2004年11月2日

 

世田谷区長 熊本哲之 様

世田谷区代田4−24−15−102

世田谷区議会議員 木下泰之

 

都市整備方針(素案)批判

――サスティナブル都市を目指して

 

 

1、車社会しかみていない都市整備方針骨格プラン

 

都市整備方針は地方自治法上の世田谷区基本構想の下位に位置し、都市計画法第6条の2に策定が義務付けられた都市計画をめぐるマスタープランである。

このマスタープランを読んでいて極めて特異なことに気が付いた。

3−3都市づくりの骨格プランを見よう。

「都市づくりの骨格プランは、「目標とする都市像」にもとづいて、世田谷区の都市としての基本的骨組み都市構造の基礎となる拠点や軸などについて示すものである。」

としており、

「商業や区民生活の中心としての「生活拠点」、都市としての活力をはぐくみ交流を促す軸としての「都市軸」、世田谷区の貴重な環境資産である、国分寺凱旋や多摩川沿いの空間などの「環境保全ゾーン及び「みどりの拠点」の3要素によって組み立てられる」

この「都市づくりの骨格プラン」には道路はでてきても鉄道の記述は一切ない。

広域生活拠点として掲げられる下北沢、三軒茶屋、二子多摩川、地域生活拠点が経堂、区役所周辺、明大前、下高井戸、梅ヶ丘、用が、等々力・尾山台、奥沢・自由が丘、成城学園前・祖師谷大蔵、千歳烏山と特異な区役所周辺を除いては全てが鉄道の主要駅であるにもかかわらず、鉄道交通については一切の記述がないのである。

したがって都市軸の構成は、「@都市活力と交通の都市軸」として、都市軸Tを環状8号線、国道246号線、目黒通り、都市軸Uを環状7号線、甲州街道としており、「A主要生活交通軸」としては茶沢通り沿道、補助216号線沿道および多摩堤通り沿道、補助154号線沿道としているのである。

これは何を意味するのか。

この世田谷区都市整備方針の全体が、そもそも、車社会しか前提にしていないということである。

 

 

2、現実の区民生活と世田谷の実像を知れ!

 

現実の区民生活を冷静に見てみよう。

朝起きて、会社あるいは学校に行く。

主婦やリタイアした年配者が買い物に行く。

中には自家用車を使う人もあるだろう。しかし、世田谷区民の多数派は近くの駅まで徒歩や自転車やバスを使い、その後は電車を使って移動する。これが日常ではないだろうか。

確かに区民の多くが車を保有はしている。しかし、世田谷は鉄道交通の利便性に支えられているため、自家車がなくては生活が出来ないというほどのことはないのであって、仕事で車が必須なひとは別として、むしろ、普通のサラリーマンは休日のドライブのために車を車庫に暖めているというのが実情のはずである。

そう考えると、都市整備方針の都市軸に鉄道網が加えられていないというのは、世田谷区の実像からかけ離れたところで、都市づくりが議論されていることになる。

これは「3−2人口についての考え方」とした人口分析からして、特徴づけられる。世田谷のまちづくりにとって決定的な情報のひとつは昼間人口と夜間人口の比較ではなかろうか。世田谷は近郊生活都市として発展してきた以上、都心に一番近いベットタウンとしての性格は片時も忘れてはならない。この特徴は職住分離と言うばかりでなく、消費生活にせよ、文化活動にせよ都市的生活の享受を都心区に自然に負っているのであり、そういった意味での総合的役割分担の分析をしておくことは都市政策上忘れてはならないはずである。

しかし、そういった問題意識は都市整備方針からは決して読み取れない。

 

 

3、世田谷区独立宣言とバブルの夢の崩壊

 

何故、こうなるのであろうか。

これは前大場区政下の「世田谷独立宣言」に負うところが多かったのではないかと私は思っている。政治的な意味での自治自立は大いに推奨されるべきであろう。しかし、歴史的地理的制約を超えて世田谷区が商業も工業もトータルな機能を全て具備した独立都市でありたい、政令指定都市になりたい、と考えることは夢想である。

その夢想を「現実」に近づけるかと思われた時代が、確かに存在はした。

バブル期である。バブル期にはオフィス床の不足が言われて東京近郊の住宅地域の拠点駅に超高層ビル群を出現させることが狙われた。1990年に設立された東京鉄道立体整備株式会社は連続立体交差事業を起爆剤に近郊住宅地の中にオフィスビル郡を立地させるために作られたのであり、具体的には小田急線の走る意世田谷区では経堂駅周辺が西武池袋線の走る練馬区では練馬駅周辺がその候補地であった。

