「平成16年度予算編成に対する区議会各会派の意見・要望」
(世田谷区議会月報 臨時号 平成15年12月 No.530)に掲載
会派「無党派市民」(木下泰之区議)
平成16年度予算編成に対する意見・要望
はじめに
28年の大場区政が終わった。代わりに、熊本区政が始まった。私は一人会派「無党派市民」として大場区政の野党であり続けてきた。区長選においては、大場後継の水間候補(前助役)も元自民党都議の熊本候補も支持してこなかった。
したがって、当然、野党の立場で新熊本区政に対峙することは言うまでもない。しかし、区議である以上、区政にものを申していくのは当然の義務である。平成16年の予算編成を前に、区政のあり方について、いくつか提言しておきたい。
1、 世田谷は住宅地であることを忘れてはならない。
大場区政の頃、「世田谷独立宣言」というのがあった。これは世田谷をゆくゆくは政令指定都市にしていきたいという「願望」のもと提起されたものであるが、この問題提起によって世田谷のあり方が大きくゆがめられてきたことをまずもって指摘しておきたい。
もとより、私は世田谷を自治体としての自治権を拡充しようということに異論を唱えるものではない。しかしながら、世田谷にオフィス超高層ビルを導入し、都心や副都心にあるような商業施設をまねた繁華街を形成しようということには反対である。
世田谷は城砦都市ではない。都心・副都心と共存する居住地域なのだという認識が必要であると考える。
街には歴史性がある。世田谷は江戸時代から明治期にかけては江戸近郊・東京近郊の農村として存在したが、近代化が進むにつれて、近郊居住地区として発展してきたことはいうまでもない。
東京のスプロール化や大東京圏がのんべんだらりと広がっていったことは、その是正が迫られているが、世田谷が都心や副都心に働く人々の居住空間を提供し、居住地域としての文化を育んでおり、そういった地域が豊かな居住空間として発展することこそ、都市にとって重要だということを片時も忘れてはならない。
都心や副都心に三、四〇分そこそこで通勤できる地域の居住空間としての豊かさこそ、東京の豊かさの証とならなければなければならないはずである。
2、 世田谷の「開発」の遅れは、環境の世紀の最先端と考えよ
世田谷は農村から居住地域へと発展してきたために、農道がそのまま利用され、道が狭いために車社会には極めて不都合な地域として疎んじられてきた。タクシーの運転手さんが世田谷に入ることを嫌うこともうなずける。しかしながら、だからこそ、世田谷の低層で緑豊かな居住空間は守られてきたともいえるのである。
日本の都市計画の諸基準は道路の幅に依拠するところが多い。広い道路が隅々まで行き渡らなかったことにより世田谷の低層居住は守られてきたのである。
しかしながら、世田谷は一方で環七や環八、甲州街道、246、中央高速、東名、首都高速と広域幹線道路施設の一部を既に受け持っており、この沿線地域では深刻な大気汚染や騒音被害を受けてきたことも忘れてはならない。これに加えて補助幹線道路網を都市計画どおり格子状に整備してしまっては、世田谷区は緑豊かな低層居住地域の地位を失ってしまう。
いま、小田急線の連続立体化事業が進められようとしているが、連続立体事業とは鉄道と交差する道路を新設ないしは拡幅する道路事業である。小田急線連続立体事業は、世田谷区においては戦後占領下に強引に決められた古い格子状の道路計画を通し、大規模再開発を実現することが狙われて進められてきた。世田谷の居住空間を守ろうとするならば、本来は、格子状の道路計画の再検討から始めなければならないはずであるが、世田谷区政は既存の都市計画道路は必ず実現させるということを至上命題として一切の見直しのための動きを示さなかった。皮肉なことではあるが、昨今は財政難から東京都によって区部の都市計画道路の見直し再検討が提唱されたが、世田谷区は都市計画道路の再検討の動きを示そうとしていない。
小田急線の連続立体交差事業は高架問題と相まって事業認可違法の判決を東京地裁から受けており、本年12月18日には東京高裁の判決を受けることとなっている。
世田谷区は違法判決を教訓として、世田谷における補助幹線道路網の見直しを一刻も早く始めるべきである。
