総与党体制にはじき出された住民の声(樺嶋秀吉著「DOKEN 天国ニッポン」1997年日本評論社より)

この文章の出典は週刊金曜日1996年9月6日号記事(はじきだされた住民の声‐‐社会民主党世田谷区議団を分裂させた「与党」の重み--)からです。

なりふりかまわぬ会派除名                              

 議会の機能不全は、いなかの小さな村だけの話ではない。東京都の世田谷区では、党の方針に違反したわけでもないのに、住民運動出身の新人区議が社民党会派から追い出された。区政に住民の意思を伝えようとした議会活動が、長期オール与党体制にヒビを入れるものだったからだ。
 木下泰之区議は九五年四月の統一地方選に社会党(現・社民党)公認で立候補し、初当選した。党公認の現職一人、元職二人と計四人で議会内会派「社民党世田谷区議団」を組んでいたが、そこから占め出されたのは選挙から一年近くが経った九六年三月九日のことだった。
 この日、会派解消届けと、木下区議以外の三人を構成員とする同名の新会派結届けが同時に、しかも木下区議に知らされないまま提出された。三月九日は土曜日だった。本来なら閉庁日、議会休会日のはずだが、議長と事務局員が登庁して届け出を受理した。この一連の手続きは区議団幹事長の高橋忍区議(六期)が中心になって行われたが、木下区議が除名の事実を知ったのはこの日の夕方、留守番電話に吹き込まれていた高橋幹事長のメッセージによってだった。
 木下区議はすぐに議会事務局に手続きが無効であることを訴えたにもかかわらず、翌一〇日には日曜日にもかかわらず各会派の代表幹事会、議会運営委員会の理事会が開かれた。そして一一日の議会運営委員会で社民党新会派の結成が正式に決まった。

 新会派を届け出ないために「無所属」扱いを余儀なくされた木下区議は、議長による会派解消・結成届けの受理の取り消しと、大場啓二区長による新会派への政務調査研究費(議員一人当たり月額二二万円)交付決定の取り消しを求めて六月に東京地裁へ提訴した。その訴状には「極めて悪質な政治的陰謀」と書かれている。
 木下区議は小田急線の高架方式による連続立体交差事業に反対する住民運動グループ「小田急線の地下化を実現する会」の事務局次長で、工事差し止め、事業認可取り消しなど「実現する会」が進めている裁判と連携しながら高架化に反対する議会活動を当選以来続けてきた。会期中に会派を追い出された三月議会でも、高架化工事負担金を含む九五年度補正予算案に反対を表明し、さらに九六年度予算案に対しては小田急関連予算を減額した修正案を提案することにしていた。
 高橋幹事長ら他の三人は、執行部の予算案に採決で反対することだけは思いとどまるよう説得していた。高橋幹事長は「執行部案に賛成できないのであれば、反対の意見を述べてもいい。でも、採決の前にトイレに立ってもらいたい」と議場を出て棄権する方法まで提案した。
 だが、木下区議は「選挙では地下化推進を公約に掲げ、選挙母体も住民運動だった。せめて市民に約束したことは守りたい。地下化推進は党の方針でもある」と翻意しなかった。そんな区議団内部の確執は実は一月からずっと続いていた。

                                              

