過去の日記 インデックス
台風接近 (生後280日)
2003,5,30
今日から、宇都宮へ出張だ。今、朝である。台風が接近している。無事行ってこれると良いが。
というわけで、次の日記は日曜日になります。
罪と罰 (生後279日)
2003,5,29
今朝の朝日新聞の天声人語にドストエフスキーの『罪と罰』の話が出ていた。舞台となったペテルブルクの創設300年記念式典が大々的に行われるからだそうだ。
この小説を一昨年に読んだ。主人公ラスコーリニコフは極貧の学生であるが、中島敦の『山月記』的にいえば、「尊大な羞恥心」「臆病な自尊心」の持ち主である。やがて金貸しの老婆を、自分が「ナポレオン」になったつもりで殺害するが、娼婦のソーニャの愛に心を開いて自首し、シベリアに送られるという内容だ。私はドストエフスキーの中では『カラマーゾフの兄弟』の方が、宗教的、宇宙的で好きだが、『罪と罰』も悪くない。少し、青年期のじくじくしたエゴイズムが全面に出すぎて、読むのがつらかったのであるが。
この小説に小道具的に使われているのが、ラスコーリニコフの住むとても狭く、何もない、暗い「小部屋」である。再三登場する。今風にいえば、彼はここに「ひきこもって」いる。私も学生時代に「小部屋」住まいを経験したことがあるので、親近感を覚える。そこには、肥大した自我と、孤独があり、別の場所に移された「子宮」そのものでもある。
つい最近気がついたのだが、椎名林檎の『罪と罰』という曲にも、再三「小部屋」が登場する。彼女もこの小説を読み、この部分に、現代と共通する心性を感じたのであろう。 カン君は、飼い主のいない日中、狭い囲いの中で、小屋の中で、何を感じているのだろうか。
川を渡る風 (生後278日)
2003,5,28
夕方、土手沿いの道を行ってみた。7時近くなってもまだ明るいこの時期は、多くの犬が散歩している。3頭のコーギーを連れている人。紀州犬を連れている人。雑種を連れている人。もちろん柴犬も2頭すれ違った。道が狭いので避けるのが大変だ。
カンは土手沿いの道が好きなようだ。分かれ道の時必ず土手方向に行きたがる。草がいっぱい生えているし、下が舗装されていないので走りやすいのかもしれない。
途中少し汚れた小川に寄った。この間はフナだと思った、水に飛び込む物体が、今日確認したところだとどうも大きな蛙であることが判明した。(どぶ川に 蛙飛び込む 水の音)
カンは警戒する。それをみていると楽しい。かれこれ45分くらい、途中走ったり、歩いたりしながら行ってきた。今日は少し暑かったが、まだしのげる。
また行こう!カン!
これからも いっしょに走ろう いつまでも 五月の風の 土手沿いの道
はま
百合が咲いた (生後277日)
2003,5,27
ここのところ朝晩雨が降る陽気が続いている。ちょうどカンの散歩にかかる時間帯で、われわれも小雨に濡れながらという状態だ。梅雨の走りなのだろう。
あじさいがまもなく咲く寸前という具合につぼみがふくらんでいる。そして百合が咲いた。我が家では何種類かの百合を植えている。「カサブランカ」「テッポウユリ」そしてこの百合は何というのだろう。おそらくイワトユリの一種だと思う。パンジーやノースポールの勢いが落ちてきている中で、庭の中では百合がひときわ目立ち、存在感を誇っている。
朝夕に カンの背分ける 通り雨
雨露の 濡れてひときわ 光る百合
一隅を 照らすこの百合 咲くや姫
曇天に 読む背教者 ユリアヌス
あまだれや 閑かに犬の 眠る小屋
マーガレット (生後276日)
2003,5,26
マーガレットが満開だ。これを少し切って玄関に、水差しに入れて飾ってある。
先日カンの散歩の際、畑の脇に白い花がボーダーいっぱいに咲いていた。そこで働いている中年の農家の夫婦らしき二人に、「この花なんですか?」と聞いてみると、「マーガレットだよ」と答えた。うちにあるマーガレットは義母からもらったものだが、これとはずいぶん葉っぱの形が違う。でもたぶんマーガレットなのだろう。今は品種もいろいろあるだろうからだ。それから、農家の奥さんが、「ちょっともらっていってくれない?」といってきた。増えすぎて困っているとのことである。ちょっと困惑したが、断ってもなんだからもらっていくことにした。結構大株のものを二つもらったのでずいぶん重かった。そこから家まで20分くらい、カンを引きながら植物を持って帰ると、腕が痛くなるほどだった。
マーガレットの花言葉は「秘めた恋心」なのだそうだ。例の、花びらをちぎって、好き、嫌い、好き・・・とやるのはこの花が元祖だ。
