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『小松左京フライバイガイド』 2005年6月号


−−−−−−−−−−−−−−−− 刊行 −−−−−−−−−−−−−−−−−−

★6月12日 朝日新聞大阪版一面「大阪万博の『未来』は問う」にコメント掲載。

★6月15日発行 『土木学会誌』6月号vol.90に「国土学の誕生に向けて」掲載。

★6月    共同通信配信「戦後の風景ー漂流の軌跡」〈成長の夢〉上で、
       大阪万博についてインタビュー掲載。


−−−−−−−−−−−−−− 講演・放送 −−−−−−−−−−−−−−−−−

★6月17日 かんべむさしさんのDJ番組ラジオ大阪の「むさし・ふみこの朝は
       ミラクル」に電話で生出演。


−−−−−−−−−−−−−− 臥猪庵 hic −−−−−−−−−−−−−−−−−

平成17年(2005)水無月(6月)1日

切り絵作家の久保(修)ちゃんと、千里クラブで会う。
守口で朝日新聞主催の展覧会を終えたばかりとのこと。彼とは25年も前に会って
以来、切り絵の域を超えた「芸術的パワー」に圧倒されて応援してきた。いまや、
郵便切手になったり年賀葉書になったり、その力量は広く評価されているが、彼の
これからめざすことも含めて、話を聞いた。「小松左京マガジン」第19巻に掲載
するので、お楽しみに。
その後、梅棹さん、石毛さんとジャーヌ・コビーの「木曾の民家」をフランスで展
示するために日本でどのような応援が出来るのか、相談した。8年、9年越しのプ
ロジェクトだ。4年前にパリに移送したのだが、建築許可が下りなくて、今まで来
てしまった。来年の5月には、何とかMusee de l'Homme で展示できるかもしれな
いとのことだが、さて、どうなるだろうか。


平成17年(2005)みなづき(6月)2日

愛・地球博見学。
朝10時に名古屋駅集合。大阪・神戸からと東京からと地元と、総勢22名の一団
だ。コマケンメンバーで地元の「三河のチチ」が、マイクロバスの手配や車椅子の
レンタルをしておいてくれ、こちらで頼んで置いた協会の儀典室の案内に従って、
あわただしくも要領よく、盛りだくさんのメニューをこなすことが出来た。あいに
くの雨にも関わらず、会場の人気パビリオンには行列が出来、日本館でも100分
待ち。キッコロゴンドラで上から見下ろすと、会場のほとんどを元々ある森が覆い、
パビリオンエリアをグローバルループというデッキが結んでいる。こんな雨でも入
場者数は8万人とのこと。その多くがやはりパビリオンをめざすので、どこも入場
待ち何時間になってしまう。「自然の叡知」をテーマにせっかく自然を生かした会
場づくりをしたのならば、パビリオンではなく自然の中にもっと散らばる工夫があ
ってもよかったのではないか。


平成17年(2005)水無月(6月)3日

愛・地球博の影響で、名古屋市近辺では宿をとることが出来ず、結局、「三河のチ
チ」のコネで吉良吉田町の旅館「東宴」に泊まった。
テレビに出てくるような美人の若女将が、私のファンだといって『旅する女』を差
し出したので、嬉しくなってサインした。地元で採れたものばかりで昨晩は豪華な
夕飯を用意してくれ、おいしい酒で盛り上がった。
今日は、やはり地元の名物、西尾茶のメーカーとミツカン酢の醸造工場と博物館、
そして、例のセントレア空港を見学。
空港は、階段は極力少なく、ほとんどをスロープにして動く歩道で結んでおり、荷
物を持った客には有難い。また、国際線と国内線が同じフロアーでトランジットの
距離が短く、名鉄やバス、タクシーの乗り換えも判りやすく、動線がシンプルなの
は、よくできている。また、建築費を節約するだけでなく、維持コストも削減する
ために自然光を採り入れた造りには感心した。「トヨタ方式」が徹底して成功した
事例だろう。
「手頃な大きさ」というのが、これからはもっと大事に考えられても良いのではな
いかと思う。 セントレア空港は、手頃な大きさの快適性を感じることが出来た。


平成17年(2005)みなづき(6月)10日

 三高蹴球部の懇親会が阪急グランドホテル19階の関西文化サロンであった。
私は三高最後の学年なので、最年少ということになる。先輩達が背筋を伸ばして矍
鑠としていると、こちらもしっかりしなければならない。
 そのあとで、朝日新聞生活文化部の記者と会い、70年大阪万博の話を取材され
た。6月12日に掲載されるのだそうだ。戦後60年シリーズの一環らしい。
自宅まで送ってもらう。


平成17年(2005)水無月(6月)17日

 今日は朝7時から、かんべむさしのやっているラジオ番組に電話で出演するため
にスタンバイ。7時半に局から電話がかかり、本番は7時40分からとの確認。
番組は、6時50分から8時52分の「むさし・ふみこの朝はミラクル」の中で
「日産ラジオナビ」のコーナー。ラジオ大阪は、私にとっては足を向けて眠られ
ない場所の一つなのだ。
 昭和34年から「いとし・こいしの新聞展望」の台本を書かせてもらい、昭和
39年からは米朝さんとの「題名のない番組」をやらせてもらいで、楽しい思い
をさせてもらった。
そんな当時のことをしゃべったのだ。


平成17年(2005)みなづき(6月)24日

 千里クラブで、朝日新聞生活文化部の「戦後60年を生きる」コラムのインタビュ
ーを受ける。7月7日、8日の夕刊に掲載。「地には平和を」を読んできてほしい
といっておいたら、読んで涙が出たとのこと。
私にとって、戦争がなかったらSF作家にはなっていなかっただろう、という話だ。
戦前、少年時代から『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』で、空想科学小説は読んでお
り、『子供の科学』も読んでいた。しかし、空想だと思っていた「原爆」が、実際
に日本に2発も投下されて火の海になるとは思ってもいなかった。人間のイマジネ
ーションの延長としての科学が、これだけ人間社会にコミットする世の中に、人間
のことを追究するならば、SFしかないだろう、と思ったのは、戦争がきっかけだ
った。

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