのだが、単なるビルの建ち並ぶ、なんてことのない通りだった。続いて今夜の野球に備えていったんホテルに戻るつもりだったが、例の共和党大会の行われているマディソン・スクエアー・ガーデンを一度見ておきたくなった。そこで地下鉄に乗って28stで降りて、マディソン・スクエアー・ガーデンのあるペン・ステーションの駅まで歩いてみることにした。旅行社からは近づくなとの指令が出ていた。トラブルを避けるためである。
マディソン・スクエアー・ガーデンは多目的の大きな体育館のようなもので、日本でいえば武道館やさいたまスーパーアリーナのようなものだと考えればよいだろう。男女のプロバスケットや、プロレス、種種の団体の大会などが行われる。しかし私にとってこの名前は、中学時代に大いにはやった手提げバッグのことなのである。あのころ皆、マディソン・スクエアー・ガーデンのバッグと学生鞄を細くつぶして学校に持って行っていた。私も、そのバッグを持っていたのである。しかしなぜあのバッグがあんなにはやっていたのかは、今もってわからない。適当なサイズだったからだろうか。またデザインがよかったからだろうか。
ペン・ステーションの駅の周辺はさすがに厳戒態勢だった。だが、警官たちは雑談に興じたりタバコを吹かしたりして、なんだか牧歌的に見えた。私はかのマディソン・スクエアー・ガーデンを見たところで、ペンステーションの駅から地下鉄に乗りホテルに戻った。
さて、今年11月に行われる大統領選挙であるが、世界の国々は民主党のケリー候補にかって欲しいと願っているようだが、アメリカ国内での雰囲気はやはり共和党ブッシュの再選が堅いと感じた。もちろんニューヨークではケリー候補が勝つだろうが、アメリカ全体ではメディアなどの論調からいってブッシュ支持的な感じがする。これから何もなく順調ならばブッシュ氏が「4 more years!」となるであろう。
グランド・ゼロ (生後748日)
2004,9,9
カンの後ろの右足に赤い腫れ物ができた。今日気がついたのだが、ちょっとひどく見えたので動物病院に連れて行った。今日連れて行ったところは綿密に見てくれる。病理検査をした結果、アレルギー性の腫れ物だそうだ。そして傷口にはマラセチア菌が見られたという。そこで、塗り薬と抗生物質をもらってきた。また、のみやダニが最近多いということを話したところ、フロントラインを紹介され、3ヶ月分も買った。併せて8500円である。カンもなかなかお金がかかるものである。
さて、ニューヨーク紀行の続きだが、自由の女神を後にした観光ツアーは次に「グランド・ゼロ」に向かった。例の9.11テロ事件で貿易センタービル(ツインタワー)が崩落したところである。今は当時の瓦礫も撤去され、新しい超高層ビルを建てるための準備がなされている。また、周辺のビルも、事件で被害にあったのだろう。修復作業が続けられていた。この場所は観光客が日本人のみならずきていたようだった。また、黒い小さな丸い帽子をかぶった黒服の男がいた。ニューヨークにはこの帽子をかぶった人を時折目にする。彼らはユダヤ人なのである。実はこの貿易センタービルの近くはマンハッタンの南部に位置し、ウォール街も近くにある金融・経済地区なのだ。そしてユダヤ人の居住地でもある。
よく世界の経済を裏で牛耳っているのはユダヤ人であると聞くことがある。この場所を支配しているのがユダヤ人であるならば、そんな気がしないでもない。一説には、ツインタワーはユダヤ人が建てたビルであり、イスラム過激派はそれを知っていてここを狙ったと噂されているのだ。ただ、日本人のサラリーマンもこの場所で犠牲になっている。世界中の人々が犠牲になった場所なのだから、決してユダヤ人ばかりのためのビルではなかったともいえる。ガイドさんはよく手を合わせて欲しいと言っていた。そして9.11がニューヨークに住む人にとってどんな意味があるかを話していた。一時観光客も減り、景気も落ちたニューヨークは、今ではだいぶん回復し、9.11以前より消費も増えているのだそうだ。ただ、ニューヨ−クに住む人にとって、あのときどうしていたのかはよく覚えているらしい。
後2日でまた9.11(セプテンバー・イレブンまたはナインイレブンと現地では言っていた)を迎える。
自由の女神 (生後747日)
2004,9,8
台風一過の青空。ただし気温が上昇して、真夏を思わせる1日だった。
最近カンがよく悲鳴のような声を上げる。昨日は2階に上げてゲージに入れると、嫌なのか、それとも台風の風が怖いのか悲鳴のような声を上げた。今日も散歩に行く途中にそんな声を上げた。また、食欲が落ちてドッグフードを食べない。仕方がないので妻がご飯に肉を混ぜたり、パンをあげたりしている。