ちなみにマーガレットは英語読みらしく、マルグレーテとかマルガリータという国もあるそうだ。
私は高校生まではマルガリータだった。
静かな日曜日 (生後275日)
2003,5,25
今日も、暑からず寒からずのよい天気だった。
こんな気候故かいろんな仕事を楽しくできた。
まず家の掃除。カンの毛がホコリとともにうずたかく積み上げられていたので、これをきれいにした。窓も拭き、洗濯をし、布団も干した(8割方妻がやった)。
庭では、バラやみかんの木が毛虫の食害に合い、もう少しで丸裸になるところだったので、殺虫剤、殺菌剤を噴霧した(私はこれがあまり好きではない上、カンにも良くない)。そして前の草原の雑草を刈り込んだ(昨日あたりからいよいよ蚊が出現した)。
さらに懸案だった、種まきをしたままほって置かれていた苗を、ポットに移し替えた。この作業の時に、昨日の日記に書いた子どもたちが手伝ってくれた。小学生になると指示通りにやってくれる。おかげで短時間で済み、ありがたかった。
浦和レッズ戦の中継があったので観戦した。後半の途中までとても良い内容だった。しかし1点リードしてからはおかしくなった。でも勝ったのでよしとしよう。
中継が終わった頃、私の父がお土産を持ってカンに会いに来た。小一時間遊んで、軽くその辺を1周した後帰っていった。
そのあと妻と5km位カンの散歩に行った。カンは来客が多かった割に元気だった。
18時半に、近くのフランス料理屋へ夕食を食べにいった。外食はいつも、ラーメン、チャーハン、冷やし中華、そば、うどんが多い我が家では珍しいことだが、生のピアノの演奏を聴きながら、とてもゆったりとした時間を過ごした(そういえばフランスに行ったときに、お店ではフランス料理を食べなかった。P家の家庭料理はいただいたけど)。
とまあ、静かな日曜日が終わりを迎えようとしている。
童心 (生後274日)
2003,5,24
雪とけて 村いっぱいの 子どもかな
この句は小林一茶だ。今日のようないい陽気の日には近所の子どもたちが外へ出て無邪気に遊んでいる。遠くからみると、わあ〜という歓声とともに、表現は悪いがアリたちが右往左往しているかのようだ。
うちの近所の子どもたちが例によって、「カンちゃん触らせて」とやって来た。囲いの中に入ってもらい、ひとしきり遊んだ後、首輪を付けて散歩や、ボール遊びもしてもらった。幼い頃から彼らに遊んでもらっていたせいか、カンは子ども嫌いではない。黒柴ボンは子どもが苦手だったが。
ひとしきり遊んで大喜びした後、夕方また彼らがやって来た。妻がカンの毛をすいているのを手伝ったり、しつけ用スナック片手に、おすわりやお手、伏せ、待てなどをさせる。子どもにもちゃーんということを聞く。
それから興奮した子どもたちはカンの小屋の中に入り始めた。小5と小2がすっかり隠れてしまった。カンまで中に入ってしまう時もあった。これをみたこの子のうちの1人のお母さんは、あきれていた。
しかし、私はまさか人間があの狭いスペースの中に二人も入れるなどと、つゆほども考えなかった。だから、小屋の中は意外と広いものなんだなあと感心したし、なにより「中にはいる」という発想そのものが私には思い浮かばなかった。私は、自分では心が若い方だと自負してきたが、今日の事柄を目の当たりにして、いつの間にか、知らず知らずに大人の固定観念に縛られてしまってきているのだと思い知らされた。
子どもたちは、真夏の日差しが強い日や、冬の北風が強い日には外へは出てこない。本能的に季節を感じて、外で遊んでいる。自然から遠ざかり、近代文明に馴らされ、仕事や生活で感受性を鈍磨させてきた私には、少しうらやましい。
画像は、つるバラのアンジェラです。
悟空、空を飛ぶ (生後273日)
2003,5,23
ここのところ柴犬系の各ホームページで、うちのワンこの顔が変だ、という情報を目にする。カモメ眉毛が、ほっぺたの方までつながっているなんて状態の犬が多い。換毛期のせいらしい。
うちのカンも例に漏れない。なんとカンは猿になってしまったのだ。鼻先と口周辺だけが毛が短くて、それを囲むように毛が多く生えていて、まるで日本猿だ。(画像をよくご覧ください)
カンの血統書上の名は「風の悟空号」である。私はとても気に入っている。西遊記自体が好きだし、悟空という、般若心経の教えそのものが凝縮した名前は、仏教思想にあこがれる私にとってロマンを感じるのだ。しかも風がついているのでなおさら、哲学的である。ちなみに『風の又三郎』は宮沢賢治だが、今度7月に、唐十郎作の劇団『新宿梁山泊』による『風の又三郎』を見に行く。これも楽しみだ。