私は世田谷を通過する補助幹線道路網の内、多くはいらないと思うし、既に整備された道路の一部はそのまま自転車や歩行者専用の道路に転用したり、道路計画をトラムに改めたり様々な工夫がなされてしかるべきであると考える。
過度な車依存社会から脱却することが、もはやだれでもが指摘する「環境の世紀」の課題であることはいうまでもあるまい。世田谷は農村地域と比べれば歴然とするが、交通の便が悪いわけではない。自動車交通依存から脱却し、自転車を活用できる環境整備が整えば、大概は自転車と公共交通で用が足りてしまう便利地域でもあるはずだ。
3、 防災は道路整備・都市基盤整備よりもソフト対応からはじめよ
行政が防災を語るとき、口を衝いて出てくるのは、道路整備・都市基盤整備であるが、本当にそれでよいのだろうか。
災害は今日襲ってくるかもしれない。関東大震災から80年を経た今、地震の周期説からいっても、いつ起こっても不思議ではない。
そうであるのに、災害対策を道路整備・都市基盤整備のみから、しかも通り一遍の道路づくりで押し通そうというのは、土建屋の利権がらみであるとしか思えない。道路・不燃化は推奨するが、ミニ開発や建ぺい率・容積率目一杯のマンションの規制に目が向かうことなく、ましてや都市空間を使い過ぎないことや庭の緑の重要性が語られないのはどうしたことか。そもそも、超高層が出現しようというのに、行政側から、その災害時の問題点が指摘され超高層の抑制が促されるという事案を見たことがない。
私は、災害に強い都市基盤整備は、もっと多角的に検討されるべきであり、決して道路づくりに特化すべきではない。路上を走る自動車や災害時に放置された自動車がかえって災害時の危険物であることさえあるのだ。
重要なことは、ハードの面からいって完全に安全な都市などありえないということだ。
むしろ、頭を使い、ソフト対応を充実させるべきである。狭い道路対応の消防自動車の開発や水源・貯水池の確保の工夫も必要だろうし、旧習の支配する消防団の改革や区民が自らの安全を守るためのノウハウも含めた多角的、実際的な対応こそ必要とされている。
4、 真の環境先進自治体となれ
私は今期議会への選挙において、「みどりの会議」推薦の候補者として選挙戦を戦い当選した。現代政治のみならず、社会・文化の価値機軸の中心に据えられなければならないのは環境であると考えている。
真の人間にとっての「ゆたかさ」はGNPにあるのではない。生物としての人間には限りがある。人間の生存を成り立たせる地球の存在条件にも限りがある。欲望の追及の抑制は、いつも行き過ぎへの反省として人類史の中で何度も試みられてはきたが、資源浪費と戦争の世紀となった20世紀への反省を本物にしなければ、人類の生存自身危ぶまれるところへ来ている。
都市経営の問題を考えるとき、世田谷区自らの存在と政策が環境への負荷を如何に減らし、また降り懸ってくる外的な環境の悪化を如何に防ぐかが課題となっている。
世田谷が基本的に住宅都市であることを考えれば、次のことが必要である。
1)
ごみ対策をビルトインした生産方式への転換こそ必要
ごみ問題は、区民と行政の努力によって経年的に減少させることに成功している。しかし、これは区民の税金をごみ処理に投下してできていることであり、過渡的にはいたし方ないにしても、抜本的な発想の転換が必要である。生ごみは別として、工業製品のごみ対策は生産者が製品の資源循環を考え、その回収・処理をもビルトインした生産を義務づけるべきである。そうすればごみの総量はおのずと減るし、業種単位の回収・処理産業が成り立つこととも相まって、自治体のごみへの関与は衛生管理としての本来の生ごみへの対応で済むことになる。
莫大なごみ処理費用を抱える基礎自治体として、ごみ対策をビルトインした生産方式への転換を国と産業界に働きかける先頭に立つべきである。
2)
ガス化溶融炉建設からは撤退を
現在でもごみが減少している状況を勘案すれば、砧清掃工場にガス化溶融炉を建設する必要はもうなくなっている。ガス化溶融炉は恒常的に大量のごみの供給が前提とされる技術であり、資源循環を目指す社会とは相容れなくなっている。
ダイオキシン対策への有用性が言われ、導入の理由のひとつとなっているが、ダイオキシンはもっと抜本的総合的対策で減らすべきであり、他の重金属等有害物質問題をも抱え、なおかつ、不安定な新技術であるガス化溶融炉に固執することは間違いである。
3)
全ての公共施設に太陽光発電を!
