過去の日記 インデックス
御犬様 (生後403日)
2003,9,30
秋も深まってきた夕暮れ、私はカンと散歩に出かけた。少し出発が遅れて、陽が沈んだ辺りだけが少しだけほの赤く空の痕跡を見せていたが、他はもう漆黒の闇に包まれていた。
私は、街灯に照らされた市中の散歩道を行くか、川沿いの真っ暗な道を行くか迷ったが、土の道を散歩したいという衝動に駆られ、暗い土手道を選択した。
確かに、その道は暗かった。西に沈みかけた三日月だけでは路面は明るくならない。進むに連れ、夏の間伸びた雑草が顔の辺りをかすめたり、ちょっとした傾斜に足を取られそうになった。もしそのまま落ちると、約2m下の用水路で、水泳大会になってしまう危険があった。
私は、この道を選んだことに後悔の念が浮かび始めた。
それでもしばらく進むと、それまで凪(な)いでいたのに、突然一陣の強風が辺りを吹き抜けた。ここのところ朝晩随分冷え込んでいたが、それにしても冷たい風だった。
すると、向こうから車のヘッドライトのような二つの光が見える。どんどん近づいてきた。それはやがて私とカンの前で止まった。私はその物体を見て呆然とし、足の先から髪の毛まで震え上がった。もう少しで腰を抜かすところだった。
それは、高さ3m、幅1.5mくらいの、巨大なシベリアン・ハスキーだった。光っていたのはその目だったのだ。
よく見ると、シベリアンハスキーとは少し違うがよく似ている。驚くことにその犬は日本語で私たちに話しかけてきたのだ。その声は、辺りの空気を震わす、太くて低い声だった。
「ここから、引き返せ。この先は通ってはならぬ」
カンは、吠えかかるでもなく、座って神妙にしている。
私は、ぶるぶる震えながら、踵(きびす)を返して、もと来た道を急ぎ足で戻った。怖くて、後ろを振り返ることができなかった。
這々(ほうほう)の体(てい)で家にたどり着いた後、落ち着いてから考えると、あれは神様が使わした御犬様なのではないかと思った。あの先に何か危険があったのかもしれない。山賊か、危険な化学物質か、先日の大雨で土手が崩れたのか、分からないが。何かを知らせようとしていたのかもしれない。カンも御犬様には完全に従う様子を見せていたからだ。
不思議な雲 (生後402日)
2003,9,29
今日、仕事から帰宅する際空を見上げると、とても不思議な光景を目にした。
空気は、つい先だってまでの、靄(もや)がかかった湿った重い空気ではなく、乾いた透明の空気だった。まるで、深山に湧き出る水のように、先を見通すのになんの障害もない。西の空には、何かの魔法で空に引っかけられた三日月が、長いあごを動かしながら、地球に住む人たちに語りかけている。
駅前の通りは、金曜日も通ったはずなのに、異次元の世界にスリップしたように違って見えた。薄暮の澄んだ空気の中で、電灯やネオンサインは、金色の輝きを周囲に発していた。街並は変わらないのに、包んでいる空気は一変したのだ。
東南の空を見上げると、宇宙の彼方まで見透かせそうな深い青さの空と、不思議な雲が見える。その雲は、水蒸気が湧き上がって、風に靡(なび)く旗のようだ。そこに西の地平に半分顔を隠した太陽から、橙色の光が照射されると、奇妙なコントラストをした、奇妙な形状の雲になる。その色は、オリーブ油がたくさん使われたナポリタンスパゲティのようだった。
私は、これは地震の前兆の雲ではないかと少し不安になった。
帰宅した頃には、その一瞬の日没の光景は姿を消していた。時の経つのを忘れて見てしまう、セピア色の古い名作映画を見終わった後のような気分がした。『エデンの東』のエリア・カザンが亡くなったという。ジミーの演技に酔いしれて、人間の業(カルマ)の深さを思い知らされた。
夜、天気予報を見て、この不思議な雲の謎が解けた。この雲は、台風の最も周縁部の雲だったのだ。
画像は、森林公園の木漏れ日の道を歩くカン。
ちょっとビビッたドッグラン (生後401日)
2003,9,28
日中は少し暑かったけれど、絶好のお出かけ日和。午前中予定通り滑川町の国立森林公園に出かけてみた。
カンは車の後部のトランクにあたるところにゲージを置いてその中に入れた。吐くこともなく行き帰り40分ずつのドライブを難なくこなした。途中、運動会が行われているのを何カ所かで見た。参加した人たちは、良い天気で良かったと思っていることだろう。
森林公園の中央口からドッグランまで約20分。随分犬が多かった。大きいのから小さいのまで。柴犬も結構いる。カンは車から解放されて、かなりはしゃいでいた。木々の間を行く道沿いには、季節の花々がそこかしこに揺れている。画像はコルチカムという種類。桃色が秋の日差しを浴び、縁の部分がきらきらと光る。秋の乾いた風が一帯を吹き渡り、坂道を上る我々の汗をいつの間にか乾かしてしまう。
背の高い木々に覆われたところでは、3日前の雨で濡れた路面はまだ乾いていない。でもそこは木漏れ日だけで、幾分涼しい。
知らず知らずドッグランに着く。二重の扉で脱走を防いでいるエントランスをくぐると、休日のためか、多くの犬と飼い主がゆっくりとした時の流れを楽しんでいる。真夏よりは幾分柔らかくなった日の光が一面を覆う。
カンは最初こそいろいろな犬のお尻の匂いを嗅いだり、追いかけっこをしたが、次第に飽きたのか、陽光に疲れたのか、二重になっている入り口から外へ出ようとする。そのたびに我々は少し離れたところへ連れ戻した。大きい犬にはどうもビビッて、臣下の礼を取っているようだ。一時(いっとき)、別の犬の飼い主さんのところにおすわりして、しばらく撫でてもらっていた。ちょっとジェラシー。
