2013年7月18日 15:38:17

 [報恩講の歌]が仏教音楽への招待 (飛鳥寛栗著 本願寺出版社刊)の中で
こだましあい 蘇った 無題の曲として以下のように紹介されていました。

『楽園・巻一』『楽園・巻二』という二冊の仏教唱歌本があります。この『楽園』がことのほかに興味があるのは、巻一に、題名のない曲譜が一曲、巻初に出ています。その曲が三十年後にまったく新しい曲として、歌われだしたからです。そして、さらに……

『楽園』は、明治三十六年〈一九〇三)五月、三重県津市・施本伝道会発行の本です。著者は、南里歓喜居士です。僧形法衣の肖像写真が巻頭にあるので、得度して各地を布教に歩き、仏教唱歌を歌っていた人かと思われます。

 この『楽園』の題名のない作者不明の曲が、昭和六年(一九三一)、仏教音楽協会(文部省内)発行の『仏教聖歌』に「うつし世」として、野口雨情作歌・藤井清水作曲で発表されました。

 宮崎県延岡市・光勝洋(真宗大谷派〉に「聖人一代記の歌」として伝えられていたこの曲を、同寺出身の声楽家・権藤円立が、友人の作曲家・藤井清水に歌い聞かせたところ、藤井はいい曲だと喜び、友人の野口雨情に新たに作詞させて、発表したのが「うつし世」なのです。誰の作とも知れぬ曲が、一人の歌好きの歌声で、ご信心の喜びを伝え伝え、全国の念仏者の歌心を呼びおこしました。それが、また、他の人の心を動かして歌わせ、こだまし合って喜びの輪を大きくしていきました。歌のもつ不思議です。 歓喜心は、こだましあうのです。人の心の奥に響くこころがあるからでしょう。

 今、岩手県玉山村(石川啄木の渋谷村に近い)浄泉寺・山崎教真は、門徒方や布教先で「報恩講の歌」を歌い、喜ばれている由、平成十七年(二〇〇五)十二月号「大乗」誌に報告されていました。

 報恩講の歌は、洗心書房が、明治三十六年(一九〇三)十二月に『通俗仏教唱歌集』(四十頁)を出版していますが、その第三十篇に「報恩講の歌」全章が出ていますその巻頭に曲譜(数字譜)が出ています、驚いたことにそれは、あの『楽園』に載っている曲そのままなのです。するとこの曲は、『楽園』・『通俗仏教唱歌集』・『法の鼓』へと仏えられ、さらに九州でも、今も東北でも歌われ、そして『仏教聖歌・うつし世』ともうけ継がれた、ということになります。何という大きな伝播領でしょうか。

 それにしても、一世紀を経た今日、なお、東北の地で生き生きと歌い継がれていることに、深い感動を覚えます。


ここをクリックすると [うつし世]のメロディーが流れ出て来ます

 通俗仏教唱歌集 第一編は 呉市吉浦 誓光寺の住職だった細馬卓雄さんの編纂によるもので
二十五版を記録した当店のベストセラーでした。 
その第三十篇 報恩講の歌を以下にご紹介いたします。


報恩講の歌 

鳴呼難有(ああありがたや)や南無阿弥陀 清き流れの大谷(おおたに)の 

御法(みのり)の水を汲む人は 南無阿弥陀仏を(とな)うべし

 

本師(ほんし)法王(ほうおう)弥陀如来 承安三年癸巳(きし)の春 

末代無知の我等をば (たすけ)んための御慈悲より

 

(はな)の臺を(うてな)ゆるぎ出て 天児屋根尊(あまつこやね)苗裔(みすえ)なる 

藤原氏(ふじわらうじ)に現れて 松若君(まつわかぎみ)と名乗りつつ


御年僅か九歳にて 浮世(うきよ)名利(みょうり)ふりすてて 

養和元年春の頃 慈鎮和尚(じちんかしょう)の門に()り 

 

夜半(よわ)の嵐のふかぬ()に 緑の黒髪そりおとし 

(たま)の如き御出家と 成り給いしぞ殊勝(しゅしょう)なる

 

比叡の嶺に二十年 八萬四千(はちまんしせん)経論(きょうろん)を 

巻きかえし(また)繰かえし 菩提を求め給いけり

 