幸いなことに、洞察力のある住民の反対運動とバブルそのものの崩壊によってこの計画は頓挫し、東京鉄道立体整備株式会社も後に解散となったが、バブル期の習い性はいまだに続き、都市計画に大きな影を落としている。

世田谷区の下北沢、三軒茶家、二子多摩川を広域生活拠点と位置づけ、商業集積地として再開発を図りたいとしているのはその習い性に他ならない。下北沢も三軒茶屋も二子多摩川も住宅地世田谷の中にあって独自の発展を遂げてきたのであるから、その流れにそって修復型の街づくりを行なうのがふさわしい。

 

 

4、経済破綻と京都議定書が突きつけたものを考慮せよ

 

都市整備方針は20年計画で定められており、今回は1995年(平成7年)に定めたものの、後期10年の中間見直しである。この間何が起こったか。

1995年というとバブルは既に崩壊はしていたものの、その後遺症が極めて深刻であるという自覚は一般化してはいなかった。この10年間はその後遺症が如何に深刻であるかを実証した歳月であったことはだれもが認めるところであろう。

いまや、政府の債務残高は750兆円を超し、地方自治体の債務残高200兆円を加えれば950兆円を超えるところまで深刻化している。土地本位制に依拠した経済とその崩壊を、もはや同じ構造の中で立て直すことは出来ないことは明らかだ。

また、1997年に日本が議長国として取りまとめた京都議定書は、これからの世界の経済秩序が環境を無視しては成り立たないことを宣言したのであり、近時のロシアの調印表明はこの議定書の発行が現実のものとなり、日本政府は国際約束としてCO2削減に取り組むことを余儀なくされたのであり、車社会からのテイクオフは現実の政策として取り組む課題となったことである。

そういった社会環境を踏まえた上で、今回の見直し素案をみれば、極めて不十分どころか、時代の変化を全く反映していないことに驚かされる。

さすがに、この都市整備方針の見直しに参画した区民からは、根本的な転換を望む声は広範に見られた。例えば北沢地域整備方針に係った「みち部会」に所属した区民は、58年前に策定された補助54号線などの補助幹線都市計画道路の廃止を含む全面見直しを提言したが、都市計画道路は見直さないとして完全に無視された。

また砧地域に国が大深度地下方式で建設を推進しようとしている外郭環状線については造るか造らないかを含めてPI方式により協議がつづいているはずであるが、砧地域の地域整備方針に世田谷区は外郭環状線推進の立場で新たに書き込んでもいる。そもそも、弟2東名の凍結が決まった今、16千億もの金を費やして外郭環状を無理やり造ることは財税上も環境上も好ましくないことはいうまでもない。

世田谷区はPIで議論途上の外郭環状線問題を安直に推進の立場で都市整備方針に書き込むべきではない。

 

 

5、鉄道網の再評価と骨格プランの見直しを

 

最初の論点に立ち返ろう。

世田谷区を住宅地として位置づけ、世界の流れでもある最近の環境重視の政策に一歩でも近づけようとするならば、世田谷区のありようを正確につかんで、都市づくりの骨格プランから見直さなければならない。

世田谷区の骨格をつくってきたのは鉄道であり、鉄道であったからこそ、低層住宅地が可能であったと言わなければならない。この長所を葬り去り、既に発展した駅ごとの拠点を補助幹線道路でつなぐことのみが「まちづくりの骨格」というならば、それは世田谷が良好な住宅地として発展してきた歴史にそむくことになる。

鉄道網を戦前から発展させてきた東京の住宅地世田谷の長所をこそ見なければ、都市計画を語る資格はないと起案者たちにいいたい。

世田谷こそサスティナブルシティを実現するための地理的条件と歴史性、そしてなによりも住人たちの意識の高さを信ずることである。

起案者たちが、そういったことに気が付かないとすれば、今回の素案のところどころに環境都市であるとか、持続的発展とかの言葉をちりばめるのはおこがましいと言うべきであろう。

 

 

6、鉄道交通とTDMを生かしたサスティナブル都市を

 

繰り返していうが、世田谷の都市としての発展を考えるとき、私鉄網の開通による郊外都市としての発展史を抜きにしては考えられない。

この鉄道交通の利便性が幸いして道路交通の不便地域を形づくっていたとしても、嘆くには当たらない。戸建住宅や屋敷林や緑の資産がのこされているのは道路開発が遅れたからであり、遅れたからこそ、今、逆にエコロジカルな先進地域にもなりうるのだと発送を逆転することが肝要である。