さて、ニューヨーク紀行に戻るが、エンパイアー・ステーツ・ビルを後にしてマンハッタンの南部の港に行き、そこから船に乗って自由の女神を見学した。この船に乗るのにまた大変なセキュリティー・チェックがあった。そして、私が行った頃は、自由の女神のある島に行くことができるが、女神の置かれた台座の中には、予約がなければ入れない状態だった。
船に乗ってしばらくすると、フランスから送られたという自由の女神が少しずつ大きく見えてきた。すると私はなにやら少し興奮してきた。まさにこの像こそアメリカを象徴しているのだという、ある種宗教的な興奮だった。だからこそここをねらうテロリストを警戒しているのだろう。
島に着いて自由の女神を一周して記念撮影をした後、女神のプリントされたTシャツをおみやげに一つ買った。それから程なく船はこの島を発った。
次に着いたのはエリス島という、かつて移民局が置かれていた島である。実際にここが使われていたのは1950年代までで、今は博物館として移民の歴史を残している。
ニューヨークはその移民の歴史を如実に示している。私が見た限り、特に地下鉄などはマイノリティーとされる人種の方が圧倒的に多かった。日本人に似た人たちもいたが、韓国系、中国系、日系など区別がつかない。ヒスパニックも多かった。私の泊まったホテルのそばの雑貨店の主人はヒスパニックだった。またユダヤ人も多いらしいが、白人と区別がつかない。しかし、こうした人種のるつぼ状態こそが、今やアメリカのパワーの源である。新しい知恵、技術、思想、芸術がもたらされ、新しいビジネスが生み出される。
ところが9.11以来、そうした自由な往来が急速に制限されているようだ。ビザの発給が滞っているそうである。こうした状態はアメリカのパワーを、アメリカ自らがそいでしまっていることになるだろう。自由の女神こそがアメリカの象徴ならば、その原理に従ってやっていってほしいものだと、他国のことながら思うのである。
エンパイアー・ステーツ・ビル(生後746日)
2004,9,7
時間がたつにつれ風が強まってきた。台風18号の接近によるものである。今夜から明日にかけても強風が吹き荒れる予想なので、今晩はカンを室内で寝かせようかと考えている。
さて、ニューヨーク編の続きだが、翌朝目を覚ますとすでに7時半だった。ニューヨーク半日観光ツアーは8時15分出発である。私はミニリュックをつかんであわてて集合場所であるヒルトンに向かった。ヒルトンでは40人くらいの日本人がすでに厳戒態勢のヒルトン前に待っていた。そして道路沿いでは、反ブッシュ勢力が15人ほどなにやら抗議の叫びをあげている。そこにテレビカメラが何台かきていてそれを撮影していた。この夜テレビを見ていたら、お金をばらまく彼らの姿が映っていた。その場にいた日本人の中年の男性が「テレビ向けにやってる感じがするね。」といっていたのが印象に残る。
さて観光バスに乗り込んでまず最初に向かったのが、エンパイアー・ステーツ・ビルである。貿易センタービルが倒壊してからはこのビルがニューヨークの最も高いビルとして残った。世界恐慌の最中の1931年にこの高いビルをニューヨークの名物にしようと建てたのだが、テナントが入らなくて、当初空っぽだったところから、エンプティー・ステーツ・ビルと陰口をたたかれたという。夜景やイルミネーションが有名で、夜の方が人気が高いという。
このビルを登るのに大変なセキュリティーがかけられていた。荷物をx線にかけられ、人間は金属探知器をくぐった。そして長いエレベーターに乗った。屋上展望台は大変な風だった。まるで今日の日本列島を思わせるようだった。しかしマンハッタン島と摩天楼が一望でき、クイーンズやブルックリン、ニュージャージーが一望できたのである。次に向かう自由の女神が小さく望むことができた。
レノックス・ラウンジ (生後745日)
2004,9,6
台風接近のためか、高温で湿度が高い1日が今日も続いた。夕方のカンの散歩は湿度と汗で水の中を歩いているような気がした。
さて、シルビアズ・レストランを後にして、次にジャズを聴くために「レノックス・ラウンジ」という店に移ることとなった。(画像)近いので徒歩で移動した。ハーレムの道はゴミが散乱して汚かった。
私は普段ジャズなどほとんど聴かない。スタンダードが集められたCDが5枚くらいあるだけである。中には「オータム・イン・ニューヨーク」や「マイ・ファニー・バレンタイン」が収録されていて有名なものだけは多少知っている。こういうスタンダードはニューヨークにある「ブルー・ノート」という店ではやるのだそうだ。しかし今回訪れたレノックス・ラウンジという店で演奏してくれたパティエンス・ヒギンズ&ザ・シュガーヒル・カルテッドというバンドは自らの曲を演奏してくれた。またアドリブというか即興の演奏も披露してくれた。