智目行足(ちもくぎょうそく)かけはてし 散乱粗動(さんらんそどう)の凡夫には 

(さとり)りがたき道なるを 深く(あか)らめましまして


近くは根本(こんぽん)中堂(ちゅうどう)に 遠くは諸方の霊場(れいじょう)に 

(ゆき)の降る夜も雲母坂(きららざか) 寒風はげしき加茂川に

 

人目をしのび身を(きよ)め 六角堂に通いつつ 

たとい一命はつるとも (この)御願いはやむまじと

 

知識を祈るひじまくら 百夜(ももよ)に満つる暁に 

観音菩薩の告げに依り (つい)名師(めいし)を得給えり

 

名も吉水(よしみず)の禅坊に 盛んに念仏すすめけり 

源空聖人の御許(おんもと)に 輿(こし)や輦で(くるま)()き給い


建仁二年叡山の 聖光院(しょうこういん)門跡位(もんぜき)を  

自力(じりき)と共にふりすてて 本願他力に帰し給う

 

数多(あまた)御弟子(みでし)其中(そのなか)に 信行両座を分け給い 

真実(まこと)の信心()る人は 五六輩(ごろくはい)にも足らざりき

 

()の実の勝れて味よきは (とり)の害う(そこな)ならいとて 

五七(ごしち)の春は無情(つれなく)も 他宗の怨恨(うらみ)を受け給い

 

聖人(しょうにん)流罪(るざい)の身となりて 越後の国分(こくぶ)草里(くさざと)へ 

なれし京都を後に見て (おもむ)き給うぞ悲しけれ


遠流(おんる)となるも師の恵 辺鄙(へんぴ)の衆生を救わんと 

喜びいさみ()で給う 仏心(ほとけごころ)ぞありがたき

 

もとより空に有明(ありあけ)の 月の光の清ければ 

赦免の命を受けたれど 辺地の有情(うじょう)を憐みて

 

(つい)に彼の地に(とど)まりて ごんず草鞋(わらんじ)竹の杖 

有乳(あらち)の山に行きくれて 御足(みあし)は血潮に染め給う

 

二十五年のその間 巨多(こた)の浜辺の雪の鷺 

日野左衛門(ひのさえもん)石枕(いしまくら) 柿崎(かきざき)小畠(おばた)の軒の下 


衆生済度(しゅじょうさいど)といいながら 物()う人も(ただ)ならぬ 

一夜(いちや)の宿もかりかねて 行化(ぎょうけ)の大悲尊とけれ

 

常陸稲田(ひたちいなだ)庵室(あんしつ)に 貴賎男女(きせんなんにょ)のわかちなく 

甘露の法雨を求めんと 門前市(もんぜんいち)をなすを見て

 

板敷山(いたじきやま)辨圓(べんねん)は (あだ)なす心も聖人(しょうにん)の 

慈悲の光に消えはてて 遂に御弟子(みでし)と成りにけり

 

邪見の者を()せんとて 種々の不思議を見せ給う 

非情の竹や梅や栗 仰せをかしこみ(まも)りける


生まれ(おく)れし我等には 一天無二の御眞影 

(とど)め給うのみならず 御本典(ごほんでん)文類抄(もんるいしょう) 

 

二巻抄(にかんしょう)二門偈頌(にもんげじゅ) 三経往生文類(さんきょうおうじょうもんるい)と 

唯信文意(ゆいしんもんい)銘文(めいもん)と 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)と 

 

末灯抄(まっとうしょう)消息集(しょうそくしゅう) 三百余首の御和讃は 

八十余歳の老眼を (ぬぐ)うて筆を染め給う

 

弘長二歳(こうちょうにさい)十一月(しもつき)の 二十八日(にじゅうはちにち)(うま)の刻 

念仏の声もろともに 浄土に(かえ)り給うまで


九十年来(くじゅうねんらい)たゆみなく 導き給う御慈悲にて 

煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)のこのままが 極楽浄土に往生と

 

諸有衆生(あらゆるしゅじょう)のその中に 如何なる宿世(すぐせ)の因縁か 

心の底の水清く 摂取(せっしゅ)の光に照らされて 

 

此世(このよ)は人倫かけめなく 来世(らいせ)無為(むい)(みやこ)とは 

二世両全(にせりょうぜん)のたのしみよ 鳴呼難有(ああありがた)や南無阿弥陀


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