私達を取り巻く世界を、うつろいやすく、形のさだまらない、例えば風のような、炎のような、水のような、そんな揺蕩うイメージの集積として促えてみよう。それは、感じる事はできるが見えない、見る事はできるが手に取れない、そして器によつて形を変える、そんな変幻自在なものである。そのような世界は、常に時間と空間に苛まれている自分自身の心象にも似て、どこか頼りない。私はそんな頼りない現実にひかれる。だがこのような現実は、ほんの一瞬まばたきをするうちに逃げていってしまう。現象はとどまらないのだ。微かな余韻を残した残像が網膜に記憶されるだけである。
また時折、日常のなかで自分という存在を見失う感覚におそわれることがある。たとえば、空を眺めていたり、海を見つめていたりした時、フッと我にかえる以前の、あの思考停止の状態がそれである。そんな時、自分はいま何処にいたのかという不安をともなった疑問に突き当る。私達はこのような時間と空間の隙間を生きるものでもある。
たとえば、水墨画の無形の空間や余白が形態や色彩を超越した意味を表わす、あの沈黙の世界と、この不安をともなった思考停止の空間や、先の頼りない現実がオーバーラップして感じられるのは私だけなのであろうか。絵画はそんな消えゆくものと、とどまるものの間にある、不確かな世界を平面という網膜に焼き付ける作業なのだと思う。
私は今、「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く(中略)我々の心は此の如きものを求めて巳まない…。」と言った、西田幾多郎の言葉を思い出している。