地下化推進は表向き                                 

 木下区議の主張の前に立ちはだかったのは、「区長と政策協定を結び、与党の中核として区長を支える立場にある。高架化に反対意見を述べることは構わないが、区長の不信任につながるような予算案反対を認めるわけにはいかない」(高橋幹事長)という「与党」の論理だった。
 三月議会が始まっても両者の対立は平行線をたどった。そして、九五年度補正予算の採決が行われる一一日の直前に高橋幹事長らによる木下区議追放劇の幕が切って落とされた。高橋幹事長らにとっては、ここがタイムリミットだったのだ。
「小田急問題だけが、区政の全てではない。他の会派との関係もある。高架化に反対といっても、全面阻止闘争ではなく、住民運動を支援するというのが社民党世田谷総支部の方針だと理解している。政治の世界は総合的にものを考えていかざるを得ない」。そう高橋幹事長が語る「政治的な総合判断」の中には小田急労組や私鉄総連など支援労組の意向も当然、含まれるだろう。だが、社民党を縛り付けていたのはなんといっても区政与党という自意識の強さだ。
 さらに決定的に違うのが、小田急問題への認識だ。高橋幹事長らは沿線住民にだけ影響のある地域問題にすぎないという捉え方だが、木下区議や「小田急線の地下化を実現する会」のメンバーたちの目には、小田急線の高架化事業が政府主導による沿線の大規模再開発事業と映っている。
 事業主体の東京都から情報公開訴訟によって手に入れたデータをもとに、問題になっている経堂工区(梅ヶ丘〜喜多見駅間の六・四キロ)の事業費が高架方式よりも地下方式の方が安くなる(高架方式が二〇三八億円、地下方式が七三三億円)ことが証明できれば、高架化の論拠がなくなるばかりか、行政が秘密主義で進めていく公共事業のあり方にも一石を投じることになる。
 大場区政になる前だが、世田谷区議会では七〇年と七三年の二回、地下化推進を全会一致で決議している。大場区政になってからも、社会党(当時)世田谷総支部は区の予算編成時に「地下化」を要望し、総支部定期大会でも「小田急線の地下化を実現する会」への協力を活動方針としてきた。ところが、今では社民党の地下化推進は表向きの姿勢でしかなくなっている。その転換点となったのが、九〇年の九月議会だった。
 高架化を方針とする東京都や小田急電鉄、それに金融・損保会社などが株主になり、ひと月前に設立された第三セクター「東京鉄道立体整備会社」へ区も一億円を出資するための一般会計補正予算がこの議会に提案されたのだ。この第三セクターは、NTT株売却によって作り出された資金の「受け皿」的な組織で、工事完成後は高架の下に建設されるビルなど施設の賃貸も手がけることになっていた。バブル経済のころに考え出された、政・官・財あげての一大不動産事業である。

革新区政でスタート

 その九月議会の代表質問で当時の社会党区議は次のように演説した。
「(東京都が)世田谷区との正式な調整も行わないまま、既成事実を積み上げ、一方的に高架化計画を押しつけようとすることは、まさに暴挙であり、まことに遺憾である。しかも、区は当初、この第三セクターへの参加を当面見合わせるとしていたにもかかわらず、一億円を出資しようとしていることは、区議会の高架反対、地下化推進の決議や区民からの請願、沿線住民の声を踏みにじるものである」
 これに対する大場区長の答弁は「早期に参加することにより事業の促進が図られ、区民生活の向上及び沿線地域の街づくりの進展につながるものと考え、出資することが妥当であると考えた」という型通りのものだった。
 この質疑応答を議事録で読む限り、社会党の結論は当然、出資金支出に反対となるはずだ。ところが実際には、補正予算は社会党のみならず、やはり高架化に反対していた共産党など他の会派も含めて全員の賛成によって成立した。この補正予算が福祉関連予算も含んでいたためだ。
 社会党の区議団内部では、第三セクターへの出資金を分離するための減額修正案を提出することも検討したが、結局、それも見送り、執行部原案を丸飲みした。すでに議会の流れは最大会派の自民党を中心に高架化へ傾いており、かりに減額修正案を出しても成立の見込みはない。なにより、いったん修正案を提出してしまえば、執行部原案には反対せざるを得なくなる。与党の論理が優先するという路線はこのときすでに出来上がり、地下化推進の看板を掲げながらも現実は区の高架化方針に追随するという、区民への欺きもここから始まった。
 社民党が与党の中核にいるという大場区政が誕生したのは七五年四月の統一地方選だ。東京都の特別区長が公選制になったこの選挙で、区の議会事務局長だった大場は、在職期間一六年の現職区長を接戦の末に破った。自民党が現職区長を推薦したのに対して、大場は社会、共産、民社各党の推薦と公明党の支持を得ていた。大場が区長になった世田谷区は革新自治体として再スタートを切ることになった。
 この七五年の統一地方選では、美濃部亮吉東京都知事が三選を果たし、黒田了一大阪府知事が再選、また長洲一二神奈川県知事が初当選した。市町村レベルでも革新自治体が広がりを見せていたころだ。ところが、その四年後の選挙では東京、大阪の両方で革新都府政が終わりを告げた。
 大場区長の推薦政党にもこの七九年選挙から自民党が加わり、自民、社会、公明、民社、共産、新自由クラブ、社民連の七党による総与党体制ができあがった。その後、中央政界の再編はあっても、世田谷区ではこの体制を維持し続け、九五年四月の区長選挙では自民、社会、新進、公明、共産の五党が大場の推薦政党に名を連ねた。