シーソーやら一本橋、ポールをジグザグに走らせるのやら、試してはみたものの、うまくできなかった。
11時をまわったので、ドッグランを後にした。また、20分歩いて駐車場に行き、帰路についた。
カンも我々も心地よい疲れが残った。私は、午後、ホームページの更新をし、夕方再び3.8kmの散歩道をカンと歩いた。
天高く犬肥ゆる (生後400日)
2003,9,27
8日ぶりに陽の光が回復した。カンは、気まぐれに、日光浴をしたり、日陰で身を休めていた。こんな日和が続けば、カンのくしゃみや鼻づまりも良くなっていくのではと思えた。
私は、12日ぶりの休日で、疲れを癒すために午睡を取ったのだが、眠りが浅く、妙な夢を見た。どういう夢かというと、スポーツの試合に出場し、それも選ばれて名誉ある出場だったのだが、全くいいところなくミスを繰り返し、交替させられて、監督、コーチに小言を言われるというものだった。日頃の仕事ぶりが反映した夢なのだろうか。それとも疲れが取れていないのか。
夢の中で、暑くて、水を欲する場面があった。確かに現実も日中は暑いくらいだった。
夕方、少し遠くまでカンを連れていってあげた。私は走りで、妻は自転車だ。日が落ちる頃には随分涼しくなって、絶好の陽気だった。農家の家屋や、畑の間を縫って走った。柴犬は、そんな情景がよく似合う。
そういえば、いつの間にか蝉の声が聞こえなくなった。変わって、夕方から夜にかけては、虫の合唱会が始まる。コオロギ、キリギリス、松虫、鈴虫・・・何が鳴いているのかは分からない。秋の一こまである。
カンは少しずつ調子が回復しているようで、散歩は元気いっぱい。えさも、暑かった頃に比べて、よく食べるようになった。寒い冬に向けて、体力を蓄えているのだろうか。
はくしょん大魔王 (生後399日)
2003,9,26
先日、どのテレビ局か忘れたが、「はくしょん大魔王」の最終回をやっていた。とても懐かしく、魔王もアクビちゃんも壺も、幼いときに見た、あの不思議なイメージは消えていなかった。
昔は、現実界とあちらの世界との接点が、そこかしこに散見された。墓場だけではなく、うっそうとした深い森、高い山、海の底、それ以外にも我々の日常生活のすぐ隣に別の世界への扉が用意されていたのだ。
近代化、都市化され、科学が圧倒的な力を、人々の心の中に示し始めるや、あの世への接点は急速に消滅し始めた。しかし、私は、人々の心の中には、合理的には解決し得ない不可解な部分がまだまだ存在すると、思うのだ。
「はくしょん大魔王」や、その他の妖怪もの、超能力もの、霊感もの、魔法もの、神々や精霊の世界を描いたものが、人々の感動を呼び覚ますのは、我々の心にある非合理の部分が、まだまだ命脈を保っているからなのだ。
最近、アラビアンナイトの話を読み始めて、その感を強くした。
ところでカンは、3日前からくしゃみ、鼻水、鼻づまりがひどく、絶えずぐしゅぐしゅしている。心配で、獣医さんに連れて行くと、気温が急激に下がったときなどに、鼻粘膜が弱い犬はこうなることがあるのだという。もっと冷え込んだときに、よりひどくなることもあるという。
早く落ち着いてくれると、我々も安心できるのにと思う。
時は流れて (生後398日)
2003,9,25
時の流れとは不思議なものである。カンは、早朝6時と、夕方5時になると、計ったように鳴き出す。体内時計があるようだ。
1年前の今頃を思い出すと、カンが我が家に来る日が待ち遠しくてたまらなかった。9月下旬の1日1日の経つのが遅く、カンがやって来た10月9日はなかなか訪れなかったと記憶している。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、仕事など自分の気持ちが乗ってこないと、10分ですら長く感じる。昔、部活動で逆立ちを1分やるトレーニングがあった。40秒を過ぎてからの残り20秒の長いこと長いこと。
中世は、洋の東西を問わず、時間感覚は今とだいぶん違っていたようだ。農耕的な時の流れとでも言おうか。大雑把で、だいたいの時を刻んだのが宗教施設の鐘の音だった。後は陽光の差す角度、辺りの明るさで時間を判断していたらしい。そして、時間は未来へ一直線に進むものではなく、繰りかえし続ける円環だった。
秒、分単位の時間が人々を覆い始めたのは近代になってから、すなわち都市化してから。商業や工業の発展は、その性質上、時間、約束、利息、先物買い、集団での工場労働など時間を細分化した。そして科学の発展は進化主義を人々に信じさせ、時間は直線的になっていった。
私は、休日と、仕事のある日の時間の流れ方に大きな差を感じる。我々が不在の日とそうでない日の間など、カンは時の流れの違いを感じているのであろうか。ちょっと聞いてみたい感じがする。
画像は昨年9月26日のカンと兄弟犬。この1年はあっという間でした。
ぬいぐるみ (生後397日)
2003,9,24
私は幼い頃ぬいぐるみが好きだった。もちろん今でも好きだが、昔ほど、集めたり抱いて寝たりということはない。
小学校中学年くらいまでは、両親が海外で買ってきてくれたお土産の犬のぬいぐるみ(フランクフルトで買ったのでフランク君と名づけた)や、父母の手製のパンダのぬいぐるみ(上野動物園にパンダが来て、一大ブームになっていた頃)など、つごう20くらいのぬいぐるみを持っていた。妹の分を足すと、30近かったのではないかと思う。