カンは食欲、性欲、支配欲に縛られて、とても空を悟っているようにも見えないけど、カンよ、飼い主と日々散歩という修行に出かけて心を磨こうではないか。今日も夕方自転車で5km位走ったものね。
空仰ぎ 悟る皐月の 薫る風
はま
薔薇色の人生 (生後272日)
2003,5,22
南側のフェンスにからませたつるバラ(おそらくアンジェラ)が満開を迎えた。一足先に咲いていた同じくつるバラのカクテルは散り始めている。毎年思うが、バラは本当に美しい。つるが伸びて年々花が覆う面積が拡大し、壮観である。
ところで「バラ色」とはいったい何色なのだろう。赤なのか、画像のような桃色なのか、白なのか、黄色なのか。たしか、バラは青い色がない。バラが持つ色素では青は作れないのだそうだ。多くの育種家が今も挑戦している。
私にとって、バラ色とは「青」だろう。薔薇色の人生とは、私にとって「青い鳥」のごとくいつまでたっても手の届かないものだろうからだ。簡単に手が届けば、それを追いかけることはしないだろうし、手が届きそうもなければ追いかけもしない。
古代ローマの哲学者のキケロだったか、セネカだったかが、
「人間は自らの幸福には鈍感であるが、不幸には鋭敏である」
といったそうな。私は典型例だろう。
初夏の午睡 (生後271日)
2003,5,21
久しぶりに陽光が差し込み、風もさわやかなよい一日だった。
昨晩は持ち帰りの仕事で午前一時頃寝たせいか昼間眠かった。今日の午後は休暇をもらっていたので、家に帰って『ローマ人の物語』を読むことにした。今、紀元70年くらいのところまできた。ネロが自害して、その後の混乱のところだ。
ところが30分も読まないうちに強烈な眠気が襲ってきた。無理もない。この気候に睡眠不足だ。横になって熟睡した。
「寝るより楽は世にあろか」とは祖母の口癖だったが、とても気持ちよかった。
カンが下で「きゅるきゅる」言い始めて目が覚めた。時計をみると5時40分。まだ眠れる、えっ、朝と勘違いしたのだ。それくらい深く眠り込んでいた。
カンの散歩は自転車でずいぶん遠くまで行った。ずっと走りっぱなしで、よく疲れないなと思うほどだった。
花菖蒲 並ぶ畦道 犬走る
愛犬の 糞する原に 蛇苺(へびいちご)
風抜ける 小部屋で初夏の 午睡かな
はま
春雷 (生後270日)
2003,5,20
夕方、雷とともにかなり強い雨が降った。空気は少しなま暖かく、夕立を思わせるものだった。行く春を惜しみ、夏の到来を告げるかのようだ。
さすがにこの雨では散歩は難しく、カンを少し待機させることにした。小やみになったら行くつもりである。というわけで、普段なら散歩に行っているこの時間に、日記を書いているわけだ。カンは音に弱い。きっと雷が怖いだろうということと、風を伴う雨だと、いくら屋根を広げたといっても、側面から吹き込んでくる。だから室内にゲージを持ってきてそこに非難させた。画像はその様子である。
季節が一つ過ぎ去っていくのは寂しい。もう、しばらく春という美しい季節には出会えない。今日のような天気は、はっきりとそれを分からせてくれる。夏が来る。その前に梅雨があるけれども。
春惜しむ 雷鳴旅出の 汽笛かな
「はま」
ミッシェル・クヮン (生後269日)
2003,5,19
昨日は、カンのあだ名が「カエサリオン」だと紹介したが、一昔前は「ミッシェル」だった。なぜかというと「カン!」「カン君!」「クワン君」「クヮン君」と変化してきたのだ。そして、クヮンといえば、「ミッシェル・クヮン」である。
彼女は中国系アメリカ人で、フィギュアスケートの大選手である。惜しくもソルトレークでは金メダルを逃したが、その表現力は文句なく世界一である。実は、私は彼女の大ファンである。彼女がテレビに出ているとつい目が釘付けになる。UPで見るとものすごい美人ではないが、氷上に舞う姿は、どうして人間の肉体があのような美しい動きや、曲線を描けるのかと、感心し、陶酔してしまう。確かにジャンプなどのパワー系は他の選手に劣るかもしれないし、オリンピックの舞台には弱いかもしれない。でもそんなことはどうでもよいのである。あの、氷上の芸術が全てなのである。
ちなみに欧米人に多い「ミッシェル」という名は、聖書の大天使ミカエルからきているそうだ。フランスに行ったとき訪れた、天空の城「モン・サン・ミシェル」にも登場する。
カンが「ミッシェル!」と呼ばれているのを聞いた人は吹き出してしまうだろうから、外へ出たら「カン!」と呼ぼう。でもミッシェル・クヮンみたいに美しい動きの犬になって欲しい。
そうだろ、クヮン君!