小さな中核与党

 表5は選挙時の推薦関係をもとに二三区の与党を一覧にしたものだ。現職区長を推薦・支持した政党が○印、対立候補を立てた政党が×印となっている(新進党結成前に選挙が行われたところは旧政党名を表示)。ほとんどの区が総与党化していることが分かるが、共産党まで与党になっているのは世田谷区と中野区(前回選挙は無投票)しかない。しかも、七五年の初当選から六期目を数える区長は世田谷と文京、江戸川の三人だけだ。
 木下区議が会派を追放される前の世田谷区議会(定数五五)の会派構成は自民二一、公明一一、共産六、新風21五、生活者ネットワークと社民が各四、新進二、それに一人会派が二つ(新進はその後、一人会派に分裂)だ。社民党がいくら「与党の中核」を名乗っても、数の論理が優先される議会の中では小さな勢力にすぎない。
 しかも、世田谷区議会では四人以上の会派を「交渉団体会派」としているため、三人に減った新会派は本会議での代表質問権、それに議運委員、常任委員会の正副委員長ポストを取り上げられた。これだけの代償を払ってでも、社民党は与党であり続ける道を選んだのだ。
 木下区議に対する処分は会派からの排除だけで終わらなかった。社民党世田谷総支部の規律委員会は@政策・方針に関して多数決原則に違反したA党内問題をマスコミに公表し、党の名誉を著しく傷つけた――として、九六年七月三日に党からの除名を党都連合の規律委員会に上申した。さらに総支部の執行委員会は、木下区議が政調費の会計処理に協力するのを拒んでいることなどを理由に「公職たる区議会議員としての品位を疑わざるを得ない」と議員辞職を勧告する見解まで公表している。
 木下区議はこうした党の処分に対して全面的に反論し、全国に会員三〇〇〇人を擁するという「小田急線の地下化を実現する会」も木下区議の裁判を支援するとともに「木下が党を除名されるようなことになれば、社民党とは対立関係になるかもしれない」(高品斉事務局長)との姿勢を見せた。
 同僚議員を追いやり、そのことによって代表質問権や委員長ポストを失なってまで社民党が守ろうとした与党という立場について、ある議員は「ボタンを押したら、甘い汁がでてくるというようなものではない」と言葉を濁す。しかし、長年にわたり総与党体制が続く世田谷区では「○○の分野のことなら△△党の議員に頼めばなんとかしてくれる。××審議会の委員の人選は□□党が握っている」(区関係者)といったような棲み分けが出来上がっている。与党でなくなることは、その利権分配の土俵から降りることなのだ。
 高橋幹事長は「区としても高架化で腹を決めていると思う。だが、私どもが公式には反対の立場を取っているので、区は今でも『高架化』とは言い切らず、『立体化』と言っている」と社民党が与党であることの「成果」を強調するが、言葉のすり替えにごまかされている間に梅ヶ丘、豪徳寺駅付近では高架化のための工事が始まった。 


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