極めつけは、高さ1mくらいのロバ(馬?)の巨大なぬいぐるみがあった。なぜこんなものを父母が買ったのかは今もって不明だが、これに「犬吉」と名前を付けていたことを思い出すと、我ながら笑ってしまう。何せ、今は本当の犬きちだからだ。
今は、たまにぬいぐるみを手に入れるくらいだ。妻がぬいぐるみ嫌いなので、私もあまり手に入れようと思わない。それでも結婚してから、ディズニーランドで一つ犬のやつを。西武ドームで、レオのものを2つ。フランスで犬のものを2つ手に入れた。みなホコリをかぶって我々の生活を見つめている。なにやらこれらにみな魂が宿っているように思うこともある。
ぬいぐるみはその肌触りが癒しにつながるのかもしれない。時には、話しかけてみたりもする。
その延長線上にカンがいるのかもしれない。ホントにカンはぬいぐるみみたいだからだ。生きるぬいぐるみ、だと思う。
画像は昨年9月22日のカン。
秋分雑感 (生後396日)
2003,9,23
彼岸の中日。
古来、人類は春分と秋分を大切にしてきた。もしかしたら農耕・牧畜の開始以前からかもしれないが、暦を作り、この二つの日には何らかの儀式を行ってきた。
大宇宙からすると、太陽系の第3惑星、地球に、太陽の光が当たる時間と闇に包まれる時間が等しくなるというだけで、取るに足らない一日なのかもしれぬ。
そんな地球に住む人類というのは、水がなければ生きられない金魚のように、空気の中でしか生きることができぬ。
われわれが、犬は首輪を付けられたり、囲いの中に1日過ごしていて、哀れだと思うけれども、人間だってよく考えれば、見えない多くの鎖に繋がれている。
人間は自由だと勘違いしている。自由とは幻想だ。眠らなければならない。食べなければならない。排泄しなければならない。心臓を動かしていなければならない。共同体の成員として振る舞わなければならない。自由を欲しているはずが、鎖に繋がれることを望んだりする。
本当の自由は、此岸から彼岸に横たわる河を渡ってからなのかもしれぬ。
生まれ落ちた定めに従って、ただ、淡々と時を過ごすことができるならこの上ない。
画像はまだうまく歩けないカン(昨年9月22日)
アフリカの風 (生後395日)
2003,9,22
私は無類のコーヒー好きである。1日4杯は飲む。なぜなのか?一つは、私は自律神経のかみ合わせが悪くて、朝の目覚めなどが良くないので、刺激物で調整しようということがあろう。
二つに、依存性。煙草が好きなのもそれに含まれるが、俗に言う意志の弱さとでも言えるだろう。ときどき、自分でも吸いすぎたり、飲み過ぎたりで、嫌になることがある。
三つ目に、甘いものが好き。酒を飲まない代わりに甘いものが結構好きだ。コーヒーもミルクと砂糖を入れる。さすがに砂糖はあまり良くないので、カロリー三分の一のものをここ7〜8年使っている。
4つ目に気分の問題。画像のコーヒーカップはエルメスのアフリカという種類だ。このカップで飲むと想像する風景がある。アラビア海を渡る貿易風に乗って、シンドバッドがアフリカ東岸に船を出し、ライオンやゾウ、キリンの住むサバンナでとれたコーヒー豆を持ち帰る。イスタンブールの路地裏の珈琲屋。19世紀イギリスのコーヒーハウス。そこに薫るコーヒー豆の匂い、あたかもそこにいるかのような幻想に酔いしれる。
今日のようなひんやりした日には、温かいコーヒーが胃の中に流れ込んでいくとき、何とも言えぬ幸福感に浸ることができる。
冷たい雨 (生後394日)
2003,9,21
今日も一日中雨が降り続いた。日中の気温は16℃。二日前の暑さはどこへ消えたの?
今日も2時半くらいまで仕事で、帰ってから眠気がひどい。そのせいにしておきたいのだが、妻の誕生日であることを忘れ、何もプレゼントを買わずに帰ってきてしまった。近いうちに何か用意しなければと思っている。
この雨の中、妻は、カンの朝の散歩を1時間近く行ったという。私は夕方行ったが、寒々しくて、30分弱ばかり行った。カンも濡れるせいか、もっと行って欲しいような仕草は見せなかった。
帰ってくると、カン用におろしたバスタオルで拭いてやる。今日はおとなしく拭かせた。
以前、カン用におろしたものが、人間用のものとごっちゃになり、それを妻が使ってしまったことがあった(もちろん洗濯したものだが)。妻はえらくショックを受けていた。
画像は昨年9月22日のカン。
10℃の気温差 (生後393日)
2003,9,20
日記を書いている午後8時の時点で、昨晩より10℃も低い。これでは体に障る。
今日一日仕事があって、6時過ぎに帰宅したところ、異常なだるさと眠気をを感じた。これは気候の変動によるものと思う。でも、暑いよりは涼しい方がよい。雨も久しぶりに、結構降って、しばらくの晴天でからから状態だった関東平野の大地にも、ちょうどよいお湿りだったと思う。庭の草木も生き返るようだ。
ただ、昼頃震度4の地震があり、台風も接近している。雨が長く続くと、これもまた嫌な感じだ。
さて、涼しくなって生き返ったのは、カンも同じだ。急激な元気回復ぶりを示している。室内に入れると、駆けずり回って、飼い主を挑発する。少しかまうと、「ワウ!ワウ!」と、興奮した叫び声をあげる。
やっぱり犬は暑さには弱いんだなあと、実感した。
ぴぴぴぴぴぴぴぴーぴーぴー(生後392日)
2003,9,19
今朝もはよからカン君は「ぴぴぴぴぴぴぴーぴーぴー」と鳴く。だいたい5時30分からだ。私は気付かないのだが、妻は聞こえるという。確かにこれが耳障りだ。早く起きろと飼い主をせかす。実際は「ふあ〜〜〜ん」という感じだ。