カエサリオン (生後268日)
2003,5,18
「カエサル!こっちだよ。」「カエサル!いくぞ!」
これは散歩中にカンに話しかける言葉である。カンも小さいときからいろいろなあだ名が付いた。「バカんたくん」「カンタロビッチ」「カンキン」「ラカン」「オカンタン」その他である。かつて飼っていた黒柴ボンも17年の生涯の中で様々なあだ名が付けられた。それはボンの戒名によくあらわれている(詳しくは黒柴ボンの犬生をご覧ください)。
今日も一日中『ローマ人の物語』を読んでいた私は、古代ローマのファンになっている。中でも、随一の人気と実力を誇ったカエサルはあこがれの的だ。もちろんそんな能力もチャンスもないと思うけど。
というわけで息子のカンに「カエサル」と名づけて楽しんでいるわけだ。その語尾が変化して「カエサリオン」と呼ぶようになってきている。この名はカエサルとクレオパトラの間にできたとされる「カエサリオン」という息子からという次第である。残念ながらカエサリオンは後のローマの初代皇帝になるオクタヴィアヌスに殺されてしまっているのだけれども、私の中では「カエサリオン」は、母クレオパトラとともにエジプトで過ごしたイメージがある。エジプトにはスフィンクスがある。カンが伏せのポーズをしているとこれに似ていなくもない。イメージが複合してくるのだ。
これからもカンのあだ名は刻々と変わっていくだろう。
田園の憂鬱 (生後267日)
2003,5,17
今日は新しい散歩道を開発してみるべく、今まで曲がったことのない角を入ってみた。しばらく進んで、あちこちの角を、こっちに行ってみよう、あっちにしてみようと曲がっているうちに方向感覚が狂ってきた。ただ、あくまで家から3km以内の範囲であるから、帰れなくなることはない。
しかし、こんな道もあったんだ、こんなに静かな風景もあるのか、と改めて驚いた。それは、畑の間を縫った細い、無舗装の道であり、水はあまりきれいではない小川であり(カンはこの小川をのぞき込んだときフナがバシャバシャと音を立てたのにずいぶん驚いていた。魚は初体験だろう。)、東屋のような古ぼけた建造物であり、林に覆われているちょっとした丘なのである。
どんよりとした空に覆われてはいたが、風は全くなく、車などの文明の利器がたてる騒々しい音もない。時折、老婆が手押し車に座って休んでいたり、農夫がなにやら農具を運び出しているだけである。一時代前にさかのぼったような感覚になる。
今日行けなかった道はまだまだあった。次回試してみたい。
日記を書くこと (生後266日)
2003,5,16
日記を書くことが、はじめたときに想像したのに比べて、ずいぶん長続きしている。インターネット上で公開しているわけだから無責任には書けないけれど、人に見せるというよりはむしろ自分のために書いている割合が多いのではないかと感じる。もちろんカンの成長の記録を文章や写真に残しておいておくことが、記憶だけよりもずっと正確だし、他に犬を飼い始めた人の参考にもなるとも思う。見た劇や映画、本などの感想も文章に残すことで後で良く振り返ることができる。
しかし何よりも文章を書くことで大きいのは、自分が考えていることが頭の中だけよりも、より整理されるということではないかと思う。もやもやしている気分や、想いというものを、より明確に、まず自分が把握することができるということが、最大のメリットだと思う。
以前に比べると、比較的短時間で書くことができるようになった。勢い長くなってしまう。(妻には長すぎるといつも警告される)ただ書くことが心の整理ということにつながり、すっきりするのだ。メンタル系サイトの隆盛はここに理由があるのだろう。
今後も飽きない程度に書き続けたい。カンの日常は、成犬になったことで大きな変化は見られなくなってきているので、犬以外の話題が増える傾向は続くとは思うが。
ちなみに今日から日記にもカウンターを付けてみた。
画像は日記を書き始めた頃のカンです。
雨の降る日は (生後265日)
2003,5,15
梅雨の走りのような天気だった。夕方、傘も差さずに霧雨の中カンの散歩に行ったら、汗と雨でびっしょりだ。そのまま獣医さんのところへフィラリアの薬を取りに行くと、先生は「雨の日の散歩は大変だね〜」といってくれた。体重は9.5kgだった。
私は雨は嫌いではない。元来アウトドアよりも室内を好む。本を読んだり音楽を聴いたりして過ごすのが好きだ。テレビも良い暇つぶしだ。そんな風に過ごしながらも、屋根を叩く雨音を聞きながら、ぼうっと静かに過ごすのが私にとって大きな幸福の形である。
今日マイセンのコーヒーカップを買った。コーヒーをこれに入れて飲む。紫煙をくゆらす。『ローマ人の物語』を読む。至福のひとときである。
ちなみにマイセンは18世紀以来続くドイツ人の陶磁器の会社であるが、実は影響を与えたのは江戸期に伊万里から輸出されていた日本産の陶磁器だという。どおりで昨夏の長崎旅行の際買った伊万里のコーヒーカップとよく似ているわけである。(伊万里産のものは工房で作られたもので8千円位した。マイセンのものはブルーオニオンという種類。)いずれのものも白地に美しいブルーで柄が描かれる。伊万里のものには鮮烈な赤が入る。
ほんの少しだけ歴史を思い浮かべながら飲む雨の日のコーヒーもまた乙なものである。