原発事故続発とその隠蔽が原因で原子力発電が停止となり、エネルギー危機が叫ばれた。時代は脱原発に確実に向かっている。都市部自治体が率先してやるべきことはピーク電力を減らす施策を出来ることから始めることだ。
私は6月議会で、砧公園に風力発電を、公共施設に太陽光発電を、という問題提起をした。
砧公園への風力発電の問題提起は、正に、自然エネルギー利用の象徴的モニュメントとしての問題提起だが、公共施設での太陽光発電は、全ての区立小中学校、全ての公共施設で設置可能なところに付けるようにすることが肝要である。そういう自治体が増えれば、太陽光発電コストは格段に安くなるし、民生用にももっと普及するようになるだろう。
個人住宅への設置誘導も合わせて進めることを含め、世田谷区が全国の自治体に先駆けた太陽光発電の街になることを提唱しておく。
4)
「公害・環境部」の復活と環境問題及び消費者相談窓口の充実を
国政では環境庁が環境省に昇格したにもかかわらず、世田谷区での環境セクションは、公害対策部が環境部へと名前を変更され、さらには「みずとみどりの課」は都市整備部に編入された後、環境部は部であることをも止め、環境対策室へと縮小されてしまった。
環境問題の重要性が言われる中での、この縮小対応は土建開発行政への屈服に他ならない。
世田谷区においては、大規模な工場汚染は少ないものの、道路公害や鉄道公害による大気・粉塵・騒音、建築問題に関する日照、風害、電波障害、騒音、電磁波公害や低周波被害、化学物質汚染、食品公害、種々の工業製品使用に伴う公害、バイオ系の汚染・公害、放射性物質による被害等、大量消費社会のありとあらゆる公害・環境汚染を区民が受ける可能性がある。
緑や自然保護の問題は、造園セクションや土木・建築セクションに任せておいてよいわけがない。
環境問題には技術系の専門家はもちろんのこと、人文系知識と技術系知識を併せ持つ学際的能力(環境問題の「専門家」はそもそも学際的でなければ環境に対応できない)のある職員が不可欠であり、区民もそういった職員の存在や相談を期待している。
また、緑や生態系の保全や回復といった課題を区民とともに実現するためには、環境問題の解決を使命とし、開発セクションとは対抗する立場に職員をおくことが必要不可欠だ。
5)
せたがやトラストから補助金・職員を引き上げ、
本来の環境対策の職務を行え
世田谷区には財団法人「せたがやトラスト」なるものがあり、毎年多額の補助金を投じ、職員を派遣し、その上、区幹部を天下らせて運営をしている。しかし、この団体は現在「啓発」と称する業務を中心に行っており、本来のトラスト運動・市民運動としての態をなさないばかりか、存在すること自体が市民の自発的なこの種の運動を阻害している。
補助金・職員を引き揚げ、むしろ、区の環境セクションの充実に当てるべきだ。
5、 自治体における多元主義を有効に機能させよう
日本の地方自治制度は国政の議院内閣制と違って、大統領制型であり、首長に権限が集中していると言われている。確かにその通りでそのことのメリットも大きいのであるが、だからといって、地方自治体の首長を事実上の独裁者にしてしまってよいのかとの疑問を持つ。
国政では野党でも地方議会では首長与党という政治状況が、日本の自治体のいたるところで見られる。世田谷区議会も対立候補を立てた陣営が、区長選が終わると、今度は新区長の与党となる恥ずべき姿が展開されている。
この体たらくを是正することが地方議会・行政を活性化させる何よりもの早道だが、日ごろ忘れ去られているわが国自治制度にある多元主義を活かす道をここで指摘しておきたい。
独立委員会の存在である。この制度は、運用次第では首長の独裁を抑止・牽制し、市民自治を活性化する梃子ともなりうると考えられるからである。