我々が起きて食事を食べ始めると、また鳴く。私は起きて30分くらいしないと体がしゃきっとしてこないので、あまり早くカンの散歩に行くと危険だ。ケガや事故のもとである。飼い主がケガをすれば、飼い犬が最も困るから、少し言い聞かせて我慢させる。ようやく散歩に出かけると大満足の様子をカンは見せる。画像は朝の散歩の様子だ。
散歩から帰ってきて、飼い主が出発すると、また鳴く。それが我々の耳に入るときもあれば、近所の奥さんが、カンちゃん鳴いてましたよ、と教えてくれることもある。このときの鳴き方は「ひひひひひ〜〜〜ん」と絶叫、悲鳴モードだ。
驚くことに、近所の奥さんの話によると、我々のどちらかが帰ってくる30分前になると、鳴くことがあるのだという。
ちょっと近所迷惑なんじゃないかと心配だ。犬が好きな人もいれば、そうじゃない人もいるからだ。
でもこんな風に育てたのは、飼い主の我々である。
14(フォーティーン)
2003,9,18
今日、直木賞を取った「(14)フォーティーン」(石田衣良 作)を読み終わった。
都会のさわやかで、ほろ苦い風が、全編に吹き渡っていた。舞台は東京のウォーターフロント、月島(晴海の側)である。主人公テツローを含めた4人の14歳の少年と、その周囲の人々の出来事を描いた小説だ。
とても良く書けていて、どんどん読み進むことができた。今っぽい風俗、感性が全編に描かれていて、日本全体の平均的な14歳に比べると、かなりおませな少年たちだ。もちろん14歳が、ここまで冷徹に、客観的に、自分や周囲の人間たちを捉えることはできないだろう。だから、大人の読む少年小説といった感じだ。
作者は、それを承知で、14歳の少年たちから、今、という時代を描きたかったのだと思う。舞台が東京の一等地であるということも、そこに日本の現代の風景が象徴的に凝縮されているからなのだろう。
翻って、私の14歳の時を思い起こせば、彼らの持つ自我に比べて、もっとぐちゃぐちゃしており、辻褄が合っていなく、幼稚で、依存的だった。また、この本には、性的な部分がかなり多く登場する。こういった傾向は、最近話題になる小説にはよく見られることだ。例えば、「ハリガネムシ」…芥川賞、「星々の舟」…直木賞でも中心的なテーマだった。なぜ、作家がこのテーマを取り上げるのか、読者がそれを好むのかは、私にはわからない。
もうひとつ、最近は芥川賞受賞作より、直木賞受賞作の方がより面白く感じるのはなぜだろうか。
14歳の時、私は黒柴ボンに出会って、一緒に時を過ごしたことが思い起こされる。(画像は14〜5歳の私とボン)
茜さす (生後390日)
2003,9,17
帰宅して、カンの散歩に行く頃には、日が暮れて残照だけが西の空にある。少しの間だけ、茜がさした空が見える。つかの間の夕焼けだ。
椎名林檎の『無罪モラトリアム』というアルバムに『茜さす 帰路照らされど・・・』という曲がある。メロディーはとても切なく、また、絶対的な孤独感、絶望感が漂うこの曲が好きだ。その情景には、廃墟と化した街、乾き、都市的無情がある。ほんのわずかだけ、主人公の心の中に何かと繋がっていたいという願望が、消え残らず小さな灯をともしている。そしてこの火はいずれ消えてしまう予感が漂う。もしこの種火が消えてしまったら、彼女はどうなるのだろうか。
・・・・・・ヘッドフォンを耳に充てる アイルランドの少女が歌う
夕暮れには切なすぎる 涙を誘い出しているの
・・・・・・振り返る通りを渡るひとに見蕩れる
・・・・・・今の二人には確かなものなど何も無い
最近の椎名林檎は、ちょっと柳美里になってきたと思う。それでも凄いけど。
生命の神秘 (生後389日)
2003,9,16
カンが生まれた1年前にも生命の神秘を感じたが、今日は私の妹に娘が誕生したという連絡が入った。私も叔父になった。妹はパリにいるので、姪に会うすべもないが、母子ともに健康であることを祈りたい。父親のO氏も喜んでいることだろう。
生命は機械である、という考え方があるそうである。例えばAという入力をすると、Bという反応が起こる。それが複雑に絡み合って生命の動きを構成しているのだという考え方だ。「こころ」や、「意識」についても、脳細胞の中で様々な電気的反応が起こり、回路が形成されることによって成立する、ある面で機械としてとらえられる側面があるのだという。
ただ、今日の朝日新聞の夕刊の文化欄に、西垣氏という東京大学の情報学の教授が文章を書いていて、簡潔に結論をまとめると、生命はただ、機械的に遺伝子を複製するだけでなく、生命が置かれた環境の情報を「解釈」して、ルールを逸脱した独特の動きをするようになるのだという。つまり、反復的な機械的側面と、一回性を持つかけがえのない歴史的側面とを併せ持つというのだ 。ホフマイヤーの『生命記号論』に、西垣氏は触発されたという。
今や、ヒトをはじめとする生命についての学問は、倫理学、哲学、文学、生物進化学、生物哲学、記号論、分子生物学、情報学、大脳生理学、認知心理学など、学際的に融合し、広大な未知の領域が前途に洋々と広がっているのである。
パリに生まれた彼女は、反復性と一回性の中で、どのような人生を歩むのだろうか。素晴らしい未来が広がっていることを願う。
画像は昨年9月22日のカン。
やる気が起きない (生後388日)
2003,9,15
それでも30℃を超え、日中は外へ出る気力が出ない。かといって家の中で、何をするというのでもない。昨日までの休みは、それでも読書をして半日過ごしたのだが、今日は本を読むことすら億劫だった。