画像はマイセン・ブルーオニオン
迷い道 (生後264日)
2003,5,14
カンの散歩に行ったとき、時間の余裕があると、知らない角をふっと曲がって、いけるところまでいってみることがある。それはときに散歩ルートの開発にもつながるのだが、迷ってしまってまるで異国に迷い込んだような気分になることもある。車でも同じようなことがある。異次元の世界へトリップすることが。
私の人生は道草を食ったり、迷い道でうろうろ巡り歩いたりということは少なかった。他人から見れば順調にまっすぐな道を歩んできているように見えるだろう。ただ、私ももう人生の折り返し点を迎えたわけで、このままあの世までまっすぐな道を慎重に歩んでいくだけでよいのかという心持ちになることもある。思い切って知らない方角へ角を曲がることも必要なのではないかと。その道がどこへ向かい、どんな危険が潜んでいるかは分からず、まっすぐ行くよりはよりリスクが高いということは承知の上で舵を切る必要がそろそろ来ているのではないかと思う。それはどこの道を曲がればよいのか、右へ行くのか左へ行くのかは今はまだ知らない。
迷い道ならぬ「迷い犬」ほど切ないものはない。獣医さんの待合室や犬の雑誌、インターネット上でも、探しています、という広告を見ることがある。いかにその犬を失ったことによる飼い主の喪失感が強いかを目の当たりにする。
カンよ、脱走して迷い犬にならないようにしてくれよ。
心をなくすと (生後263日)
2003,5,13
何となく先が見えてきた。後3日頑張れば待望の休日だ。木曜日は午前中は休めるし、この連戦も何とか乗り切れる予感がする。休日は雑草取りや苗をポットに移す作業もある。また、虫が付いてしまった花木などを消毒もしたい。やることはいろいろあるが楽しみだ。
2階の室内に観葉植物を置いてある。カポックとオリヅルランだ。これらはもうかれこれ10年は育てており、結婚する前からの数少ない植物だ。ところが3月中旬に沖縄に出張した頃から全く水をあげていなかった。気がついていたし、あげようと思えば3分であげられる。それをしてこなかったのだ。「忙しい」という字は心をなくすと書く。確かにここ2ヶ月はばたついて過ごした。それ以上に精神的なゆとりがなかったことのいい証明だと思う。優先順位が無意識に私の中にあって、後回しにしてきたのだと思う。昨日見てみると、本当に枯れそうな感じだった。そこで水をたっぷりあげた。生き返ってくれると信じて。そしてこの水は、私の心への復活の源泉となるべく、私自身を潤すためになって欲しいとも願う。
カタストロフィー願望 (生後262日)
2003,5,12
昨晩の地震には少し驚いた。目が覚め、その後1時間くらい寝付けなかった。関東地方にもそのうち、阪神大震災級の大きな地震が来るかもしれない。カンは全く予知しなかった。予知犬としては使えないだろう。
私は時に大きな変動を欲するときがある。まず、台風と大雪が好きだ。「どうして〜」と妻に言われるのだが、一つは仕事が休みになるのではないかという淡い願望のためだ。これは理由がはっきりしていいのだが、もう一つは心の奥底の闇の部分がそれを求めているとでも表現できようか。おそらく、絶え間ない閉塞した日常から解放されたいということもあるのだろう。ただ、もしそういったことが実際あったのならば、安定した生活は吹っ飛び、ゆっくり眠ることもできず(私は枕が変わると眠れない方だ)、食べ物すら手に入らないことだってあろう。そうなればこんなの嫌だ、となるに決まっている。
ならば、野次馬根性みたいなものかもしれない。ほとんどの人々は、自分に関わりなく何か事件があると、見てみたい、知りたいと言う願望を持つのではないか。人の不幸は密の味、ともいう。
人間そのものが起こす最悪の事件に「戦争」がある。北朝鮮が核兵器の保有を認めたそうだが、今世界が揺れ始めたところなので、偶発的に何が起こるか分からない。
何もないことに幸せを感じることができる感性をもっと成長させたい。カンとともにの生活だ。今日は霧雨の中散歩に行ったが、泥がはねるのが嫌なのか、走りたがらなかった。
暴れん坊将軍 (生後261日)
2003,5,11
今日仕事が終わって6時過ぎに帰宅すると、ちょうど妻がカン散から帰ったところだった。今、毛が抜けるのがピークのため、ブラッシングしようとしたのだが、激しい抵抗にあって断念したところだという。そこで手伝うからやろうよ、と言って二人でやってみた。ところがやってみてとても素直にやらせる様子はない。大暴れなのだ。仕方がないのでそこそこやって今日は切り上げた。妻は久しぶりに仕事がなかったので、部屋の掃除をしたことから、カンの入室禁止令が発令された。ところが、私が夕飯をやるためちょっとガラス戸を開けると、一瞬の隙をついて侵入してきた。「コラ!入っていいって行ってないでしょ!」と妻は激怒する。私と二人で捕まえようとするが、あっちこっちへ逃げる。やっと捕獲に成功して、外へ出したが大騒動だった。
最近しつけが進んで、「おすわり」や「お手」がえさなしでもできるようになったところなのに、まだまだ飼い主をリーダーと認識していないようだ。
