平成13年第4回定例会(自1128日 至126 日)

世田谷区議会会議録

2001年12月6日 子ども条例案への反対討論


○新田勝己 議長 これより意見に入ります。
 なお、意見についての発言時間は、議事の都合により一人十分以内といたします。
 発言通告に基づき、順次発言を許します。
 五番木下泰之議員。
   〔五番木下泰之議員登壇〕


◆五番(木下泰之 議員) 子ども条例に反対の立場から討論を行います。

 「子どもは、未来への『希望』です」という美しい言葉から始まるこの条例に反対せざるを得ないのは不幸なことだと思います。子どもは未来への希望です。しかし、条例案の次に来る言葉は、「将来へ向けて社会を築いていく役割を持っています」となっています。この言葉を発したとき、この条例案はみずみずしさをすべて失い、死にました。九月に作成された大綱では、この冒頭はどうなっていたでしょう。「子どもは、未来への『希望』であり、次代を担うべき無限の可能性を有している」でした。条例案と大綱の違いを注意深く吟味してほしいと思います。

 「子どもは、未来への『希望』であり、次代を担うべき無限の可能性を有している」、すばらしい言葉です。そのとおりなのです。希望は可能性なのであります。無限の可能性は、みずみずしい可塑性です。子どもそのものです。そこに既にいわば固まってしまった大人は、希望を託している。その希望と愛情を感じるからこそ、子どもはみずからの役割を模索し、新しいことに挑戦し、みずからを認識し、自覚し、育っていくのではないでしょうか。

 ところが、条例案の言い方ときたらどうでしょう。「子どもは、未来への『希望』です。将来へ向けて社会を築いていく役割を持っています」となっています。これでは、希望が将来へ向けて社会を築く役割という義務になっていて、子どもの前に立ちあらわれています。しかも、そのことを言っているのは、自分たちがつくってきてしまった恐らくは現状に満足しない、そういった大人たちなのであります。これでは下世話な希望と言うしかありません。

 この条例案がまとまるまでの基本文書を一通り読ませていただきました。中高生の参加による初めの一歩から始まって、青少年問題協議会が五月にまとめた盛り込むべき要点、九月初旬の大綱、九月末の素案、十一月に入って当局が示した条例案、そして上程された条例案、一連の流れの中で、大綱から素案に移る際に、「社会の一員として成長に応じた責任を果たしていかなければなりません」とか、「社会における決まりごとや役割を自覚し」なる文言が挿入され、「次代を担うべき無限の可能性」が「将来を背負って立つことができる可能性」と卑近な例えとしたことにより、条例の概念自体が大きく転換しているのです。これは、条例案は多少修正が加えられましたが、かえって冒頭示したように、今度は「可能性」の言葉さえ消え、「将来へ向けて社会を築いていく役割」と、可能性が義務に置きかえられるまでに至っているのです。これでは子どもの権利条例どころか、子どもの義務条例に変質したと言っても過言ではありません。

 そもそも、この条例の基本概念は、五月のまとめるべき要点では、国際的にも認知された概念、ウェルビーイング、子どもの自己実現や権利擁護が保障された状態だったのではないでしょうか。条例案上程の際の私の本会議での質問に、稲垣生活文化部長は、条例の基本姿勢は、前文の中で、「子どもは、それぞれ一人の人間として、いかなる差別もなくその尊厳と権利が尊重されます」に反映していると答えていますが、これだけでは足りません。それだけのことなら、ウェルビーイングなどという英語の概念など持ち出さずに人権擁護と一言言えば足りたはずであります。子どもの自己実現の権利こそウェルビーイングの本質なのに、このことがこの条例からすっぽり抜け落ちてしまいました。かわって健やかに育つという、聞こえはいいが、健全育成の論理がすりかえられて、条例文にちりばめられるに至っております。これは、大人の都合で健全に育てと子どもに命令をしているにすぎません。

 ところで、今回の条例、子どもの自己実現といった概念はともかくとして、権利擁護という点で役割を果たす条例になっているのでしょうか。さまざまな子ども施策を提示しているかのように見えて、実は肝心な権利擁護に役立つ文言はないのであります。虐待の禁止を書いた第十二条「だれであっても、子どもを虐待してはなりません」、いじめへの対応を書いた第十三条「だれであっても、いじめをしてはなりません」にうたっていると反論されるかもしれません。しかし、虐待はれっきとした犯罪であります。この条文があろうがなかろうが、刑事罰の対象です。むしろ、隠されていることが問題なのであります。いじめについては、むしろ何がいじめに当たるかこそが問題であって、いじめられた子がそのことを訴え出なければ問題にすらならないことが多いのであります。したがって、虐待やいじめを防止する、あるいは解決するためには、正当に抗議するなり、意見表明をする権利を子どもに保障することこそ必要なはずであります。

 ところが、虐待をしてはならない、いじめをしてはならないと徳目のごとく並べ立てるだけで、子どもが虐待やいじめから逃れる権利は、条例のどこを読んでも出てこないのであります。青少年問題協議会の市民委員の五名と元委員一名が十一月十五日に盛り込むべき要点として示してあった「A子どもは心身への暴力・虐待・放置その他あらゆる不適切な扱いを受けることなく、安心して生活できる」との文言を条例文に明記してほしいとの意見書を提出したのは当然のことでありました。

 ところが、本会議での私の質問への答弁では、第十二条「だれであっても、子どもを虐待してはなりません」、これで対応していると答えたのであります。これほど問題をはぐらかした答弁はありません。子どもが条例文を片手に勇気を持って訴え出ることができるような条例でなかったら、この条例は子どもにとって何の意味もありません。虐待はしてはなりません。いじめてはなりませんで済ませる感性が私には理解できないのであります。この虐待について言えば、受ける側が拒否権を発動できるような権利規定こそ必要であります。いじめについても、受けた側が問題提起できることを権利として保障すべきであり、徳目によって外からいじめを決めつけるような形では問題の解決はできないと言わなければならないでしょう。

 最後に言っておかなければならないことがあります。今回の条例案作成に対しては、中高生を参加させています。私は、今回の条例案の出し方は、参加した中高生を裏切る行為であるというふうに思います。先ほど説明したように、明らかに条例案は、大綱から素案に移行する過程で大変質をもたらしております。このことは中高生ならよくわかります。こういったことをやってはいけません。子どもをだしに使ってはいけないのであります。少なくとも区が参加を仰いで子どもの意見を聞いてきたのなら、その方針を変えるというのであれば、素案の段階で中高生や青少年問題協議委員に集まってもらって協議をし直さなければなりません。ところが、そういう作業は一切やっていないのであります。区議会に上程する前から、大会派へのネゴシエーションだけはやっている。むしろ大綱から条例素案、案への変質はこのネゴシエーションによるものとしか思えません。そして、案がまとまると、議会は混乱なく通ってしまうのがこの議会の倣いであります。こういったことをやっていると、議会も空洞化することになります。重要条例であれば、むしろ議会の方で公聴会を開くなどして時間をかけてやるべきものであります。少なくとも川崎の条例では、権利侵害の救済委員会まで置いております。少なくとも子どもの権利を明記したものにつくりかえて、やり直すべきだというふうに私は考えます。

 子どもの権利を具体的なものにする条例を再度出し直す、そのことを求めまして、今回提案された子ども条例に反対することを表明して、無党派市民の反対討論といたします。


○新田勝己 議長 以上で木下泰之議員の意見は終わりました。

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