2000年3月22日予算特別委員会質疑<文教委員会所管>情報リテラシーについて


○荒木 委員長 引き続きまして、無党派市民、どうぞ。


◆木下 委員 パソコンなんですが、最近、秋葉原あたりに行ってみますと、十万円ぐらいでもうちゃんと使えるキットなどがあるわけですね。それから、中古でも四、五万円で何とか手に入るというような時代に入りました。ですから、恐らく今後、学校でも一人一台というのは不可能でない状況になってくると思うんですけれども、そういった状況の中で、この議会でも情報リテラシーという言葉が何回か使われていますが、世田谷区における情報教育の現実と、今後どういうふうに取り組もうとしているのか、そのことについてまずお聞きしたいと思うんです。


◎神取 教育指導課長 今お話がありましたように、これからの社会につきましては、高度情報通信化社会ということになっていきます。そういう中で、将来、情報をいかに早く、そして正確に収集、選択、活用するかということが重要になってくるかと思います。今お話がありましたように、情報というのは事実をもとに情報提供者が作成したものを受けるわけですが、時として製作者の意図とか公正さを欠いたような内容が付加されることも当然考えられます。

 そんな中で、情報を受ける側の受けとめ方についての意識啓発、いわゆる情報リテラシーというのが高まっていると考えております。つまり、メディアの情報を吟味しながら選択して、うのみにするんじゃなくて、自分たちの考えの中で解釈できるということと、それから逆に、自分の意見を発信できるような児童生徒の育成が必要になってくると考えております。

 世田谷区においては、そういったものが育つように、発信、受信についてのモラルを発達段階に応じて児童生徒に身につけさせるような、そういうことを進めていきたいと考えております。


◆木下 委員 情報リテラシーという言葉が非常に使われるようになったり、情報教育でのモラルの必要性みたいなものを語られるようになったというのは、確かにコンピューターによって瞬時にさまざまな情報が入って、それは有害な情報も含めて入るようになったということに対する、例えば教育現場からのある種の恐れみたいなものがあって、これは取り組まなきゃあかんと、そういったところから始まってきているところがあると思うんですよね。

 ただ、情報リテラシーというか──リテラシーというのは読み書き能力ですけれども、その前に「情報」がついていますから、つまり、情報に対する、今のマルチメディアに対する理解能力というか、使いこなしといったことを含めて言っているんでしょうが、オーストラリアなんかの例がNHKのテレビで紹介されていましたけれども、実にきめ細かく体系的に情報教育をやっているんですね。つまり、情報をどうやって主体的にとらえるかということについて、例えば映画のシーンとかテレビのシーンとか、そういうことから始まって、見方によってどう違うかとか、そういう形で教育がやられているわけです。

 振り返って考えますと、実は情報に対する見方を批判的にとらえなければならないということは昔からあったわけで、とりわけマスコミュニケーションが発達してきて、映像文化なんかが出てきた二十世紀の初頭から、本来はそれに対して注意してこなければいけなかったと思うんですね。戦後教育の始まりで、まず教科書に墨を塗った。まずそこから始まって、子どもは、一つの情報に対する批判的な対応を求められたと思うんですね。まだ情報は現代社会ほど多くはなかったですけれども、そういう対応が迫られた。今は、本当にあふれるばかりの、主体的に処理しなければ、選択していかなければ、もはや本当に使いこなせないほどの情報が入ってきたときに、教育の基礎として情報に対する姿勢、取り組みというものが求められているわけですね。

 ですから、どちらかというと、情報リテラシーというと技術的な能力としてとらえられる嫌いがあるんですけれども、もっと情報そのもの、つまり、マスコミュニケーションまで含めて、例えば一つの事件があって、ニュースがある。そのニュースに対していろんな見方があるわけですね。そういったことについて、小学校の低学年のうちから、中学、高校、大学教育まで含めて体系的なシステム等を考えていかなければいけない、そういう時代に入ってきていると思うんです。そういったことについての見方というか、研究というか、そういう取り組みというのがなされているということはありますか。


◎神取 教育指導課長 ただいまの情報リテラシーの問題につきましては、例えば中学校等におきましては、技術・家庭の中でコンピューターがもたらす社会問題ですとかそういったものの学習、それから健康問題、情報犯罪などの新しい問題等についても触れております。それから、社会科等におきましては、情報犯罪とか情報の本位的な取り扱いの問題について、いわゆるたくさんの情報の中から必要なものをどう選んでとるかというようなことを、生徒自身が主体的に判断できるような時間を持っております。それから、基本的には国語の説明的な文章といったところで論理的な思考をつける中で、自分に必要なもの、または事実として正しい読み取りの仕方、そういったものを行っております。

 この問題につきましては、どの部分で完璧とはいきませんので、学校全体の中でそれぞれの部分で重点化してやっていきたいというふうに考えております。


◆木下 委員 朝から始まってまだ間もないわけなんですけれども、質問の中でも、教科書問題等が出てきております。教科書問題も含めて、情報に対してどういう姿勢をとるか、そのことが今本当に求められていると思うんですね。ですから、本当は事実があって、それに対するいろんな解釈として例えば歴史の教科書なんかいろいろあるわけですよ。ところが、今までの日本の教育というのは、教科書至上主義というのがあって、つまり、教科書に載っているものが事実であるというような虚構の上に立って、それですべてが処理されてきたということがある。しかし、そうではないということはみんな気がついているし、瞬時にいろんな情報がとれる今では、やはりそういうものを批判的に見ていかなければいけないということはあると思うんですね。

 例えば最近、コソボの問題で、コソボの爆撃の理由にしたのは、セルビア側がアルバニア系の住民を大量に虐殺したというのがあったわけですけれども、後から、その事実は虚構であったと。虚構に基づいた映像、つまり、違うところで撮った映像を、さも虐殺されたかのように増幅して流して、そして、コソボの爆撃に利用したという状況もあったわけですね。そういったことに対して、批判的な目を持つ子どもたちを育てていく。やはり情報というのは操作されやすいのだということについて気づいていくことが、結局は、教科書問題も含めて必要なことだろうと思いますし、それから、一科目として情報のあり方についてきちっととらえる、そういう科目も必要だと思います。

 一方で、バーチャルと現実の乖離というのが出てきていますので、習字とか、絵画とか、ディスカッションとか、そういうような身体を使った教育というものはもっとこれから重要になると思いますので、それとのプログラムの組み合わせということもこれから必要なことだと思いますので、ぜひそういったことを考えていただきたいということを申し上げておきたいと思います。


○荒木 委員長 以上で無党派市民の質疑は終わりました。

   ──────────────────