こんな時は、無理に仕事を見つけてやろうとしない方がいい。これは経験による。何かしなきゃいけないというプレッシャーを自分にかけてもしょうがないのだ。なんとなく、気の向くままに、だらだらと過ごすが一番だ。と、分かっていても、何かしなきゃいけないと、「must」・・・〜しなければならない〜・・・思考にとらわれる。そうじゃない、「may」・・・〜した方がよい・・・なんだ、と自分に言い聞かせる。
パソコンをいじっているうちに、うちのHPのバナーを作ってみようという気になった。かちゃかちゃ、ホームページ・ビルダーでやっているとなんとか形になってくる。これが結構面白い。ただ、使ったことのない機能を使うので、あれやこれや試行錯誤して、あっという間に小1時間経ってしまう。こんな小さなことでも、何かを創造するということは、カタルシスの解放になる。
カンはやる気が出ていた。夕方、私より鬱っぽくて困っている妻と一緒に散歩に出かけると、疲れを知らず走り続けた。だいぶん涼しくなったからだろう。
ペットショップボーイズ (生後387日)
2003,9,14
昨日よりは乾燥していて、少しだけ凌ぎやすい一日だった。
午前中、カンのえさがなくなってきたので、さいたま市内のホームセンターに買いに行った。サイエンスダイエットのアダルトだが、粒が大きいのと小さいのがあり、どちらにするか迷ったが、今回は粒が大きいものにしてみた。その他、煮干しとジャーキーも買った。
このホームセンターには、ペットの販売コーナーがある。私はついそこを見てしまう。今日も店の真ん中に3m四方くらいの檻(おり)が設置され、そこにボーダーコリーと、レドリバーの子犬が7〜8頭入れられていた。もう一つの檻にはミニチュアダックスが4〜5頭いた。
この周りには、子どもを中心に人だかりができていた。中には手を突っ込んでなぜている人もいる。私は、ガラスのショウケースに入れられている柴犬などを見た後、檻の中の、無邪気に駆け回るレドリバーの子犬に一瞥(いちべつ)を投げた後、レジに向かった。その途中なぜか寂しい気分に襲われた。
実は、ここのペット売り場の環境はあまりよくないと思うからだ。衛生的にも、静かさといった環境面でも。その劣悪さと対照的な子犬のけなげさになぜか胸が痛む。
妻とここに来ると、カンの幼い時とまるで環境が違うよね、と話す。カンは母犬や、兄弟犬とともに過ごし、体もまるまるとしていた。ペットショップの柴犬の子犬は、どこで見ても、背骨が浮き出て見えるほどやせている。でも、新しい飼い主のもとに行けば、こういった犬たちもすぐに体重が増えて、元気になってくるのだろうけれども。
ペットショップと動物園は、近代が生み出した悲劇的空間だ(ちょっと大袈裟か)。そして、ここを訪れると、ペットショップボーイズというイギリスのバンドの「West end girls」という曲が頭の中で流れる。
そして、いつもこのホームセンターのペット売り場に足が向いてしまうのだ。
画像は、カンが母犬あやめと過ごしていた頃。
もう勘弁 (生後386日)
2003,9,13
いくら台風の置き土産とはいっても、暑すぎる。せっかくの連休にもかかわらず、何かをしようという気力が湧いてこない。
午前中は、ホームページの更新(草花の部)。午後はごろごろしながら、レッズ戦を見ていたら、コテンパにやられてしまった。
ますます気分が萎えてきたが、柴犬はなに会いに行こうということになって、少し元気が出てきた。カンも連れていって、2頭まとめて散歩をしてやろうという計画だ。
その前に4時半頃、カンを、歩いて8分の獣医さんのところに連れて行って、フィラリアの薬をもらいに行った。往復の道路では、アスファルトから沸き立つ湯気が、アフリカの砂漠を渡る熱風のようだった。また恐ろしいほどの湿気もあった。
動物病院で体重を計ると、9.3kgだった。ところが待合室の中で、カンは吐いた。すると、そこにいた、小型犬を連れていたおばさんが、うちもときどき吐くのよ、と言う。獣医さんの説明によると、暑いと消化器の働きが悪くなって、こういうことがあるのだという。暑いうちは散歩しない方がいいとも言った。カンはそれでも、もっと遠くへ行こうとだだをこねた。
さて、十分陽が沈んでから、カンとはなとで出かけた。2頭ともいい便を出し、ふざけすぎず、真面目に歩いて、とてもいい散歩だった。それでも暑くて、飼い主は汗だくになってしまった。
もういいでしょう。助さん、格さん。
アホの詩 (生後385日)
2003,9,12
嘘でしょ!と言いたくなるくらい、今日も暑かった。昨晩は寝苦しかったし、日中も外へ出る気がしない。台風さえ遠ざかれば、秋は来てくれるのではないかと、ただただ祈るばかりである。
今日は、仕事が休みだったので、延び延びだったパンジーの種まきをして、ペチュニアなどの刈り込みをした。秋に咲くはずの秋明菊やシュウカイドウ(画像)は、暑さに、不似合いな姿で、熱風にあおられながらゆらゆらしていた。
午後は養老孟司氏の『バカの壁』を読み切った。やたらと売れているらしい。きっとタイトルにひかれて買う人が多いのかもしれない。私は以前、氏の『唯脳論』を読んだことがあったので、彼の考え方の概要は把握していた。
『バカの壁』は、氏が脳学者である立場から、人間や社会を分析していったものだ。シニカルで、相対主義的要素が強い本だ。例えば、「個性」を尊重しようなんてばかげている、と氏は言う。生物学的に個性は確固としてあるのだから、意識(心)のレベルでは、共同体との協調を優先すべきと説く。最終的には、一神教的な原理主義に依存せず、身体に回帰し、意識の壁(バカの壁)をできるだけ取り払うことを目指すのがよいという。