神経質そうなサックス奏者がリーダーで、ピアノの人が白人である以外は皆黒人だった。また年齢も中年過ぎで髪には白いものが混じっていた人が多かった。彼らはTシャツをきていてラフな感じな人やスーツを羽織っているなどバラバラな服装で、演奏が始まるまでは、座席に座って酒を飲んだり、雑談していたり、演奏者と客の区別がつかなかった。客は私たちがきた8時過ぎには私たち以外には1人しかおらず、次第に増えてきて、それでも10人を少し上回ったくらいだった。ステージというものがなく同じフロアで演奏され、私からは2mくらいの距離しかないところで演奏が行われた。始まる前に太った黒人の気の良さそうなドラマーが寄ってきて、私たちが日本人だとわかると、「ロッポンギ」「シブヤ」「ケイオウプラザホテル」などと知っている地名をあげて、君たちはどこから来たんだと聞いてきた。彼らはどうも日本に営業で演奏しにきたことがあるようだった。
演奏は確かにうまかった。このドラマーの腕も確かだった。リーダーが共和党大会を批判的に話している場面があったようだった。
この店ではかつてビリー・ホリデーが歌っていたことがあるようだ。彼女は「奇妙な果実」という、木につるされた黒人の死体のことを歌い、差別を告発した黒人女性シンガーである。この店のホームページにも彼女の顔が出ている。
http://www.lenoxlounge.com/jazz.html
(lenox loungeで検索しても出てくる。)
ただ、アメリカではジャズは今や古典芸能になりつつあるのだそうだ。ハーレムにはこの店を含めて2件しかジャズの店がないという。若い人はラップなどヒップホップに走るのだそうだ。その方がおしゃれだし、儲かるようなのだ。どおりでで演奏者は皆年配であったわけだ。
2時間くらいすると1セッションが終わって、彼らは最後に自分たちのCDの宣伝をした。私たちはそこで店を後にして、ガイドさんに各ホテルまで送ってもらったのである。ホテルに着いたのはちょうど12時頃だった。ジャズマンたちはこれから第2部を演奏したのだったろう。
ソウル・フード (生後744日)
2004,9,5
今日は気温こそあまり上がらなかったが、湿度の高い1日だった。
さて、昨日の続きだが、ニューヨークの街をぶらついてからしばらくしてヒルトンに戻った。夜のハーレム・ジャズツアーに参加するためだ。ロビーには日本人女性2人が待っていた。私を含めて3人とガイドの日本人男性が1人で4人で行動することになった。ガイドの男性はかれこれ15年はニューヨークで暮らしているという。厳しい警戒態勢のミッドタウンを離れてマンハッタン北部のハーレム地区に車は進んだ。ハーレムとは元々オランダの地名だそうだ。ニューヨークはまず最初にオランダ人の手によって植民地にされたのである。だからかつてはニュー・アムステルダムと呼ばれた時期があったのだ。ハーレムは黒人たちが南部から逃れてきて住み着いた街である。またここ何十年かは、ヒスパニック系の人たちが住む地域ができて、この両者が2分して住んでいるという。
マンハッタンの中心部から見ると明らかにハーレムは汚い。翌日のヤンキース戦の時にもここを通ったが、住民はすべて黒人たちであった。公園や学校では子供たちがバスケットボールに興じていた。ゴミの収集車もマンハッタンの中心部に比べて来る回数が少ないという。今でも差別的な待遇がなされているのである。
私たちはまず、夕食を取るためにハーレムの有名な「ソウル・フード」のレストランの「シルビアズ・レストラン」(画像)に行った。かつてクリントン前大統領もここを訪れたことがあるそうである。驚いたのはそのボリューム。魚のカツやチキン。ほうれん草らしきものの煮物。どれもどっさり出てきた。さらに飲み物は非常に甘い。砂糖たっぷりのアイスティーを飲んだ。3人では食べきれなくて、残りをパックに詰めてもらったほどである。「ソウル・フード」とはかつて南部の農場などで暮らしていた黒人たちが作り出した料理である。このボリュームと砂糖をいっぱい使った料理は、過酷な肉体労働をしていたための栄養補給なのか、または食べることしか楽しみのなかった人々の慰めだったのかはよくわからない。ただし、このような料理を毎日食べていれば太るのは当然で、ニューヨークの黒人たちは総じて肥満傾向があった。現地の日本人に聞くと、地方のアメリカの白人たちもそういう傾向があるそうである。今回の旅行を通じて、アメリカの食は肥満を生むということがよくわかった。またニューヨークの各所に「スシ&ヌードル」という店が並んでいたのは、肥満を気にしている人のためなのかとも思った。(続く)
ニューヨーク案内1 (生後743日)
2004,9,4