それからドッグフードを今日から変えてみた。今までサイエンスダイエットのグロースをあげてきたのだが、もらい物の子犬用フードをやった。味が変わったせいで新鮮に感じるのか、えらく食いつきが良かった。ただ、これは1kgしかなく、サイエンスも残り少ないので、これらが全部終わったら成犬用に買えてみようかと思っている。
画像のトレーナーは皇太子妃雅子様が皇太子殿下と愛犬の散歩に出かけられたときにお召しになっていたメーカー(Reve de Femme)のものです。
現実は厳しい (生後260日)
2003,5,10
古代ローマの英雄ユリウス・カエサルはほとんどの戦いで、戦力的には敵の半分くらいしか兵力がなくても、勝ち続けたという。有名な言葉に小アジアのポントス王を破った戦いの時、カエサルは元老院に「来た、見た、勝った!」と報告しているそうである。いかに彼が戦上手であったかを物語る言葉だ。ちなみにこの「来た・・・」は今でもアメリカの煙草のマルボロのパッケージに記されているという。
実は今日、私の関係しているスポーツのチームが、年に何回とない大事な戦いがあった。結果として完敗であったが、私はもう少し競ると予想していた。これもまたカエサルの有名な言葉だが、「人間ならば誰でも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない。」がある。私は都合良く現実を見ていた。
実は明日、敗者復活戦がある。そのため、今日のゲームで敗色濃厚になったとき、「うまく」負けるという必要があった。怪我をせず、体力を温存し、かつ精神的なダメージを負わないような撤退が要求された。カエサルも数少ないが、撤退を余儀なくされたことがある。ガリア(フランス)でもポンペイウスと対決したギリシャでも。できるだけ味方の兵の犠牲がないような退却だ。カエサルはこれもうまかった。ちなみにカエサルの名から、ドイツ皇帝の「カイザー」やロシア皇帝の「ツァーリ」などの言葉が発生している。イギリスやフランスを文明化へ導いたのもカエサルだ。
今日の我々の撤退行はまずまずだったと思う。明日の反転攻勢に期待したい。
画像は今日のカンです。
リラックスタイム (生後259日)
2003,5,9
昨日の続きだが、仕事上のストレスを低減する方策として、さらに11の考え方が示されている。
11,信頼関係を確立する。
12,間違いを認める。
13,自分が象徴だと思うな。(あなた一人が重荷を背負う必要はない)
14,おそれず不満を言う。
15,仕事がらみの昼食はさける。
16,自分の資金計画をたてる。
17,退職の目標を定める。
18,良い聞き手であれ。答えは手短に。
19,時計を進めておく。
20,仕事を変える。
21,今日のことを考える。
以上であるが、この本には「生活」におけるストレス低減法について、さらに53もの提言を行っている。これは後日にしたい。
私にとって17や20は非現実的であるので、それ以外を実行していくほかない。19は、時間の余裕を持って行動することがリラックスにつながるというのだが、今朝あたりは時間に追い回されていた。むろんぐずぐずしていた私の方に問題があるのだが。
今朝、私はカンの散歩当番に当たっていた。夕方、仕事が遅くなりそうで行けないためだ。散歩出発をもう少しはやめれば余裕を持っていってこれるし、通勤も落ち着いていけるのだが、疲れて寝不足だと、「カン散」が億劫になりついぎりぎりの時間に出発になってしまう。散歩に行くと時間がないためカンを急がせることになる。私は朝は自転車で行っているので、猛烈なスピードで走らせることになる。これは危険でもあるし、おしっこ、うんこの時間をしっかりとれない。それでいて決まっているルートは踏破しないと気がすまないのだ。これではせっかくの朝の空気を楽しむどころではなく、カンとの散歩もストレスになってしまう。カンとの時間は重要なストレス解消に当てたい時間だ。
画像はパンジーを雑多に植えたハンギングバスケット。植物を眺めるのもリラックスタイムです。
ストレス教室 (生後258日)
2003,5,8
ここのところ首が痛かったり、腰痛に悩まされている。今朝などは腿の裏側にまで痛みが来た。ぎっくり腰を繰り返したためヘルニアに移行したのか、筋肉がどこか炎症を起こしているのかはわからない。また、パソコン中や仕事中の姿勢の問題もあるかもしれない。毎日ストレッチと腹筋はやるようにしているが、今のところ効果がない。レントゲンを撮ってみた方がよいかもしれない。カンの散歩に支障をきたすからである。
私はこの腰痛もストレスから来ているのではないかと勝手に思っている。心身症とはストレスが体に表れる病気だからだ。何しろ仕事があまり好きではない。出勤拒否症かもしれない。職場で発生する何らかの心理的ストレスによって、職場に出かけることができなくなる症状だ。笠原嘉(心理学者)氏は、子供の不登校や大学生のスチューデント・アパシーも含めて、本業だけから選択的に逃げ出してしまうこうした神経症を一括して退却神経症とよんでいる。まさに退却状態だ。
『ストレス教室』という本がある。この本の中に仕事の緊張を緩和する方法(考えかた)が出ている。紹介すると、
1,緊張する仕事などはない、と思う。
2,過労などということはない。
3,あなたの本当の関心事を見つける。
4,自分の目標を表にしてみる。
5,失敗をおそれてはいけない。