私は、いちいち頷(うなず)けることバカりで、目から鱗だったが、どうして人間は、絵を描いたり、音楽を楽しんだり、詩を書いたりするのか、と言う点には触れられていなかった。
私の心の周りには、天まで届くほどのバカの壁が聳(そび)えているので、後は「アホの詩」を諳(そら)んずる他はないからである。
戦いのフィールド (生後384日)
2003,9,11
2年前の今日は、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだテロがあった。
今や世界にたくさんの正義が存在し、それぞれが正当性を主張している。その旗印の下に、毎日のように罪もない人が血を流している。
こんな戦いは辟易とするが、今日から始まった「世界柔道」のような戦いは爽快だ。日本選手は、地元の利もあってか、快調な滑り出し。特に100kg級の井上選手は、決勝でもフランスの選手をひっくり返しての見事な一本勝ちだった。
それにしても、最近テレビ局は世界選手権をよく中継する。水泳に、陸上だ。体操はNHKがやっていた。しかも日本選手がよく活躍する。北島選手に、末次選手。そして体操の鹿島選手。堂々たるものである。
昨晩のサッカーも、日本は負けてしまったが、見応えがあった。セネガルチームはドュウフ選手こそ来日しなかったが、それ以外の有力選手は顔をそろえ、しかも本気モードだった。体格はいいし、テクニックはあるし、足は速いしで、日本選手はたじたじだった。
カンもスポーツに興じることがある。画像は、バレーボールを使ってサッカーをやっているところだが、一体誰と戦っているのだろう?たぶんボールと戦っている。不思議なゲームだ。でもカンはこれが結構好きなのである。
開設1年 (生後383日)
2003,9,10
HPを開設してほぼ1年たった。
実はいつからはじめたのか正確な記録がないので不明確なのだが、たぶん1年前の今日くらいからだと思う。
先日、1万回のヒットを記録した。カウントプレゼントなどはやらなかったが、1年でまさかこんなにページが開かれるとは思わなかった。1万回のうち、半分くらいは私が開けたのかもしれないが、それでも残りは多くの人々に見ていただいた。先日もコロちゃんの飼い主さんからメールを頂戴した。
当初は子犬かわいさに、その画像をネット上に載せたい一心で、ホームページビルダーというソフトを使って作り始めた。やがて柴犬リングに加盟して、BBSも設置し、12月からは日記も始めた。ここ最近は日記のみの更新で、本編は更新していない。そろそろやろうかと思っている。
ところで、「子犬と花のワルツ」というタイトルだが、犬と花を中心にしたページにしようという考えから名付けたものだ。ショパンの曲からとったわけだが、ワルツというからには3拍子である。もう一つなければいけない。それでヘラブナ釣りを入れたのだが、この1年全く釣りに行っていない。腰が痛かったからだが、この冬には少し出かけてみたいと思う。
カンももう「子犬」ではないのだが、今更タイトルを変えるわけにもいかず、今後もこれでいこうと思う。
画像は昨年9月10日にカンにあったときの画像。
満月と火星 (生後382日)
2003,9,9
夕方カンお散歩に行くと、川の向こうから満月がのっそり顔を出していた。
あれ、今日は十五夜お月さんだったかなと思った。後で調べてみると、今年は9月11日だそうだ。
ちなみに十五夜とは、旧暦の8月15日のことで、満月とは限らないそうだ(確率は40%くらい)。埼玉県には、一五夜のお供え物を盗むという風習が、県中央部から北部にかけてある。これは、お供え物がなくなると、神様に届けられたと解釈するところから出てきたようだ。埼玉に限らず、全国的にこの風習は点在するという。・・・これは「星の民俗学」というHPに載っていました。・・・
それから、今夜は火星と月が大接近しているという。ちょうど20:40に最も接近し、月の真下に、赤い火星が輝いている。火星は今年地球にかなり近づいているとのことで、天体ショーと、不思議な伝承とが妙なコンビネーションを作っている。
これからの散歩は暗くなってからが多くなる。夜空をカンと仰ぎながら、何かを見つけられるだろうか。
でも、「犬が星を見ている。」という言葉もあるからなぁ。
白露 (生後381日)
2003,9,8
今日は二十四節気の白露。朝、草に露が付くほど涼しくなる頃、秋気が漂い始める頃という意味だそうだ。関東平野では確かにそういった気候になってきている。
やっと8日連続勤務が終了し、夕方カンとゆっくり散歩に出かけた。土手沿いの道も気がつくと薄暗くなって、秋の気配が感じられる。
カンはこの土手沿いの道の、脇に生えている草むらに大便をすることが多い。今日もそこにした。私はそれを小さなシャベルですくうために草むらの中に手を突っ込む。すると滴が手にこぼれてくる。はて、これは白露なのだろうか。白露だと信じたい。いや、やはり違う。これはカンのしょんべんなのだ。
カンはウンコをする前に必ずその場所におしっこをひっかける。そして、ウンチングスタイルになってウンコをする。時には片足をあげながら大をするときがある。
結局、私の手は、カンの、露に濡れつつ、ということになる。
画像は「チェリーセージ」。秋めいて、いろんな花々の色が濃くなってきました。
ケセラセラ (生後380日)
2003,9,7