通過交通が主軸の環78、甲州街道、246、世田谷通り、井の頭通り等は世田谷単独では交通量は減らせないかもしれないが、区内道路交通はバスやトラムのような公共交通の整備や歩行者・自転車道等の整備により需要を抑制することは可能であるし、その追求こそ望ましい。

既に2002年に世田谷区は「世田谷区交通まちづくり基本計画」を策定したが、「2−2これからの交通行政のありかた」でTDM(交通需要マネジメント)を取り入れながらも、「需要対応型交通政策に加え、需要調整型の交通瀬策も展開する」との中途半端な位置づけに終わっている。今回の都市整備方針の中間見直しでは、「総合交通体系の計画的な整備を進める」としながらも、「環境に優しい交通の充実」として「環境にやさしい自転車や公共交通への利用転換を促進する」との通り一遍な記述に終わっており、TDM(交通需要マネジメント)の言葉さえ使われていない。

これでは需要抑制どころか、相変わらずのサプライサイド(供給側)の従来型土木行政の域を出ていない。少なくとも今回の中間見直しでは、TDM(交通需要マネジメント)の積極推進ぐらいは打ち出すべきである。

 

 

7、歩いて楽しめる街・下北沢を守れ

 

最後に、下北沢について触れておく。

鉄道に依拠し発展してきた町の象徴として下北沢は上げておくべきであろう。

この街は戦前から形成され、空襲でも焼けなかった。歴史の層が積み重なるようにして形勢された街である。この街は車が遠慮がちにしており、人間が大きい顔をして闊歩できる街である。このかけがえのなさを奪ってはならない。

もし、環境にやさしい街というならば、車に依拠しない街下北沢こそ、全国に誇れる街なのであるという自覚を持っていただきたい。

小田急線の高架反対・地下化推進の運動はこの街から始まり、この街はその点で勝利を得た。地下化推進のエネルギーは高架化による街の大規模開発・大規模再編成の拒否にあったはずだ。しかしながら、いま、この歩いて楽しめるかけがえのない街・下北沢は補助54号線を街中に貫通させる計画で破壊されようとしている。

補助54号線は連続立体交差事業を成り立たせるための必須要件として行政はとらえており、これの廃止は端から出来ぬと行政は決めてかかってきた。

従って、補助54号線が下北沢地域に必要であるかどうかの論議はついぞされずに、建設計画ありきですすんできた。

本当にそれでよいのであろうか。

下北沢は車に依拠しないで、全国からも羨やまれる魅力ある繁華街として立派にやってきたではないか。ここにどこにでもあるような広域道路を通過させ、駅前広場をつくり、バスベイやタクシーベイを作ってなにほどの価値が生まれると言うのだろうか。

下北沢からの路線バスで需要があるのは三軒茶屋行きであるが、これは現在のタウンホールのバス停で充分足りている。タクシーも茶沢通りでひろうことは可能だ。鉄道が地下鉄になるのだから、地下鉄からの出口でアクセスするようにしてやればよい。

車に依拠しない街が現に存在していることをこそ重視し、これを守り発展させながら、街としての不都合を取り除くべく知恵を働かせることのほうが、民家を軒並み買収しながら莫大な金をかけて補助54号線を通すことよりも、より有益である。との判断をぜひともしていただきたい。

 

 

8、防災対策についての若干の補足

 

補助54号線は費用便益からいってもかなう道路ではないことから、行政はこの道路の必要性について、防災上必要だからと必ずいう。しかしこれは詭弁だ。

ちなみに、世田谷の道路計画を正当付ける論理として、消防自動車を通す道路こそ防災に役立つとしているが、これは転倒・倒錯した論議だ。さらにいえば、道路は災害時の迷惑施設にもなりかねないこともありうるのだ。

大事なのは水源とホースを火事場に届かせるための処理であり、消防自動車はほとんどが水を積むことはなく、ポンプの動力を供給するに過ぎない。消防署の話によると阪神大震災を教訓に家屋が倒壊し狭くなった道路や細街路対策に電動ホースカーが開発され、効果を挙げているという。

防災性能の向上は通報システムの充実や防災ノウハウやソフトさらにはコミ二ティの再生も含めての総合対策が必要であり、道路が出来れば解決すると言うようなものでもない。

それでもなお、都市構造としての防災性能の向上とあえて言うのならば、巾33メートルから22メートルで代々木上原駅から梅ヶ丘駅付近まで連なる広大な小田急線鉄道跡地の利用計画で代替できるはずである。もともとこの区間は複々線高架計画を予定していたのだから、全く新たに利用可能になった土地として公共が緑道と地下貯水施設に利用すれば、単なる道路に過ぎない補助54号線よりも強力な防災性能向上施設になりうる。   以上