6,完全主義者になるな。
7,不平を書き留めてみる。
8,自分自身であれ。
9,おそれず昇進・転属を拒否する。
10、新しい仕事に思い切った変化を企てない。
とある。実はさらに後11個の方法があるが、長くなりそうなので次回に回す。
皆さん参考にしてみてください。
画像はシェードガーデン(日陰の庭)に咲くアジュガです。
アルバム (生後257日)
2003,5,7
カンの成長記録は、私が制作するHPとともに、家では写真を貼り付けたカン用のアルバムがある。これは妻の担当だ。写真を切り張りしたり、コメントを付けたりしておもしろおかしく演出をして楽しんでいる。昨日今年に入ってからの分の写真をパソコンからスマートメディアに移して、写真屋さんで現像してもらった。その半分以上はHPで紹介済みのものであるが、改めて見るととても楽しい。暇を見つけては手に取ってしまう。
私は写真を撮っても、それを上手にアルバムに貼り付けたりするのは苦手で、束にしたまま箱の中にどさっと入れておく。半年に1回ほどそれを見ることがある。私が幼い頃、小学生中学生の頃。高校の時の写真はなぜかほとんどない。自意識過剰な年頃で、写真に撮られることを拒絶していたからかもしれない。ちなみに高校の時まで坊主頭だった。
今夜のようになま温かい南風が、湿気を運んでくるような日には『南十字星』という曲を思い出す。西条秀樹の曲だが、あまり知られていない。私は、自分の思い入れ込みで、西条秀樹の曲の中では最も良い曲の一つだと思っている。部活帰りの夜道にしめった南風を浴びて友人と自転車に乗っていた場面。家に帰ってからも疲れた体にむち打って英語の予習をしたこと(これをしないと翌日ちんぷんかんぷん)。あこがれの彼女に想いを巡らせていたこと。・・・いろいろなことが去来する。高校1年の時だった。若葉が強烈な匂いを発していた。
どこを探してもこのころの写真は見つからない。
フロリバンダのバラ「チャールストン」…四季咲き…が咲きました。(画像)
銀河ステーション (生後256日)
2003,5,6
絶対安静期が過ぎて(森田療法ではないが)、少しだけ心に余裕が出てくると、なぜか旅への誘惑に駆られる。今日のようにさわやかな春風が吹く中カンの散歩に出かけると、途中の記憶がとぎれとぎれだ。空想の中を遊泳していたのかもしれない。どこかへ時間旅行に行っていたのかもしれない。
『銀河鉄道の夜』という作品は宮沢賢治の名作だ。友人を助けようと川に飛び込んだカムパネルラは死んでしまう。それを知らないジョバンニは、カムパネルラとともに銀河鉄道に乗り天の川の旅に出る。宮沢賢治の異国情緒あふれるネーミング、そして登場する言葉のイメージは多彩だ。この旅の中だけでも化石、銀河ステーション、イルカ、賛美歌、燈台、氷山、南十字(サザンクロス)、白鳥、溶鉱炉、帚星、などが登場する。これらイメージの複合が読者を異次元の空間に誘う。
ジョバンニはカムパネルラを見失ってしまう。彼のいたところに正体不明の男(学者のようだ)がいる。彼はジョバンニにカムパネルラにはもう会えないと告げ続けて
「だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
さらにこの男が続けて指を一本あげて静かにおろすと、
「するといきなり、ジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりになってしまうのを見ました。」
と続く。
私が以前呼んだことがある法華経に宮沢賢治は信仰を持っていて、その雄大なスケールは似ているものの、賢治の世界はまた独特である。結局ジョバンニはこの後現実世界に復帰し、カムパネルラが川に落ちてもう45分上がってきていないことを知る。
鉄道旅行は私の最も好きなものの一つだ。機会があったら行きたいものである。
画像はボンの孫マミです。(Tさんの犬だが私の実家で預かっている)
立てば芍薬、座れば牡丹 (生後255日)
2003,5,5
連休最終日。私にとって痛恨の極みである。今この文章を書いているのが、午後3時半であるが、はやくも「サザエさん症候群」が始まっている。明日から12日連続勤務が待ちかまえている。腹を決めて迎えねばならない。でもそういいながら、どうやったら省力勤務ができるか、メンタル面での消耗が防げるか、に頭が向かっている。全く自分であきれるほどの仕事嫌いである。
午前中、私の父母が来訪してくれて、カンとひとしきり遊んでくれた。例によってたくさんのお土産を持ってきてくれた。そしてカンを褒めてくれる。「いい犬だね」「性質がいいね」「形が良い」などだ。カンを交えながら、フランス旅行の話や、黒柴ボンの昔話、柴犬はなの近況に花が咲いた。
それにしてもすばらしい陽気だ。庭の花々も輝いて見える。ちょうどシャクヤクの花が咲いた。サカタのタネから入手した真っ赤な花を付ける品種で「レッド・レッド・ローズ」という名だ。深紅の色が庭の中でひときわ目を引く。ちなみにシャクヤクは「草」に分類され、牡丹は「木」に所属するのだそうだ。牡丹もあったのだが、昨年枯れて抜いてしまった。
昔の人は美人の形容に、「立てば芍薬、座れば牡丹」と言ったそうだが、この言葉をカンに贈ってみたい。…褒めすぎか?…でもしつけには容赦しないぞ!