1)
文教委員会は政治からの独立を
9月議会での公立幼稚園の廃止・民営化問題の議論の際に、熊本区長の幼稚園廃止論は教育行政への不当な介入であるとし、政治的思惑からの廃止論を私は批判した。
しかし、一方で残念ながら、教育委員会自身が自立していないことが論戦を通じて分かった。
そもそも、教育委員会の存在は区長部局と独立して存在する独立委員会である。
地方自治法では、教育委員会は独立機関として位置付けられており、教育委員会の委員は首長が議会の同意を得て任命することになっている。首長が任命はするが議会の同意も必要であり、教育委員会は任命された委員会がそれぞれの長を任命し、委員会の名において執務を行うことになっている。
したがって教育長は直接区長に任命されるわけではなく、教育委員会にのみ責任をもつことになる。現在の小野教育長は大場前区長により委員のひとりとして任命され、教育委員会は小野教育長を選んだ。区長選で区長は代わったが、区民によるリコールや区長によって議会の同意を得て罷免されるのでなければ教育長は任期をまっとうできる。独立委員会たるゆえんである。
教育委員会の独立性から言って、教育委員会で廃止論をきちんと議論したこともないのに、6月議会および9月議会での区長の一方的な幼稚園廃止論は不当介入もはなはだしい暴論といわなければならない。区長の意向はあるにせよ、教育長は教育委員会としての対応を主体的に語るべきなのであるがそうはしなかった。これでは教育の政治からの独立は侵されてしまう。
そもそも、教育委員に区長部局の幹部経験者を任命し、結局はこの幹部経験者が長に選ばれるという慣例を作ってきた。このような土壌からは教育委員会の体制からは区長からの独立意識は稀有なのであろうが、教育が政治からの介入を公然と受けている今日こそ、教育委員会は教育の政治からの独立を主張し行動すべきである。
残念ながら現状ではだれが教育委員であるかも区民の多くは知ることも少ない。区民の立場に立った教育改革を行おうとすれば、教育委員が問題提起をし区民の知恵を集め、コンセンサスを得ていくという方法が有効であろう。
区立小学校教諭が生徒に対して性的犯罪を犯すという荒廃を放置しておいてよいわけはない。教育委員は積極的に動くべきであるし、教育委員会が区民の目の前に出てくる対応をもっと追求すべきであると考える。
2)
監査委員は「オンブズマン」になれ
監査委員も独立委員会のひとつだが、世田谷区では監査委員については地方自治法に基づき、4名を区長が議会の同意を得て選ぶことになっている。自治法の規定では議会から委員を出すことになっており、世田谷区では2名を差し向けているが、法規上は1名でもかまわない。
議員以外の監査委員はこれまで永らく区長部局幹部出身者で占められていたが、最近は2名の内一名は外部専門家を入れることにはなってきている。
自治法上の監査委員の権限は絶大である。義務的に行う定期監査のみならず、必要があれば委員の判断で調査を行うことも出来る。代表監査は決めるけれども、複数いるにもかかわらず監査委員会とは言わずに監査委員と称されるのは個人に絶大な権限が与えられているゆえんである。
しかしながら、制度の趣旨にのっとってこの権限を振るった監査委員を見たことなければ、聞いたこともない。
9月の決算議会を前に、区の運動施設の整備の入札に関する談合が発覚したり、コンピューターの不正購入が発覚した。決算審査の監査終了以前からこれらの問題に対応することは出来たはずなのに、監査委員はこの2つの事件について決算審査の対象とすらしなかった。決算監査でたとえ触れなくとも、独自調査を開始することも出来るはずだが、それもなされていない。