今日は日中曇り、夜になって雨が降ってきた。蒸し暑い1日だった。今日は1日研修会に参加して、帰宅後久しぶりにカンの散歩に出かけた。
蒸し暑かったのは、ニューヨークのJ・F・ケネディ空港に着いたとき、初めてニューヨークの空気を吸ったときにも感じた。埼玉よりも蒸し暑く感じた。それでも、ロングフライトが嫌いな私にとっては解放された瞬間だった。続いて入国審査。9.11事件以来入国はさらに厳しくなったというが、右手人差し指の指紋を採られた以外は案外スムースに通過することができた。外に出るとJTBの係員がまもなく見つかり、ホテルまで案内してくれた。空港のあるブルックリンの東部から約1時間くらいでマンハッタン島に着く。高級ホテルのヒルトン(JTBの小さなオフィスがある)で何人かの日本人が降りて、私はセントラルパークの西側に位置する「クオリティー・イン・ブロードウェイ」という中級ランクのホテルにチェックインした。部屋は広かったが薄暗い部屋だった。私はタバコの吸える部屋を頼んだのだが、吸える部屋は低い階のあまりよい部屋にしてくれないのだそうだ。そこで私はコーヒーを1杯飲んでくつろいだ後、「地球の歩き方〜ニューヨーク」とパスポートを持っていよいよニューヨークの中心部に行ってみることにした。まず地下鉄の路線を確認し、先ほど通ったヒルトンホテルのJTBを目指すことにした。
地下鉄は案外スムースに乗ることができた。カード式の乗車券で、私は10ドルで6回乗り降りできるカードを購入した。ニューヨークの地下鉄は怖いという先入観があったが、今回の旅行を通して怖く感じたことは一度もなかった。10回以上は乗ったと思うが。
ヒルトンそばの駅に降りて地図を確認しながらホテルに向かう。マンハッタンは京都と同じで碁盤の目上になっていて、通りにはそれぞれ数字で順に名前が付けられているので把握さえすれば簡単に自分がどこにいるかよくわかる。ヒルトンの中にはいるのが大変だった。パスポートを見せていちいち説明しなければならないのだ。なぜならば共和党大会に参加する代表者が宿泊しているからだ。テロの警戒のためである。入り口も1カ所に制限され、警官が周りを取り囲んでいた。
中にはいると、ここのホテルに泊まっているのはペンシルバニアとフロリダであることがわかった。共和党グッズが売られていたので記念に安いものを購入した。JTBのオフィスにはインターネットができるパソコンが置いてあったので妻にメールをした。私の持って行ったノートパソコンは設定のためか、泊まったホテルのためかはわからないが、インターネットにつなげることができず、結局ヒルトンでメールを打つことになってしまった。
JTBではこの日の夜のハーレムジャズツアーと翌日の午前中のニューヨークツアーのオプショナルに参加することに決めた。
ジャズツアーまで2時間ほど時間があったのでニューヨークの町をぶらついてみることにした。有名な5番街や、ブロードウェイの劇場が建ち並ぶタイムズスクエアーあたりを散歩した。(画像)
ニューヨークから帰る (生後742日)
2004,9,3
3泊5日のニューヨーク旅行から帰ってきた。午後5時過ぎ成田に帰ってくると結構蒸し暑かった。帰宅したのは8時過ぎ。こうして日記を書いていると、ロシアで学校占拠事件が急変して、銃撃戦が起こったという。かなりの数の犠牲者が出たようで悲しいことである。このニュースはニューヨークでも報じられていたが、あまり詳しくは報じられていなかった。ニューヨークでは共和党の大会(リパブリカン・ナショナル・コンベンション)が行われており、もっぱらそのニュースばかりであった。そのほかにはコービー・ブライアントの女性の暴行事件と、フロリダに向かっているハリケーンのニュースばかりであった。国際ニュースはあとイスラエルのテロ事件だけが少し報じられたのを私は見た。もちろんアジアのニュースは全くと言っていいほどやっていなかった。すなわちアメリカ人は基本的に内向きなのだ。
ちょうど私の滞在したのは共和党大会がニューヨークのマディソン・スクエアー・ガーデンで行われた何日かと全く重なっていた。私がニューヨークを発ったのが午後1時半だったのだが、その日の晩にブッシュ氏が指名受諾演説を行うことになっていた。私が滞在した最後の晩にはチェイニー副大統領の演説。その前の晩はブッシュ氏の娘とシュワルツネッガー氏の演説が行われた。
とにかく厳戒態勢で、警官の数が多かった。現地の日本人に聞いても、普段より(それでも日本よりもかなり多い)2倍くらい警官が出ていたようである。
世界ではいろいろなことが起こっている。そんな思いをしながら日本に帰ってきた。
画像は共和党大会が開かれたマディソン・スクエアー・ガーデン。近寄るな、と旅行会社にいわれていたのだが、そう言われると行ってみたくなったのでちょっと見学に行きました。