昨日に比べると、私の調子は幾分改善した。昼間強烈な眠気に襲われることもなく、無事1日の勤務を終えることができた。
ただ、天候は、どんより曇って、気温も上がらず、気分が滅入りそうな日であったが。この、相反する状況はどうしてだろう?不思議である。
やはり昨晩、11時頃にうまく寝付けたことが良かったと思う。本当に私は体のリズムを崩しやすい。明日はどうなることやら・・・
私は、長年の経験で、調子が悪くなりそうときは、何もしない、すべて後回し、横になる、自分を責めない、仕事を見つけない、さらに状況が良くないときは無理してでも仕事を休む。を実践している。これは以前無理をして痛い目にあったことがあるからだ。若さにかまけてやりすぎると、結局あとでそのつけを払うことになり、休む日も増え、結果的に同僚に迷惑がかかる。
自分ががんばらなくても、かわりはいくらでもいるし、私が何かしなくても、地球は滅ぶことはない。時はいつの間にか流れ去り、自分が気にしているほど他人は自分に関心を払っていない。
私はこれを、「Let it be」理論と名付けている。もちろん「ケセラセラ」でも「なるようになる」でも「時の流れに身を任せ」でも良い。
もちろん、お手本は、ひねもす(終日)のたりのたりしているカンである。
星々の舟 (生後379日)
2003,9,6
直木賞を取った、村山由佳氏の『星々の舟』を読んだ。
全体としてはあまり趣味な中身ではなかったけれど、とても良く書けていた。特に、登場人物の心理状態と、情景描写が見事に混合されていて、情感があふれ出ていた。
日本人には限らないだろうけど、季節、植物、空、海、河、風などの描写が登場人物の心の暗喩、基調になっていることは、日本の文学作品には古くから見受けられる。『源氏物語』を筆頭にだ。私はこのような描写がとても好きだ。
例えば、柴犬はいつの季節が一番似合うだろうか。これから始まる秋ではないかと思う。
今日あたり、午後6時過ぎに散歩に出かけたのだが、あっという間にあたりは薄暗くなり、帰宅する頃には夜の帳が降りていた。川沿いの道にはススキが風になびき、虫の音が聞こえる。沈みゆく太陽が、最後に照らし出す赤い光は、カンの背中の毛をより赤く見せる。
もう少し季節が進めば、農家の庭の、たわわに実った柿の木の下に、柴犬がたたずんでいる様子など、とても絵になる。柴は秋、だ。
『星々の舟』の中身は、疲れ気味の私には少し響いた。その分カンとのんびり過ごして、リラックスしよう。
本を書いた犬 (生後378日)
2003,9,5
今日も1日、ぼうっと今ひとつ体調の優れない一日であった。ただ、秋晴れで、空気も乾いたすがすがしい日和で、窓を開けて外の風が吹き込むと、気分が少し穏やかになる瞬間があった。
さて、昨晩、阿部謹也氏が書いた『中世の星の下で』を読んでいたら、本を書いた犬が、ドイツのシュトゥットガルトにいたという。「ロルフ」という名で、パウラ婦人という人の飼い犬だ。 1920年にこの犬は『追想録と手紙』という本を執筆している。
婦人はあるとき、犬にアルファベットを教えることを思いつき、あらゆる手段で教え込んだという。例えば、片足を2回叩けばRだとか。やがてこの犬は数学や文字、文法すら覚えたという。「ロルフ」の名声は広まり、ベルリンの動物心理学者のチーグラー博士もその能力を認めたという。
「ロルフ」の手記には第一次世界大戦の感想まであるという。ちょっと眉唾物だが、これは決してパロディーではなく、まじめな話で、その証拠にパウラ婦人はこの犬で金儲けしようとは一切しなかったそうである。
ヨーロッパでは、動物に霊魂があるかどうかが古くから議論を二分していたそうである。また、動物に対する「愛情」が強ければ強いほど、このように動物とコミュニケーションがとれるのだと信じられているという。イルカの例がそうだろう。
こういった姿勢の背景には、人間の方が圧倒的に優れた存在で、下等な動物を教化してあげるという考え方、すなわち圧倒的な人間中心主義が、その背景にあると、阿部謹也氏は分析している。人間のみが世界の主人であるという考え方だ。ただ、こういった人間中心主義は中世以降に生まれた、比較的新しいもの、としているが。
日本はこのように考えないだろう。動物は動物として扱っても、人間も動物の一つで、共生すべきもの、とするのが、前に日記に書いた、アイヌ人やテゲレ族、そして日本のアニミズムだと思う。
動物に対する考え方が、世界でいろいろあるものだなあと、考えさせられた。
カンにも『柴犬カンの大冒険』というタイトルで書いてもらいたいのだが、う〜ん、やっぱり無理かな。
自律神経失調症? (生後377日)
2003,9,4
最近どうも調子が悪い。8月の中旬から便通が悪くなり、後半になると、寝た後気分が悪くなって、3〜4時間たってもすっきり目が覚めた感じがしない。
特にここ3〜4日はその傾向が強まっている。朝起きられない。日中だるく、なかなか考えがまとまらない。判断力が低下する。眠くて、つい職場でうたた寝すると、15分くらい寝た後でも、目が覚めない。気分が悪くなる。妻は、じゃあ寝なければいいじゃない、というが、異常に眠くなるのだ。
カンの散歩に行くと少しすっきりする。汗をかいて、血流が良くなる感じだ。ところが夜眠れない。というか、寝付きが悪い。遅くまで起きているので、翌日寝不足だ。全く悪循環である。体のバランスが壊れてしまった。自律神経が不安定になっている。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。気候のせい?この夏は天候不順で、暑かったり、涼しかったりが繰り返されたためなのか。実は妻も不調を訴えている。仕事が相当つらいそうだ。夫婦ともぼろぼろの中、カンはどういう気分なのだろうか。