そもそも、監査委員というと内部監査のお飾りとしてしか見られていないのが問題である。
しかし、自治法上の権限は絶大であるのだから、本来の使命を果たすようにきちっと制度を運用してゆけば監査委員は日本版「オンブズマン」に成りうる。
第一に、議会から選ばれる監査委員は、就任したならば、自治法の通り、会期(解散等がなければ4年間)を通して職務をまっとうすべきである。その際、一般の議員業務を放棄し、監査委員の業務を専門とすべきである。その議員が次の選挙で評価されるのは監査業務の評価になるはずであり、そうなれば、一生懸命やらざるを得ない。
第二に、一般から選ばれる監査委員は、公認会計士や弁護士等の調査能力を備えた人材を登用し、自治体の利害関係者は排斥するべきである。
第三に、監査委員の業務業績は積極的に公開し、その評価を区議会や一般区民が議論できるようにしておくべきである。当然、無能な監査対応には、いつでも罷免の対応が迫られるようにしておくべきである。
6、 小田急違法判決は区政の総決算であり、
全国的な公共事業見直しのカナメ
1)
地下鉄線ルートの変更として始まった小田急問題
小田急線の連続立体交差化事業をめぐる問題は、世田谷区政の根幹をなす問題であるといわなければならない。
小田急線は世田谷区内を東北沢から喜多見までを走っている。まさにこの鉄道は物理的に云って世田谷区を東西に貫き、世田谷の背骨をなしている。
1962年都市交通審議会は現千代田線の西への延伸を代々木八幡駅付近から淡島通り下を通り、環七を抜けて世田谷通り下を通り喜多見までつなごうと考え、その計画を答申した。
ところがこの発表があるとすぐに小田急は政治的圧力をかけて1964年にはこの答申を曲げて、現千代田線のルートを代々木上原から喜多見まで小田急線に貼り付けて走る地下鉄ルートとして都市計画決定させた。
この決定はあくまでも地下鉄線の決定であり、小田急線の複々線の決定などではあり得なかった。
ところが、世田谷区も含めて、行政側は、東北沢・喜多見間は1964年に高架複々線を基本に都市計画決定され、下北沢地区と成城が平面決定であると長らく説明してきた。しかし、この説明は虚偽であることが判明した。
地下鉄である都市高速鉄道9号線の決定である以上、地下か高架かという鉄道構造の種別の選定はあったとしても平面を残すことはあり得ない。日本の地下鉄は踏切がないことが前提となり、だから都市高速鉄道なのだが、銀座線のように高架の 地下鉄はあり得ても、平面を通る地下鉄線計画は当時からあり得なかったのである。
2)
情報を正しく伝えていれば、新地下鉄復活運動になったはずだ
9月の議会では80万区民の目をごまかしながら区政が虚偽を語り続けてきたことを糾弾し、ことの真相究明を区長に求めたが、この提案を熊本区長は一顧だにしなかった。
1964年の都市計画決定は都市交通審議会の答申から逸脱した地下鉄線の路線決定であったのだから、当時そのことが真実として語られていれば、区民の声は世田谷通り下への地下鉄路線復活を求めた一大ムーブメントとなっていたに違いない。
表参道・代々木八幡・淡島通り・世田谷通り・喜多見の地下鉄ルート計画は1970年に完成を予定されて都市交通審議会が答申しており、これが実現していれば、世田谷区役所も便利であったし、現在の交通不便地域が大きく解消されていたはずである。
小田急問題は出発点からが虚偽に満ちたものであった。
3)
バブルに踊らされた第三セクターと超高層ビル群建設
その後1970年と1978年の2度にわたり小田急線複々線化は地下方式でとの全会派一致の決議が上げられたにもかかわらず、バブル経済の波を向かえて、小田急線の複々線化計画は連続立体交差事業の一環として道路都市再開発と三位一体となった事業として復活提案されることになった。