画像はレッド・レッド・ローズです。
キャッツ観劇記 (生後254日)
2003,5,4
わざわざ静岡まで行って『キャッツ』を観た。私の実家があるのだが、逆に父母は関東に来て温泉旅行に行って不在のため留守を預かる形だ。実家犬マミの散歩も仕事のうちだ。
静岡市民文化会館で行われたのだが、私が高校生だった20年前、私はここの友の会の会員で、歌舞伎やらオーケストラやらを観た。その体験が今の芝居好きにつながっていると思う。
さて、『キャッツ』を通してみた感想である。台詞は全くなく、全て歌の中で説明が加えられているため、良く聞き取れないところがあった。幸い妻がこの芝居を観るのがこれで4回目で、解説をしてもらったため、筋を理解することができた。歌、踊りがメインであると感じた。特に踊りはもう少し前の方で観ないとその良さは体感できないと感じた。(我々は2階席だった)
いろいろな猫が出てくる。もちろん人間世界を投影している。ただ、猫に姿を変えることで、距離を置いて、客観的に猫たちの立場を観ることが可能だ。そのあたりがこの芝居がロングランを続けている理由なのではないか。前半部では、おばさん猫、不良猫、泥棒猫、金持ち政治家猫、ぼろぼろなコートを着たいじめられる娼婦猫、が登場する。私は休憩を挟んだ後半部の方が、時の経つのを忘れるほどの感動を得た。特に、老俳優猫の回想部分、おきまりのパターンなのは分かっているのだが涙がこぼれそうになる。鉄道猫やマジシャン猫が登場した後、例の娼婦猫が、年に一度天上に昇るNO1猫である「ジェリクル・キャッツ」に長老猫によって選出される。その直前有名な歌「メモリ〜」を娼婦猫が独唱する。「♪お願い、私に触って、私を抱いて、光とともに♪」ここが感動で胸が詰まってくる部分だ。
不幸な境遇や他者からの排斥に苦しんだ人生も、たった一度でいい、人生のスポットライトを浴びてみたい。そしてこの世を去りたい。生きてきた痕跡を残したいと感じるのは誰しも感じることなのではないか。私は梶井基次郎の『檸檬』を思い出した。設定は全く違うが、テーマは同じだと思う。
またいい芝居があれば観たいと思った。
中型連休 (生後253日)
2003,5,3
どうもまだ疲れがとれない。沖縄、フランス、群馬、そして4月の喧噪。この3日間でどこまで回復するか。その次の週も10,11日の土日が出勤になるため、ここで休んでおいた方がいいだろう。全く私は虚弱体質だ。
今日これから、実家の静岡に向かう。劇団四季の『キャッツ』を観るためだ。新幹線で明日とんぼ返りだが、楽しみだ。カンはまた妻の実家に預ける。
これからカンを連れてそこまで歩いてみようと思う。1時間くらいかかるだろうが、新緑のすばらしい空気の中をぶらぶらしてみたい。カンにとっては少し日差しが強いかもしれないが。
昔、真夏に妹と黒柴ボンを連れて海辺まで歩いた。アスファルトからの反射熱は、今思うと想像を絶したと思う。ボンは途中、前足は前に、後ろ足を後ろにまっすぐのばした状態で、のびてしまった。(私の家族ではウルトラマンスタイルと呼んでいる)途中の公園で水を飲ませたりしながらやっと帰り着くことができた。往復15kmはあったと思う。ボンは黒いからよけいに暑かっただろう。ボンは浜辺につくと波に突進していった。知らないということは幸せなことである。波をかぶったボンはしっぽを垂らしてすごすごときびすを返し、2度と波に近づかなかった。
犬の熱中症は意外と多いという。室内、車の中も要注意だ。カンにとっても暑さは大敵となろう。
いや〜な顔 (生後252日)
2003,5,2
カンのしつけ教室を強化し始めた。むろん「はな」の優秀な姿に影響されてのことだ。カンはえささえあげれば「おすわり」も「お手」も「伏せ」も「待て」もほぼ完璧にできる。ただ、えさなしだととたんにダメなのだ。ここ2〜3日は妻も加わって行っている。まず、えさがないと近くに寄ってこない。やっと近くに来ても、おすわりしない。お尻を押さえつけてやっとすわらせるか、調子のいいときは、しつこく「おすわり」と20回くらい言い続けると、1分30秒くらい経って、やっと座る。「お手」も同様だ。「伏せ」に至ってはほとんどしない。できたときは夫婦で感動を分かち合いながら、褒めまくる。「さすが名犬」「カンはその辺の犬とは違って賢いね〜」とか言いながら。
でも出来が悪いとつい厳しい口調になってしまう。昨日も座っているカンに「伏せ」を命じても全然やらなかった。カンは目を合わそうとしない。そして私の方を少し上目遣いでのぞき込んだ。その表情は何とも形容しがたい嫌そうな顔であった。卑屈そうというか、悲しそうというか、見た私も嫌になってしまう顔つきだった。かわいそうになったのでこの日のトレーニングはやめた。
今日も少しやってみた。昨日とあまり代わり映えしないかった。やはり時間がかかるのかな。性格的にきかん坊なのか。飼い主の態度の問題なのか。よく分からない。根気よく繰り返すより他なさそうだ。ただ、卑屈な性格にだけはなって欲しくない。
画像はシェード(日陰)ガーデンに咲いた「西洋シャクナゲ(ロードデンドロン)」の花です。
土手沿いの道 (生後251日)
2003,5,1
みどりの日にカンに対して新しく始めたことが二つある。
1つは首輪とリードを新調したことだ。首輪は今まで子犬用を付けていて、いかにも不釣り合いな感じだったし、カンが噛めばすぐ切れてしまいそうだった。だから太くて丈夫な柴犬の成犬に適合するものを選んだ。しかも2つも買ってしまった。妻はナイロン製でカチッと止められるパッキン式を欲しがり、私は革製のベルト式が欲しかったからだ。それなら二つとも買おうということになった。ひもの方は今までのものより一段と太くて、なおかつ夜、光が当たると反射するものにした。我々は仕事をしているのでどうしても暗くなってから散歩に行くケースが多い。カンと我々の安全を考えてのことだ。
もう一つは新しい散歩道の開拓だ。うちのそばに小さな川が流れている。その両側の土手に、舗装もされていない、夏になると草に覆われそうな小さな散歩道がある。これを延々と進み、2つめの橋を渡って反対側の土手を戻って来るというコースだ。途中少しランニングを入れても小一時間かかる。ただ、今日も行ったのだが、今日のような暑からず寒からずの陽気の時は最高だ。犬も多かった。灯りがないので、冬場の夜は無理だろう。夏は舗装されていない分涼しくていいかもしれない。
この道も一つの選択肢に入れておこう。
画像は、そろそろ終わりを迎えたチューリップです。