昨晩はカンを室内にあげて、しばらく一緒にいた。「アニマル・セラピー」をもくろんだわけだ。抱き上げたり、触ったりでカンも迷惑だろうが、嫌な顔もせずしばらくすると横になって寝てしまった。
「アニマル・セラピー」も限界があろう。この状態から抜け出すにはどうしたらよいだろうか。今週は土日も仕事で、火曜日まで休めない。
無理をせず、低空飛行で、ほとぼりが冷めるまでじっとしているほかないかもしれない。
残暑 (生後376日)
2003,9,3
9月に入って、西日本各地は猛暑に悩まされているという。関東地方は、今日は暑かった。最高気温34℃まで上がった。
寿命の短い蝉たちは、わずか1週間の命を燃やすためにすごい勢いで鳴いていた。この声を聞けるのは、9月のいつ頃までだろうか。職場では、冷房の効いていない場所もあり、そこに長時間いると、汗がシャツにべとべとひっついてくる。何とも遅れてきた夏である。
夕方、土砂降りの雨が降った。ちょうど帰宅する頃で、車庫に車を止めると、カンの悲鳴が聞こえてくる。一度、車庫のシャッターを開けて、再び車に戻るとき、きっとまた、どこかに行ってしまうと思うのだろう、悲鳴が一段とオクターブをあげる。
家の中に入って、すぐカンを室内に入れてあげた。雷が止むまで30分そこらであった。
雨が上がって、散歩に行った。雲の切れ間から、橙色の夕焼けが、所々顔を出したが、あっという間に夜の闇に消えていった。
この雨は、夏から秋への季節の交替を告げるものなのだろうか。
シャツに汗 染(し)むる 9月の蝉時雨(せみしぐれ)
雷雨去り 茜の空の 顔を出し
はま
マラソン (生後375日)
2003,9,2
8月30、31日の夜、世界陸上のマラソンを男女ともに最初から最後まで見てしまった。おかげでその次の日は寝不足だった。
日本人はマラソン好きという。かくいう私もつい見てしまう方だ。なぜ好きなのか。おそらく人生を投影させてみるからではないだろうか。最初先頭集団にいても、ずるずると落ちていく者。終盤に来て、一度は順位が落ちても、再び抜き返して上位に入る者(千葉選手がそうだ)。最後の最後に抜かれて2位になってしまうもの。逆にラストスパートを決めて、優勝する者。転んでしまう者(大南選手のように)。悲喜こもごも、様々だ。
私はどんなタイプだろうか。ただ、あんな風に走ることは絶対できない。マラソンランナーは5kmを15〜6分で走る。私は4kmのカンの散歩道を45分かける。
暑かったり、湿気があったり、疲れていると、カンの散歩道がやけに長く感じることが、時々ある。そんなとき、マラソンを思い出す。いま、折り返し点。今、30km地点。あと5km。そんなことを考えているうちに、いつの間にか気分も乗ってきて、家までたどり着いてしまうこともある。
カンはいつも、もっと遠くに、とだだをこねる。
そんなに無理言わないでよ、といいたくなる。
子犬探し5 (生後374日)
2003,9,1
仕事から帰って、妻とふたりでブリーダーさんのところに向かった。案外、迷うことなく着いた。ただ、時間は20時近かったと思う。
門をくぐると、わんわん声がする。柴犬たちだ。私はその声にますます興奮の度を増していった。応接室に入れてもらう。ブリーダーさんご夫婦で、忙しいところ応対してくれた。
「この子たちなんですよ。」と、ブリーダーさんは、母犬あやめとともにケージにいた4頭の子犬たちを、慣れた手つきでバスケットに移し替え、我々の目の前に差し出した。カンと初めて対面したのは、このときだ。我々は、柴犬の赤ちゃんたちを見て、驚嘆した。
「えっ、これが犬なの?」、まるでモグラそのものだった。ブリーダーさんはそのうちの1頭を、足や胸の白い部分を確認しながら、拾い上げて、我々に示した。
「この子が3番目の男の子です。」
我々が事前に頼んであった子だ。
「かわいい〜。」と、お世辞にも言えない、不気味な生命体がいた。カンである。
その後、ブリーダーの旦那さんが、柴犬について熱心に説明してくれた。時には、犬小屋の中から成犬を連れてきてくれて、この犬はどうなんだ、ああなんだ、と実物で解説してくれた。もちろん、カンの父犬である「三郎」も見せてくれた。
「三郎はそこそこの賞歴がありますよ。」と、我々を安心させ、自尊心をくすぐるようなことを言ってくれた。
私にはどれもすばらしい犬に見えた。そして、いずれは我々の飼う犬もそうなってくれることだろうと、確信した。
「どうしましょう、三番目に生まれた男の子にしますか?。」、いろいろ説明を受けた後、ブリーダーさんが促すように聞いた。
私は黒柴ボンのことを思い出し、少し色気が出て、黒柴はどうなっているんでしょうかと、聞いてみたが、その後が決まっているとのこと(この黒柴は今はUさんのところで幸せに暮らしている)で、結局、三番目の男の子以外は、みな行き先が決まっていることから、我々は三番目に生まれた男の子を飼うことを決意した。
このとき何か胸がすっと軽くなるような気がした。そして我々はこの男の子と記念撮影を軽く行って(画像)、ブリーダーさんのところを後にすることになった。
「それじゃあ、受け取るまでよろしくお願いします。ちょくちょく様子を見させてください。」と約束した。
帰り道、もう21時を過ぎていたと思うが、妻と夕食を取った。ふたりとも心地よい興奮に包まれていた。