連続立体交差事業はガソリン税を原資とする街路事業であり、政府はバブル期にこの機能に着目して、NTT−A資金を使って第三セクター東京鉄道立体整備株式会社を設立し東京圏の私鉄網を複々線化連続立体交差とし拠点駅を中心とした超高層ビル群建設を伴う再開発事業を展開し、当時足りないとされたオフィス床を一気に増やそうともくろんだ。小田急線高架連続立体化は西武池袋線とともに、都市再開発の実験台とされたのである。
4)
民が高架違法を裁判所に認めさせ、バブルの暴走を食い止めた
この無謀な計画は、代替案としての地下化要求を掲げた懸命な世田谷区民が第三セクターの設立出資取消しを求め、また高架計画の基礎調査(連続立体事業調査)の公開を求める運動を皮切りに、行政側を追い詰め、情報の基礎部分を開示させ、第三セクターを解散させ、違法騒音を認定させ、とうとう事業認可違法の判決を勝ち取って追い詰めていったのである。第三セクターは銀行・損保・生保等の金融機関をも巻きこみ、その資金を市街地再開発に当てようとしていた。
もし、市民の運動がなかったならば、事業がバブル崩壊でこうむる痛手は極めて大きなものになっていったに違いない。市民運動が、行政の暴走を未然に防いだことになる。
5)
区政は区民を欺いた
残念ながら、2001年10月3日に、東京地裁で事業認可が取り消された後も、世田谷区は国や東京都に着き従い、違法な高架事業に反省を示さなかった。そればかりか、自らも事業の当事者であり、地財法により莫大な出資をしているにもかかわらず、基礎調査である連続立体事業調査報告書を東京都から受領していないと言い続け、世田谷区の実施する事業に関してさえも、一切の事業に説明責任を負おうとしなかったのである。
連続立体交差事業は街路事業であり、梅丘・喜多見間だけでも25本の道路を拡幅・新設する内容をともなう、世田谷大改造計画事業なのである。格子状の補助幹線道路は連続立体交差事業と正に一体のものであり、世田谷の骨格構造に係わるものだけに、区民と真正面から議論をしなければならないはずのものである。
その是非を区民にまっとうに問うこともなく、建設省や東京都、あるいは小田急の下請けであるかのような態度を取りながら、区民から情報を遠ざけさらには積極的に情報操作を行い、区民を欺いてきた世田谷区政の責任は重い。
6)
熊本区長は事件の処理に当たり、「緑のコリドー」を区民と共に担え
小田急事業認可取消し訴訟については12月18日に判決が下される。
住民勝訴の可能性は大きい。
幸い、小田急問題の全過程を知り尽くしていたはずの大場区長が辞め、その後継候補が負けて、熊本新区長となった。
問題の本質を虚心坦懐に見定めて、実に40年にもわたった土建国家日本の縮図のようなこの事件の処理に当たるべきであるということを進言しておく。
小田急高架事業は2001年10月の違法判決に行政側が耳を傾けず、控訴をしたからという理由で工事を続行したために国民の税金が無駄に使われることとなった。その責任はあげて国、東京都、世田谷区にある。
しかしながら、市民はこの醜悪な土建行政を是正させるために、既に作った高架橋をも利用しての明治神宮から多摩川にいたる緑の生態コリドー計画を、新宿から成城までの地下鉄工事完成後の高架遺物利用計画として提案してある。
間違った公共事業を都市生態系回復のための有用な事業に転換させる。このことが実現したときに土建国家日本は環境共生国家日本として新たな出発ができると確信するものである。
その歴史的事業を区民と共に新区長が担うべきだと考える。